神座桜縁起 前編

最終話:霧の向こう

 

 身体から、重みが消えた。意識が広がっていく感覚に、レンリはかの地への再訪を悟る。

 輝ける大樹。メガミの世をも超えた何処かにある、世界の外縁。

 天に昇る数多の輝きが形作る果てなき巨木は、依然としてその威容を晒していた。なるべく下を意識しないようにしたおかげか、あの気配は感じない。

 

 ――これは……内側?

 

 周囲を、目も眩むような量の輝きが飛び交っている。以前のように大樹を外側から俯瞰する視点ではなく、幹の中に居るようだった。まるで、一本の輝きの軌跡から顔を出して覗き込んでいるかのようで、身体の自由が利く感覚はあまりなかった。

 それでも、本来の視野を超えた知覚のせいで、広漠なこの空間に溺れそうになる。

 遥か天上が、霞がかって見えないところまでもが同じ。

 

 だが、今のレンリには確信めいたものがあった。

 この不可思議な視野は、おそらくあの瞳が映していたものと似ているのだろう。可能性が紡ぐ異なる歴史を俯瞰してきた、忌まわしい語り部の瞳が見ていたものと。

 そして、変化は訪れる。

 

 ――わっ!

 

 足元から、目を引く輝きが急に立ち上った。

 それは上へ上へと登っていく中で、幾多に分かたれ、大樹の年輪をさらに増やし、逆巻く流星群の如く広がっていく。無限にも思える大樹においては些細な出来事かもしれないが、確かにその枝たちは、力強い血の流れのような活力を想起させた。

 

 輝きは瞬く間に天に辿り着き、霞の向こうへ消えていく。

 しかし、後を追うものがあった。決着を覆い隠した、欺瞞の霧だ。気流に押し上げられたように天へ昇った霧、天蓋の如くわだかまっていた霞を押しのけた。

 見上げる天の彼方から、霞が晴れていく。

 大樹が目指す先を見えざるものとしていた霞が、天のさらに果てに消えていく。

 

 その先に続いていたもの、それは大きく二つに分かたれた幹だった。

 立ち上った輝きはその一方を形作っており、そして元からそうであったかのように大樹の景色に溶け込んでいった。

 

 ――分岐した……分岐、したんだ……。

 

 感慨が、レンリの心の中で反響する。

 彼女が今、目にしているのは歴史の分岐だ。

 すなわち、ヲウカが勝利した歴史と、志水が勝利した歴史――霧の向こうに隠された決着のその先が、連綿と続いて大樹を育んでいる。

 

 レンリの知る歴史の中では、桑畑志水の名は大罪人であると伝えられるだけの忌み名であり、ウツロは時代の狭間に置き捨てられ、ヲウカが桜花拝を支配していた。ヲウカが勝利したが故の歴史なのは間違いないだろう。

 ただ、その歴史が、人間がヲウカへ隷属する歴史とならなかった大きな要因は、人の世にかけがえのない英雄の友がいたからだ。

 

 桜花決闘が人と人との儀式であることも、その成立に人を立役者とした逸話があることも、あのヲウカに触れた今になってみれば人間側の意図を感じざるを得ない。

 結晶の循環のためだけなら、彼女は人間味のない方法も挙げたはずである。

 けれど、そうはならなかった。

 それはきっと、安岐那が――メガミ・アキナが、人とメガミを取り持つ天秤の役目を担ったからだ。

 

 ――もしかしたら、ヲウカも少しは考えを改め――いや……。

 

 戦いの末期――満身創痍となった後のヲウカの顔つきが気になってはいたが、レンリにはあの傑物が理念を曲げるとは思えなかった。でなければ、思惑はどうあれ人々による政治を推し進めていたシンラたち碩星楼と、将来あそこまで対立はしなかったはずだ。

 利で説く安岐那だからこそ、命運を果たせた。

 そして今、分岐した歴史を見上げるこの光景が、命運の終着点だとするならば、レンリも果たすべきを果たしたと言える。

 

 だとすれば、もう一人のかけがえのない友は、果たしていかなる運命を担うのだろう。

 分岐した先の先をレンリは知らない。志水の勝利の先で、何が起こるのかも分からない。

 けれどレンリは信じている。可能性を騙ることが自分にできることであり、自分が惹かれた友はその先を強かに突き進んでくれるはずだと。

 あるいはきっと、憎き仇敵も。

 

 ――どうか、お願い……。

 

 感覚が、深い光に包まれる。

 また友たる英雄の行く末を見守れない一抹の悔しさも溶けて、意識が霧散する。

 レンリにとっての戦国時代に、白い幕が下ろされた。

 

 

 

 

 

 ちろちろと、残り火が揺らめく。煤けた煙に並んで、星空色の塵が空に消えていく。

 目を覚ましたレンリの前に広がっていたのは、見慣れてしまった破壊の景色。人々の営みの残骸も、怪物たちの残滓も、嫌というほど見させられたそれと同じ。

 何より、その風景は全く変わっていなかった。

 彼女が戦国の世に遡った、あのときと。

 

「帰ってきた……?」

 

 小さく呟いて、その声が幼いままであることに気づいた。身体も小さく、道化じみた装いを身に纏わされた、古鷹天詞とは似ても似つかないあの姿のままだった。

 時間の旅は夢ではない。

 その認識を後押しするように、レンリの周りは血だらけで、眼前にいたはずのカムヰの姿はなかった。土に刻まれた微かな痕だけが、大剣がそこにあったと示す唯一の残り香だった。

 

 元より、終わった場所のはずだったここにはもう、意味のあるものは何もない。

 終わってしまったままのこの歴史には、何も。

 もしもはきっと、彼方で伸びる新たな歴史に注いだはずなのだから。

 けれど、

 

「はぁ……。さて、と」

 

 レンリは溜息一つついてから立ち上がり、淡々と荒廃した世界を歩き出した。

 俯くことなく、前だけを見て。

 何かに縋ることなく、その足で。

 

 レンリは思う。

 この地から旅立った友のことを。

 苦難に満ちた歴史の中で、絶望と諦観を受け入れ、それでも前に進んだ友のことを。

 どうか彼女が英雄たらんことを、とレンリは願う。

 人々の想いを背負った彼女よ英雄であれ、とレンリは望む。

 

 だからレンリは、友の背を求める。時に送り出し、時に受け止めたい、あの背中を。

 それは、友を英雄とするために。

 叶わぬとも、友に命運を果たしてもらうために。

 新天地でも、強大な敵は牙を剥くかもしれないから。

 それでも、折れず、弛まず、英雄であってほしいから。

 

 たとえ自分が、何者かにはなれた代わりに、変わり果ててしまっていても。

 メガミに至った古鷹天詞という私は、英雄の物語を簒奪しないためには、表に出られないとしても。

 確かな形になったその想いは、ずっと変わらない。

 

「ふふ……」

 

 

 頬に、一筋の涙が流れた。指で拭って、代わりに笑ってやった。

 変わり果てた姿らしく、けれどようやっと分かった自分らしく。

 

 嘘にまみれよ。

 心を分かて/お道化て嗤え。

 もう自分にはできる。道化の仮面はこの手にある。

 自分らしくない自分を被って、ありもしない筋書きを騙って。

 そして最後には、舞台の袖から終演を見守ろう。

 

「さようなら、私……。――いや、違う違う。えーっと……」

 

 少し考えて、レンリという仮面の形がふんわりと思い浮かんだ。

 この姿に似つかわしい愛嬌を持って、昔の生真面目な自分とはいっそ正反対な、道化方よりもお道化た嘘の鎧を。

 

「あはっ。ここからは、このレンリちゃんをどうぞどうぞよろしくお願いしますね」

 

 誰もいない廃墟に、甘くせせら笑うような声が響く。

 被った仮面を確かめながら、レンリは確かな足取りで歩んでいく。

 瑞泉城で幽かに輝く、桜の残響に向かって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そして、先の騒動を起こした、と……」

 

 

 シンラがそう結ぶと、レンリは肩をすくめて疲れたように笑ってみせた。

 碩星楼の拠点の一つ、その地下室。ヤツハと徒神を巡る事件の首謀者たるレンリを軟禁している部屋には、長話が終わった疲労感が漂っていた。

 アキナの来訪を契機として語られた『歴史』には、流石のシンラも驚く他なかった。荒唐無稽な話が飛び出る心構えはしていたものの、そもそもの論理の前提を打ち壊す現象の実在を告げられたのだから仕方のないことだった。

 

 もちろん、嘘のメガミを称する相手の発言を鵜呑みにするほど、シンラもアキナも愚かではない。一言一句を精査し、洞察を怠らない鋭い眼差しを二人はレンリに向け続け、一つ何か気になれば質問が連なるものだから、三柱ともが疲労を滲ませていた。

 ようやく一息ついたと見て、立膝にもたれかかっていたアキナが、苛立たしげに呟いた。

 

「ほんま、やってくれたわ。言わんかいな、ほんまに……」

「ふふっ、申し開きもございませんよ」

「……わざとやろ、それ。三百年も前の細かいこといちいち覚えとるウチもウチやけどさぁ、そないなことで同じボケチビやって判断できんのが余計腹立つわぁ」

 

 睨むアキナは、分かっているとばかりに先んじてシンラを手で制した。

 アキナは鼻を鳴らし、事件の話へと焦点を移す。

 

「今の話を踏まえるに、アンタが今回大立ち回りしとった理由として、実際に徒寄花を滅ぼしたかったっちゅうのも、そのメグミいう子を英雄に仕立てたかったっちゅうのも、ほんまってことでええんやな?」

「なので、人間時代のこともお話ししたわけです」

 

 嘘の象徴らしからぬ肯定は、けれど謀るようでも自棄でもない。今のレンリは、被っていた仮面から素顔を覗かせたようだとシンラは思う。

 旧友の追及もあったとて、レンリには黙秘を貫くという選択肢もあったはずだ。手段の立証ができない以上、シンラの指摘も仮説止まりであり、メグミの英雄化に向けて再度暗躍する余地はまだ残されている。

 

 それでも、レンリが古鷹天詞の物語を開示した理由は一つしかない。

 レンリは目を伏せがちに、

 

「ヤツハこそ、眠る脅威の顕現だという可能性を考えてました。あれのことは、徒寄花の中核だと推測してますから」

 

 ですが、と続けて、

 

「直接対面してみれば、姿はまるで違うし、あのとき感じた恐怖はどこにもなく……。もちろん三百年越しのことですから、変化もあり得るでしょう。ただ、別物だろうという予感は拭えませんでしたね」

「それでも矛先を向けたのは、徒寄花に対する恨み故ですか?」

 

 訊ねるシンラに、レンリは首を横に振った。

 レンリの口端が自嘲めいて曲がる。

 

「当然それもありますけど……必要に思えたんですよ、あの戦いが。自分の目にヤツハは、そう映ってしまったんです」

「戦い自体が?」

「ヤツハ自身が、可能性を分岐させて切り拓くような、色濃い命運に直面しなければならないと感じてました。死ねばそれまでと刃を向けわけですが、実際の彼女は希望を勝ち取り、桜降る代のために生みの親に立ち向かっていったじゃあありませんか。全く、口惜しい話です」

 

 とても身勝手で、だからこそメガミらしくさえもある言い分だった。各々見えるものが違いすぎるメガミの中でも、レンリは特に異なる視座を手に入れたようだった。

 当然、ヤツハにしてみれば堪ったものではないだろうが、シンラにはレンリを謗ることはできなかった。原理原則の違いに基づくメガミ同士の対立は、シンラ自身経験していることだ。悪とはただの主観的な分類でしかないことを、彼女はよく知っていた。

 

 元より、レンリの煽動がなかったとしても、カムヰの動きもあった以上、徒寄花とその係累の排除が既定路線になっていたはずである。

 その運命に異議を唱えたからこそ、今がある。

 レンリが憎らしく望んだ通り、ヤツハは道を切り拓こうとしている。

 

「となれば、まずはヤツハの結果次第でしょうか。徒寄花の鎮静化……結局、蓋を開けてみなければ未来の話はできませんから」

「成功に賭けてたんじゃあないんですか?」

「絶対はありませんよ。貴女がその何よりの体現者では?」

「……そこに介入はしませんってば」

 

 レンリは口を尖らせて言った。

 くすり、と微笑んだシンラは、

 

「ユリナたちが北限から戻り次第、対談の席を設けましょう。こちらで手配しておきます」

 

 結果が分からずとも、為すべきことは分かっている。

 勝利条件はもう変わったのだから。

 

「ヤツハが成功すれば、全ては解決するのかもしれません。しかし、眠る脅威は存在するままかもしれません。だからこそ、我々は体制を整え、備える必要があります。これは、一人だけの胸にしまってよい恐れではありませんから。構いませんね?」

 

 最善の場合であっても、脅威の消失は確認しなければならない。敵を仕留め損ねると面倒なことになるというのは、シンラが近年日々学んでいることだ。

 果たして昔のヲウカは、告げられた脅威の存在にどこまで備えていたのだろうか。正しく伝えられた痕跡もなく、本人も記憶を失っている今、シンラには想像することしかできない。レンリがいなくなってずっと途方に暮れていたとしたら、溜飲も下がるというものだが。

 シンラの確認に、レンリは躊躇いがちに頷いた。

 

「え、ええ……そのためにお話ししましたから」

「あぁ、ご心配なく。貴女の正体やメグミとの関係は、伏せて伝えますから。コルヌの証言も添えれば、いちメガミからの警鐘の形にはなるかと。その点で言えば、ヤツハにも眠る脅威の知見があるかもしれませんし、折を見てお話しすべきと考えています」

 

 事情聴取を引き受けた身なれば、情報操作は簡単だった。

 アキナにも視線を送ると、彼女も同意を示した。

 

「ま、それでええやろ」

「助かります。助かるついでに、アキナにはもう一つ。連携を密にしたいので、そちらからもユリナたちを支えていただけないでしょうか。表向きは別の理由だと良いでしょう」

「ほーん? このいっぱしの商人が?」

「張りぼてのメガミを世に放った方が何を。権威の天秤へ、また細やかにイシを乗せる日が来たためですよ」

 

 そう言うと、アキナはにかっと笑った。将来強大な敵と戦うかもしれない現状、彼女本来の役割である調停は獅子身中の虫を抑えてくれるはずだ。

 憂いが憂いで終わればそれでいい。

 けれど、ヲウカさえ未知であった相手を前に、仲違いをしている余裕はない。

 せめて互いに手を取り合うだけでも十分なのだ。

 この地を守りたいという意思は、きっと同じなのだから。

 ヤツハも、このレンリも、そして皆も。

 

「永久の未来に、桜の咲き誇らんことを」

 

 密談は終わり、シンラとアキナは在るべき場所へと向かう。

 閉ざされた箱が開かれた今、この縁起が、縁起となるために。

 

 

 

 

 

 そして時は流れ、現在は未来へと至る。

 ヤツハの手には、重ねられたカナヱの手のぬくもりがあった。

 膨大な光に呑まれたヤツハには、それだけが頼りだった。

 

「うっ……」

 

 可能性の世界を見る力。

 最古の三柱・カナヱが有していた瞳。

 象徴武器・叶慧鏡に秘められた真なる権能。

 ヤツハがこれまで用いたことのない力が、未知なる感覚を呼び起こす。握ってくれるカナヱの手は教導の証であり、握り返した手は共同の証であった。

 

 やがて感覚が薄雲のように広がり、それを必死でかき集めると、視覚かどうかも定かでない知覚が光の晴れ間に現れ始めた。

 そこは、無限の光条が行き交う世界だった。

 淡い光で満たされた果てしない空間に、寄り集まった幾つもの光条の束が無数の枝のように伸びている。ヤツハが居るのは全容も分からないほど太い、幹のようになった枝のどこか表面近くであり、天に立ち上る輝きの多さに頭が眩みそうだった。

 

 宙に浮かんでいるという認識に据わりが悪くなって、枝に触れられまいかと漂おうとする。しかし、身体は思うように動いてくれず、手足の指先だけでもがく有様。目の前に横たわる距離を詰めるのが非現実的に思えてならない、異様な感覚に混乱する。

 

 ――ヤツハ。ヤツハ、大丈夫かい?

 

 カナヱの声のようで声でない、意識が響くような感覚の直後、すぐ隣にカナヱの姿が浮かんだ。気配はあるのに実体を感じない不可思議さで、手と手の感覚だけがここで唯一確からしいものだった。

 発声の要領で、ヤツハは応える。

 

 ――は、はい。なんとか……。

 ――あぁ、良かった。流石に誰かを連れてくるのは初めてだったからね。ようこそ、可能性の大樹へ。

 

 レンリが辿った、数奇な縁起。その中で垣間見た、桜の世界のさらに外縁。

 シンラから聞かされたレンリの来歴の一場面が、ヤツハの前で現実となっていた。確かにこれは、神座桜の中とも徒寄花の中とも違う、感覚を超越した領域であった。

 しかしヤツハは、伝え聞いた情景との違いも悟っていた。背にした枝も十分に太いが、途方もない広がりを持つ幹というには程遠い。

 

 ――アレが見たのは、もっと下のほうなんだろうさ。

 

 疑問を見て取ったのか、カナヱが呟いた。

 枝から推測できる幹の太さは、ヤツハが見てきた桜降る代すら米粒のように呑み込んでしまうほどだ。あまりの規模の大きさにくらくらする。

 その一端でも――そう思って、下側に意識を向けたときだった。

 辺りの枝が、朽ちている。

 

 

 ――っ……。

 

 比較的細い枝を下に辿ると、知覚の及ぶ範囲で数多の枝が輝きを失い、そのほとんどが伸びるのをやめてしまっていた。残りも堰き止められた小川のような頼りなさで、実際の木枝であれば今にも自重で折れてしまいそうである。

 その元凶は明らかだ。骸晶の如き結晶質の蔦が纏わりついている。

 そして数多の枝を枯らした蔦は、ヤドリギのように次の獲物を求めて空間を這う。

 

 最も逞しく生き残った枝へ。

 ヤツハの足元で聳える枝へ。

 その意味するところは、桜降る代の破滅。

 ヤツハに走った戦慄を抑えるように、カナヱが優しく手を握り直してくれた。

 カナヱにとっても辛い光景のはずなのに。

 

 ――……ありがとうございます。平気です。

 

 気を強く持ち、あるはずの鏡へ力を込める。

 頭上に浮かんでいた鏡は光り輝き、果てなき世界の果てをさらに照らし出す。知覚の及ばなかった遠く彼方の景色が、雲を散らしたかのようにはっきりと見えてくる。

 広漠なる世界が、その真なる広漠さに一つ近づいた。

 傍らのカナヱから、感嘆の声が上がる。

 

 ――まさか、これほどとは。

 ――え……元々これくらい見れていたわけではなかったんですか?

 ――いやいや、さっきまでの範囲が、『このカナヱ』が全力を尽くしてようやく目の届く限界だったんだよ。他のカナヱから聞いて、もっと広いというのは知っていたけれどね。

 

 そう言われたところで、ヤツハには偉業を成した自覚はなかった。光がじわじわと水平線を押し上げていく光景に、自分の小ささを自覚させられるばかりだ。

 

 ――これは推測だけど、混血したためかもしれないね。

 

 カナヱは続けて、

 

 ――つまり、神座桜の生み出した鏡が、徒寄花より生み出された君という存在と混ざったからこそ、この可能性の大樹を見通す力が強まったのかもしれないということさ。いやはや、学ぶべきは人の歴史だね。

 ――な、なるほど。

 

 だが、見える範囲がますます広がっていこうとも、朽ちた枝が散在するばかりだ。

 ヤツハたちのいるこの太い枝は、絶望の海に取り残された孤島のよう。

 芽吹き、花開くことを妨げられた可能性たちの墓場。

 その一本一本の歴史に人々が息づき、メグミたちの故郷のように滅んだかもしれないと思うと、ヤツハはあまりにもやるせなくなってしまった。

 

 希望はないのか。心に映る膨大な情報をかき分け、ヤツハは求める。

 それは実際、あった。

 遥か彼方、背にした太枝の対になるように曲がった、強かに伸びる一本の枝。

 この空間の距離がどれほどのものかは分からなくても、気の遠くなるようなほどに離れた場所であることだけ分かる位置に、それは孤独に屹立していた。

 しかし――

 

 ――蔦が……。

 

 並の小枝であればとうに呑まれているであろう量が、根元からじわじわと這い上がってきている。

 逞しさで抗おうとしているかのように太かったそれも、魔の手から逃れるようにできるだけ天へ天へと枝先を伸ばしている。少しずつではあるが、陽の光を求めて急ぐあまりに輪郭が先細り始めている印象が拭えない。

 

 それが手を伸ばす先を見やれば、あるのは太陽とは正反対の天蓋。

 ヤツハ自身を思わせる星空が、逃れてくる枝をまるで未来に立ち込める暗雲のように睨んでいた。

 いや、とヤツハはそこでようやく気づいた。

 星空が覆っているのは、彼方の枝だけではない。

 

 ――う、そ……。

 

 この上空全てが、星空で覆われている。

 大樹の目指す行く手に、先の見えない闇が立ち塞がっている。

 天をも押し広げて目にした世界は、暗澹たる樹海と重苦しい暗雲に遍く囲われていた。

 それらが指し示す未来は、火を見るよりも明らかだ。

 

 可能性の大樹は、このままでは朽ち果てる。

 連綿と続き、無数に枝分かれした歴史のただの一つも残らない。

 希望が――可能性が見えない今は、やがて息絶える。

 全てが、あの冷たい蔦に覆われてしまう。

 明けない夜が、やってきてしまう。

 

 ――っ……。

 

 桜降る代の終焉を想起して、ヤツハはついには言葉を失った。

 湧き上がった不安を分かち合おうと、暗い天蓋から目を逸らした。

 

 

 

 

 そのとき、ふと、声がした。

 あまりにも儚い、囁きだった。

 

『ねぇ……教えて』

 

 ――……!?

 

 明るく快活であるはずの声が、ひどく儚く乱れたような、捉えどころのない声色だった。

 無論、カナヱの声ではない。反射的に周囲を見渡すが、それらしき姿はない。

 それでも、ヤツハには確かに聞こえていた。

 心の底から不思議そうな、疑問の声が。

 

『あなたは、どうして戦うの?』

 そしてそれきり、その声は聞こえなくなった。