神座桜縁起 前編

第11話:眠る脅威

 

 意識が、空を漂う雲のように広がっていく。

 身体の感覚さえ朧げになっていく中、手にした刃の感触だけが確かなものだった。

 けれど、振り下ろしたそれに、手応えはなかった。

 

 ――は……?

 

 恋離は驚きの声を漏らし、それもまた声として響いた感覚がなく、混乱する。

 雪景色も寒さすらもどこにもなく、目の前にしていた神座桜さえ見当たらない。ヲウカもコルヌも、気配は露ほども感じられなかった。

 

 あるいは地面すら、ここにはない。

 薄ぼんやりとした光に満たされた、果ての知れぬ空間。

 恋離はそこに、ぽつん、と揺蕩っているのだと、ようやく自覚した。あまりに何もない広漠さに、一粒の砂のようになった自分が霞んで消えてしまいそうで、訳も分からないまま必死で自我をかき集めていく。

 

 ――切り口から、光が溢れて……それで……。

 不可視の刃は、果桜を斬り倒してしまうことはやはりなかった。切り口とは言うが、むしろ刀身を自分から呑み込むように幹が受け入れていた。志水がやっても同じ結果になったかもしれないが、それよりも、桜が恋離の狙いを理解したというほうが似つかわしかった。

 切っ先を――敵意を導かれたのは、桜の奥、遥か深く。

 この戦国の世に送られた際と似た喪失感に襲われ、気づけばこのどことも知れない場所であった。

 

 人知を超えた体験に、興奮よりも畏れに苛まれる。

 意識のはっきりしてきた恋離は、そこで予感に誘われたように振り返った。

 導かれた先には、必ず何かが待っているはず。

 だが、邂逅を果たしたのは、敵ではなかった。

 

 ――なに、これ……。

 

 初め、恋離はそれを世界の果てにそびえる壁だと思った。

 視界の全てを埋め尽くす、明るい石灰でできた岩壁のような景色。狂った距離感でもなお手の届かない彼方で広がっており、辛うじて凹凸があると分かる程度。右を見ても左を見ても、存在しない地平のさらに向こうまで、緩く手前側に弧を描いて続いているようだった。

 

 壁の表面は一様ではなく、方々に穴が空いていたり、歪に飛び出していたりする。しかも、時折形を見失ったように揺らぐ箇所もあった。

 よく意識を集中してみると、それは不動なる一個の物体ではなかった。天へと昇る無限の輝きの軌跡が寄り添い合って、一つの形を成しているようだ。あまりの密度にここからでは継ぎ目は全く分からず、揺らぎも目の錯覚に思えてならない。

 軌跡の行方を追って見上げると、太陽に目を焼かれたわけでもないのに、遥か先は掠れて目にすることは叶わない。その霞こそが天蓋だと言われても不思議ではなく、影の一つも落ちていない。

 

 恋離は次に、光の流れる様から瀑布を連想したが、それよりも相応しいものがあった。

 威容を見上げるこの感覚は、全ての人間に刻まれている。

 これは、幹だ。

 文字通りに果てしなく巨大な、輝ける大樹の幹。

 恋離の住まう大地すらちっぽけに思えてしまうほどの樹の前に、彼女は導かれたのである。

 

 

 ――ここが、メガミの世……? いや……。

 

 まず脳裏に浮かんだ可能性を、直感が否定した。

 確かに、神座桜の向こうにあるとされるメガミたちが住まう世界は、桜の樹を大地にしたような場所だという伝承がある。メガミたちに訊いた限りでも相違はなかったのだが、話から受けた印象とこの景色は乖離していた。

 

 曰く、メガミの世は桜の枝が無数に伸びた場所である。

 詳細まで語ってくれた者はいなかったけれど、少なくとも、このような途方もなく大きな幹のことを挙げるメガミはいなかった。見果てぬ天上に広がる枝葉が当の世かもしれないが、人の間では根と呼ぶことも多い上、実際にそう表現するメガミもいるという。

 ただ、今の恋離はそんな理屈にまるで関心がなかった。意識に打ち込まれた感覚は、この場所はその程度のものではないと訴えていた。

 

 詩歌の才を持つ恋離とて、この大樹を正しく表現する言葉を持たない。

 これに比べてしまえば、畏れ多くとも、メガミの世すらまだ理解の範疇と言える。神座桜の意志のようなものの存在を知った今となっては、神々しさに目が眩んだ昔よりもまだよく見える気もしている。

 だが、ここはさらに理解の外にある。メガミの世を超え、さらに奥か、あるいは外側か――いずれにせよ、本来人の手が届いてはいけない領域には違いなかった。

 

 ――あぁ……。

 

 正直、途方に暮れてしまっていた。見上げた天の果てはいくら目を凝らしても姿を現さず、まるで見通せないことが必然であるかのようだった。

 幼い頃に叶世座の稽古に無理に参加させられたときだって、これほどの途方もなさは覚えなかった。幼心に絶対に超えられないと畏怖していた舞手としての父親だろうと、夢に迷い込んだようなこの大樹の前では塵と同じだ。そんな、卑小な感想が浮かんでは消えていく。

 

 この情景を真に理解するのは不可能。

 なのに、理の外にそびえる大樹であるという納得感は覆し難い。

 だから恋離は、激しく揺り動かされる認識に、一度考えることをやめた。

 ここに至ったのは通過点である。導かれたからには、敵がいるはずだ。

 目的を……命運を、果たさなければならない。

 

 ――どこ……?

 

 刃の所在を確かめるように握りしめ、退けられていた敵意を呼び戻す。

 当然ながら、恋離自身は徒寄花の姿かたちを実際には知らない。息を潜めているはずのこの時代のものであればなおさらだ。

 大樹の何処かに取り付いているのでは、と改めて見渡しても、見える範囲にはこれといった異物はなかった。姿を隠すとしたら、樹のうろや無数の短い枝の陰だが、いざ探すとなると時間がいくらあっても足りなさそうだった。

 

 とにかく、近づけるところまで近づいてみよう。

 そう思ってから恋離は、この場所でどう動いていいのか、揺蕩ったままの状態で戸惑った。

 地に足が着いていないのに、落ちることも風に攫われることもない。

 今更になって、地面の在り処に思い至った恋離は、ふと下に視線を向けた。

 

 そこには、確かに何もなかった。足元は、虚空だった。

 遥か下まで大樹がただ伸びて、彼方へ呑まれている。

 その先は、見えない。

 だが、

 

 ――ひっ……!?

 

 居る。

 何かが、確実に居る。

 ここから気が遠くなるほど降りた幹の下側、その奥に、何かが居る。

 見た目は天上とほぼ変わらずに霞んでいるだけなのに、気配が距離を貫いて、恋離を襲う。

 

 その気配の悍ましさたるや、悪寒が全身を支配する。

 姿を直に目にできないことが幸運にさえ思えた。存在を認識すること自体を、本能が全霊で拒絶していた。

 神座桜を滅ぼす敵が何かと問われたら、恋離は即座に答える確信があった。

 そこにあるモノだ、と。

 

 ――はぁっ……はぁっ……。

 

 未だ身体の感覚も鮮明でないのに、息苦しい。

 何の前触れもなく認識してしまった邪なるモノの気配に、冷や汗が噴き出す感覚だけが意識を炙った。不可視にして実体なき刃だというのに、刃の本質を右の手から零しそうになって、思わず両手で逆手持ちにして掴んだ。

 

 これは、だめだ。

 これ以上に忌まわしいモノなど、この世にはない。

 存在してはいけない。

 この大禍は、やがて全てを呑み込むだろう。

 それこそ、恋離たちが滅ぼされたことすらも、ただの過程でしかないほどに。

 

 渦巻く戦慄に、ぶくぶくと奥底から泡立ってきたのは敵意だった。

 やがてそれは恐怖に覆い尽くされていた恋離の意識で弾け、駆り立てられるようにして、刃を握る手に力が籠もる。

 恨みよりも、排除しなければという義務感で、身体を奮い立たせる。

 海の底よりも深いどこかへ、遮二無二飛び込もうとした。

 けれど、気配の主の意識が、恋離へと向けられる。

 

 ――っ……!

 ただ認識された――たったそれだけのことなのに、恋離の動きはぴたりと止まった。

 殺意どころか敵意もろくに込められていない。けれど、一瞬、頭が真っ白になっていた。

 頭を振って、恐れを追い出すように額を叩く。

 もう一度、意を決して睨みつけるが、また翻弄されたように息を呑んだ。

 そこには、人の姿があった。

 

 ――なっ……。

 

 恋離と、遥か下に居る何かとの間に現れたのは、眠りにつく少女だった。

 長い髪が宙に泳ぎ、何かの結晶が継ぎ接ぎにされた蔦じみた装飾に、全身をまとわりつかれている。胸の前で両腕を組み、瞳を閉じる姿はまるで死人のようで、活気も生気もない。それどころか、目にしているのが実体ある姿かどうかも定かではなく、そこに見えているのにそこにいない、この光満ちる空間に映し出された影のようだった。

 

 少女の形をしたモノは、瞼を落としていても、恋離をはっきりと認識しているようだった。

 それを理解した途端、凄まじい嫌悪感が恋離を襲う。

 出方を窺うという名目の下、固まっていると、声がした。

 少女は口を閉ざしたまま、感覚だけが恋離の意識に刻まれた。

 

『私は眠る。眠り続けるために』

 

 幼いようで、老いたようで、誰のものでもあるような、そんな声だった。

 ソレはただ、宣言しただけだった。恋離のように排除の意志を強く抱いた様子もなく、ありのままの事実を伝えただけのようだった。

 けれど――否、だからこそ、恋離は確信に至ってしまった。

 

 自分では、コレを斬れない。

 この眠る脅威に、刃が届くことはない。

 たとえ本体が見えていたとて、壁は厚い。

 手の届かないこの領域でなお、その存在は、あまりに遠すぎた。

 

 ――あ……あぁ……。

 

 今度こそ、手から刃の本質が滑り落ちていった。音もなく離れていったそれは、どこにあるかも分からない地面に向かう前に、気配がかき消えていき、やがて霧散した。

 そしてその瞬間、恋離の世界に音が溢れた。

 ヒョオ、と。それは吹雪の音だった。

 大樹も少女もどこにもなく、果桜に刃を突き立てたままの姿で、恋離の身体は凍える風を受け止めていた。

 

 恋離は、大樹の前から突き返されていた。

 本当に夢を見ていたかのように、外は何も変わりはなかった。

 不可視の刃の不在だけが、あれを現実足らしめていた。

 

「なん、なの……」

 

 そのまま呆然と、自問自答する。

 努力や覚悟なんて程度の話ではない。

 絶対に成し得ないのだと突きつけられたような。

 背負うことそのものが間違っていたというような。

 諸悪の根源を断って命運を果たすはずだったのに、また弄ばれる。

 ならばそもそも、自分に眠る命運とは、一体なんだというのだ。

 

「おい、貴様どうした……?」

 

 緊張の糸が途切れ、無力感にも襲われ、視界が傾ぐ。

 永遠に訪れる気配のない悲願の刻に、恋離は倒れ伏し、嗤った。

 

 

 

 

 

「なるほどな……」

 

 終始顰め面だったコルヌが、岩壁に背中を預けたままため息をついた。やや険が取れた印象だが、恋離に向けられていたものが他所を向いたというだけのことだろう。泰然とした態度を依然崩さないヲウカとは、同じようでいて対照的だった。

 

 

 あの空間から追い出された恋離は、果桜からほど近い洞窟に身を寄せ、二人に事のあらましを語って聞かせた。火はなく、浅い洞穴は実に寒々しかったが、アレから離れられたというだけで生の温かみを感じずにはいられなかった。

 恋離が見聞きしたことは、おいそれと知られていいものではないのだろう。

 けれどもはや、そんなことは彼女とってどうでもよかった。残された道標すら失った今、情報の価値を気にする気力なんてありはしなかった。未来のことに触れないという自制心がまだ残っていたことには、恋離自身不思議だったけれど。

 

 ヲウカたち曰く、恋離は光を浴びてすぐに崩れ落ちたらしかった。刃の本質が唐突に消え、恋離が僅かな間に豹変したのだから、いずれにせよ追及は避けられなかった。

 何かしらの脅威に曝されたとあれば、北限の守護者は黙ってはいられない。

 しかし、想像以上の出来事を耳にしたコルヌの結論は、恋離と同じだった。

 コルヌは、腕を組み直してから言った。

 

「よもや、我らも知らぬ領域が存在していたとはな。生を享けて以来、多くの時間をこの極寒の地で過ごしてきた身ではあるが、我らの拠り所とは異なると判ずるに容易い。左様であろう、ヲウカ?」

「ええ、確かに」

 

 古きメガミ二柱からの肯定を疑う余地はなかった。

 そしてコルヌは、ともすれば己の存在意義を揺るがしかねない言葉を続けた。

 

「我には、件の存在を断つ術の持ち合わせはないと見える」

「え……」

「なんだその面は。あやつの本質を携えておった貴様に、そんな顔をされる謂れはない」

「それは……」

 

 いっそ真っ直ぐに糾弾してくれたほうが心地よかった。そのほうが、メガミすら抗し得ないというあの日々の再来を、忘れることができそうだった。

 だが、コルヌは冷静に現実を受け入れただけだった。

 むしろ彼女は、守護者としての使命を、己の中で磨いていたのである。

 

「我がここに在り続ける理由の一端をようやっと理解したわ。かの日の直感は、何も間違ってはおらなんだ」

 

 彼女は壁から背を離すと、恋離に改めて向き直る。

 そして、あろうことか深々と一礼した。

 

「えっ……えっ?」

「感謝する。我はここで、然るべく在り続けることにしよう」

 

 戸惑う恋離に、コルヌは一方的に礼を述べた。常に冷徹で自他に厳しいと伝えられている彼女から、丁重に頭を下げられるとは露ほども思っておらず、絶望に麻痺していなければ延々と畏まっていたことだろう。

 大した反応もできずにいると、コルヌはふっと笑って背を向けた。

 洞窟の外へと向かい、彼女は告げる。

 

「貴様の命運がどこにあるか、我には見当もつかぬ。然し、此度の礼だ。貴様が次に何かを成そうとするならば、我はただ、それを見届けると誓おう」

 

 言うことは言ったとばかりに、コルヌはカツカツと軽快に靴底の氷刃を打ち鳴らし、白銀の世界へと去っていった。

コオォ、と吹雪の鳴き声が、洞窟にわだかまる。

 膝を抱えた恋離は、共に残されたヲウカに疲れた瞳を向けた。

 

「あの……。ヲウカ様は、何か……」

 

 まさしく、縋る気持ちだった。コルヌは自己完結していたが、何かを隠すたちでないことは明らかだ。徐々に考える余裕が出てきてもなお、分からないことが分かった以上の成果に飢えていた。

 問われたヲウカは、柔らかい笑みを返してくれた。

 

「そう焦らなくてもいいのですよ。あなたは、未踏の地に踏み込んだのです。この私すらも手の届かなかった彼方まで。脅威は対処しなければなりませんが、今は眠りにつくという言葉を信じて、未来のためにまずは英気を養いましょう」

「…………」

 

 優しい、とても優しい言葉だった。

 全く響かない、空虚な言葉だった。

 じっとヲウカを見つめていると、彼女は微笑みの仮面を捨てて、皮肉げに笑った。

 

「分かりません。分かりませんよ、遠大なる神座桜のお考えもね」

 

 もしかしたらこれが本当のヲウカなのかもしれないと、恋離は思った。

 それからヲウカは、くすり、と半ば自嘲するように零して、

 

「少しだけ、期待してもいました。あなたが、私を桜の奥――我々の世界を超えた先へと、運んでくれる存在であればよいな、と。その先の実存を確認できたのは喜ばしいことですが、まさか私が置いてけぼりにされるとは」

「それは……」

「いえ、ごめんなさいね。こんなことを言われても、あなたは困るだけでしょうに」

 

 彼女の持っていた視座と素直に謝られたこと、驚くことはたくさんあって、それらが少しずつ心を癒やす種となった。自分以外にも思い悩む者がいるというただそれだけで、随分と違う気がした。たとえそれが、敵から目を逸らす行為であっても。

 ヲウカは今言ったことを忘れるように首を横に振って、それから恋離へと手を差し出した。

 天音の、再演だった。

 

「改めてお誘いします。桜花拝のために、尽力してはみませんか?」

 

 彼女は今、その合理を説く。

 

「桜花拝はこれより、この地の歴史を動かします。激動の時代を経て、安定した世の中を実現する最中、変革の中枢に居ることはあなたにとって実に有益だと考えます。広い視野と多くの耳は、大いなる謎を解き明かす助けとなるでしょう」

 

 それは、この先の歴史において正しく在り続けるであろう理屈だった。単に情報戦の勝者というだけでなく、神座桜にまつわる未知を暴くのに、ヲウカの協力を得られるのは比類なき利益に違いなかった。

 強大なる敵との邂逅を果たした今、なおさら魅力的な提案だった。それこそ、この選択が歴史を左右しかねないほどに。

 

 だが、恋離の答えは決まっていた。

 多少揺らいだところで、結局、元の位置に戻るだけだった。

 

「…………」

 

 沈黙のまま、気まずくなって目を逸らした。

 ヲウカの非道が脳裏をよぎり、反感を思い出させてくれる。志水と安岐那に芽生えた思い入れと、それは一緒くただった。当然、合理的だろうと捨てられやしない。捨てれば、世界の前にもっと大切なものがなくなってしまうような気がした。

 整然と断る文句はどこを探しても見つからなくて、やがてヲウカは、この沈黙を受け入れたように困った笑みを浮かべた。

 

「仕方ありませんね。本当に、あなたを評価してのことだったのですが」

 

 そう言うとヲウカは、恋離の傍まで歩み寄って膝を折った。

 やんわりと手を握られ、何かを手のひらに置いて、握らされた。これもまた天音の再演だったけれど、今度のものは実体を伴い、そして大家の娘である恋離がよく知るものだった。

 

 桜鈴。

 主神ヲウカの名の下において、神座桜の守護役に任ぜられた証。実質的な領土である奉土を所有する証明手形である。見た目は花弁を模した飾りのついたただの鈴だが、特別な力によって桜と共鳴すると伝えられており、桜花拝が神座桜を管理する象徴となっている。

 

「どうしてこれを……?」

 

 恋離が訊ねると、ヲウカは笑みを深めてから答えた。

 

「あなたがやはりご存知の通り、これから私はこの鈴を権威の証とするつもりです。今はまだ何の変哲もない鈴ではありますが、もし気が変わったら、桜花大社でそれをお見せなさい。優先して私の下へ通すよう、取り計らっておきますから」

「……はい」

「他にも用向きがあれば気兼ねなく。あなただけ、特別ですよ?」

 

 突っぱねる気力もなかったので、漫然と懐にしまう。

 それから帰り路に誘ってきたヲウカを追って、泥のように歩き出した恋離は、特別という言葉の意味を考えていた。

 

 主神に目をかけられた恋離は、間違いなく今、特別なのだろう。

 けれどその特別は、結局自尊心すら満足させてくれなかった。滅亡の回避なんて、夢のまた夢だった。

 半端者を飾り立てたところで、何も成せないことには変わりない。

 特別だった英雄たちに並ぶなんて叶わない。

 

 空っぽの特別に、あの日のカムヰの冷たい瞳が蘇る。

 ひずんだ器の中で、命運の二文字が、鈍い音を立てて転がっていた。

 

 

 

 

 

 恋離が再び人を目にしたとき、御冬の里を出発してからはや八日も経とうとしていた。

 ヲウカは多忙を理由に果桜から帰ってしまい、一人きりの復路は実に寂しいものだった。北風に背中を押されても、答えの出ない考えが重しになってなかなか歩みは進まず、食糧も尽きて危うく遭難しかけるところであった。

 

 しかし、人里に戻ってきたところで、恋離には何の感慨も沸かなかった。

 いよいよもって、次に行く宛などない。

 宿を取り、久しぶりに温かい布団でぐっすり眠って、その後は?

 とぼとぼと歩く恋離に、里の人々からの憐れみの視線が刺さる。支度中も北限行きを止められたし、行きには一緒だった同行者の姿もない。誤解を訂正する必要も気力もなかったが、居心地は最悪だった。

 

「はは……」

 

 もしかしたら父・京詞も、こんな惨めさで帰還したのかもしれない。

 脳裏をよぎってしまった親子の因縁に、恋離は空笑いを零した。死地に飛び込んで生還した彼のことを、少なからず英雄的だと羨んでもいたけれど、いざ自分の身に降り掛かってみるととてつもない無力感が全てだった。

 ましてや恋離は、英雄のためにこそあるような武器すら携えていたのだ。

 それでもなお無力ならば、これ以上己に何ができるのか、まるで見当もつかなかった。

 

 使い手が悪いのかと思い、志水の顔を思い浮かべる。

 だが、彼女たちに死ぬ気で頭を下げて、代わりに刃の本質を振るってもらったとしても、あれを断ち切れるとは思えなかった。それは、たとえば めぐみ に置き換えても同じことだ。そういう問題ではないのだろう、と恋離の感覚はずっと否定を続けている。

 だから、ただでさえ難儀な命運を背負った志水に、無駄と分かっている重荷を背負わせるわけにはいかなかった。彼女なら、無力感を押し潰して傷つき続けてしまいそうで、余計に。

 

 志水の重荷を取り払うというのなら、安岐那に託されたウツロ関連の調査に舵を切るという選択肢もある。ウツロが分かたれた真相には行き着いたが、それだけでは志水は救われない。より深く調べるために桜花拝を利用する手もあるのかもしれない。

 けれど、恋離自身がどう思おうと、それは寄り道に他ならなかった。

 歴史を紡ぎ直し、徒寄花を打倒するという目的は、志水を解放したところで果たされない。

 

 輝ける大樹に潜んでいたモノまで滅ぼさねばならないのなら、なおさらだった。

 宿り木の種を掘り返すだけとは訳が違う。敵は、想像よりも遥かに巨大だった。

 鈍色に染まった北限は、その名の通り、行き止まりだったのである。

 

「はぁ……」

 

 帰り道で何度も繰り返し考えていたことを、つらつらとまた考えていた恋離は、いつの間にか宿の並ぶ通りまで差し掛かっていたことに気づいた。

 滲む情けなさは、このまま里を出てしまいたい自棄も呼んでいて、足が止まった。

 そうして、呆然と曇り空を見上げていると、黄色い声が耳に入ってきた。

 

「アラ、もしかして加恋ちゃん!?」

 

 その特徴的な声色は、一度聞いたら忘れることはない。

 しかし、反射的に振り返ってしまってから、恋離は大層驚いた。その名に紐づいていた変装を解いているのに、相手は「やっぱり」と言った顔で駆け寄ってきたのだ。

 

「こまりさん……」

「やーん、久しぶりネ! こんなトコロで奇遇だわ」

 

 今の彼女は、天音で会ったときのような化粧はしておらず、装いも少し派手だが旅装束のようだった。恋離が役者の変化具合に慣れているというのもあるが、それでもひと目で分かったのは、こまりが持つ独特の雰囲気によるものが大きかった。

 どうやら彼女は一人のようで、後ろを不機嫌そうに着いてきていたトコヨは今はいない。

 不思議に思った様子を悟られたのか、こまりは苦笑いしながら言った。

 

「あぁ、久遠なら、寒いからイヤって。んもう、険しい寒さがイマイチ伝わってこない、って自分で文句垂れたクセに、何様のつもりよねェ」

「はは……それで観光ですか」

「前に来たときは、里の周り見て終わっちゃったカラ、今回は北限にもチョット足を伸ばしてみようと思ったのヨ。加恋ちゃんは?」

「あー……」

 

 訊ねられて、恋離はいよいよばつが悪くなった。元々夜山恋離の名前も偽名だが、こまりに伝えたのはさらに嘘を上塗りした名前である。ここまで自分に関心を持ってくれる相手に、流石に心が痛んでいた。

 目を泳がせながら、上目遣いになって恋離は詫びる。

 

「ごめんなさい……その名前、偽名なんです。本当は、夜山恋離といいます」

「アラ、やっぱりね〜! 教えてくれてウレシイわ、恋離ちゃん」

 

 喜んで納得するこまりの態度に、今更驚きはなかった。悪意がないことくらい彼女は見抜いているだろうし、ここまであっけらかんとされると罪悪感も吹き飛んでしまう。

 と、そこでこまりは何か思い出したように手を合わせた。

 

「あ、そうそう。名前と言えば、今はワタクシも小手鞠こまりじゃなくて、芸名を名乗ることになったの」

「…………」

 

 恋離は、相槌も打たず、あえて沈黙のまま先を待った。

 彼女には分かりきっている、その先を。

 気軽に捨ててしまえる偽名などではない、重みある名を。

 後世の舞手は誰もが知っている、偉大な雅号を。

 芸術のメガミに認められた、一人目の証を。

 

常世郷花鳥 とこよざとかちょう ――ま、恋離ちゃんは今まで通りに呼んでちょうだいな」

 

 彼女は、その名に込められた意味を誇る素振りを見せなかった。トコヨのこともメガミだと紹介し直すつもりはまるでないのだろう。

 もちろん、時間を経るに従って重みを増していった名前ではある。当時の当事者が本当にこんな調子であったとしても、少し驚きこそすれ、あり得ないほどではない。

 けれど、そういうことではないのだと恋離は思っていた。

 

 こまりはきっと、名前という表面を気にしていない。

 たとえ人には重い願いを込められていたとしても、中身が生み出すものこそが本質である。

 もしも後世における評価を伝えようものなら、色眼鏡を嫌って貰ったばかりの名前を名乗らなくなってしまうかもしれない――彼女はそんな芸術家だ。

 

「……ねェ、恋離ちゃん」

 

 気づけば、こまりの眼差しは真剣味を帯びていた。

 重く受け止めすぎて、すわ何か勘付かれたか、と失敗を悟る恋離。

 しかし、こまりが口にしたのは、矛盾への指摘ではなかった。

 

「気づかないフリしてたけど、やっぱり心配だわ。何かあった?」

「え……」

「アナタ、ずっと目の前が真っ暗になったみたいな顔で、ぼーっとしてたんですもの。ホントは声かけるかも迷ったんだケド、せっかくのご縁だし、お話ダケでも聞いてあげられれば、ってネ」

 

 言われて恋離は、里の人々から向けられていた憐れみの原因が自分にあると理解した。ヲウカとコルヌの前では酷い顔だったであろうことは想像していたものの、人前で最低限取り繕うことすらできていないとまでは思っていなかった。

 今からでも、と顔を揉みほぐしたところで、やめた。

 だらん、と手袋に覆われたままだった手をぶら下げて、恋離は答えた。

 

「道に、迷ってしまって。どうやらこっちは、行き止まりだったみたいで」

 

 へへ、と自嘲する笑みを加えた。話しても仕方がないという、せめてもの意思表示だった。

 こまりの配慮はありがたかったが、徒労なのも分かっていた。差し出した手を払うような行いに、こまりに文句の一つくらい言われるだろうとも思っていた。

 実際、こまりは何かを口走ろうとした。

 けれど、

 

「……そう」

 

 彼女は須臾の逡巡の末に言葉を呑み込んだ。後からでもそれを隠すように、扇を顕現させて口元を覆った。

 そうさせてしまったことに居た堪れず、恋離は目を伏せる。期待を裏切るような真似にも思えてしまったけれど、罪悪感はあまり沸かなかった。

 

 こまりには悪いが、このまま別れて南に下ろう。

 漫然と決断した恋離だが、それを告げる前に、こまりが先を制した。

 

「恋離ちゃん。もうひと差し、一緒に舞わない?」

「……? なんで――」

 

 話の流れを無視した提案に当惑する。

 だが、顔を上げた恋離は、こまりを見て断り文句が頭から抜けた。

 正確には、こまりの顔のあたりに漂っているものを、だ。

 

 人の顔を極端に抽象化したような文様の、逆三角の形をした石造りの仮面。

 非常に貴重なものにして、恋離のよく見知ったそれ。

 忘れるはずがない。あの日、盗み聞きをしていた自分を見咎めたこの仮面を。懇願を棄却された苦々しい記憶の中に浮かぶ、歴史を象徴するこの仮面を。

 

 

 カナヱのことは、その手先だった父親も含め、恋離は嫌いだった。どちらも死んだ今となっては、今更怒りはないけれど、思い返したくもない存在だった。

 この『今』において彼女は存命のはずだ。ミコトの存在も、不思議ではない。

 だが、だからといって何故今ここで、この仮面と再び向き合わなくてはならないのか。

 同じ二柱を宿し、同じ常世郷を冠する二人が時を超えて重なって、次第にこの邂逅を偶然とは思えなくなってくる。

 

「どう、してっ……」

 

 この運命的な舞踊に臨まねばならない理由が、どこかにある。

 全てを見通していそうなこまりの眼差しを前に、別れの言葉は、口の中で消えていた。