神座桜縁起 前編

第14話:朔望の夜

 

 かたり、と暗闇の中で床板が持ち上がった。

 人の気配のない閉所。雑然と積み上げられている物の圧迫感に支配された空間に、生じた床穴から二人の男が這い上がってきた。

 身なりは、平々凡々とした軽装の城兵。中肉中背で年の頃も三十歳前後、顔立ちさえ誰の印象にも残らなさそうな、絵に描いたような一兵卒だった。

 しかし、彼らしかいないはずの暗闇に、少女の得意げな声が密やかに響いた。

 

「ね、言ったとおりでしょ。子供の頃は、この城で遊び回ったんだから」

 

 それは、男のうちの一人の喉から生み出されていた。うだつの上がらなさそうな壮年男性とは思えない、いたずらを楽しむ子供じみた声だ。

 対し、もう一人の男は、土を払いながら見た目相応の声で返す。

 

「分かったから静かにしてくださいよ」

「はーい」

「……緊張感ないですねえ」

 

 男はそう言うと、袖から手繰り寄せた布を握り、軽く捻った先を天に向ける。すると、まるで蝋燭であるかのように、小さな炎がそこに灯った。

 か細い光に照らされるのは、物資が山積した倉庫。埃が舞っているが堆積しているわけでもなく、上に積まれた木箱は見た目から質感が新しい。微かに流れ込んでくる外気には水が匂っていて、夜の肌寒さをいや増していた。

 

 ここは桑畑の城が一つ、下田城。

 桑畑、蟹河、天音の三方にかかる山の北東に構えられた砦であり、桑畑家が南方及び西方から来たる敵軍を同時に睨める要所であった。

 

 

 

 

 

 夜空に昇った大きな満月が、城内の一室を照らしていた。

 絢爛さとは無縁な、質実剛健な造り。必要十分な物のみで構成されているが故の機能美をも感じさせる、小広い板敷きの部屋だった。

 そこでは道着に身を包んだ青年が、ひとり瞑想に耽っていた。

 だが、背中を晒していた彼は、何の前触れもなく刹那の内に機敏に振り返った。

 

「む……」

 

 瞬く間に顕現させた弓に空色の矢を番え、青年は悠然と警戒心を滲ませる。

 狭い廻縁には、夜闇を背に二人の一兵卒が並んで立っていた。入り口とは反対の位置ではあるが、部屋の脇から出てぐるりと回り込めなくもない。それには瞑想中の彼にも気づかれない必要はありつつも、三階のここに外から登ってくるよりはマシな可能性だろう。

 

 それでも青年はきっと、己の感覚を信じ、念のために矢を向けている。

 実際にそれは正しく、現実は彼の予想を上回った。

 凡庸な兵の身体が淡く光り、野菜の皮でも剥くかのようにはらはらと剥がれ落ちていく。

 

「……!?」

 

 ギリ、と弓がいっそうしなる。

 しかし、男たちの姿が解けた後に残ったものを見ると、彼は意外そうな顔になって、それから納得したように微笑んだ。

 化けの皮の中から現れた少女の一方は言った。

 

「お久しぶりです、上兄様」

「あぁ、志水。久方ぶりだな」

 

 そう返した青年は、次いで共に姿を晒した恋離に鏃を向ける。

 驚きは見せたものの、彼の堂々とした態度は、覇を唱える大家の長男は伊達ではないと悟らさせる。まだ間合いがあるとはいえ、志水なら即座に襲える位置だ。それでもまだ片膝立ちに留めているのは、夜襲の線を切って捨てているからなのだろうか。

 

 もちろん、首を差し出しに来たわけではないことは、しおらしさの欠片もない志水の様子からいち早く理解しただろう。

 だから彼は、恋離に水を向けることにしたようだった。

 

「君はもしや、古鷹との戦から志水が拾ってきたという娘かな?」

「はい。夜山恋離と申します」

桑畑大渦 くわはたたいか だ。これ以上の自己紹介は必要ないと見える」

 

 その言葉は、己こそが尋ね人だという自覚故だろう。

 それから大渦は、弓を構えたまま肩をすくめて訊ねてきた。

 

「お前が志水を誑かしたのか」

「違うわ!」

 

 志水から、反論が飛び出した。恋離が返答を考える暇もない、弾けるような否定だった。

 ただ、志水は憤慨こそ表にしたものの、その怒りは抜き身の刃というほどではなかった。言葉が強かったかと、少し顔を背けてばつが悪そうにもしている。絶縁されたとて、やはり実兄相手だからなのだろうか、と兄弟のいなかった恋離はぼんやりと思う。

 

 志水は一歩前に出て、恋離をかばうような素振りを見せた。

 俯きかけた顔を、真っ直ぐ兄に向け直して。

 

「誑かしたのはしぃの――いえ、わたしのほうです。皆を引きずり回し、この手で、桜に刃を向けたのですから」

 

 それは反省であって、後悔ではなかった。否、後悔する資格を、志水は自ら捨て去っていたと言うほうが正しかった。

 今回の侵入に際し、恋離が現地で志水と合流したとき、志水は決行直前の猶予に差し込むように謝罪を口にした。恋離と安岐那との蟹河行きが決まり、隠れ家で満足に話せないまま再び別れていたのを気にしていたようだった。

 

 巻き込む覚悟が足りてなかった――志水はそう言った。

 謝る彼女に気後れはなく、背中を押してくれる友をいっそ危なっかしいほどに信じていることに、変わりはなさそうだった。そうだったからこそ、荒唐無稽な理想を追い、旅を終わりまで歩めたという結果がある。

 

 桜への恨みこそあれど、気楽な道中、確かに彼女は仲間を背負ってはいなかったのだろう。もしかしたら、真意を話さなかったのもあるいは、と恋離には思えてくる。

 だが今、一人分の責任以上のものを肩に乗せて、志水はこの場に立っている。

 大渦は、そんな妹の態度に、にぃと口角を上げた。

「そうかそうか。ならば何を求め、俺の下に来た? できもしない腹芸なんぞ不要だ、率直に言ってみろ」

 

 弓を下げ、彼はどかりと腰を落ち着けた。空色の矢を弄びながら志水に向け、不敵に笑って見せるその様は、血に塗れた時代を生きる者の豪胆さを窺わせる。

 志水はそんな彼の眼差しを正面から受け止めた。

 そして、自身の胸に手を当て、告げる。

 

「わたしの中に埋め込まれた矢を、その矢にて打ち砕いてほしいのです」

 

 対し、大渦の反応は簡潔だった。

 

「なぜ俺に?」

「だって、この矢を射たのは、上兄様でしょう?」

 

 彼女の瞳こそが、裏にある真意全てを見据えるように、大渦を――桑畑の弓兵隊を率いる将たる男を貫いた。

 彼はぶらぶらと矢を手慰みにするのをやめ、志水を見返し、恋離を見て、少し考えるように宙を見上げた。

 ややもあって溜息をつき、肩を竦めると、

 

「俺が桑畑一の使い手なのだから、俺がやるのが最も成功率が高かったまでだ」

 

 そう言って大渦は気怠げに立ち上がり、いくらか歩んで開け放たれていた戸の前で、外の夜闇と月光を浴びた。

 遥か頭上で煌々と輝く満月に、南で広がる山並みが照らされている。今はその全てが桑畑の勢力下にあるが、そのまま東に抜けようと思えばすぐにでも蟹河の勢力圏とぶつかる。史料が焼かれても、この一帯を巡る激しい攻防があったことは想像に難くない。

 彼は振り返らぬままに、背中で皮肉げに笑った。

 

「遺憾にもな。再び大きく盤面を動かす何かがなければ、俺の代で野望を果たすなど叶わんだろう。桜花拝の一手は、実に狡猾だった……おかげで、またこの城の景色を眺める日々だ。俺が若呼ばわりされていた頃より、ずっと退屈しなさそうだが」

 

 皮肉げに独りごちる大渦の声色は、けれど志水を特別責めるようなものとは違った。かといって自分を責めるようでもなく、全て過ぎたこととして俯瞰しているような口ぶりだった。

 彼ら桑畑家の人間がどこまで事態を把握しているか、恋離には分からない。全員が大渦のような態度だとも思えない。末路を知る側からしてみれば少し不気味なほどだったが、生き残るために現実を見ているだけかもしれなかった。

 

「だが、ただ燻るだけなのも性に合わん。ならば、俺ですら計り知れぬ命運を抱えた奴に賭けたほうが、幾分かはマシだろう。なぁ?」

 

 肩越しに、大渦はほくそ笑んでいた。

 彼は顎で志水に前に出るように示し、道着を正した。恋離が頷いてやると、志水は意を決して彼の直線上に立つ。

 その傍ら、大渦は恋離を垣間見て、

 

「射た後のことは考えているんだな?」

「はい、自分はそのために」

「ならばいい」

 

 そう答えた瞬間、降ろされた力に恋離は威圧された。

 今までの大胆さと飄々さを合わせたような態度は鳴りを潜め、大渦の双眸が志水を確かに捉える。一瞬、恋離は風が吹き付けたようにすら感じた。周囲に有無を言わせないほどの卓越した集中力が、息をも忘れさせる。

 

 堂に入った、執り弓の姿勢。戦場で見せるものとは違う、芸術品のような構え。

 彼もまた、間違いなく達人と呼ばれるべき存在だった。この乱世にて失われてしまう、至宝の一人に違いなかった。

 その背から、空色の光が猛禽の翼を模った。矢を番え、弓を引き絞るその動作の一節ごとに、空を目指して羽ばたくが如く、力が矢に注がれていくのが分かる。

 

 鏃の指し示す先は志水、その胸その奥、目に見えぬ戒めの矢。

 引き分けたまま、大渦の呼吸に志水の呼吸が引き寄せられていく。

 そして、会した瞬間、

 

「うっ――」

 

 

 着弾までは、一瞬だった。

 響いたのは肉が穿たれる音ではなく、金属が割れる音。

 ちょうど心臓のあたりに吸い込まれていった矢は、志水の装いや肉を貫くことなく、ほぼそのままの角度で背中から抜けていく。

 血の代わりに彼女の身体から飛び出したのは、黒ずんだ金属片たち。鏃だったものと思われるそれは、黒い星々のように床に散っていき、小さな重奏を奏でた。

 直後、志水の表情が苦悶に染まった。

 

「あっ――あぐぅッ!?」

「志水さん!?」

 

 胸を押さえた彼女の手の隙間から、黒い影が宙に染み出していく。煤けた煙よりもなお濃いそれは、夜をも喰らってしまいそうなほどに昏く、底知れぬ畏れを与えてくる。極力悲鳴を噛み殺そうとしている志水の声が、逆に恐ろしく聞こえさえする。

 しかし恋離は臆することなく、衣を一枚、咄嗟に志水へとあてがった。

 戦国に辿り着いてから何度も何度も用いた力を、今こそ全霊と共に衣に注ぐ。

 

 カムヰより受け継いだもの。劣化版でしかなかった、その力――名を刻む力を。

 恋離が今、その衣に刻む名は一つ。かつて心の片鱗を通わせたメガミの名にして、溢れ出すこの影にあって然るべき名。

 縫い留められていた本質の暴走や消失を危惧するのは、行き場を失くしているからだ。

 ならばその行き場を――器を用意してやれば、必然的にそこへと収まるはず。

 人の世におけるメガミの器たる顕現体がないのなら、用意してしまえばいいのだ。

 

 正しい名を刻まれし衣という、仮初めの器に。

 ウツロの名を冠した、肉体に。

 

「くぅ……!」

 

 衣が急激に影色に染まっていく様子は、すぐに見えなくなった。志水から溢れ出す影は奔流となって、恋離の視界を黒に染め上げた。

 すわ衣の限界を超えたかと焦るが、やがて背後からほのかな光が取り戻され、影は床の一点に吸い込まれていく。その先は、加速度的に膨らんでいった、かつてない存在感の源だった。

 

 完全に晴れた視界は、月夜でさえ昼のように明るく感じる。

 その中で、膝をつく志水の傍らに、先程まではなかった人影が横たわっていた。

 灰から生まれ出たような、人の形。

 恋離が知るよりも歳を重ねたような、儚い印象の少女が、静かに眠っていた。

 

「志水さん、大丈夫ですか?」

「う、うん……思ってたより平気。ウツロも大丈夫――みたいね」

 

 志水は、多少汗を浮かべているだけで、外傷も特にない。矢を破壊した衝撃で心をやられるのではないかと恐れていたが、未知の感覚に驚かされていただけといった様子で、今はもうウツロの頬を優しく撫でていた。

 恋離はほっとすると同時、志水を無事なまま事を為した弓の腕前に改めて舌を巻く。

 当の大渦は、柱に背中を預けながら弓を還していた。

 

「終わったか? なら早々にここを出ることだ。どこから入ってきたのか知らんが、詰め所から駆けつけた連中と鉢合わせしても知らんぞ」

 

 屋内の方向を指した彼に、深く追求する意志はなさそうだった。

 恋離たちは無言で頷く。事前の想定よりもウツロの身体は大きかったが、衣をたすき掛けにして支えてもやれば、志水は軽々と背負ってくれた。

 先んじて兵に変じた恋離は、しかし志水に偽装を施そうとした手を止めた。

 大渦を見る志水は、未練を滲ませていた。

 

「上兄様……これからどうするの?」

 

 畏まらずに、彼女は問うた。

 大渦はそれに怒るでもなく、皮肉めいて小さく笑い、腕を組んで視線を落とした。

 

「さてな。お前が大事を成すのなら、それを利用させてもらうまでだ」

「お家のためだけに動いてるわけじゃないわ」

「そこまで高望みはしちゃいない。そうだな、このまま桑畑の野望が朽ちるというのなら……いっそ名を捨てて、南に下るのもいい」

 

 夢想するように言い並べる大渦。この時この瞬間だけは、彼らがどこかに置いてきた、あるいは奪われてしまった、兄妹らしい気の置けなさがどことなく滲んでいた。

 

「俺は一代でできることをするさ。野望は、子孫にでも託すとしよう。幸い、お前の中にいたメガミ――ウツロと言うのか? そいつの情報は、きっと何かの役に立つ。未来の糧として、密かに語り継がせてもらおうじゃないか」

 

 どこまでも志水を駒として見ようとしているようで、だからこそ利用することしか考えていない相手に本音を話すわけもない。

 彼が志水との間に引いた線を、取り消すことはないのだろう。

 それがけじめのつもりなのかどうかは、それこそ、本人にしか分からない。

 

 志水もそれを理解したのか、諦めたように微笑みを浮かべた。

 踵を返した彼女は、最後に一言だけ、その場に零して行った。

 

「さよなら、上兄様」

 

 

 

 

 

 満月を背に進む森は、実に静かだった。

 足音は二人分。少しだけ上がった息も、二人分。そこに微かな寝息が混ざる。

 行きでも使った隠し通路を戻り、井戸から山の麓にある小さな社に出てからしばらく。追手の気配もなく、城に明かりが灯ることもなく、歩みを進めるごとに緊張は緩んでいく。

 

 二人が目指すのは、山裾をしばらく行った街道脇で待機している安岐那の配下だ。とうに変化を解いて、慣れない身体と別れを告げても、もう少しだけ距離がある。

 無言で逃走を続けていた恋離だったが、隣から久しぶりの声がした。

 

「ありがと、恋ちゃん」

「えっ――」

 

 志水の唐突な呟きに、思わず立ち止まる。

 何を言われたか理解して、慌てて追いついた。

 

「と、とんでもないです! 自分なんて、謝らないといけないくらいなのに……」

 

 巡ってきた機会に、恋離は背中を突き飛ばされた気分になった。結局、志水から不意打ちのように謝られただけで、恋離はまだ彼女にきちんと向き合えないまま、ここまでずるずると来ていた。

 たたらを踏むように声に勢いを余らせながら、

 

「ごめんなさいあの夜、黙って行ってしまって。自分は、その……志水さんのためだけに動いてるわけじゃあなくて、だから安岐那さんなんかと違って、純粋な仲間というわけではないんです……」

「あぁ〜、確かにあのときは傷ついたなぁ」

 

 むくれた志水は、どういうことかウツロを背負ったまま軽々と少し前に出た。

 恋離と向き合う形となった志水は、呟きとは打って変わって、真剣そのものだった。彼女を照らす月光が、無視を選ばせてなどくれなかった。

 

 否応なしに、恋離も立ち止まって背筋を正す。

 穏やかな夜風が木々を揺らし、立ち合いかのような緊張感すら覚える。

 何をされても不思議ではないと、恋離は覚悟していた。ヲウカへの内通まで伝え聞いていたら、それを咎められてもおかしくない。再会からこちら、いつも通りに志水が接してくれていたのは目的を前にしていたからであって、やはり胸に抱えたままだったのだ。

 

 一歩、距離を詰めた志水に、びくりとする。

 彼女が両の手を持ち上げようとしたところで、恋離は怖くなって、目を瞑ってしまった。

 そして気配が近づき、痛みが襲った。

 両の頬に。

 

「ふぇ……?」

 

 むにむに、と頬を弄ばれている。優しい痛みが、嘘ではないと教えてくれる。

 餅のように摘んでいた志水は、目を丸くした恋離を見て、ぷっと噴き出した。

 どう見ても、深刻に責める者の姿ではなかった。

 

「あはははっ! これで許すっ!」

 

 最後に目一杯引っ張ってから離された。

 じんと熱っぽく痛んだけれど、喪失の苦しみに比べたら、どうということはなかった。

 

「え……えっ? これだけ……?」

「あー、いやちょっと待って。やっぱり、今晩ぬいになって一緒に寝てくれたらにするわ」

 

 前言を翻す志水に、恋離は眉間に小さく皺を寄せて、

 

「いやいや、それ実質何でもありになってるじゃないですか」

「だめ?」

「だめです」

「そんなぁ。……ふ、ふふっ」

「ふふふっ、はは、あははっ!」

「あはははっ!」

 

 笑った。志水と一緒に笑った。追手の可能性や眠るウツロのこともあったけれど、都合よく、今はそんなことを忘れていた。

 長いようで短いあの旅で、何度ぬいぐるみの代わりにされかけたか。

 無体に断るところまでがいつも通り。

 それが楽しかった記憶を呼び起こして、ひとしきり二人は笑っていた。

 

「……それでも、ありがと」

 

 やがて笑い声も収まると、志水は静かに言った。

 素直に向き直った恋離。改めて向かい合えば、志水の雰囲気が、かつての自信満々な彼女とは少し違って見えた。

 

「これはね、決戦の舞台を誂えてくれたことまで含めての、お礼」

「…………」

「鞍橋で、安岐ちゃんから言われたの。静かに暮らして欲しかった、って。でも、そんなのは御免だわ」

 

 友の祈りを振り払ってでも、彼女は止まらない。それが分かっているからこそ、安岐那はこれまでずっとその祈りを口にしてこなかった。

 けれど、安寧とは正反対の結末が今に続くと、安岐那は悟ってもいたのだろう。

 そして彼女は、結末へと至る道を舗装した。

 志水とヲウカの決戦という、運命の夜の続きを。

 

 恋離に請われたとて、安岐那が自らの手で友を死地に導いたことには変わりない。結局のところ、志水がどういう人間かという点で、最後には安岐那もこの決戦に同意した。

 桑畑志水は止まらない。

 いつか一人でも行ってしまう背中を見送るくらいなら、自分の手で送り出す。

 志水の覚悟は、もう十分すぎるほどに醸成されているのだから。

 今、目の当たりにしているように。

 

「ザンカにも決着を見せないといけない。そして、桜にも……然るべき想いを伝えないと」

 

 でも、と継いで、

 

「今のままの自分じゃだめ。同じだけの想いを持って、それでも決して相容れない相手を打ち破らないといけないわ。気持ちで負けるつもりはないけど、それ以外もしっかり頑張らなくちゃ」

 

 圧倒的な力の差を見せつけられたのに、志水という刃は折れていない。

 まるでそれは、徒寄花の軍勢に立ち向かっていた頃の、希を始めとした英傑たちのようだった。理想を掲げ、現実を正しく見据える者は、強者という器だけには収まらない。

 彼らとは逆に、桜に挑む側だろうと変わらない。

 大罪人の汚名は、英雄の資質に何一つ傷つけない。

 

 だからこそ恋離は、彼女の背中もまた押したのだ。

 気合漲る勝ち気な笑みの、志水という少女を。

 

「決戦まで半月。ウツロとも仲良くしないとね」

 

 

 

 

 

 高貴なる光輝纏い、数多の結晶が洞窟に舞う。前から穏やかに吹き付けてくる風は、類を見ないほどに桜に色づいていた。

 その流れに逆らうように、光差す奥へ歩む人影は二つ。

 一つは、鎧を不敵に鳴らすミコト・桑畑志水。

 もう一つは、纏う影を靡かせるメガミ・ウツロ。

 決意を湛え並び歩く両者は、やがて輝きの在り処へと辿り着く。

 

 そこは、天蓋に夜空を戴く、神さびた大樹の中のような空間だった。

 月明かりに乏しい遥か天から涼風が吹き込み、二人の髪をくすぐっては今来た洞窟へと抜けていく。

 今宵は新月。何かを見届けるには暗すぎる夜。だが、その巡り合せもまた命運を思わせる。空の光がない分だけ、桜の煌めきはなお強まるのだから。

 

 陰陽本殿。恋離の生きた時代では主神ヲウカの聖地とされる、咲ヶ原中心にある山を依り代とした聖域である。

 この戦国においては、ただその名が桜花拝を通じて広められるのみの、禁足の地だった。整然と広がる石床は、来訪者の不在を物語るように砂埃を被っている。その中央にて曇りなき姿を誇る神座桜こそ、桑畑が手を伸ばすに足る聖域たる所以だ。

 この地で最も高く絢爛に聳える、大神座桜。

 煌めきの桜として讃えられる名の通りの威容が、二人を迎え入れていた。

 

「よくぞ参りました」

 

 そして、最も桜に近きメガミも。

 最古の三柱、主神ヲウカ。

 彼女は神座桜の前で、ふわりと宙に漂う。広げた翅が思い出したように大気を掻くたび、細かな桜花結晶が鱗粉のように散っていく。

 

 見下ろすのは、一人と一柱。

 神座桜へと挑まんとする少女。そして少女と共に歩む、かつて一つであった半身。

 ヲウカの眼差しは、まずは冷たく、後者へと向けられていた。

 彼女が何より滅ぼさんとした影を。

 

「ウツロ……あなたはまだ、私を縛ろうというのですか。この身から捨て去ったそのときに、一度討ち滅ぼしたというのに。あぁ、何故に挑む? 何故立ちはだかる? 何故、我が光を呑み込もうとする?」

 

 憐れむようで、嫌悪するようで、侮蔑するようで、憤怒するようで。

 ヲウカが滲ませる感情は、彼女にとって当然のものだった。彼女自身の許せない部分とは、このウツロのことに他ならないのだから。

 ウツロはその問いに、静かに口を開いた。

 

「私は、あなたの影……然るべき存在足らしめんとする鎖」

「断たれても、なお?」

 

 続けてヲウカは問い、ウツロもまた、続けて答える。

 

「それから舞台を照らす光は変わり、影の形も変わったわ」

「敵わぬと知って、なお?」

「だから、影を託すの。これは必要なこと……そう思うから」

「…………」

 

 向き合ったようで、すれ違い続けるような問答。それでも、ウツロの確固たる眼差しが己の半身から背けられることはない。

 ヲウカは、返された答えが示す者を――志水へと目を向けた。

 その瞳は未だ侮蔑の色が残りながらも、己が挑まなければならぬ敵を見据えるものだ。虫けらのように虐殺せんとした以前とは違って、その真摯さは、傲慢で高慢な本質を一切隠さない面差しに現れていた。

 

 後ろ手を組み、冷淡に見下ろす。それは偉大なる者の問いかけ。

 託されるだけの価値があるのかと。

 共に立ちはだかるに足る存在なのかと。

 何故人の身で、無用な反抗を為すのかと。

 

「混迷せし人の時代に幕は引かれ、玉座の生む秩序にやがてこの地は満たされる。人は富み、栄え、争いのない世界が訪れることでしょう。もう、傷つけ合わなくてもよいのです。もう、無為に手を血に染めずともよいのです。我が威光が、遍く大地を包むのですから」

 

 朗々と語るヲウカだが、その声色は教化を目論むものとは程遠い。己に挑む利はなく、どれだけ愚かなのかを知らしめ、圧殺するかのよう。

 彼女は、人を信じない。これまでの歴史を眺め、真に憂いている。

 だから、恋離に語ったように、全てを導こうとしているのだ。

 その理想を砕かんとする者たちを、排除して。

 

「導き手たるこの私を討とうものなら、治世は永遠に訪れない。混沌なる自由を人に与えたところで、幸福には繋がらない。未来を、切り捨てようというのですか?」

 

 それはきっと、最後の慈悲のつもりなのだろう。

 だが、問われた志水に迷いはない。見上げる瞳に、後悔はない。

 桜に挑む一人の人間として、彼女はその業を背負って臨んでいる。打倒した先に混沌すら生ぬるい未来が待っていようとも、歩みが止まることはない。幾千も鳴り響いた桜の意思に背く道を、強く踏みしめて。

 

 彼女は、人を信じている。桜を憎むのと同じくらい、心から信じている。

 だから、平和を約束されてなお、押し付けられる賢政を跳ね除ける。

 故に、反駁は一言で十二分。

 形を得た斬華一閃の切っ先が、人の意志を卑しむ者を捉えた。

 

「大丈夫よ。安岐ちゃんがいるんだもの!」

 

 問答無用とばかりに言い放たれた残響が、沈黙を彩った。

 ヲウカは目を瞑り、大きく息をする。馬鹿げた宣言を、呑み下すように。

 そして開眼した彼女は、改めて己の敵を睨みつける。対し、志水もまたウツロと共に、宙に揺蕩う己の宿敵をねめつける。

 

 双方、もはや是非もなし。

 夜風にざわめく神座桜の前で、ヲウカは告げる。

 

「これは何より意義深き……この地を分かつ戦い。桜花決戦――いいえ、桜花決闘とでも呼びましょう。だから、讃えなさい、唱えなさい……そして、捧げなさい」

 

 強気に笑みを浮かべた志水が、それに応える。

 

「ええ、讃えてあげる、唱えてあげる……そして、挑むわ」

 

 開戦は、告げられる。

 片や信仰を求め、片や叛意を示し。

 後に永く使われることになる祝詞が、静かに響き渡った。

 

「「我らがヲウカに決闘を」」