神座桜縁起 前編

第15話:桜花決闘

 

「斬華六道――獄ッ!」

 

 猛き血煙が志水を包む。かつての戦い同様、彼女は力を求めて己を奉納した。文字通り命を削る技であろうとも、この初手には一片の躊躇もない。

 そして足元から伸びる、影の茨道。

 身体を前に傾がせた直後、志水は半ば影と化した足で疾駆する。脚の動きよりも早く、瞬く間に間合いを駆け抜けていく様は、見る者全てを惑わせる。

 

 対し、ヲウカの応手もかの日同様だ。

 上空に浮かんだまま、刀の間合いの遥か外から、数多の桜の精が光条を放つ。護りもまた真球に輝く結界にて盤石、下民を寄せ付けぬ堂々たる戦いは王の振る舞いそのものである。

 再演のようになった立ち上がりに、けれどヲウカは警戒を緩めない。掲げる御旗の導かれた光条が、志水の行く手を阻むように戦場を焼いていく。

 

「ふッ……!」

 

 急制動に靡いた志水の前髪が、光に消し飛ぶ。稲妻の如く這わせた茨道を辿り、鋭く光条を躱しながら前を志向し続ける。

 まともに受ければ失速し、矢衾にされるだろう弾雨の中、志水の疾走は回避を取り入れてもなお加速をやめない。途中、身体を数条が掠めるものの、細かな塵が溢れるだけ。敵を見定める瞳が揺らぐことは一切ない。

 

 そしてヲウカの足元に迫った影の茨は、主を敵の下へ送り出すよう宙へと伸びていく。

 間近から放たれる光条を紅光帯びる刀でも逸し、志水は果敢に跳躍を為して斬りかかる。

 

「おぉッ!」

「馬鹿の一つ覚えに……!」

 

 謗るヲウカは手を掲げ、志水側の結界の壁が一段と輝きを増す。加えて彼女は一歩ほど、結界ごと宙を後退した。刃を振り下ろす志水の芯を外し、崩れたところを反撃する心積もりなのだろう。

 ここまでは、惨劇の夜でもあったこと。あの日食らいついてきた志水をいま前にして、油断を見せないヲウカには切っ先は届き得ないはずだった。

 だが、

 

「な――」

 

 天に手を伸ばすばかりだった志水の背に、影が迸る。

 その形、昆虫の翅の如きにして、主神が背に抱くものとは対極。

 ヲウカと対照的な影の翅が、志水をさらに前へと押し出した。

 

「っあぁぁぁッッ!!」

「くっ……!」

 

 叩き込まれた斬華一閃が、結界に瞬く間に罅を入れる。かつてと違い、空での脚を手に入れた志水の斬撃は、十全なる体勢にて放たれた十全なる一撃となって、ヲウカの護りに食らいついた。

 抗うように結界に輝きが走り、取り付く羽虫を一条の桜光が追い払わんとする。けれど、結晶が志水を護り、下がるヲウカへ刃は押し込まれる。

 そして絶叫が、刹那の拮抗を打ち破る。

 

「――ぇあぁぁぁッッ!!!」

 

 結界が、潮が引くように消える。

 主神の守護を正面から貫いた。同じ破滅の夜は、訪れない。

 斬華一閃の切っ先が、苦々しげなヲウカの鼻先を一寸先で掠めていく。彼女が一種でも仰け反るのが遅ければあるいは、という際どさだった。

 

 一撃を為した志水は下へつんのめるものの、追撃の担い手は別に存在する。

 志水の背後から追いすがってきた暗い塵の濁流が、防御を失ったヲウカへと殺到した。

 

「ウツ、ロぉッ……!」

 

 腕で顔を庇ったヲウカは、離脱の機先を制されその場の宙に留め置かれる。先頃まで瀕死だったことを思わせないウツロの攻撃は、もはや弾けた砂礫のような激しさである。

 さらに、ヲウカを襲う塵を切り裂き疾風の如く迫るのは、漆黒の円刃。

 本命の追撃が、ヲウカの左脇腹を深々と抉った。

 

「つぅッ……!」

 

 顔をしかめるヲウカ。桜の精が狂ったように光条を吐き散らし、主の退路を生み出すように反撃を始める。

 だが、数多の光が槍となって降り注ぐも、そこに先程までの鋭さはない。後方で援護するウツロになどほとんど届いていない始末。今の交錯で散らばった塵が光を蝕み、拡散した光は威力を欠いているのである。

 

 無論、弱まったところでまともに喰らっていい類の攻撃ではない。姿勢の制御が難しい空中戦ともなればなおさらだ。

 けれど、十全なる光条の合間を縫った志水には十分過ぎる間隙だった。

 重い一撃の余韻を打ち払った志水が、危険を顧みずにヲウカへと飛び寄る。

 光に四肢を僅かに焦がされながら、重厚な刃を振り上げた。

 

「はぁぁッ!」

「っ――」

 

 切っ先が脚に食い込む。あてがわれた旗の柄がそれ以上の傷を妨げ、打ち払われた志水は光条を避けて間合いを取る。

 二の矢として塵が放たれるも、直上に飛び上がったヲウカを捉えることはできない。

 

「ちょこまかと小癪な!」

 

 光条の斉射が追走を阻み、高度を稼ぎながら見下ろすヲウカの顔は激昂に染まっている。結界を過信できなくなった現状、泰然とした態度を保つ余裕はないようだった。

 志水はようやく、ヲウカを安全圏から同じ戦場に引きずり出すことに成功した。

 搦め手に頼ることなく、正面からヲウカの脅威足り得ている。

 だが、本番はこれからだ。

 

 ヲウカは一瞬だけ歯噛みすると、邪魔な怒りを追い出すように息をつく。戦いの最中にあって緩慢でありながら、激情で磨いたようにその眼差しは鋭い。

 甘い一撃は無意味と悟らせるには十二分。

 体勢を立て直したヲウカは、堂々と旗を掲げた。

 

「光輝よ、収束なさい!」

 

 旗が微光を孕む。志水とウツロが身構えるが、すぐには攻撃はやってこない。

 変化は、戦場に起きた。

 漂っていた大量の塵が、ヲウカへと吸い寄せられ始めたのである。

 

「……!?」

 

 光条を阻害していたはずの塵は、目指す御旗が近づくほどに輝きを取り戻し、ついには結晶の形すら取り戻していく。必然、ヲウカの周囲は輝きに満ち始め、傍らで咲く神座桜の隣にもう一本、大樹が生まれようとしているかのようだった。

 還った塵を再び花と咲かせる、ヲウカの権能。

 ミコトがせいぜい数枚の盾にするのとは比べ物にならない、根源的な力の還流。

 

 彼女の前では、力が塵に甘んじることは許されない。

 志水とウツロの味方だったはずのものが、巨大な刃と化そうとしている。

 

「させない……!」

 

 志水が上空を目指すと同時、ウツロも既に影の大鎌を携えて飛び上がっていた。

 散漫に迎撃の光条が放たれるものの、ヲウカは旗を構えたまま留まっている。恐るべき権能の行使ではある一方で、大仰な動きは明確に隙であった。二人はそれを分かって飛び込んでいったが、裏返せばそれは突撃を強いられたとも言えた。

 

 示し合わせたわけでもなく、両側から挟むように斬りかからんとする志水とウツロ。

 ヲウカはそれを、冷酷に見据えていた。

 

「守りよ」

 

 空いていた左手から、淡い桜光が周囲に波紋の如く放たれる。

 接近するウツロがその光膜をくぐった瞬間、振りかぶっていた大鎌が端から形を失い、瞬く間に光の粒子となって掻き消える。

 しかし、志水の刃はそのままヲウカの背後を強襲する。

 

「おぉッ!」

 

 行く手を阻む壁もなく、盾の一切もない背中を、斬華一閃が切り裂いていく。剣閃が、輝ける桜の道筋を描く。

 致命的ではないにせよ、痛烈な一撃だ。

 あまりにもすんなりと入ったことが不思議な、鋭い攻撃。

 すなわちそれは、志水にとっての計算外だ。

 

 溢れ出す桜飛沫の中に、抵抗の証たる塵は一筋たりとも舞うことはなかった。

 今しがた怒りを向けたはずの志水すら、ヲウカは意識していない。

 志水に、戦慄が走った。

 

「斬華六道――人ッ!」

 

 桜の盾を紡ぎ、咄嗟に翅を動かして距離を取ろうとする。

 だが、ヲウカの口から時が告げられた。

 

「大いなる名の下に」

 

 ドッ、と世界が揺れた。まるで、ヲウカに応じた万物が打ち震えたかのようだった。

 それを皮切りに、光がヲウカを中心として渦巻いていく。偉大なるヲウカへと万象が集うかのように、内側へ内側へと輝きが引き寄せられていき、ヲウカの姿すら強すぎる輝きで見えなくなっていく。

 神座桜に咲いた結晶も嵐に巻き上げられるように吸い寄せられ、戦場に残り少なくなっていた塵も、光輝の胚として一瞬で呑み込まれる。

 

 それでもまだ足りぬと渦は引力を強める。

 影が二つ、まだあるではないか、と。

 

「な――」

 

 志水とウツロの身体から勝手に星屑のように桜光が漏れ、結晶となって攫われていった。体内の守りですらそうなのに、志水がより集めた盾も虚しく離れていく。

 全てが主神の下に跪く。全てが主神に導かれる。

 歯向かうための力もまた、彼女が司る桜の恩寵なのだから。

 

 其は、光なくして影は生まれ得ぬが如く。

 そして全てを呑み込む光の中では、影は存在を許されない。

 たとえ千里の果てに逃げようとも、この輝きは、怨敵を焼き尽くす。

 

「光輝艷なる瞬きを」

 

 暗夜の下、莫大なる聖光が放たれた。

 ウツロの鎌を掻き消した光とは比べ物にならない、もはやただの白にしか見えない眩い光の壁が、光の嵐の代わりに陰陽本殿を呑み込んでいく。

 物理的な衝撃はない。けれど、それは暴力だった。

 咄嗟にウツロが構えた影の壁が、紙くずのように消し飛んだ。

 

「ぁ……!」

 

 その身を、光が突き抜ける。ウツロの顔が驚愕に染まり、掠れた声が零れた。

 強烈な還流の力に四肢の末端が形を失いかけ、影となって揺らぐ。肉体を抉られるよりも悍ましい、形を持つ影を強引に拒絶する力が、ウツロの全身を焼いていた。

 彼女を宙に留めていた翅が、もがれたまま戻らない。

 ウツロの身体が、力なく傾いだ。

 

「ウツ――か、はぁっ……!?」

 

 浄化は志水にも及ぶ。

 ウツロのように肉体に直接影響は及ばないものの、身体を巡る力を急激に奪われ、苦痛を伴う虚脱感が志水を襲う。

 

 盾も、身中に宿す身代わりも、その尽くが失われる。

 手にした斬華一閃の刀身が透けていく。背中の翅が明滅する。

 肉体の強靭さを支える不可侵の力にすら手を伸ばされ、未知の落差が激痛と恐怖を生んだ。

 

 これが統べる者との絶対的な差。

 死にかけのメガミと一介のミコトには届き得ない領域。

 冷徹に見下されながら、志水もまた地に引かれていく。

 

 

 

 

 

 真昼よりもなお明るくなった聖域。反逆する影法師にとって絶望的な戦場。

 空間を駆け抜けていく光はすぐさま消えていくだろうが、鮮烈な輝きに羽虫のように焼かれた恐れを拭うことは叶わない。

 常人であれば、敗北を悟るだろう。主神に楯突いたことを後悔し、その身に刻まれた恐怖に涙する他、選択肢はない。

 

 だが、苦悶を浮かべる志水の目には、まだ意思の炎が宿っている。

 落下を始めた身体に力を込め、歯を食いしばるように彼女は叫んだ。

 

「獄……ノ、弐ィッ!!!」

 

 命を焦がし、燃やし、さらに奉ずる。光に染まった空間に、血が吹き荒れる。

 その存在まで奪われていないのなら、志水に諦める道理はなかった。徴収された力を補い、さらに上乗せするのに、躊躇もなかった。

 敵を断つ刃は再臨し、戦場を駆ける翅が再び広がる。

 桑畑志水は、止まらない。

 

「ヲウカぁぁぁッ!」

「愚かな……」

 

 顔をしかめるヲウカに向かって、志水が猛然と加速した。

 光の波が天上へ抜けていったことで、迎撃する桜の精の光条が鮮明な軌跡を生む。けれど、志水が無理に離脱しなかった、あるいはできなかった故に、攻め上がるべき距離はそれほど遠くはなかった。

 

 無論、力の急激な増減にも身体が悲鳴を上げているのか、回避は今までよりも際どい。

 それでも刀の間合いに飛び込まんとしていた志水は、しかし焦りもまた滲ませる。

 彼女の一太刀は、おそらくヲウカに届く。だが、それだけだ。

 負わせる傷に対して、反撃の光が志水たちからあまりに多くを奪っている。

 

 仮に再びヲウカの肉を裂いたとて、彼女は先程同様、刃はそのまま受け入れるだろう。それは身体を形作る力を光の糧とすると同時に、光を脅かす塵を無駄に生まないためである。

 その合理はやがて、志水たちを圧殺する。雨のように降り注ぐ光条をやがて越えられなくなり、全てを接収する聖光に今度こそ焼き尽くされるだろう。結界を超えただけでは、到底足りないのだ。

 

 故に志水は、思い馳せる。

 無謀な小娘であった自分を信じ、凱旋を待つ友を。

 ずっと己の中で眠り、今は肩を並べる少女を。

 そして僅か半月であっても語らった心を――黒き鎧の奥にあった、黒き絆を信じている。

 なればこそ、桑畑志水はかくあるべきではないか、と。

 

「だからッ!」

 

 決意が、願いが、刀を強く握らせる。

 自分が変わる。ここで勝つために、あるべき自分へと。

 押し付けられる光に、抗えるように。

 

 その誓いが、刃を震わせた。

 手にした斬華一閃を。

 志水の内に眠り続けていた、刃の本質を。

 ただ顕現されただけの刀に、その本質が、真に宿る。

 志水が滲ませた血潮が、刃に注がれていく。

 

「なに……?」

 

 眉をひそめるヲウカの前で、あるべき形を知っていたように、変化は迅速に成された。

 血は力となり、力は鋼となる。肉厚であった刀身はさらに身幅を蓄え、もはや一枚の重厚な鉄の板と化す。

 誂えられた柄は既になく、茎に晒布を巻いただけの無骨なもの。

 そして牙の如き小さな刃が、すらりとした刃に代わって雄々しく連なっている。

 

 その歪な刀は、巨大な片刃の鋸と表すほうが近しかった。

 それは、ただ気に食わぬものを痛快に斬り捨てるための得物ではない。

 この眩しすぎる光に、疑問の影をもたらすための刃。

 ただ鋭いだけではなく、歪で、けれど深く深く傷を残す形。

 果たす命運はただそれだけでよいと、決意したが故の力。

 

 志水の在り方が、ここに結実した。

 なれば、とその新たな刃を、志水は間断なく振るった。

 

「ウバラ、ザキィッ!!」

 

 

 ヲウカの顔が、僅かに引きつる。先程同様、あえて受け入れる態勢だった彼女には、これまでにない明確な迷いが滲んでいた。

無論、刹那の邂逅で結論を変える余裕はない。

 冷や汗を浮かべたヲウカの太腿を、鋸が削り取る。

 

「っ……」

 

 一撃が、歯噛みさせる。けれどそれは、苦痛ゆえではない。

 志水が切りつけた傷跡からは、本来溢れるはずの輝きが全く見られない。そこに切り傷があるのだと示す一筋の荒れた光の線こそあれど、顕現体から刈り取られたはずの結晶の成れの果てが、その気配すら感じさせていなかった。

 

 止まらぬ志水は、返す刀で次撃を振り下ろしている。

 ヲウカは、濃密な結界を盾のようにあてがって、連撃を弾いた。

 主神の思い描いていた調和が、乱れている。

 

「私を……誰と心得るか!」

 

 手放した旗を宙に留めたヲウカが、代わりに手にした長巻で志水の斬撃を受け止める。

 斬舞乱武祭では実現しなかった剣戟。純粋な強さを誇る絶対なる主神の剣舞の前には、誰もが膝をつくはずだ。

 けれど、その剣戟は続いてしまう。

 志水ならば、続けられてしまう。

 

「かんッ! けいッ! ないッ!」

「不敬、なッ……!」

 

 空中での不安定な姿勢を物ともせず、重い斬撃が互いに飛び交う。それでいて志水は、忘れた頃に自分を狙う桜の精の狙撃を避け、一つ所に留まらないよう立ち回っている。

 武神に認められた英雄には、むしろ打ち合いは望むところ。

 たとえ主神が相手でも、志水が後れを取るなどあり得ない。

 

「つぇああぁぁぁッ!」

 

 上から叩きつける斬撃を、ヲウカは刃の根本で受け止める。そのまま下へと受け流すように長巻を傾けようとするが、志水は鋸刃が鍔に噛んだのを見て手前に強引に引き抜く。

 前に引っ張られる形となったヲウカに、宙で振り返りざまに追撃を見舞う。それを跳ね上げられた長巻の柄が弾いたことで志水の刃は届かないものの、動きを乱されたヲウカからの有効打もまた届かない。

 

 志水の鋸刃に対して、ヲウカの長巻は十全な威力を発揮できていない。誰も相手にしたことがない得物ということを横に置いても、引いて斬るという刀の基本に沿えばいい志水と違い、鋸刃に刀身を絡め取られる長巻は取り回しの難しさを加速させられている。

 それでも一太刀も通さないヲウカの技量は凄まじい。けれど、歪められた剣舞から放たれる斬撃が志水を捉えることはないのである。

 剣技は志水が有利。光条によって、その有利が互角付近にまで押し込められている。

 

 しかし、得意な舞台に引き込んでなお、ヲウカは苛立ちを浮かべるに過ぎなかった。

 どうにか喰らいついて有効打をあと何度も入れなければならない志水に対して、ヲウカは一度隙を作って光の波でまた呑み込んでしまえばいい。勝利条件に明確な差がある以上、互角の剣戟は志水にとってあまり良い状況ではなかった。

 

 ……これが、一対一の戦いなら。

 これほどまでに時間を稼いだならば、

 

「万象乖く――」

「……!?」

 

 影は再び落ち、光を呑み込もうとするだろう。

 

「殲滅ノ……影!!!」

 

 

 ウツロが叫んだ瞬間だ。

 彼女が手を押し付けた陰陽本殿の大地のその尽くから、逆さにした大瀑布が如く、膨大な影が噴き上がった。

 影はそのまま宙を目指し、そして一点を――すなわち光輝の主を呑み込まんと蠢く。

 その光景に目を奪われたヲウカに、志水は全ての勢いを賭して刃を叩きつけた。

 

「おおぉぉぉぉぉッ!!」

「が、ッ――」

 

 反動を利用して志水が離脱した直後、剣戟の舞台がヲウカごと影に呑み込まれる。

 勢いづいた影は一定の地点で引き返し、今度は天からヲウカを呑み込んだ。それが左右に前後に分かれ、四方八方で繰り返し、数多の影は歪で巨大な球となって捉えた存在を何度も喰らい続ける。

 

 ヲウカが絶対なる収束をもたらすのとは逆に、ウツロは絶対なる発散をもたらす。

 全てを無に還す、虚無の檻。

 対なる反撃が、聖域を黒く染め上げる。

 

 

 

 

 

 ヲウカには、理解できないことがあった。

 顕現体を形作る力が塵へと還る中、嬲られる屈辱を味わいながら彼女は自問する。

 ウツロは理解できる。ヲウカに及ばぬまでも、最古の三柱、その半身である。切り離した元凶がすなわち、ウツロの存在を形作っている。

 

 だがヲウカには、歯向かってくるこの人間が分からない。

 ミコト風情には存在からして天地の差があり、知恵も思慮も感じられない。己に並ぶ剣技の才が万一あったとて、打倒されるほどのものではない。

 噛みついてこようとも、喉笛を噛みちぎるには至らないはずの、野蛮な狼。

 戦いに生きた人間だというのなら、格の差は痛いほど分かっているはずだ。

 

 しかし、現実を知ってなおこの人間は、揺らがなかった。

 道理を超えて命運に突き進む者を英雄と呼び、今までも多くの人間がそれを標榜してきた。けれど、その小さい手で為せることは限られ、メガミに努力を讃えられるのがせいぜい。ましてやヲウカに及ぶことなど、ありえないはずだった。

 

 ならば今、この状況は何なのか。

 半身と共に在るからだけでは説明のつかない、あの眼差しは何なのか。

 彼女は言った。友がいるから大丈夫だと。

 彼女は挑んだ。主神の差し伸べた手を払って。

 ならば、この英雄を英雄足らしめているものは、即ち――

 

「あぁ……」

 

 その感嘆も、影に喰われる。

 生まれて初めて、ヲウカは少しだけ人間を認めた。

 けれどそれは、敗北を受け入れることを意味しなかった。

 

 

 

 

 

「ウツ、ロ……へ、平気……?」

 

 肩で息をする志水が、ウツロの傍へと降り立つ。

 短期間で仕上げたにしろ神経を使う空中での戦いに、瞬発的な激しい剣戟。血を払った上で繰り広げた大立ち回りに、流石の志水と言えど疲弊は著しい。

 こくりと頷くウツロも、立っているのがやっとの有様だ。彼女が必死で放った渾身の一撃はヲウカへの意趣返しのようになったが、相手と違ってウツロは全盛だったとは言い難い。先に強烈な一撃を貰った上での大技に、志水が肩を叩いて讃えた。

 

 戦いの終わりを感じさせる、束の間の時間。

 二人の表情が、微かな安堵に緩む。

 

 その刹那、足元を鋭い光が照らした。

 暗雲の狭間から陽が差し込めたようなそれは、彼女たちにとっての凶兆。

 二人は決死の表情で頭上を睨んだ。

 

「くっ……」

 

 蠢く影の檻の中から、光が迸る。闇を引き裂くように、幾重もの光条がこの本殿を照らす。

 獲物を襲い続けた濁流は貫かれ、やがて内側から溢れ出す輝きを抑えきれなくなり、火の暴れた提灯のように掻き消えていく。

 大いなる声が、降り注ぐ。

 

「全てを思うがままなど、もう、申しませんとも」

 

 その自信は蝕まれることなく。

 その高慢は消えることなく。

 そこに絶望を覚えるべきか。疲労も色濃い吐息に、希望を見出すべきか。

 

 影を払拭せし光から再臨するのは、神なる形。

 天を駆ける六枚の翅を蓄えた、堂々たる主神の姿。

 その翅や衣の端々が、幽かに崩れようとしていても、その態度だけは決して変わらない。

 

「けれど、だからこそ」

 

 民を導く御旗を今一度顕し、毅然と掲げる。

 真っ直ぐと、反逆の徒を見据えて。

 ヲウカが、告げる。

 

「愛ゆえに――真に求めるのです。この玉座を!」

 

 抗戦の宣言に、反論はない。相容れぬ者たちに、刃より他に言葉はない。

 ただ睨むだけ。ただ構えるだけ。

 そしてただ、敵を斬るだけ。

 命に代えても。

 

「獄……ノ……参ッッ!!!」

 

 吠える。気力を呼び起こすように、吠え上げる。

 限界を迎えているはずの全身が無数に爆ぜ、血飛沫が舞った。もはや一瞬志水の身体が隠れてしまったほどの血煙を引き連れて、彼女は鋸を携えて地を蹴り、天を目指した。

 桜の精も数えるほどとなり、富豪的な牽制は今や過去。はらはらとヲウカから零れ落ちる桜色の輝きが、戦場を清め祓った光輝の残滓と相まって降り注ぎ、そしてヲウカは天を蹴り、地を目指した。

 

 志水の軌跡に残った血煙が桜霞と混ざり合い、溶け合い、斑模様となって渦を成す。

 色は違えど、それは力の現れ。意思と刃が交錯した戦の景色。

 傍らで見守っていた煌めきの桜が、歓喜するようにその輝きを増す。滲むように立ち上っていく桜の影が、たった三人だけの戦場に陽炎を生む。

 果たしてそれは、試練か、恩寵か。

 果たしてそれは、誰がためか。

 

「おおぉぉぉぉぉッッ!!」

「はあぁぁぁぁぁッッ!!」

 

 他の全てを捨て、志水とヲウカが叫ぶ。

 神座桜の輝きが最高潮に達した瞬間、鋸と旗が、激しく交差した。

 果たし合いが、ここに終幕を迎える。

 

 

 

 ……だが、桜の煌めきは最高潮をさらに超え、光が戦場を埋め尽くさんとする。

 否、それはむしろ眩く輝く霧のようだった。

 全てを覆っていく。

 何もかもが覆われていく。

 決着へ踏み出した者たちを、覆い隠していく。

 

 気づけば彼女たちの叫びすら霧の中。そこにはもはや声も剣戟の音もない。

 あらゆる感覚が、霧に包まれる。

 全ては、霧の向こう側へ。

 

 雲の中に迷い込んだような一面の白。そこに浮かぶのは、恋離の姿。

 彼女は、整理するように独りごち、独り想う。

 

「自分は、戦いの舞台を誂えた」

 

 ――語り部の如く。

 

「何よりも意義深い、この」

 

 ――大樹を分かつ戦いを。

 

「だから……」

 

 ――最後に果たす役割は。

 

 恋離の脳裏に、北限で見たあの輝ける大樹の光景が浮かぶ。見果てぬ天上でもなく、邪の潜む遥か下でもない、光の軌跡で編まれた幹のどこかだった。

 それはすぐに霧散し、次には銀世界が浮かんだ。花鳥との闘いの光景だった。

 そのときのことを、恋離ははっきりと覚えている。最後に衣で貫いた花鳥は、何かに気づいたような顔をしていた。それから凶行に走り、取っ組み合いになった。

 

 再演される光景は、その決着を映す。

 夜山恋離の衣が、常世郷花鳥の『首元の雪を/喉首を』貫いた。

 一つの光景のはずであり、実際には前者だったはずなのに、今はどちらでもあるようにも思える記憶だった。花鳥を殺めてしまった恋離は、初代常世郷という歴史の根幹の一つを潰してしまったことにそれはそれは青ざめていた。

 

 けれど、あのときの恋離の瞳には、輝ける大樹の姿も同時に映っていた。

 そして見た。大樹が、僅かに蠢いたことを。

 そして理解した。これまで触れられなかっただけで、こんなことは――こんな可能性は、いくらでもあったのだと。

 

「これまでも」

 

 ――これからも。

 

 だからこそ、もうここが隠れ潜んでいた陰陽本殿の片隅かも分からなくなっても、恋離は霧の向こう側を夢想する。

 ヲウカの光が、志水を呑み込み、打ち破る様を。

 志水の刃が、ヲウカを断ち切り、打ち破る様を。

 それはきっと、この霧の向こう側にある。

 この、欺瞞の霧の向こう側に。

 

 そして夜山恋離は――否、メガミ・レンリは振り返った。

 この白に覆われた光景の、目撃者へ。

 彼女と同じものを見聞きしてきた、観客へ。

 この舞台の袖で、彼女は語りかける。

 

 

「けれどこの箱は、閉じられる」

 

 ――きっと、来たる闘いのために。

 ――この縁起が、縁起であるために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 これこそが、自分の果たす命運だったのだから