神座桜縁起 前編

第9話:別離

 

 あばら家に吹き込む風が寒々しい。湿り気を帯びた地面はずっと冷たいままで、身体の熱は気力と共に流れ出してしまっていた。

 恋離は抱えた膝に顔を埋め、足元を行く一匹の蟻の行方を無気力に目で追う。小さな翅の欠片を咥えたその蟻は、恋離になど目もくれず、壁の根本に空いた隙間から外に繋がる雑草の中に紛れてしまった。

 

「…………」

 

 それきり、またこの小さな暗がりからは動きというものが途絶えた。

 向かいの壁際で蹲っている白髪の塊は、見るまでもなかった。時折不規則になる吐息が、静かに燻り続ける志水の、行き場をなくした熱を物語っている。今日は、彼女の声を耳にはしていなかった。

 

 あの惨劇から、はや五日。

 各地を転々としながら、今は北青地方の山中に逃げ延びた恋離たちは、逃避行の間ずっとこの有様だった。

 

 森を抜け、山を抜け、幾度日が昇ろうとも、まともに陽の下を歩いた例がない。恋離たちを照らしてくれるのは、この薄暗い小屋に差し込んでいるようなか細い光だけ。それが命運の斜陽を告げているかのようで、けれど抗うだけの輝きは、誰からも失われていた。

 

 そうして漫然と時間を浪費していると、草履を履いた足音が近づいてきた。

 にわかに顔を上げると、やがて立て付けの悪い戸がガタガタと揺れた。警戒で腰を浮かせた恋離だったが、志水はといえば、泥水の上澄みのような瞳で小さく首を横に振っていた。

 現れたのは、菅笠を被って杖をついた少女だった。

 

「はぁー……今帰ったわ」

 

 疲れを吐き出した安岐那に、恋離は緊張の糸を緩めた。安岐那自前の変装ではあるが、あの野暮ったい髪を笠の中に結って押し込めていただけで、大分印象が違っていた。箪笥も背負っていない今の彼女は、背伸びした小さな旅人といった風情だった。

 けれど、そんな安岐那に無事隠れ家に帰り着いて安堵した様子はあまりなく、今朝近くの集落へ出かけていったときよりも、険しさを顔に滲ませていた。

 

 委細を訊ねようとした恋離だったが、問うよりも前に、安岐那が恋離に竹筒と笹の葉の包みを投げてよこしてきた。ほんのり温かい包みからは、久しく嗅いでいなかった炊いた米のほのかに甘い匂いがした。

 志水の前にもそれらを置いた安岐那に、恋離が戸惑いを見せていると、

 

「持たんからな、食っとき。ほんじゃ、飯にしながら話そか」

 

 どかりと腰を落ち着けた彼女に、団欒といった空気はない。

 包みを開けると、中から玄米の握り飯が顔を出した。干し飯続きだった恋離には、たった一つだけの質素なこれすらご馳走に見えた。

 

「いただきます……」

 

 けれど、恋離が口に運んだところで、栗鼠のように小さく齧っただけだった。

 これから聞くことになる凶報を前に、食欲が帰ってくることはなかった。

 

 

 

 

 

「読売の兄ちゃん、よう騒いどったでほんま」

 

 安岐那はそう前置きすると、干芋をがさつに噛みちぎった。

 

「まさかこんなくんだりで、もうあんな瓦版出てるなんて思わんかったわ。たまたま言うてもまだ通るけど、ちいと上手く事が運びすぎてる感じもするな」

「なんて、書かれてたんですか……?」

「近くの村四箇所、全滅やて」

 

 恋離は返す言葉を持たなかった。そう告げられることはとうに分かっていたはずなのに、いざ推察通りの結果を知ると口が重くて仕方がなかった。

 安岐那はさらに続けて、

 

「原因とされとるんは、桜の祟りや。あの花びらっぽい焼け痕は他の村でも同じやったみたいで、痣みたいに勝手に浮かんで死んでまう、みたいに言われとったわ。そんで、桜様がお怒りになったんは、不遜にも斬り倒そうとした不届き者がおったからで……」

 

 そこで彼女は、一瞬だけ言い淀んだ。

 けれど、大きなため息と共に躊躇を吐き出して、はっきりと告げる。

 

「首謀者は桑畑志水――そう名指しされとったわ」

 

 名を呼ばれた本人は、あぐらを組んで目を伏せたまま反応しなかった。戦場に生きる者の癖なのか、飯はあっという間に平らげてしまった後で、罪状を読み上げられる罪人のように、ただ黙って報告を聞いていた。

 未遂とはいえ、実行しようとしたことは間違いない。

 だが、その事実を知る者は、恋離たちを除いて一人――否、一柱しかいない。

 

「当然、桜花拝はおかんむりで、蟹河家共々しーやん捕まえろっちゅうお触れ出しよった。ご丁寧に、ちゃーんと今のアンタの格好で人相書用意してな。ウチも手配されとったら危なかったわ、買い出しついでにお縄頂戴なんて笑えんわ」

 

 乾いた笑いは、大手を振って歩くつもりなどないと言外に告げているようだった。裏ではどういう扱いをされているか分からない以上、目立った行動は避けざるを得ないだろう。

 そこまで言ったところで、安岐那は竹筒から水を含んで飲み込んだ。

 まるで残った躊躇いを呑み下すかのようだったが、代わりに彼女は、苦虫を噛み潰したような顔を晒した。

 

 もう一度志水を見る眼差しには、隠しきれない遠慮と憐憫が映っていた。

 安岐那は、頭を掻きむしりながら言った。

 

「お触れ出したんは、そいつらだけやない。桑畑家もや」

「……!?」

 

 今度こそ絶句した恋離の前で、苦々しく続ける。

 

「それどころやない。おまけに連中、しーやんとは絶縁したって公表しよった。今回の事件、お家の指示やのうてしーやんが暴走しただけや言うてな。はっ、どこの世界に、自分の娘の首に褒美かける親がおんねや……」

 

 只人ならいざしらず、ミコト捕縛のお触れは暗に生死問わずの意味が含まれる。罪人が腕利きであるほどそれは顕著となり、危険の対価として賞金もかかる。ミコトが自由に力を振るえる時代の古い慣習だが、最悪の実例を拝んでしまったことに恋離は歯噛みした。

 桑畑家の決断と行動の早さは尋常ではない。元々行方不明だったとはいえ、事を起こしたのは寝耳に水だったはずだ。内部で揉めようものなら、ここまで苛烈な第一声はあり得なかっただろう。

 

 城での会食に参じていた重鎮たちは皆、即座に切り捨てることを選んだ。

 それほど志水の行為は重く、そして彼らの想いは軽かった。

 記憶に残る彼女への気持ちの悪い称賛が、頭の中で怒号へと変わっていった。

 

「そう。……そう」

 

 ぽつり、ぽつりと、志水は受け止めた。

 受け止めてしまったばかりに、現実の重みが、彼女を今度こそ深く俯かせた。

 柳のように垂れる白髪の向こうで、一筋の涙が流れ落ちた。

 

「ふふっ。さよなら、父様……」

 

 納得と共に自分を嘲笑う、哀愁と皮肉の滲んだ別れが零れた。

 重苦しい空気が、沈黙を運ぶ。

 訪れた静寂を破る術を、恋離は持たなかった。今の志水にかけるべき言葉など、どこを探しても見つからない。いつか得た共感のさらに向こうで悲しむ彼女には、手を触れることさえできそうになかった。

 

 ただ、安岐那は違った。

 恋離をちらりと窺ってから、沈痛な面持ちのまま、とつとつと言った。

 

「あんな? こないなって、何言うても慰めにならんのは分かっとる。けどな、ウチが親友なんは、桑畑の娘やのうて、しーやんや。ずっと、しーやんの味方なんや。槍が降ろうがそこは変わらんのよ」

 

 せやから、と彼女は続けた。

 

「色々、聞かせてくれんか? あんなヲウカ様の裏っ返しみたいな力使えるんはなんでか。そんで……桜を斬りたいんは、結局どういうことか」

「…………」

「これまで話してくれんかっただけの訳もあるんやろ。けど、辛い話やろうけど、帰る場所がのうなった今だからこそ、ちゃんと教えて欲しい。しーやんと一緒に、これからのこと考えたいんや」

 

 切実な訴えの中には、後悔も見え隠れしていた。意思を尊重した結果、目の前で破滅を迎えさせてしまった罪悪感は度し難い。

覚悟は、とうの昔にしていたはずだ。けれど、覚悟が足りないだなんて口が裂けても言えなかった。

 安岐那は今後も寄り添うことで贖うつもりなのだろう。大きく膨らんだ罪業に揺らいでも、初志を貫こうとする少女の姿は、くすんだ鉱石に垣間見た黄金のように眩しかった。

 

 安岐那のほうが、よほど共犯者に相応しい。

 命運を共になどできない恋離には、元より声をかける資格はなかったのだろう。

 この桑畑志水という少女の、失意には。

 初めに目指していた足跡の終着点を、恋離はせめて、見ていることしかできなかった。

 

「名前……初めて知ったの」

 

 囁くような儚い声だった。

 志水は片膝を立てて、縋るように抱き寄せる。膝頭に目元を押し当てて、それでも口元は自由だった。

 

「これまでは、ただのメガミだった。塵を操る、メガミの誰か。傷ついて、朽ちるのを待つだけだった、死にかけのメガミ。笑っちゃうわ、名前すら知らないものを宿した挙げ句、それがヲウカの目の敵にされてるなんて」

 

 胸に手を当てて、志水は告げた。

 

「しぃは……メガミの力を宿すんじゃなくて、そのものを埋め込まれたの。力を失って、小さな姿になったウツロ――皆は、遺骸とか本質とか呼んでたわ」

「そないなこと……お家は、何や裏で試しとったってことなんか?」

「研究だとか、実験だとか、集大成だとか……正直、何を言っているか、ほとんど分からなかった」

 

 三百年後の未来でさえ、禁忌と謗られるような所業。

 おぞましさと畏れ多さに震えた安岐那は、戦慄きながらも訊ねた。

 

「そんなら、今力を使えてるっちゅうことは……」

「成功、したみたいね。……兄妹の中で、武に秀でてたから選んだ、とは言われたけど、政もできる兄様たちのほうが大事だったんでしょうね……」

 

 吐露する言葉の端々に、やるせなさが満ち溢れている。実の娘を実験台にするような連中ならば、当然保険はかけていたのだろう。きっと、上手くいったときに利をどれだけ得られるかでしか見ていなかったに違いなかった。

 ザンカのミコトが、力のために自ら血を捧げるのとは訳が違う。

 向かい合う恋離と志水の距離は、望んだ者と望まなかった者の差だった。

 

「きっと、野望に焦がれていたのよ……。分かってはいたわ。でも、諦めたくなかった……」

 

 力が物を言う時代だ、家を離れる選択肢もなかったわけではないだろう。それこそ、ここまで協力してくれる安岐那が居るのだから、悪いようにはならなかったはずだ。

 けれど、それはできないのだと恋離は知っている。

 籠の中の鳥に甘んじているわけではない。

 いつか変わってくれるかもしれないという希望は、心にこびりつくのだから。

 

「だから、戦が憎かった」

 

 僅かに上げた顔に、残り火のような怨嗟が浮かんでいた。

 

「戦争も、桜花決戦も、桜の大義なんてもののために戦う皆も、他の家だってそう。誰も、争いをやめてくれなかった」

 

 志水はそこで、勢いのままに吐こうとしていた恨みを、一度つかえさせた。

 志水が持つ武そのものへの愛着が、戦にまつわる全てを否定してしまうことを躊躇わせたのだと、恋離は思った。斬舞乱武祭での志水は、刃を交わし合うことへの人並みならぬ悦びを感じさせていたし、ならばこそザンカに認められたのだから。

 

「誰も、変わってくれなかった。だからしぃは、人を斬り続けなきゃいけなかった……」

 

 そして、と志水は継いだ。

 

「斬って、斬って、斬り続けるうちに、頭の中で声がしたの」

「声……?」

 

 安岐那の疑問に、志水は空笑いを零した。

 苦々しさに精一杯蓋をするように、おどけた声色で志水は言う。

 

「戦え。陽炎桜の燃ゆるままに、意志の帰結に従え――って」

「…………」

「聞こえるようになったのは、遺骸を宿してから。……戦場で燃える桜の、意志が頭の中で鳴っているみたいに」

 

 それから彼女が浮かべたのは、末期を悟った者の儚い笑みだった。

 いや、実際志水には、己の結末が見えているのだろう。

 だからこそ、彼女は今、こうしているのだから。

 

「いつか、しぃはしぃでいられなくなる。意志に、呑まれる日が来る」

 

 息を継いだ志水に、悔しさが滲む。

 

「だから、叩っ斬ってやろうとしたのよ……! しぃが、しぃであるうちに」

 

 そこには、かの日の獰猛さなんて、ありはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 深夜の山中は、厳しい冷え込みだった。

 小屋をそっと抜け出した恋離は、外套のように衣で身体を覆った。それから後ろ髪引かれたように一度振り返ると、下山する方角へ歩き出した。

 

 星空の下で苦渋を噛み締める。彼女の隣には、久しぶりに誰もいなかった。

 本来であれば、志水の想いを聞いた直後ということも相まって、彼女のために動きたいところだった。私利私欲や邪心が理由ではないと推測はしていたものの、想像以上の来歴を知り、情動は煮えるほどに熱くなっている。

 しかし今、この感情には従ってはならないと、恋離は背を向けていた。

 

 桑畑の惨劇は、起こってしまった。大罪人・桑畑志水の誕生に、立ち会ってしまった。

 これがもし、ただ見守っていただけであれば、まだ割り切れたかもしれない。元を辿れば、滅亡の未来を変えるための手がかりとして、かの惨劇を捉えていたのだから。

 けれど、歴史の転換点を俯瞰していたはずなのに、実際に手を伸ばしてしまった。

 この結果は、そんな気の迷いが生んだ、最悪の結末だったのである。

 

 だから何も言わないまま、去ることを選んだ。とめどない後悔と自分への失望が、別れを告げることすら許さなかった。

 だが、そんな恋離の足がふと止まる。

 背中に、小さくて硬い何かがぶつかった。

 

「……?」

 

 ちょうど小石くらいの感触で、すぐ背後の地面でからころと音もした。痛みはないが、偶然の産物で済ませることも難しい。

 そこまで考えたところで、恋離は総毛立った。

 縮み上がりながら振り返った先には、やはり人が月光の影を落としていた。

 

「っ……!?」

 

 投擲の残身を解いた安岐那は、遠目でも分かるくらいに睨んでいる。

 彼女は恋離の注意を引けたと見るや、無言のままずかずかと歩み寄ってきた。構わず走り出してしまいたかったが、釘付けにされたかのように身体が動いてくれなかった。あるいは、安岐那から放たれる言葉を待っていたのかもしれない。

 

 やがて安岐那は恋離に迫ると、鼻と鼻が触れ合う距離まで顔を突き出してきた。

 憤怒を限界まで張り詰めたような形相に息を呑んでいると、安岐那は努めて声を絞った、底冷えするような問いを投げかけてきた。

 

「これ確認な。しーやんのこと、ヲウカに喋りよったんやろ?」

 

 胸ぐらを掴まれていてもおかしくない気迫だった。それでも、遠くから呼び止めなかったり声を大きく荒らげたりしないのは、友を静かに休ませてやるための配慮なのだろう。

 だから恋離も、半ば覚悟していたことだけに騒ぎ立てはしなかった。それだけの気力がなかったのもあるが、恋離もまた、同じ気持ちだった。

 愚か者の身分で煩わせるなど、望むことではない。

 

「……はい」

「チッ!」

 

 安岐那の怒れるつま先が、転がっていた小石を蹴り飛ばした。

 桑畑の惨劇は、ただ起こってしまったのではない。

 無辜の民が殺され、志水が罪人となったのは、恋離が行動した帰結だった。

 それがもし、惨劇を起こすつもりの行動だったのであれば、ここまで悩みはしなかった。

 

 志水が罪を背負う歴史を変えようとした結果が、この有様だった。

 まるで、自分が知っている歴史が、恋離が闖入することまで含めて然るべく収まったかのような、理不尽にも思える結末だった。

 歴史を変えると躍起になっていたのが馬鹿らしく思えてくる。

 志水のためにその馬鹿らしい行動をすればするほど、彼女はきっと悲惨な――それこそ恋離が知る歴史のような結末に至るのではないか。ここ数日の恋離の頭の中には、そんな無力感の魔物が蔓延っていたのだった。

 

「申し開きもございません」

「きっしょい謝り方すな。それに、謝られても困る」

 

 少し伏せた顔を上げると、安岐那の顔は確かに憤怒に満ちていたが、歯噛みするその様は湧き上がる怒りを素直に肯定し難い葛藤に溢れていた。

 深く息をした彼女は、苦々しく吐き捨てた。

 

「どうせ、しーやんのためやったんやろ」

「え……」

「見てたら丸分かりや、ボケ。皆に崇められとる偉大な主神のヲウカ様に、桜斬るんをええ感じに辞めさせてもらおうとしたんやろ? ウチかて、昔考えとったしな。会える訳もないし、諦めとったわけやけど」

 

 よもや理解を示されるとは思っておらず、恋離はどういう表情で居たらいいか分からなくなった。

 安岐那はそれを無視して、一方的に続ける。

 

「それにな。人ハメた奴が、その主神様に血相変えて斬りかかるなんてことあるかいな。あれが演技なんやったら、白旗挙げるしかないわ」

「それは……」

 

 事実までは否定できず、目をそらす。

 実際、斬華大社でヲウカに持ちかけた際には、当然このような事態に陥るなど夢にも思わなかった。現代で共に戦ったヲウカへの信頼を流用したのが間違いだったのか、それとも苦心を嘲笑う運命的な予定調和だったのか、おそらくその両方だろうと恋離は塞いでいた。

 

 ただ、安岐那とてそんな事情までは推し量れない。

 その沈黙が、踏みにじるように火を消してもなお、彼女を苛立たせていた。

 

「せやから、ごっつ腹立ってんねん。悪意あったんとちゃうんやろ、この期に及んで黙ってさよならしよって。ほんま、しばくで」

 

 それで気が済むのなら、とも恋離は言えなかった。虚無感に襲われるだけなのだと、安岐那自身理解していそうなやるせなさが、言葉の端に滲んでいた。

 しかし、恋離とて全てを話すわけにはいかない。

 これまでのことも。そして、これからのことも。

 

 歴史を変えられず、悲惨な結末を運ぶだけならば、元来抱いていた目的に立ち戻ったほうが随分とましだった。

 滅亡を回避する。この時代で朽ちたとて、憎き憎き徒寄花をせめて道連れにする。

 皮肉なことに、この旅で手がかりは得られた。神座桜に並び、そして滅ぼすまでに至った悪しき宿り木にも届き得る刃を、恋離は目にしたばかりだった。

 

 ザンカの刃。万象斬り裂くその本質は、神座桜に届き得た。

 ならば試さぬわけにはいかないだろう。この時代で徒寄花を断ち切れば、文字通り悲劇の芽は摘まれるのだから。

 未来の徒寄花は、力の停滞により神座桜が弱ったことを契機に活発化し、やがて世界を侵すに至った。一方で、ここ戦国における神座桜は全盛期とすら呼べる躍動を誇っている。頭を押さえつけられたままの徒寄花を狙えるのであれば、またとない好機だ。

 無論、恋離自身がザンカに認められるはずもないという課題はある。けれど、そこに救いを見出すのを禁じ得なかった。

 

 果たしてそれがつじつま合わせの逃避か、否定できる自信は恋離にはなかった。己の行動で何かを得たつもりになれないと、一歩も歩けそうになかった。

 それでも、抱いてしまった愛着から来る二人への申し訳無さを忘れ去るなんてできるはずもなく、ただ静かに去ることを選んだのだ。

 

「…………」

 

 ……こんな内容、話せるわけがない。

 志水は自分の来歴を語った後、自身を狂人と揶揄して笑ったが、時間を遡ったなんてそれ以上に気でも触れたような話だ。それに、歴史に翻弄されている現状、何が起こるか分からないのに下手に教えるわけにもいかなかった。

 だから、互いに苦渋を噛みしめるような沈黙は、安岐那に折れてもらうしかなかった。

 

「話せへんか……」

「ごめんなさい」

 

 せめてもの誠意として、恋離は深々と頭を下げた。一つ話せば芋づる式に荒唐無稽な話が出てくる以上、こうしてただ謝ることしかできなかった。

 早々に肩にぽんと手を置かれ、怯えながら顔を上げる。

 しかし、想像していたような暴力が飛んでくることはなかった。それよりも、安岐那が感情をしまい込んで普段の顔を作っていたのが、頬を思い切り叩かれるよりも痛かった。単純なものではないにせよ、細くとも線を引かれたのが分かってしまった。

 

「しゃーない、しーやんにはうまく言っとくわ」

 

 わざとらしく嘆息した安岐那を、恋離は直視できなかった。

 安岐那は夜空を見上げ、

 

「ウチらはこれから、しーやんなんとかする方法探そ思うてる。まずは、ウツロとやらについて調べるとこからや」

「そう、ですか……」

「アンタが何抱えとるか知らんから、よう頼めへんけど、そっちでもなるたけ探しといてくれると助かるわ」

「えっ……」

 

 思わず声に詰まる恋離。

 そんな彼女に安岐那は、呆れたような、悲しいような顔つきになって、改めて問うた。

 

「あれ聞いて、しーやん助けたい思たやろ?」

「あ……」

 

 それに、喜んで応えたい自分と忌避する自分とか戦っているのが、恋離は自身でありありと分かった。見放されたわけではないと分かった嬉しさもありながら、揺れる心を未練と呼ぶべきような気もして、すぐには応じられなかった。

 それでも恋離は結局、窺うように小さく首を縦に振った。

 安岐那はそれを見て袂の中をまさぐって、恋離の手を掴んで何かを持たせた。

 

「ほな、また」

 

 やんわりと送り出された腕に逆らえず、伏せられがちだった視界は、再び麓へ続いていく道を前にした。

 背後で鳴る足音に今更振り返れず、新たな道を歩き出す。

 

 恋離は、渡されたものが紙片であると理解すると、折りたたまれたそれを開き、星明かりに照らして目を通す。それから衣の一端を変じさせた小さな炎に焚べて、冷たい風に任せて捨て去った。

 燃え滓は灰にすらならず、火の粉となって空を舞う。

 陽炎もこれほど儚く散ればよかったのに――そう思った、寒い寒い夜のことだった。