神座桜縁起 前編

第5話:かつての天音

 

 晴れ渡る朝空の下、山々に囲まれた街道を少女三人が進んでいる。

 

「ねぇ〜、そろそろ昆布も飽きたんだけど〜」

 

 先頭を行く一人は、脇差しを佩いた高い上背の少女。振り返って頬を膨らませる仕草からは少しあどけなさを感じ、月白色の上等な着物からして良家のお嬢様ミコトを思わせる。しかし、長く伸ばした黒髪の傷み方は、稽古だけでない戦いの経験を物語るよう。

 

「そうですか? 意外と飽きない、って思ってたんですが」

 

 その後ろを行く二人の片割れは、比較してやや小柄な少女だ。強い日差しにもかかわらず、藤色の薄い襟巻きを何枚も巻いて、外套のように背中に流している。それ以外は至って普通の旅装であり、巡礼の旅に出た信心深い若ミコトに見えなくもない。

 

「あんなぁ、アンタら……売りもんぱくぱく食っといて、何贅沢言うとんねん。使える銭も限られとんのやぞ」

 

 そして後方で並び歩くもう一人は、口端をひくつかせて袂の中の財布をじゃらじゃらと鳴らして見せる少女である。背負った箪笥は行商人を思わせるが、年季の入ったそれと本人の年若さはあまり見合わず、親からのお下がりを貰った駆け出しといった風情だ。

 

 それぞれの少女を個別に見れば、旅路を歩く経歴に思い馳せられるというもの。けれど、すれ違った多くの旅人が訝しげに会釈してきたように、取り合わせの珍妙さは否めない。

 だが、もしこれで人相書きが出回ったとしても、さしたる問題はなかった。

 元の姿から面影を残しつつ、別人と主張できるだけの変化を果たしたこの三人――志水、恋離、安岐那は、また衣を纏い直してさらに別の誰かに顔を変えればいいだけなのだから。

 

 桑畑を脱出してから、今日で六日目。

 彼女たちは、追手と思しき早馬を既に五頭は見送っていた。

 

「でも、安岐ちゃん出してくれたじゃない」

「出さんと出さんで、店寄ったらまた食い切れもせんのに、勝手に片っ端から頼むやん」

「だから違うの! しぃはお腹空いてたんじゃなくて、味が知りたかっただけ!」

「それもう聞いたわ! 全部一口だけ啄みよって!」

「みんなの分、残してあげただけなのにー」

 

 口を尖らせる志水。そのときは恋離も安岐那の肩を持ったが、後始末で戦国の味をたくさん知れた役得はずっと胸に秘めている。

安岐那は盛大に溜息をつくと、

 

「一昨日も一昨日で、我儘聞いてやったやろ。旅籠、いくらした思てんねん」

「まあまあ、最初は結構な強行軍でしたから。私も助かりましたし……」

 

 実際、恋離としては、桑畑を抜け出してからの急ぎ旅は随分と堪えていた。そこそこ整備された歩きやすい街道ではあったが、旅での歩き方があまり身についていなかったらしい。前よりずっと丈夫になったはずなのに、脚が動くことすら嫌がる感覚が身に沁みた。

 

「荷馬車でも工面できればよかったんですけど」

「んな急にできるわけないやろ、ぎょうさんお家に持ってかれとんのに。……なんやアンタも世間ズレしてへんか?」

「えっ!? い、いやー、最近までずっとずっと山奥で過ごしていたもので……」

 

 慌てて言い訳すると、訝しげな安岐那の視線がそのまま前へ戻っていく。

 いくら歴史の知識があっても、それは当時の人間のような実感と結びついてはいない。こういったぼろは、不信となって降り積もり、やがて破局を迎えるものだ。命運の手掛かりを見出そうとしている以上、衣の力の唯一性にあぐらをかくわけにもいかないのである。

 

 願いのために恋離を必要とする志水と、成就を望んでいないはずの安岐那。

 止めても無駄だと思っているのか、あるいは親友としての想いを優先しているのか、当然のように同行を決めた安岐那は、今のところ建設的に旅に協力してくれている。むしろ、志水の手綱を任せられるという意味では、必要不可欠な存在と言ってもよい。

 しかし、安岐那にとって恋離が『親友を望まぬ結末に導く者』である事実に、依然変わりはないのだ。

 

 今はただ、志水の意思を尊重してくれているだけ。

 不信との均衡がもし、悪い方向に傾ききってしまえば、安岐那が恋離を無理にでも引き剥がそうとする未来だってありえる。少なくとも恋離は、自分がもし同じ立場に置かれたとき、即決できないのだと経験で知っていた。規模は違えど、未知の力に頼らざるを得ないところもそっくりだった。

 なのに話せないことが多すぎて、信用を大して買えてもいない。安岐那の大人の考えに頼る今の自分が、恋離は嫌だった。

 

「はぁー、やっと見えてきたー!」

 

 先を行く志水の呼びかけが、思考のぬかるみから恋離を引き上げた。

 拓かれた山際を抜けた先、これから穏やかに下っていく道の向こうに、堂々たる人々の営みが広がっていた。

 

 山裾から山裾へと延々と広がりゆく田園風景を核としながら、東西に抜ける街道を中心に数多の家々がひしめき合っている。時間の染みた茅葺きの家が多い中、それらの合間を縫うように、あるいは田畑を貪るように、真新しげな屋根瓦を戴いた屋敷や商家が林立していた。

 急速な発展に土地が追いついていないのか、あちらこちらで土を耕す様子が散見される。それは、彼方では多くの民を養うための農地に、中心地では暮らしと商売の拠点にそれぞれ変わっていくのだろう。

 

 この時代としては、十分立派な都と呼べる街並みだ。小さく見える無数の人の粒も、山々に囲まれた窮屈さを窺わせる数である。

この発展に湧く活気も、その先も、恋離は歴史に知っている。

 殊更旧き一柱たる武神ザンカの社近くにて、彼女を崇めるために連綿と在り続けた者たち。そしてこの戦国において、桑畑家の傘下と呼べる立場ながら、強固な同盟と広がる戦乱ゆえに大きな発展を遂げている大家。

 

「これが、あの――」

 

 天音。東西の要衝たる岩切地方随一の名家である。

 凋落極まる未来の姿とはまるで違う最盛期の都を、恋離は目に焼き付けた。

 

 

 

 

「くぁーっ、疲れた身体に染みるわー」

 

 お茶漬けをかきこんでいた安岐那が、梅干しの種を茶碗に戻していた。縁台に腰掛けている彼女の脚が、ぴんと伸ばされている。

隣の志水と一緒に草団子を口にしていた恋離は、

 

「旅慣れてそうでしたけど、やっぱり長旅は堪えるんですね」

「あん? そんな長旅言うほどやあらへんやろ。まあ、ずっと自分で歩いたんは久々やったからなあ……流石にほっとしてもうたわ。だいたい商隊組んで荷車の上やし。旅慣れてんのは、行商んときにえらいこき使われたからやな」

「安岐ちゃん、ぬいたちの中でぐったりしに来るときがあって、分かりやすいのよ」

 

 ふっ、と微笑む志水に、安岐那はわざとらしいおかしな顔をしながら肩を竦めた。

 無事に天音に辿り着いた一行は、街に入ってすぐの茶屋でまずは身体を労っていた。ごった返す人の波を前に、さしもの安岐那も宿探しの前に一息入れると言い出していた。彼女たちが店の横の縁台に座れたのも奇跡ようなもので、他の縁台や店内の座敷も満席だった。

 

 元より天音は東西行商路の中継地点であり、今であれば対西部における桑畑勢力の駐留地点としての見方も強い。故に人が集まるのは不思議ではないが、それにしても賑わっており、余所者の雰囲気を纏う者も多いと恋離の目には映っていた。

 安岐那も安岐那で街の様子が気になっている一方、恋離をここまで引っ張ってきた張本人はと言えば、のんきに舌鼓を打っている。

 

「なあ、結局これからどないするん?」

 

 安岐那がやや呆れながら、真ん中に座る志水に視線を送った。

 志水は天音が当座の目的地だと告げただけで、詳しい旅程を伝えてはくれなかった。

 

「さっさと離れたかったから何も言わんかったけど、桜を……アレするんなら、別にここまで来んでもよかったんとちゃうか? 家のがマズくても、手頃なのなんぼでもあったやろ」

「そんなの、もうやったわよ」

 

 当たり前だと言わんばかりに突っぱねる志水だが、安岐那は最初から否定されるのが分かっていそうな顔だった。

 それに気づいていないのか、得意げになって志水は続ける。

 

「ふふーん。それで済むなら、わざわざ旅する必要なんてないもの」

「じゃあなんや」

「それはねー……」

 

 もったいぶる志水。

 しかし恋離には、彼女がなんと答えるか確信めいたものがあった。

 その目的が、思わず口をついて出る。

 

「武神ザンカ」

「え……」

 

 答えを奪われ、きょとんとした顔になる志水だったが、次第に喜びが湧き出してくる。

 彼女は恋離の頭をわしわしと撫で回した。

 

「流石は恋ちゃん、ちゃんと分かってくれてたのね!」

「ちょっ、こんな往来で……!」

 

 無理やり引き剥がすと物寂しそうにしてくるが、譲りはしなかった。志水は二、三日前からこのように隙を見ては、置いていかせたぬいぐるみの埋め合わせにしてくるのだ。本来年上の恋離としては、後で思い返してげんなりしてしまう。

 志水も志水で拒否に慣れ始めているので、ころっと元の得意げな表情に戻って、説明を続ける。

 

「試してみて分かったんだけど、桜を斬るのなら、ただの顕現武器じゃ足りないの。傷もまともにつけられなかったわ。だから、ザンカ様にもっと深く力を貸してもらいに、これから会いに行くのよ」

「なるほどな。で、どうやってや?」

「え?」

 

 安岐那の指摘に、志水が口の形そのままに固まっている。

 もう一度、呆れたように安岐那が繰り返した。

 

「どうやって、そのザンカ様にお会いするんや?」

「えーっと……。た、例えば、そう……恋ちゃんに変装させてもらって、忍び込む、とか」

「ウチらもう顔変えてもろてるやろ」

「あっ、そ、そうだった。えっとじゃあ、裏口からこっそり?」

「阿呆か。斬華大社にどんだけ警備おるか知っとるやろ」

 

 一蹴され、志水からは思いつきの策すらろくに出てこない。

 メガミの社がどういうものかは、メガミ本人や信者の気質によって様々だ。気軽に立ち寄れる簡単な社が点在するハガネから、試練のために水中に位置させているハツミ、あるいはこの安岐那など、将来は自身の可愛らしい偶像を「分社みたいなもん」と言って売ってすらいる。

 社を訪れるまでの障害は請願に紐づいているものが多いが、それゆえにメガミと信者個人の間の話であり、人が管理していても固く訪問を拒む場所はごく少数派だ。

 

 その例外としてもっとも分かりやすいのは、ヲウカがおわすとされる桜花大社だろう。彼女自身、限られた宮司にしかその姿を晒さなかったといい、名うてのミコトが謁見を求めたところで宮司たちに軽くあしらわれるのが関の山である。

 これがザンカとなると、武人ならば喜んで受け入れると伝えられてはいる。しかし、だからこそ彼女が信仰を集めるこの戦国においては、人による管理が厳重なのだろう。本人に甘えて我先にと殺到すれば、収集がつかなくなるどころか刃傷沙汰も目に見えている。

 

「家の名前も今は使えんし、強行突破してどうにかなる話でもないしな。お行儀よく順番待ちするか?」

「むぅ……」

「しかも今は――ん、いや……」

「……?」

 

 反論を続けていた安岐那が、なにかに思い当たったように言い淀んだ。志水と二人して疑問を浮かべた顔で眺めるが、記憶を掘り返しているようで、しっしっとおざなりに視線を追い払われた。

 

 気になって催促しようとした恋離だったが、その言葉は喉元で止まった。

 悲鳴だ。

 

「ど、ドロボーっ!」

 

 少し息を切らした、女の声だった。右手側、街の中心のほうから響いてきたそれに意識を奪われると、目の前の往来の賑やかさに混じって、次第にどよめきや怒声が聞こえてきた。

 それがこちらへ向かってくると分かった瞬間、恋離は反射的に立ち上がっていた。身分ゆえに叩き込まれたならず者への警戒心が、この期に及んでまだ生きていたようだった。とうに死んだ護衛の幻影が、騒々しさに掻き消されていく。

 

 しかし、同じく立ち上がっていた志水は、恋離と違って前のめりだった。

 飛び出そうとした彼女の腕を、安岐那が掴んで留めている。

 

「しーやん、駄目」

「でも……!」

 

 その間に、雑踏の隙間を縫うようにして着流し姿の男が走ってきた。右の袂が妙に膨らんでおり、腕を振るたびに中身が暴れてぶつかった通行人が痛そうにしている。

 そのまま男は街の外まで逃げる算段だったようだが、騒ぎを聞いた者たちが茶屋の前で人の壁を作っており、前後で挟み撃ちされる形となる。正義感というより祭りの気分で楽しんでいそうな顔が並んでいたが、遺憾ながら捕物も娯楽の一つである。

 

「くそぉッ!」

 

 踵を返した男は、辛うじて見出した逃げ道へ向かって慌てて駆け出した。

 それは、茶屋の脇を抜けて別の通りへ逃げる道。

 つまるところ、恋離たちのいる縁台の辺りを強引に突っ切ろうという腹のようだった。

 

「おいガキ、どけぇ!」

 

 縁台と縁台の間を半分塞いでいた恋離に、そのまま盗人が突っ込んでくる。観客に回るつもりだったらしい他の客も、子供が襲われそうになったとあって顔色を変えた。

 恋離もまた、安岐那と同じく目立つ行動は避けるべきという考えだった。

 しかし、既に衆目を集めてしまった彼女は、ささやかな構えを取る。

 

「このっ――」

 

 男が突き出してきた腕が、恋離の右肩に当たる。

 だが、激突の衝撃はそこに生まれず、まるでのれんを押したかのように、肩を掴んだままの男の腕が元の軌道を描こうとする。恋離の身体は風車の如く回りながら、彼が手を離さないように手首を掴み、二の腕の外側から左手を添える。

 そして、回転の勢いのままに地面めがけて腕を送り出すと、泥棒の身体が腕を中心にして斜めに回転するように宙に浮いた。

 

「は……?」

 

 走った勢いが転化され、冗談めいた姿勢で飛んでいく男。

 間抜けな声を漏らした彼はそのまま奥の縁台まで吹き飛ばされ、背中を縁台の角に強かに打ち付ける。

 

「が、ぁっ……」

 

 漏れる苦悶の声は、この出来事が現実のものだと雄弁に物語る。

 投げ飛ばした残身を保ったままの恋離は、小さな驚きを隠しきれずにいた。かつて虚弱な身で鍛錬させられた技が、ここまで綺麗に繰り出せるとは彼女自身想像だにしていなかったのである。新たな肉体が、体捌きの要となる体幹の安定に寄与しているようだった。

 そうして予想外の手応えを味わっていると、傍らの志水が我に返ったように飛び出した。

 

「大人しく、しな、さいっ!」

 

 ほうほうの体で逃げようとしていた男の背中めがけて飛びかかり、首根っこを捕まえた。地面に顔面から叩きつけられた後は、彼の脚は微動だにしていなかった。

 志水の手が盗人の袂を探り、出てきたのは小銭がたくさん詰まっていそうな、大きな華やかな巾着袋だ。そこで事が終わったと見た観衆が、ぱちぱちぱち、とめいめい称賛を送る。安岐那はもうすっかり頭を抱えていた。

 

 ばつの悪さで複雑な表情になる恋離。

 どうしたものかと困っていると、観衆をかきわけて、いっとう目立つ舞台衣装姿の少女がこちらを認めて喜色を浮かべていた。

 旅芸人がおひねりを盗まれた……筋書きは、大方そんなありふれたものなのだろう。

 だが、そんなことは恋離の頭から一瞬で追い出されていた。

 

「なん――」

 

 旅芸人の少女の後ろを、苛立たしげにゆっくりと歩んでくる者。

 装いこそ、どこにでもいる町娘のもの。被った編笠が合わされることで、旅芸人の連れとして何か事情がありそうな雰囲気を醸し出している。

 桃色に染まった髪の、小さく可憐な少女。

 一度目にしてしまえば惹かれてならない美しい所作を、見間違えることはありえない。

 

 恋離のよく知るメガミ、永遠の体現者・トコヨ。

 三百年後と変わらない容姿の彼女は、けれどどこか、刺々しかった。

 

 

 

 

 

「ワタクシ、 小手毬 こでまり こまりって言うの。流しで舞ってたんだケド、お心付け盗られちゃったのヨ。参っちゃうところだったわ、ほんとアリガト」

 

 両手を合わせ、しなを作りながら感謝するこまり。朱の目張りや白粉で彩られた顔は、かさばる衣装で必死に追ってきたせいか、汗でところどころ崩れていた。

 泥棒を駆けつけた役人に引き渡した恋離たちは、お礼したいというこまりと茶席を共にしていた。騒動で追い出された客に憚ることなく、こまりとトコヨは向かいの縁台を当たり前のように使って、恋離たちと向かい合って腰を落ち着けている。

 

 あまり人と深く関わるべきではない身の上とはいえ、お礼と言われて無下に断るわけにもいかず、取り返したばかりのおひねりから恋離たちの追加の団子代まで出してもらっている。

 しかし、こまりが感謝しているのは本当のようだが、それを方便にして、恋離たちと話したいことがあるといった態度を隠そうともしていなかった。対して恋離と、加えて志水も、関心を捨てきれなかったが故に応じているからこそ、この場があるのだが。

 

「カワイイ英雄さん、お名前は?」

 

 こまりが手で促して、恋離に訊ねてきた。こまりはやや上背が高く、すらりとしていて大人びて見える。化けてなお彼女からは小さく見えるだろうけれど、だからといって恋離を子供扱いしている声色ではなかった。

 恋離は、にっこりと微笑んで答える。

 

「野田加恋です」

「ウチは秋子、下村秋子や。よろしゅう」

 

 用意していた偽名を安岐那も、外向けの顔ですらすら名乗る。伊達に商人をやっていない。

 けれど、彼女に続いた志水は、腹芸が苦手だった。

 

「しぃは桑は――」

「ああーっ、お茶零しちゃいました! 志音さん大丈夫ですか!?」

 

 決して志水が口にしてはいけない音を耳にした瞬間、恋離は縁台に置こうとしていた湯呑から手を離して、全てをなかったことにしようとした。できる限り、うっかり目測を誤った演技をしたものの、演技力をこんなことに使っているとは流石に父親には知られたくなかった。

 うまいこと地面に零して注意を引き付けている間、さりげなく志水に視線を送ると、はっとした後、完全に目が泳いでいた。

 

「だ、だだ大丈夫、かかってないから。れ、恋ちゃんは平気?」

「平気です平気です。いやぁ、危なかった……火傷でもさせたら、黒沢家の皆さんに怒られるところでした」

「黒沢……あっ、う、うん、そう! しぃは、黒沢志音よ」

 

 自然に取り繕う気がないのか、余裕が無いのか、おそらくは後者だった。偽りの身分を考えていた際に最も懸念していた綻びが、早速穴にまで広がっていた。

 内心恐る恐るこまりを窺うと、元の微笑みを浮かべたままだった。苦笑いの一つでもしてくれたほうが、恋離としてはいっそ気が楽ではあるものの、追及せずにいてくれるのであればそれに越したことはない。

 

「仲良しさんたちで旅、イイわねえ。こっちはつっけんどんで寂しいの。ほら」

 

 こまりは、特に深入りする気はないと言外に告げてから、隣で興味なさげに座っているトコヨに目で促した。

 トコヨは、鈴をひと鳴らししたような簡素な言葉を紡ぐ。

 

幾年久遠 いくとせくおん

 

 そっけなさすぎて、この場の誰にもろくに関心がないのだと分かってしまう、事務的な名乗りだった。実際彼女はこまりの用が終わるのをただ待っているだけといった様子であり、先程恋離たちを一瞥したきり、遠くを眺めるだけの置物と化している。

 けれど、トコヨ以外は逆に、彼女に興味を引かれずにはいられないといった面持ちだった。見知っている恋離ですらそうなのだ、志水や安岐那が目を奪われるのも無理はなかった。

 

 ただつまらなそうに座っているだけなのに、完成されている。

 その一挙手一投足、果ては瞬きの一つとっても、完璧な美しさがそこにある。

 未来のトコヨと違って、その完全性や気配を大して隠そうともしていない。そのせいで、よそ見した通行人がしばしば人にぶつかっている始末。荒削りなのに磨き上げられているという、矛盾した感想が恋離の脳裏をよぎる。

 

 もちろん、そんな見惚れている中で、トコヨに話しかけるなど不可能だった。恋離も、そしておそらく志水も、トコヨに興味を示したからこそこの場があるのに、沈黙することしか許されていなかった。

 その反応も当たり前のものとして眼中にないのは、恋離の知るトコヨらしい。

 しかし、それゆえに憂い、諦観に身を浸しているような態度は、恋離の知らないものだ。その一端でもそっと触れたくて、けれど、言葉は何も浮かばなかった。

 

「ハイハイ、みんなワタクシを仲間外れにしないでくれるとウレシイわ」

「あっ……」

 

 手の鳴る音が、恋離たちの意識を引き戻した。仕方なさそうなこまりを見るに、こういった流れは日常茶飯事のようだった。

 それを裏付けるように、こまりは己の事情を語る。

 

「ワタクシ、芸を深めるために旅してるのヨ。舞だけじゃなくて、芸能全ての道の先にきっとある、まだ見ぬ境地ってヤツに用事があってネ。久遠はその道連れなの」

「舞踊以外にも、ですか。すごいですね」

「アラ、ワタクシは加恋ちゃんこそスゴイと思ったケド?」

「え?」

 

 予想していなかった話の繋がり方に、恋離は困惑する。

 こまりは口元に手を添えて、

 

「凄かったわ、さっきの技。アレ、舞に通じた動きに見えたのだけど、違う?」

「えっと、それはその……」

「同じ舞踊家なんじゃないかと思ってネ。あぁ、別に講釈してほしいわけじゃないの。時間が許すんなら是非一緒に演りたいってお誘いヨ。アナタと一差し、舞ってみたいわぁ」

 

 自分の審美眼を疑っていないこまりの物言いに、恋離はいっそ尊敬の念すら抱いていた。百年以上後にようやく体系化が始まるあの技をこまりが知る由もなく、本質を見抜いているのは間違いない。

 恋離自身、会心の出来だった動きを褒められて嬉しくないかと言えば嘘になる。無駄だと思っていた過去の苦労が、少しでも報われたようでもあった。

 

 ただ、恋離がすぐに首を縦に振ることはなかった。

 彼女が諦めた道を進み続けているこまりへの眩しさが一つ。そしてもう一つはひどく単純な話で、恋離は目的のある旅の道中にいるためだった。

 恋離たち一行の長である志水に目を向けると、眉間に皺を寄せてぶつぶつ言っていた。

 

「恋ちゃんの踊り……見てみたい、けど……うーん……」

「そんな寄り道しとる場合ちゃうやろ」

「でも、おひねり貰えたら旅費になるでしょう?」

「とりあえず銭の話すればなんとかなる思うのやめーや」

 

 いずれにせよ、この二人にはまず恋離の意思を確認する気がないのは確かなようだった。次の動きをどうするかちょうど詰まっていたことも相まって、煮え切らない様子である。

 それにこまりは、ぽんと手を合わせて、

 

「なんなら、明日のついででもいいわ。純粋な舞台芸術じゃなくなるケド」

『明日……?』

 

 恋離と志水の声が重なる。きょとんとしているのはこの二人だけで、安岐那は心当たりがあるのか、少し顔を顰めていた。

 こまりはむしろ恋離たちの態度こそ不思議だと言うように、

 

「アナタたち、 斬舞乱武祭 ざんぶらんぶさい に参加しに来たんじゃないの……?」

「あっ……そっか」

 

 隣だったために、志水の微かな独り言が耳に入る。

 それから志水は、にぃ、と不敵に笑う。

 調子を取り戻した声は、明らかに何かを思いついたそれだった。

 

「もちろん、そのために来たのよ! 三人で参加するから、明日はよろしく!」

「あぁ、そうなの。よかったわぁ。それじゃあ加恋ちゃん、明日改めてってことで楽しみにしてるわネ」

 

 喜ぶこまりの言葉を聞きながら、恋離は記憶を探っていく。

 斬舞乱武祭。

 それは、かつて武神ザンカが現代のように恐れられることなく、広く信仰されていた頃に行われていたという祭事である。武を尊ぶザンカに納めるのは当然武勇……多くのミコトたちが入り乱れて戦い競い合う、身も蓋もない言い方をすれば乱闘する祭である。

 ただしこの古の祭事はしばしば決闘史で取り上げられることがあり、一説によればこの祭こそ桜花決闘の源流であり、すなわち祖とされる 御劔桐子 みつるぎきりこ はこの祭から着想を得たという。

 

 当然、その開催地はここ天音。

 笑顔を湛えたこまりの手に輝く結晶は、彼女に資格ありと主張している。

 志水の企みは元より、安岐那も冷静に受け入れている。ただの共犯者に、辞する選択肢はありそうになかった。

 

「お手柔らかに……」

 

 動乱の気配を肌で感じながら、恋離は遠慮がちに応える。

 相変わらず興味なさげなトコヨの様子に、いっそ安心してしまう恋離がいた。