神座桜縁起 前編

第2話:桜花決戦

 

 桜の天蓋が、寡黙に戦場へと向かう武者たちを祝福する。幻影を含めれば、恋離が知るどの桜よりもこの陽炎桜は雄大だった。遠くに鎮座する実際の幹は、在りし日の白金滝桜よりはこぢんまりとしたものだったが、桜光に包まれる感覚は比べ物にならないほど濃密だ。

 一歩刻めば緊張が身体を重くし、もう一歩刻めば昂揚が足取りを軽くする。

 けれど、その昂揚の出処は、おそらくこの戦場で恋離ただ一人が持つものだろう。大いなる目的の最初の過程に踏み込もうとしていることもそうだが、今まさに歴史の当事者になっている事実に、少なからず興奮を禁じ得ていなかった。

 

 無論、これから殺し合いが行わることを彼女は理解している。ただ、参戦した目的が情報収集である以上、命を賭してまで戦うつもりはなかった。広橋や左沼からの覚えがめでたくなれば上々といったところだろう。

 彼らは今、恋離を挟むように帯同していた。政情に踏み込むほどの情報を引き出すには、形式的なものであっても警戒心が邪魔なままなのだと、言外に示されていた。

 

 やがて、桜下にて隊列を編んだのは、ミコト兵及び勇敢なる只人兵それぞれ百騎ずつ。前列に三つに区切った隊を配し、中央部隊のすぐ背後には大将の広橋の隊、そのさらに後方に只人の部隊を置く布陣だ。

 対する敵陣に恋離がまず見たのは、桜に色めく景色に浮かんだ敵の旗印。

 その家の名は、

 

「桑畑……」

 

 この戦国末期において、最も隆盛していた大家。

 そしてこの後滅亡を迎え、現代においては既に亡き大家。

 かつて書で見た家紋が戦場に躍るこの光景に、恋離は思わず息を呑んだ。敵方の予想はついていたとしても、戦国最強と謳われた軍勢と相対している状況が現実離れしていることに変わりはなかった。

 

 

 桑畑という家は、現代における蟹河地方北部を拠点とする家である。戦国の熱気に炙られるようにして覇権争いに名乗りを上げた彼らは、蟹河本家と対立しながら、北緑南部から咲ヶ原北部を支配する強大な勢力へと成長する。

 最初にミソラのミコトを組織的に運用した家でもあり、空からの一方的な攻撃は大変恐れられたという。これによって当時の戦が定義付けられたと説く歴史家も少なくない。持て囃されたミソラが請願を拒否し始めてからは弓兵の数は減ったものの、優秀なミコトを擁した彼らは戦国末期においても依然強者で有り続けていたようだった。

 

 そんな桑畑と古鷹が争うここは、おそらく岩切地方のどこかだと恋離は推測していた。天音などの岩切一帯を取り込みながら、咲ヶ原南部にまで侵攻を進めていた桑畑を、西の雄として押し留めていた家こそが古鷹だった。

 個々の戦まではまともに記録が残っていなかったことを、恋離はやや恨めしく感じる。

 断絶した過去は、もはやこの奇跡の中、肌身で知っていくしかない。

 その当事者である武人が、恋離の隣で声を漏らした。

 

「……本殿を穢す狼藉者どもめ」

 

 小さく怨嗟を吐いたのは左沼だ。

 その憎悪の声に誘われて顔を上げた恋離は、つい彼と目が合ってしまった。だいぶ上の方にある彼の鼻が鳴らされ、戦場の昂揚に煽られてか隔意を突きつけられた。

 

「心得ておけよ、小娘。同志たちが東で打って出ている今、我々は勝利にて報いねばならんのだ。邪魔立てするようならば、吾輩が切り捨ててくれる」

「友誼に見合うだけの働きは致しましょう」

「ふん、盾にもならんような小童が、よう言いおる」

 

 声量こそ抑えているが、嫌味だけでは終わらない棘がはっきりと感じられる。果たしてそれが、桑畑への怒りにつられてのものなのか、友軍に対する大きな責任ゆえなのか、恋離には判断しきれなかった。

 実際、この戦が共同作戦の一翼だとすれば、左沼の気合も納得できる。敵軍は、目測ながら古鷹軍よりも些か数が少ない。戦略によって得た好機が目の前に結実しているのだ。

 

 自分の理解を呑み込んだ恋離は、右隣でただ前を見据えたままの広橋に目を移した。

 彼は諍いを塗りつぶすかのように、あえてやや声を大きくして、

 

「討つべき悪を討つ……今がまさにその時だ」

 

 向けるべき者へと矛先を向けさせる、将としての言葉だった。

 だが、その誠実さをも窺わせる鼓舞に襟を正そうとした恋離は、兜の陰になった広橋の眼差しが桑畑軍を捉えていないことに気づいた。

 彼の目に映るのは、戦の先にあるもの。

 感情が決壊し始めたようにいっそ恍惚として、彼は朗々と告げる。

 

「桜の大義――かの意思が、我らを照らしているのだから……!」

「大義……」

 

 恋離の頭に、その二文字が居座った。興奮を高める広橋が考えるものとは全く別の意味がそこにはあった。

 しかし、だからと言ってこの戦を抜けるつもりはなかった。

 最もよく知る古鷹家周辺で立ち回ることが、今は彼女の大義への近道である。

 強さが正義となるこの時代、武勲を立てる機会に巡り会えた幸運を、あえて蹴る必要などないのだ。

 

「ええ、大義のために」

 

 その支えとなる衣を強く握り、決意新たに恋離は頷いた。広橋は応じてくれたことに満足したように今度こそ敵を見据え、左沼もまたそれに倣った。

 恋離の意思が後押しとなったかのように、広橋は高く右手を掲げた。

 そして、腹の底から叫ぶ。

 

「顕せぇェーーーッ!」

 

 号令と共に、古鷹軍に桜吹雪と咆哮が吹き荒れる。

 集結した武人たちがめいめい手にする、メガミの恩寵。眼前の敵を討ち果たすための、偉大なる刃。

 その渦中で恋離は、文様輝く衣で追従しながら、顔色を変えまいとしていた。

 

 兵の約半数以上が手にしたのは、刃紋艶めかしい肉厚の刀。

 メガミ・ザンカの顕現武器、斬華一閃。

 多くのミコトを戦の狂乱へと誘い、破滅へと導いたと言われる血塗られた刀。その危険性故に現代では宿す者すら滅多に現れない、武を象徴するメガミの愛刀。

 

 悲劇の為し手として封じられたと言われる彼女も、この戦国では現役のはず。

 ならば、力を求めるミコトたちが彼女を求めるのもまた道理。

 そして、相対する敵が呼応し、数多の刀を掲げるのもまた、道理。

 狂気としか思えないこの光景こそが、戦国の常なのだ。

 

「かかれぇェーーーッ!」

 

 再度の号令によって、間近に控えていたミコトが、手にした大破鐘を打ち鳴らす。

 強烈に響き渡るその音色が背中を叩き、心を震わせる。

 ここに開戦は告げられた。

 大地踏み鳴らす猛者と共に、恋離は初陣へとその身を躍らせた。

 

 

 

 

 

 剣戟の音が、雄々しき叫びすら引き裂く。進軍の地鳴りが潜まるのもそこそこに、怯んでしまいそうな破壊の衝撃が各所で生み出される。

 たった一人で只人の群れを壊滅し得るミコトが、無数に衝突する最前線。

 桜花決闘のような息詰まる対峙などそこにはありはせず、ただただ敵を貪らんと互いに喰らいつく猛獣の不揃いな歯牙のようだった。

 

「があぁぁッ!」

 

 恋離の前方で生まれたそんな獰猛で混沌とした交錯から、瞬く間に断末魔が聞こえ始める。先駆けとなった古鷹の兵が一人、体勢を崩したところを盛大な桜霞や鎧もろとも斬り捨てられ、血飛沫を上げた。

 ここでは、結晶を全て失うことは通過点に過ぎず、致命の一撃こそが決着を生む。

 桜花暦の人々には、目を背けたくなる凄惨な行いとして映るだろう。

 

 しかし、破滅を経験した恋離がこれに動じる理由はなかった。

 忌むべき怪物たちに同胞が殺される光景など嫌というほど見てきた。誰も死なない戦場なんて盤上にすら存在しない。少しばかりの虚しさも、足を止めるほどではなかった。

 

 その擦り切れた感傷は、眼前の死を戦局の変化のただ一つとして理解する。

 彼が斃れたことで、放っておけば前線に穴が空きかねない。桑畑の陣形は前三角の攻撃的なもので、しっかりと受けとめる必要がある。

 一方、先陣を切った敵兵の力量は、衆目に晒された。

 ならば、と細い脚が大地を蹴った。

 

「出ます!」

 

 軽い身体を前へ押し込み、最前線への合流を試みる。

 戦果を上げた桑畑の兵は、後ろから前線を押し上げようと迫ってくる恋離たちの隊に気づいたようで、前線の傷口を広げておこうと左右に視線を走らせていた。

 だが、彼が味方に向けて踏み出した瞬間、恋離の衣が鋭く差し向けられた。

 血に塗れた刀身が、帯に絡め取られる。

 

「うおっ!?」

 

 反射的に柄を掴んでしまったのか、兵は刀に引っ張られるような形で後ろに傾ぎ、既のところで倒れずに脚でこらえた。

 そこへ疾風の如く駆け込んでいくのは、曲刀を携えた広橋、総大将その人である。

 

「邪魔だぁッ!」

 

 すれ違い様に腿から輪切りにするように斬り上げ、そのまま一回転、半月を描く刃が正確に敵の喉を掻き切った。

 それでも出血に至らないものの、広橋は先駆けた兵たちの援護へと向かう。

 この兵に与えた隙は致命に足ると背中は語る。その相手は、もちろん恋離だ。

 幾条もの衣が、鋭利な刃となって敵兵を串刺しにする。強引に盾にしようとした刀も、身につけていた鎧も、その全てが無意味だった。

 

「か、はっ……」

 

 絶命の吐息が、戦場の喧騒に呑まれて消えた。前線を支えるべく展開していく古鷹の兵たちが皆、ありふれた死を無視していく。

 この程度の相手なら勝てる――想定通りに最初の勝利を上げた安堵が、恋離の心に忍び寄る。やはり徒寄花の怪物に及ぶものではないし、怖いほどに馴染んでくれるこの衣があれば、十二分に戦える気がしていた。

 だが、引き戻した衣を見て、ぞくりとした。

 

「ぁ……」

 

 ぬらぬらと、脂の浮いた赤い血が、染み込むことなく纏わりついていた。

 戦いの昂揚や成果への安堵の狭間に、この手で人を殺めたのだ、という大きな事実が横たわっていた。味方の血に汚れたことはあっても、敵の血潮に触れたことがなかった恋離に、死の証が生々しい実感をもたらしていた。

 

 恋離は無意識に衣を振り払い、血を落としていた。

 この怖気と行動は、どうあってもここでは無駄なもの。

 それを咎めるように、刹那、彼女の左のもみあげを掠めるかどうかという位置を、背後から光の槍が貫いた。

 

「……!?」

「ぐぁッ!」

 

 悲鳴は、右前方から。目ざとく押し入ってきたと思しき敵兵の一人が、右肩を抑えて苦悶の表情を作っていた。

 相手の狙いは、間違いなく恋離だった。

 慌てて応戦しようとするも、最前線のすぐ後ろを駆ける広橋によって、すぐさま追撃が成された。そのまま、数名の兵と共に押し返し、陣形の分断を防いでいく。

 

 生まれた間隙の中、恋離が光線の出処へ目を向けると、背中に目でも付いているかのように左沼が振り返って顰め面で睨んできた。彼の携える桜染めの旗には淡い光の球が付き従うように漂っており、敵を見出しては純然たる力の顕現にて貫いていく。

 彼にわざわざ頭を下げる暇などない。今求められているのは行動だった。

 

「っ……!」

 

 邪念を置き捨て、唇を噛んで走り出す。

 戦況は、桑畑軍の先陣の衝撃を古鷹軍がどうにか堪えた構図だった。敵も正面から食い破ることに固執はしないようで、やや歪ながらも両翼まで広がった戦線が形作られている。その均衡を崩さんと、桑畑の遊撃手が浸透しようとする動きに古鷹が応じている状況である。

 

 恋離はその身軽さを活かし、古鷹側の遊撃手として振る舞うことを選んだ。

 兵の薄い地点に身を躍らせた彼女に、一人の敵兵が戦意を見せる。戦場では悪目立ちすらする恋離の姿は、良い囮になっているようだった。

 片手に刀を提げた相手は、刀身に燃え盛る業火を纏わせた。腰だめに構えたそれを力いっぱい振り抜くと、剣閃に乗った炎が恋離を焼き尽くさんと迫ってくる。下手に避けても味方に当たりかねない軌道だ。

 

 ただ、恋離はそれに対して冷静に四枚の衣を前方へ放った。頭上から地面に向けて斜めに差し込まれた衣は、前進する恋離を守る即席のひさしとなる。

 着弾した炎は半ば宙に逃され、受け止められたものが黒煙となって一瞬わだかまる。

 暴れさせた衣が風を起こし、その煙を相手へと押し返した。

 恋離の手元が、僅かな間覆い隠される。

 

「ちぃッ!」

 

 刀を構え直して迎撃体制をとる敵兵。しかし、彼が半ば運に任せて衣の槍を弾けたのは初撃のみだった。

 細い刃となった衣が、本命となる一撃を彼の喉に穿った。

 

「ご、ぉっ――」

 

 大量の桜吹雪を首筋から溢れさせ、反射的に咳き込んだ口からも霞を吐き出す。

 衣を引き抜いた拍子に敵兵は大きくたじろぎ、恋離はとどめの一手に手を伸ばそうとする。しかし、目をぎらつかせた古鷹の兵の到来を目にし、彼に首を譲って次へと向かった。

 

 だが、鍔迫り合いをする敵兵に狙いを定めたときだ。

 脚を衣で引っ掛けたと同時、助太刀した味方の兵の額に、空色の矢が突き刺さった。

 

「弓兵だーッ! 空から来るぞーッ!」

「来た……!」

 

 戦場に響く警告に、油断なく上空を見上げる。

 桑畑が得手とした、ミソラのミコトたちによる上空からの射撃。戦場の流れを大きく変える脅威的な兵科。

 古鷹軍の反応の速さといい、誰もが警戒していた弓兵が、早くも姿を見せたのだ。

 

 けれど、状況を把握した恋離は、一瞬自分の目を疑った。

 その必要などないのだと、味方の叫びが肯定してくれる。

 

「一騎だ! 弓兵は一騎のみ!」

「舐めおって……他にはいないのか!?」

「恐るるに足らず! 弓持て弓ーッ! 撃ち落とせーッ!」

 

 立派な鎧を着た古鷹の兵が、後方に控えている只人の隊へ向かっていく。

 確かに、恋離が見る限りでも、光で編まれた翼を空で広げる者はたった一人だけだった。老練のミコトのようで、射った矢は正確に古鷹の兵を貫いていくが、彼だけで戦況を激変させられるとは到底思えない。

 

「ミコトがもういない……?」

 

 それらしい答えを口にするが、すっかり腑に落ちるほどではなかった。しかし考え続ける暇などなく、矢に斃れた者に代わってやむなく敵を相手取る。

 衣を一枚、小さな剣のように固めて手にしつつ、操れるだけの衣も合わせて刀と打ち合う。元々相手はかなり負傷していたようで、一合交わすごとにじりじりと押し負けていく。もっとも、万全であっても数多の刃を捌けるほどの実力者ではなさそうだった。

やがて、受けきれなくなった敵兵は、自ら躓いて尻もちをついた。

 

「やめ――」

 

 懇願を口にされる前に、衣が彼の臓腑を貫いた。今度は勢いなどではなく、確実に殺した。恋離の意思で、だ。

 乱雑に引き抜いた衣をなびかせ、恋離は一度戦列を見通すべく距離を取る。

 

 左右に桑畑の兵が流れていったおかげか、彼女のいたこの中央付近の戦闘の激しさは、ほんの少し落ち着きを見せているようだった。

 見れば、左沼が子飼いと思しき兵を引き連れ、左翼へと展開していく。端の前線を押し上げ、側面から囲んで押し潰していくつもりだろうか、と恋離は予想する。動きに迷いがないあたり、元々計画されていた行動なのかもしれなかった。

 そうして俯瞰を試みていると、同じことを考えたのか、広橋がこちらに駆け寄ってきた。

 

「夜山殿、見ていたぞ!」

 

 荒い息を整える彼の鎧兜は、返り血で赤く彩られていた。もはや防具というより、血に濡れないために着ていると言われてもおかしくないくらいだ。

 適当に拭われた血の跡が、広橋が口を動かすたびに頬で蠢いている。

 

「流石は忍、その強さに偽りなしだな! この調子で次も頼むぞ!」

「いえいえ、自分はまだまだですよ」

「なあに、謙遜は結構だ。このままだと貴殿に与える報奨に苦慮することになるだろうが、心配せず辣腕を振るってほしい」

 

 切り結んできた後で気が高ぶっているからだけでなく、彼は実際に恋離への警戒を緩めたようだった。そのついでにどうにも偉ぶっておきたい本音が漏れていそうだが、貸された駒として偽った以上、恋離があえて追及することはない。

 それよりも彼女は、気になっていた戦況の変化を問う。

 

「あの弓兵は単独のようですが、敵はこちらに戦力を割かなかったのでしょうか」

 

 それに些か愉快そうに、広橋は本当かどうかいまいち判然としない答えを返してきた。

 

「ははっ、私の読み通り、虎の子の弓兵隊は東で防衛に使っているのだろう。攻めを断念させたとなれば、今回のこの作戦、成功に限りなく近づいている……!」

「そう、ですか」

「後は、この戦に勝ち切るのみ! 出し惜しみする相手に負ける道理はどこにある!?」

 

 開戦前よりも戦場の興奮に酔っているようにしか見えず、大将として冷静に判断できているのか恋離には疑問だった。

 ただ、脅威として語られたミソラのミコトは、末期に差し掛かったこの時期では希少な戦力となっているのは間違いなさそうだった。請願までの道のりすら険しいものになれば、数に物を言わせる戦略など取れるはずもないのだから、後世の考察通りだ。

 

「…………」

 

 しかし、それにしたところで、桑畑軍の戦力が心もとないという印象は拭えない。

 歴史が過大評価していただけなのか。

 敗北を味わい続けたがために、必要以上に不安になっているだけなのか。

 このまま、うまくいくのだろうか。

 それとも、自分のおかげでうまくいくのだろうか。

 

「さあ、行くぞ夜山殿。この勝利を捧げ――」

 

 ……だが、背中を押すその言葉を、広橋が言い終えることはなかった。

 音もなく、気配もなく、瞬き一つの内に現れたモノ。

 彼の頭は、口を横に引き裂くようにして、彼を挟んで向こう側から長大な鈍色のソレに両断されたのだ。

 

「え……」

 

 爆発的に咲き乱れ始める桜の塵に、驚愕に染まる彼の顔が覆い隠されていく。突然の痛打を遮二無二肩代わりしようとする結晶が、直前まで存在しなかったはずの得物も隠してしまう。

 いや、得物はもう、とうの昔に振り切られ、そこにはなかった。

 断ち斬り、相手が健在ならば、得物が再び振るわれるのは自然の摂理ですらある。

 

 びしゃっ、と。

 袈裟の形に、恋離の身体に血が飛び散った。

 

「は――」

 

 二の太刀が、疑問する間もない広橋を両断していた。

 真っ二つに。腸を晒して。

 

 

 

 

 

 支えるものがなくなった肢体が、力を失ってゆっくりと崩れ落ちていく。取り落とされた曲刀が、役目を終えたと冷酷に告げるように桜へと還っていく。

 この、驚天動地の出来事を前に、恋離がすぐ死体から目を離せたのは、したくもなかった数々の経験のおかげだった。

 

 敵がいる。

 味方を殺した敵が、目の前にいる。

 

「っ……」

 

 息を呑む恋離の瞳に映ったのは、黒き鎧を身に纏い、刀を振るった一人の少女。

 年の頃は二十を越えないくらいか。大人ばかりの戦場においても見劣りしない身丈は、決して無骨な装備に身を包んだ存在感ゆえの錯覚などではない。兜に押し込むのを諦めた長髪が斬撃の余波で吹き荒んでおり、その白鼠色の濁流たるや、桜の天蓋の下では恋離の姿以上に目を奪う色彩であった。

 

 これほど目立ちそうな兵なのに、どこから現れたのか検討もつかなかった。広橋が立っていたのは、古鷹の陣のど真ん中と言っても過言ではないのだから。

 いっそその見目からして、武人の霊と言われても納得してしまいそう。

 その戯言を肯定するかのように、少女の貌が告げるのは静かに煮える怒り。

 だが、こちらを屠る桑畑の兵なのだと否定するのは、彼女に宿った冷徹さであり、容赦がないことは明白であった。

 

 そして、総大将だったものが完全に沈黙した瞬間だ。

 目が合った。

 この幽鬼かと見紛う敵兵と、目が合ってしまった。

 刹那に生まれた交錯に、恋離の全身が危機を訴えた。

 

「くッ!」

 

 半ば無意識に、踵を返す。理性がそれを後押しし、本能はさらに衣を伸ばした。只人隊が設置した置楯に絡め、自らの身体を後送する。

 深い位置で相手に前を塞がれた恋離には、ミコトの味方と合流する術が失われていた。先程まで後方にいた只人たちも、弓兵への対応で左翼へ展開しており、残りも黒鎧の少女に立ち向かえるとは思えない。精々が、この強敵の出現を誰かに伝えに行ってくれるくらいか。

 

 窮地を知らせようと言葉を選んでいた恋離。

 だが、その程度の猶予を見込んでいたことすら甘かったのだと、振り返った光景が告げていた。

 衣で稼いだ距離が、もう黒鎧に詰められている。

 

「はや――」

 

 明らかな深追いだというのに、少女は果断にも前進を選んでいた。装備の重みを無視したかのような速度は、既に刀の間合いへと彼女を運んでいる。

 逃避の道は断たれ、恋離は相対を強いられる。

 広橋を両断した強靭なる太刀筋を想起した恋離は、振り払われようとする刃を前にして、受けのための力をがむしゃらに我が身へ求めた。

 

「くぅっ!」

「……!」

 

 振り返りざま、切っ先を払い除けたのは、恋離の手中に結実した扇だ。土壇場での顕現に、黒鎧の少女の眉が意外そうに微動した。恋離自身もその感情を噛み殺す。

 牽制程度であっただろうに、重厚な斬撃を受けた小さな手には痺れが残る。未熟さの証ではあったが、かつての鍛錬が無駄にならない程度に技は形になってくれていた。対人で舞うのが久方ぶりなことを考えると、上々な結果とすら言える。

 

 しかし、受けの先にある崩しを為してこそ、この技は脅威足り得る。

 そこまでの余裕がなかった恋離に対して、黒鎧の少女は全く止まる気配を見せない。衣の刃を仕向けるも、それを的確に捌きながらさらに間合いを寄せてくる。

 息遣いすら感じられる距離に潜り込んできた相手が、斬撃と見せて柄頭で殴りつけてくる。

 

「っ……!」

 

 恋離の目と鼻の先で、桜花結晶が砕ける。際どい一撃を受けられたのは、嗜み程度に学んだ桜花決闘のおかげか、あるいは。

 この抵抗に、少女は苛烈なる憤怒の様相を僅かに引き締めた。

 黒鎧に収められているのは激情だけではなく、怜悧な判断力も然り。その両立は強者にのみ許された振る舞いである。

 

「斬華六道――獄」

 

 躊躇なく、権能がより深く引き出される。少女の身体の方々から鮮血が噴き出し、数多の雫が砕け散る。力が応えて渦を巻き、恋離が圧を感じるほどに高ぶっていく。

 それこそは奉納。武神ザンカの権能。

 己を差し出し、さらなる高みへ至らんとする狂気の祈り。

 この少女もまた、この時代において普遍的であり、未来においては忌避される、力を求めしミコトの一人。いや、ただ仕留めるのに手間取りそうだという程度で即座に命を燃やす、常軌を逸した狂戦士かもしれなかった。

 

「おおぉぉぉッ!」

 

 吠える少女の大上段。強烈に踏み切ることで前に伸びてくるその刀身に、恋離は扇を添えて地面へとはたき落とす。

 すぐさま斬り上げてきた刃を、今度は硬化させた衣で弾く。しかし、少女は暴れそうになる太刀筋を凄まじい膂力で制御し、恋離に間合いを離させる隙を与えず、連撃を繰り出す手を一切止めない。

 

 斬撃の痛烈さに拍車がかかっていき、幾度となく迫りくる致命の一撃を恋離は技の限りを尽くして捌いていく。

 古鷹で叩き込まれた舞踊の動きで避け、新たに得た千変万化の衣の力で翻弄し、結晶を砕き、それでもやむを得ない傷は受け入れながら。

 一合打ち合うたびに、感覚は冴えわたっていく。

 苛烈なる闘争に、血が躍るよう。

 

「くぅ、あぁぁッ!」

 

 気迫をぶつけ返すように吠え猛り、衣を引き絞るように鷲掴みにする。

 生き残るためという純粋な闘志が、無理矢理にでも湧き上がってくる。全霊が、この戦いへ注がれていくのを恋離はありありと感じていた。怪物と戦っていた頃すら、ここまで必死になれた覚えはなかった。

 

 けれど、反撃の意思を練り上げていた恋離を前にして、相手は脚を止めた。

 前進の勢いが残ったまま、構えられるのは居合の形。

 

「獄……の、弐」

「ぅ……」

 

 衣の槍撃を繰り出そうとした手が、止まった。

 巨大な壁のような圧が、濃密な時間の中で迫ってくる。

 反撃できないにしても、避けなければならない。そう分かっているのに、手が小さく震えて言うことを聞いてくれない。

 

 恋離は、気づいてしまったのだ。

 勝てない。

 この衣でも、勝てない。

 

「ぐっ……」

 

 放たれた強烈な居合い切りに、恋離は衣を適当に重ねて受け止めるしかなかった。腕がまだくっついていることが不思議なくらいの衝撃を受け、二、三歩たじろいでもまだたたらを踏まされる。

 そのさらなる隙めがけて、間合いを錯誤させられるような突きが繰り出されるが、辛うじて結晶で逸して首筋を掠める程度で済んだ。

 だが、

 

「ひっ」

 

 一寸先を貫いた刃よりも心を凍えさせる重圧が、恋離を襲った。身体の内側から大切なものが一片、ぼろぼろになって摩滅していくのがはっきりと分かった。

 ぎりぎりで飛び退けたのは僥倖と言う他ないだろう。

 恋離の身体が、摩滅した部分からじわりじわりと蝕まれていく感覚に苛まれる。

 脚に力が入らない。着地の衝撃にも負け、片膝をついてしまう。

 

「……やだ」

 

 黒鎧の少女は恋離を狡猾に押し続け、今や誰もいない右翼後方まで追い詰められていた。

 誰も助けてはくれない。

 自分だけでは助かれない。

 戦いの昂揚なんてものは、戦場の中心に置いてきた。この少女が一太刀振るうたびに、そんなものはまやかしですらなかったのだと突きつけられたようだった。

 

 命を賭ける気がないなんて、妄言もいいところだった。

 殺すだけではなく、殺されるのが戦場。

 これが、その結果だ。

 受け入れられるわけがない、簡単な結末がこれだった。

 

「嫌だっ……!」

 

 じり、じりと警戒しながら、鎧を纏った死が歩み寄ってくる。

 死にゆく自分への憎悪が、恋離の胸にどす黒く広がっていく。せっかく掴んだ好機が、己の甘さ故に手から零れ落ちていく様は、全身が張り裂けそうになるほど耐え難かった。

 これでは、今までと何も変わらない。むしろそれ以下だ。

 

 縋るように衣を握りしめ、刻まれた文様に力を籠める。

 その文様が意味するは、旧き炎のメガミの名。かつて戦ったときの冷たい目が、胸をざわつかせながら脳裏に蘇る。

 彼女の求めるような英傑にはなれないと、無感情な凶弾に断じられた。

 そのときの無力な納得感を今、怒りに焚べて現実を焼く呪いへと昇華させる。

 

「《焼き尽くせッ!》」

「……!?」

 

 偽りの炎が、彼我の間で炸裂した。相手を直接焼くことはなかったが、爆発によって周囲に舞い上がった土埃が目くらましとなる。

 一瞬だけ、少女が反撃を警戒したのか、守りの構えを取ったのが窺えた。

 しかし、恋離にはもう的確に反撃する算段も、ましてやその意思もなかった。煙に紛れるように衣を身に纏わせ、少女と戦場から離れるように走り出す。いよいよ陽炎桜の傘下からも抜け出そうという頃だ。

 

 衣は恋離の肉体を変質させ、小さな童女から、働き盛りのがっちりとした大人の女性へと成り代わらせる。いきなり全く違う身体に変わって体勢を崩しそうになったが、間近に迫った森の樹へと衣をくくりつけ、木陰へと飛び込んでいく。

 それでも恋離が走るのをやめなかったのは、装具が擦れ合う音が近づいてくるから。

 

 直後、バキィッ! と音がして、顔をひきつらせながら振り返る。

 追走してきた黒鎧の少女が、強引に樹を断ち切っていた。へし折れ、幹の半ばから倒れていく樹を挟んで、恋離と再び目が合った。

 しかし、さしもの相手も驚愕の色に染まった。

 

「えっ――」

 

 追いかけていたはずの童女が、完膚なきまでに別人へと変貌していたのだ。すぐさま、怒りと冷静さを併せ持つ元の戦士の顔に戻っていたが、邂逅からこちら、彼女が初めてはっきりと晒した隙だった。

 恋離は全力で衣を展開し、身体に巻き付けたそれから無差別に翼が生まれた。鳥の形になれなかった鳥のようであり、歪な紛い物にしか見えなかった。

 

 それでも彼女は羽ばたき、空を目指す。木々の緑を上へと抜けていき、まばらになった枝葉の隙間には、少しだけ遠くに陽炎桜が揺らめいていた。

 その様相が時を超えて命運を告げるようで、恋離は呪いを吐き捨てる。

 

「それが――」

 

 まだ、何者にもなれないままなのに、

 

「――それが、今日であってたまるものかッ……!」

 

 激昂が羽ばたきへと伝播し、視界がさらに広がっていく。誰もいない青い空へといっときでいいから逃げ込むために、ただ遮二無二、もがくように翼を動かした。

 だが、木の天辺からも別れを告げた直後だった。

 

 がしっ、と。

 篭手に包まれた手が、恋離の右足を掴んだ。

 兜が外れ、白髪を暴れさせる少女の顔が、眼下にあった。

 

「うそ――」

 

 悪夢のような光景に、焦燥と悪寒が全身を駆け巡る。

 反射的に必死で羽ばたき、相手を振り落とそうと飛び回るが、まるでたちの悪い悪霊に取り憑かれたかのように振りほどけない。

無理な挙動に劣悪な造形の翼が、次々と折れ、崩れていく。

 

「いやっ、離してッ! 来ないでぇッ!」

 

 空いた左足で蹴りつけたところで、少女の手は小揺るぎもしない。

 そして、黒鎧の少女が体重をかけて地面へと引っ張った瞬間、最後の翼がぽっきりと折れ、恋離の身体が空から遠ざかっていく。

 絡み合う形となった二人は、そのまま木々に叩きつけられながら大地を目指す。ご丁寧なことに、衣を求める腕を抑えられ、樹に捕まって止まることもできない。そのうち、変化のために纏っていた衣が力なく剥がれていき、童女の姿に戻っていった。

 

 幸いと言っていいのか、枝葉が少しずつ落下の衝撃を和らげ、地面が見えた頃にはほぼ勢いはなくなっていた。

 少女の鎧の重みが最後に引っかかった枝から二人を引き剥がす。

 

「がふっ……」

 

 恋離はちょうど、下側になって背中から地面に叩きつけられた。胸から空気が押し出され、頭を打ったことよりも意識が軽く飛びそうになった。

 出会いから考えれば、まだ生きていることのほうが不思議ではある。

 苦悶を噛み締めながら、馬乗りになっている少女を、怨嗟を込めて睨みつける。

 しかし、

 

「え……?」

 

 少女の顔から、怒りが消えている。思っていたものとは違う光景に、理解が追いつかない。

 そこには、ずっと探していたものをようやく見つけたような、年相応の瞳のきらめきがあった。感動に昂るその様は、どこまでも相手を追い詰めて屠る猛々しい武人とはまるで違い、殺気などどこにもありはしなかった。

 

「あっ……えっと、ね」

 

 震えるのは、興奮からか、それとも場違いな緊張からか。紡がれた声は、話しかけ方がこれで合っているのか不安に思うような、不慣れさをも感じさせる。

 唐突な変化に、恋離は思わず相手を見守らざるを得なかった。得物は桜に還しているようだったし、逃すまいとしがみついていた手も、気づけば恋離の小さな手に添えられていた。

 

 篭手越しに伝わる力は、決して相手を害するものではない。

 その意図を、少女は告げる。

 

「しぃのものに、なってくれない?」

「何を――」

 

 突拍子もないその願い。うまく呑み込めなくて問おうとした恋離だったが、顔を寄せてくる少女に口をつぐんだ。

 そして彼女は、耳元で囁く。

 戦場に燦然と聳え立つ桜に隠れて、秘密を共有するように。

 

「あの桜、叩っ斬ってやりたいの」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、旧き英雄か、

 あるいは大罪人の伝承が語られる。

 その果ての命運は、未だ判然とせず。

 ただ無謀と憎悪を胸に歩むのみ。

 

 しかし未来、確かに宿るこの力は――

 縁起の帰結、その行く末なのだろう。