蹂躙された町並みは、既に多くが灰と化していた。動の気配は、ちろちろと舌で舐めるような残り火ばかり。
西部方面に残された、瑞泉から一里先にある最後の宿場町。先日放棄されたそこは、激戦の果てに、まさしく焦土と呼ぶに相応しい様相を呈していた。
その惨状の中、人の形が二つ、静かに相対していた。
方や、侵略者を屠った桜の剣、メガミ・カムヰ。
そして、彼女の前で跪く、場違いなほどに襟を正した女、ミコト・
生々しい破壊の爪痕真っ只中でさえなければ、ミコトがメガミに加護を求める光景に見えるかもしれない。
天詞が、紅の大剣を自ら腹に突き立ててさえいなければ。
女が持つには長過ぎる刃を切っ先側から抱え持ち、己に押し付ける様はまさに異常。戦場に初めて滴り落ちる鮮やかな血は、狂気が現実のものだと訴えている。
「ぐ、っ……」
痛みに耐え、脂汗を滲ませながら、天詞は哀願するようにカムヰを見上げる。
そのカムヰの小さな身体は、端から桜の光へと解け始めていた。もはや浮ぶことすらままならず、瓦礫に腰掛けて折れた柱に寄りかかり、天詞のことを淡々と見下ろしていた。無論、従えた四振りの大剣も、全て力を失って地に投げ出されており、そのうちの一振りが凶行に使われていても構う素振りすら見せなかった。
彼女に付き従ったミコトたちの姿はなく、たった一柱で戦い続けてもなお、敵の侵攻は未だ留まるところを知らない。ここで顕現体を失えば、彼女が次に人の世を見る機会は永遠に訪れないだろう。
ただ、それでもカムヰの鉄面皮は、冷淡さを湛えたままだった。姿勢も相まって、どこか無気力で諦観が滲んでいるかのようだった。それが、崩れ行く自身に向けたものなのか、あるいはこの歴史そのものの終焉に対してなのか、カムヰが口にすることはやはりなかった。
「っ……!」
その様子に、剣の刀身を鷲掴みにする天詞の手に、力が籠もる。
だが、激昂のままに刃を押し込んだ彼女は、込み上げてきた血を口から溢れさせた。体内を切り裂く刃と、異物に暴れまわる臓腑が、終わらない苦痛を生み出し続ける。荒く息をするごとに、端整な顔が歪んでいく。
誰が見ても当然の結果だった。一人の女が自刃するだけの光景だった。
しかし、天詞の瞳は失望に濁っていた。傷だらけの手から失われたものは、力だけでなく、希望もまた然りだった。
それでも、天詞にはただただ縋ることしかできない。
「器じゃ、ない……。そういう、こと……ですか……」
血まみれの口元をひくつかせ、悲愴のままに吐露する。
それでも、厳然たる結果を前にして、彼女が問い直すことはない。だからこそ、この剣から大いなる名を刻まれる資格がない現実を覆す術はあるのかと、祈ることしかできない。
弱々しくも剣から離さない手が、せめてもの姿勢だった。
それでも、カムヰは口を閉ざしたままだった。
「父も、語り部も、見て……くれない……」
眼差しは確かにカムヰを見据えながら、時折、ここにはいない誰かを垣間見るように、怒りと呼ぶにはか弱い感情の色が差す。唇が震えるたびに、命が流れ行く。
それでも、カムヰの表情は揺らがなかった。
「でも、それなら――」
剣を握る指を失意が伝い、はらりはらりと零れ落ちていく。最後に残った両の親指が、枝に引っかかっているだけの枯れ葉のように、最後の抵抗を見せていた。
壊れた腹の底から絞り出した気力が、カムヰをはっきりと見据えさせる。
剥き出しになった意思が、風前の灯が如く、悲痛な問いを叫ばせた。
「私の命運は、どこに……あるのですかっ!」
失意の泥に塗れた天詞の瞳と、曇りゆくカムヰの瞳が作る、暗澹たる鏡合わせ。
だが、その刹那、カムヰの瞳が微かに見開かれた。
天色の瞳から翳りが失せ、そこには見紛うことなく天詞の姿が映し出されていた。天詞には、カムヰの鉄面皮にほんのり色が差したように見えていた。
「――――」
カムヰの唇が、少しだけ惑い、小さく結ばれる。先程相まみえてからこちら、不動を貫いていた表情はどこか強張っていて、まるでそれはカムヰが自身の反応に一人で驚いているかのようであった。
この戦場で邂逅してからこちら、カムヰが初めて見せた変化に、天詞も自ら訊ねた身でありながら戸惑いを隠しきれない。
寡黙なメガミの動揺は一瞬で、またすぐに元の無表情に戻った。
天詞は知っている。それは、舞台に上がった演者が予想外の出来事を前にして、役であり続ける態度そのものなのだと。
カムヰの右手が、傍らで伏していた大剣の柄に添えられる。一人の人間の血を無意味に吸わされていた、紅の刃に。
そして天詞は、初めてカムヰの声を耳にした。
「眠る命運に、その日を。そして――」
「……!?」
囁かれた直後、錆びた血のようにくすんでいた剣が、鮮やかな紅を取り戻した。幼き手から注がれた光は刀身に眠っていた数多の文様を輝かせ、やがてそれらの形ある光は切っ先へと集まっていった。
向かう先は、刃が突き立てられた天詞の肉体。
冷たい力の脈動を感じたのも束の間、彼女という存在を尋常ならざる痛みが襲った。
「いッ――ぁがぁ、ッ……!」
ギリ、と歯を食いしばり、力んだ拍子に血が隙間から溢れ出す。それでもなお、天詞は自らを襲う現象から目を離さない。
肌が、剥がれ落ちていく。
まるで野菜の皮でも剥くかのように、古鷹天詞の身体が外側から削れていく。
だが、足元に折り重なっていくそれは、生々しい肉などではなかった。透き通るほどに美しい薄絹のようでありながら、流れ込んできた文様が刻まれた数多の衣が、彼女の周りで積み上がっていく。
苦痛に歪み、凄絶な表情を浮かべる天詞。
しかし、その苦悶の上から歪な笑みが張り付いた。
「望む、ところ……ですよ――ッ!?」
強がった途端、文様がさらに激しく流れ込む。己の命までもが剥がれ落ちないように、悲鳴を気力で噛み殺す。
文様の刻み手たるカムヰの身体もまた、急速に崩壊していく。自らを形作る力全てを、刻まれし衣へと受け継ぐように。残りの剣も、小さな体躯も、何もかもを光に還して。
今や日輪が如き文様の輝きに、天詞の意識が呑まれかける。自分の身体は削れていく一方、このまま芯に到るまで剥がれ落ち、何も残らなくなるのではないかという恐怖が顔を出す。
けれど、彼女の手は、再び剣を強かに掴んだ。
自ら求めた一縷の望みを、手放さないために。
この壮絶なる苦難と悲痛のその先を、目にするために。
「誰にもなれない、自分なんてッ……!」
カムヰの脚が崩れ落ち、支えを失った身体が揺らぐ。それでも彼女は、剣に込める力を実直に強めていく。
零れた力が二人を包む桜色の聖域を作り出し、枯れゆく大地の片隅で、最後の徒花が咲く。
膨れ上がった光が天詞の目を焼き、刃を掴む手も衣へ解けていく。
「幹へと、遡らん――」
その声を最後に、天詞の意識は引き裂かれ、闇へと落ちた。
むせ返るような土と草の臭いが鼻をつく。古鷹や瑞泉の屋敷で育てられていた身ではあまり縁のないものであったが、親友と過ごした記憶は正直なほどに蘇ってくる。
しかし、それらの思い出はもう、帰ってこない日々の象徴となって久しい。
親愛なる彼女の英雄は、手の届かない彼方へと旅立ってしまった。
歓喜と悲痛が胸を鋭く打ち、慌てて顔を上げた。
「
思わず口から出た名前が、虚を突かれたように尻すぼみになっていく。
朝霧に満ちる山間。家屋の残骸など見受けられない、手つかずの野生。無論、徒寄花の怪物どころか燻っていた戦火すらどこにもなく、あの宿場跡とは似ても似つかない。当然のように、カムヰの姿や彼女の剣の気配すらなかった。
しかし、覚えのない場所で目覚めたことよりも大きな変化に、天詞は気を取られていた。
ぺたぺたと、自分の顔をまさぐる。無傷で、手当した形跡もない腹を触る。
身体は羽のように軽く、長年付き合ってきたものよりも小さな手足が、比喩などではない差異を示している。
極めつけは、自分の喉から出てくる、聞き覚えのない幼げな声だった。
「あっ、と……」
立ち上がろうとして、感覚と奇妙にずれた動きに膝をつく。だが、にぃ、と口端が持ち上がるのを天詞は感じた。
そして、彼女がついた手の下にあったのは、どんな生地よりも滑らかな衣だった。
「これ……」
天詞の身体を覆い、それでなお足元に広がっていたその衣は、カムヰによって次々と剥がされた天詞の身体だったものだ。
今はそこに、文様の輝きはない。けれど、そこに宿る力と、自分の身体の一部になったかのような繋がりがはっきりと感じ取れた。
それは、ミコトが振るう力よりもなお、強固なもの。人の身には決して持ち得ぬ力。
だが、それに反して、彼女に自身がメガミに至ったという感覚はなかった。
古鷹天詞という存在は、事実、未だメガミ足り得る器ではない。ただ請い願うだけで本当に召し上げられたのならば、過去の英雄たちに申し訳が立たない。
ならば、この力はいっとき預けられたものなのだろう。
仄聞したこともないそんな異例の事態の中心に、自分がいる。
ぎゅっと、その意味を共に、衣の一端を握りしめる。
「ふふ……」
改めて立ち上がり、慣らすように数歩足踏みする。今までの自分とはまるで違う、童のような小さな身体だというのに、不思議とすぐに馴染んでくれた。
明らかに人智を超えた出来事が天詞を襲っている。
けれど、彼女が取り乱すことはなかった。動揺よりもなお胸を奥から揺さぶる昂揚が、抑えきれない笑みとなって溢れ出しそうなほどだった。
行き止まりだと思っていた自分の命運が、今こうして続いている。
これから、新しい自分が果たすべき宿命が待ち受けているはず。
そのための新天地へ、自分は招かれたに違いない。
昂揚が、湧き上がる予感を炙っていく。
「ははっ、あはははっ!」
全身を巡る熱に浮かされるように、天詞は走り出した。見覚えのない場所であっても、辺りの植生は最も身近なそれに近しい。もう立ち入れないはずの地で目覚めたという異常で特別な現実に、居ても立っても居られなくなっていた。
予感に導かれるように、駆け足で山を下っていく。虚弱な身体では一生涯望めなかった風を切る感覚に、顔が緩んで仕方がなかった。一歩を踏みしめるごとに、昔の儚い感覚が塗りつぶされていくようだった。
木々の合間を抜け、朝霧を抜け、ぽつんと突き出した小さな崖に辿り着く。開けた世界を見渡せば、そこには朝日に照らされる平野が広がっていた。
だが、平野を染める色は、大地の茶でも、草原の緑でも、払暁の橙でもない。
桜だ。
「はーっ、はーっ……」
朝寒に微かに白く濁る吐息の向こう、眼下に控えた山の麓から少しだけ行ったところに、巨大な桜があった。
その桜は、ゆらゆらと燃えるような幽き光を放っており、ここからでも分かるほど、周囲は熱されたように揺らめいて見えた。その揺らめきは景色をぼやかし、一帯を覆い隠すようですらあった。
一見して、神座桜の幻でも見ているかのようなその光景。
けれど天詞は、この桜が見間違いなどではないこと……そして、なんと呼ばれていたか、旧き文献を通じて知っていた。
小さな口が、その名を形作る。
「
かげろうざくら 」
旧き戦国の時代。桜の直下でなくとも、まだミコトが力を使えた時代。
桜花決闘も存在しなかったその時代の末期、血で血を洗う戦場において、神座桜が呼ばれていたその名を。

淡々と麓へ降りた天詞は、陽炎桜に惹きつけられたかのようにそのまま歩みを進めた。落ち着きを取り戻し、ゆっくりと冷静に回り始めた思考が、目の前の異常を呑み込もうとする。
陽炎桜は、天詞も生まれて初めて見るものだ。いや、現代に生きる人間そのほぼ全てが、実際に見たことがあるはずがない。もはやそれは歴史や伝承の中のみで語られるものであり、稀に見間違いの噂を耳にするだけだ。
この身体よりもなお、常識では考えられない景色がここにある。
それを辛うじて説明し得るのは、最後に投げかけられた言葉だ。
「『遡らん』……」
最古の三柱が一柱たるカムヰは、天詞を送り出すようにそう告げた。
道理を横に置けば、天詞は過去の時代へと『遡った』のだろう。少なくとも、これを死後に見る夢と思うよりは実に建設的だった。
今踏みしめているのは、旧き戦国末期の土。
ならば、自分が求めた命運とは。
「歴史を、変える……?」
言葉が口をついて出る。笑ってしまうような夢物語だ。
だが、もしもそれが実現できるのなら。
徒寄花に滅ぼされた歴史を正せるのなら。
戦国の代から、勝利に繋がる歴史を描けるのなら。
元の時代で待っているのは幸福な未来。天詞が望んだ英雄との温かな未来。
そう思うと、荒唐無稽だなんてほとんど気にならなかった。突然大地を未知の化け物に蹂躙されたことのほうが、よほど馬鹿げた話だと思えてならなかった。
その想いを逃さないよう、胸に手を当て、こぶしをぎゅっと握る。
神座桜は、その馬鹿げた話の大いなる被害者である。
ならば、桜に託されであろうこの大役を果たせば、きっとこの先は――
「……よし」
そのためには、この時代で成すべきことをはっきりさせなければいけない。行動を起こそうにも、情報が必要だった。
幸い、天詞の頭の中には未来に残された情報が詰まっている。陽炎桜の来歴もその一つだ。
七と三の葉脈――ミコトがメガミから借り受ける力の流れを最も強めるその技法は、ここからさらに時代を遡った戦国時代初期に、当時の英傑たちによって見出された。あるいはこの発見こそが、戦国の代の幕開けだったともされる。
ミコトたちが強大な力をより安定して扱えるようになったことは、各地に燻っていた火種に油を注ぐようなものであった。力での対話が増え、対抗して兵力を増強し、戦の規模は次第に大きくなっていった。
神座桜の変化は、そういった力を求めるミコトの増加に伴って生じたとされる。
すなわち、より大きな戦いにおいて、より多くのミコトへと力を貸すために、かの旧き桜は燃えるような陽炎を纏うようになったのだ、と。
ならば、あるはずなのだ。大きな戦いが、すぐ傍で。
桜の意思に選ばれし英傑たちが、雌雄を決する戦い――桜花決戦が。
「あれかな……」
陽炎に呑まれるかどうかという位置に、旗が掲げられていた。既に陣は敷かれており、雑兵たちがその前方で横列を組んで待機している。開戦の時は近いかもしれない。
しかし、その西方の旗印を見て、皮肉めいた出会いに口元が歪んだ。
「おやおや」
家紋が示すのは古鷹家。天詞が最も知悉する大家。
左手に進路を変えた彼女は、山裾の林に沿って陣へと向かった。
脳裏に、古鷹の歴史を並べながら。
未来でもこの戦国でも、戦の主役がミコトであることに変わりはない。ましてや、常にメガミの力を扱えるとくれば、もはや普通の人間に勝ち目はない。その兵力としての質の差を戦術で底上げするのが得意だった家もあるが、彼らの役目は主に雑用である。
戦闘においては、空を駆ける弓手への牽制としての弓兵隊の役割があったが、ミソラの隠遁を契機に徐々に出番は減少した。戦国後期にはもう、主力が控える陣の前でついでのように時間稼ぎをするのが基本的な運用方法だったという。
実際、陣の前に配された雑兵たちを見ても、判を押したように大きな置楯と申し訳程度の槍で武装していた。一方、弓矢の備えもしてあるようで、強い警戒が窺える。わざわざ戦場へ来るだけに彼らの士気は高いようで、古鷹を守る壁の役割は最低限果たせていそうだ。
しかし、天詞の目は彼らの鎧の違いを捉えていた。
大部分はこの時代の西の様式だったが、ちらほらと別のものが混ざっている。
最前線に出ないからこそ目につかないはずだったそれは、水面下での別勢力との共闘を意味していた。
「蟹河、でしたか」
頭の中の年表のある時期に焦点が合う。後世に残された情報を答え合わせしているかのようで、くすり、と微笑んだ。
雑兵の隊列を横目に通り過ぎ、林から出る。輜重から解放されてくつろぐ馬たちを見送りながら、簡易な柵沿いに林立した旗に紛れて陣の中心へ。
やがて戦場に不釣り合いな華美な彫刻の施された門が、天詞を受け入れる。中では、出陣を今か今かと待つミコトたちが、余念のないよう装備を整えて合っていた。全員、脇差し以外には無手である光景は、実際に目にしてもにわかには信じられなかった。
だが、内心楽しげに感心していると、目の前に大きな影が立ちはだかる。
ここまで堂々と侵入したのだから、その制止は遅いくらいだった。
「おい、ガキ。何の用だ」
その大男の顔は、首が痛くなるほど上にあった。身体が縮んだせいで、彼の身の丈が七尺もありそうに見えてしまう。鎧を身に纏っているせいで余計に膨らんで見え、突然大木が生えてきたかのようだった。
彼にしてみれば、今の天詞は小脇に抱えてつまみ出せる程度の童だろう。ここが戦場であるが故に警戒心を捨て去っていたわけではなさそうだったが、それでも瞳には侮る気持ちが透けて見えていた。
今までであれば、つい無力感を覚えてしまうような眼差し。
けれど、中身が伴ってさえいるのなら、侮られることほど好都合なことはなかった。
「怪我しねえうちに帰りな。でなきゃ、大人しくしててもらうことになる」
「……失礼、道を譲っていただいても?」
「てめぇ……!」
大男の逞しい腕が、天詞へと伸ばされる。
しかし、彼女の反応は迅速にして端的だった。掴んでいた衣を手首の返しだけで翻し、踏み出そうとしてきた男の脚を絡め取る。
着地を許されなかった彼の体勢は崩れ、股を前後に割くように転がった。
「この、くそが――」
滑稽に倒され、顔が赤らんでいく大男を、さらに幾重もの衣で縛り上げていく。軽めとはいえ、甲冑を着込んでいる状態ではなおさら抜け出せまい。腕と脚を一組ずつまとめて縛られ、口も塞がれた彼はそのうちもがくことしかできなくなった。
ただ、こんな立ち回りをすれば人が集まるのは道理。
「貴様、何者だッ!」
「て、敵襲! 敵襲! 皆、囲め囲め!」
開戦前で気が立っている中での出来事に、周囲の兵が騒然となる。彼らに目にしているのは、単騎で敵陣に乗り込んできたらしき小さな子供なのだ、動揺も手にとるように分かる。
見事に取り囲まれた天詞は、それでも落ち着いていた。決して、逆に彼らを侮っていたわけではない。
目的の人物は、誰かが痺れを切らす前にやってきてくれた。
「通せ、何の騒ぎだ!?」
「広橋殿!」
人の輪を割いて現れたのは、いっとう立派な鎧兜で身を固めた壮年の男だった。奥の陣幕のほうから人を引き連れて来たようで、やや若いながらも古鷹家の重臣、ひいてはこの戦における将だろうと天詞は察する。彼に並んだ鷲鼻の男も装備は良く、蟹河から送られてきた有力者かもしれない。
広橋と呼ばれた将は、歪な芋虫と化した大男を一瞥し、
「君がやったのか? ここを、古鷹の将たる我が陣と知ってのことだろうか」
その問いかけは存外冷静であり、史料に残る血気盛んな戦国の武人とは印象をやや異にしていた。ただ、それでも向けられる威圧感は肌を刺してくる。
話が早く進みそうだと、天詞は口に出さずに思う。
そして、一度短く頭を下げた。
「申し訳ありません。迷子の童女だと勘違いされ、襲われたのでつい反撃を」
あえて淡々と、姿とは似合わない冷ややさで応える。嫌でもやらされた舞台の稽古と、政務者としての仮面がこんな形で活かされるとは、父の京詞とて夢にも思わなかっただろう。
その冷淡さは、これから告げる偽りの身分への説得力を持たせるため。
幾度か顔を合わせた重鎮たちの雰囲気を思い出しながら、天詞は肩書を名乗った。
「自分は、里より遣わされた忍であります。此度の古鷹家の要請を受け、この戦場に馳せ参じた次第」
「忍、だと……?」
「疑念はもっとも。ですからその証として、預けられた術により、我らが始祖の言葉を伝えましょう」
そう言うと天詞は、携えていた衣を一枚、ひらりと身体に纏わせるように泳がせた。するとそれは全身を包み込む光の帯と化していき、淡く輝く繭となる。
だが、兵たちのどよめきも一瞬のことで、解き放たれた衣の中身に誰もが絶句していた。
中から現れたのは、深緑の襟巻きを靡かせた、白衣姿の一人の少女。左右で結んで垂れ下がった髪は、彼女の領域たる深き森に這う蔦のようであり、この時代にはとても珍しい眼鏡越しに、真理を見定める双眸が閃いている。
「あ、あれ……噂の、メガミの里長様じゃ……」
「聞いてた通りだ! オボロ様、オボロ様だよありゃあ!」
ちら、と周囲の反応を探り、それが期待通りのものであると認めると、天詞は顔に出さないように安堵した。
そこに気を配っていなければ、己が成した変化に飛び上がってしまいそうだった。桜の下であっても大したことはできなかった自分が、目を疑うような力を発揮したのだ、不思議と確信があったとて、自身でも驚きは禁じ得なかった。
だが、この時の戦場にはまだ、オボロのミコトはいないはず。
ならば、と化けた天詞は、記憶から呼び覚ました声色で朗々と騙る。
「拙者は、侵略に苛まれるお主らの懸念と苦境を理解する。だからこそ、いちメガミではなく、里を束ねる一人の長として、協調の申し出を受け入れたい」
「…………」
「故にまず、この友誼の始まりとして、腕の立つ忍を此度の戦に送らせてもらった。健闘を祈っている」
そこまで言うと、偽りのオボロの身体が表面から帯へと解け、するするとあっという間に小さな手に戻っていく。
元の童女の姿に戻った天詞に注がれるのは、期待に満ちた兵たちの眼差しだ。
しかし、返答を求めていた相手――広橋には困惑の色が浮かんでいた。
将として正しい反応に、天詞はただただ答えを待つ。
「ふむ……」
「吾輩としては、疑念が拭えぬが……」
隣に並んだ蟹河の手の者が目を細め、こちらを値踏みするように見やってくる。
それに広橋はすぐ応じることなく、しばし黙考した後、
「左沼殿、しかし――」
そのまま言葉を作ろうとして、少し留まる。一歩間違えば曲者を招き入れる決断を前に、慎重にならざるを得ないようだった。
だが、彼は首を縦に振るのだと天詞には分かっている。
そもそも、古鷹が忍の里に協力を求めていたのは事実。大々的な派兵こそ取り付けられなかったものの、里がそれに応えた記録も残っている。そこに至るまでの窮状が変わっていないのであれば、実効が多少前倒しになるだけのことだ。
将であれば、自軍の状況は当然把握しているはず。古鷹の重臣であれば、欲していた忍の有用性も理解してるはず。
天詞は実際の戦こそ経験はしなかったが、指導者の考えは叩き込まれていた。だからこそ、大局を見据える義務を負う広橋に最短で会えたことは幸運であった。
やがて彼は腹をくくったように、隣の男へ言葉を続ける。
「私としては、この好機を逃す事態だけは避けたい。左沼殿、ご理解いただけるか」
「……承知した」
説得された左沼は反論を呑み込んだようだったが、不承不承と言った様子でもなかった。不利益も含めた広橋の判断を尊重してくれたのだろう。
広橋は一歩前に出て、周囲の兵に警戒を解くよう目で訴える。
兜を脱いだ彼は、鎧を窮屈そうにしながら頭を下げた。
「配下の者が大変失礼した! 私は、この戦の総大将を務める
彼の問いに反射的に答えようとして、刹那、一呼吸置いた。
名乗れるわけがない名前は、隠し通さなければならない。
後世に語り継がれていない名前は、残してはならない。
あの名前は、この時代では必要がないのだ。あるいは、未来でさえも。
命運を果たすためならば、何者にもなれなかったあの名前を捨ててもいい。
だから彼女は、その名を騙る。

「はい。
それは始まりの嘘。
その偽りは、衣を付け替えたことから始まったのだから。