神座桜縁起 前編

第8話:桑畑の惨劇

 

 暗い山道を、小さな提灯の明かりが照らす。満月に近い月が空で輝いていても、三間から先に道が続いているのか、それとも崖なのか、判然としなかった。

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

 恋離の吐息が、ほのかに白くなって溶ける。提灯を持って先導する志水も、その背中についていく安岐那も、延々と続く荒涼とした山道を歩いてなお、あまり疲れを見せていない。

 夜の山道に慣れた人間などそう居るものではない。淡々と進む二人は驚嘆に値するだろう。けれどそれ以上に、この黙々とした行程の先に待つ出来事を想起して、徐々に高まってきた緊張感が恋離の細い脚を重くしていたのだった。

 

 幽邃渓谷。北を二分する山脈のうち、東の北緑地方の山々が生んだ谷間の地である。

 この戦国時代においても人の営みは僅かばかりで、ろくに踏み固められてもいない迂遠な山道は、住みやすい海辺や南部に人々が流れたという説も頷ける険しさだった。人の暮らせる平坦部も限られていて、高地は緑も乏しい。おまけに、北上すればそこに極寒の北限が待っていると、好んで寄り付く土地ではなかった。

 

 しかし恋離は、これでもまだ人の気配が残っているほうだと、道中感じていた。

 現代において北緑地方とは、桑畑の惨劇の舞台となった地。

 ましてやこれより先は、後に忌まわしき地とされる領域。

 天音にて告げられた次の目的地は、間違いなく、旅の終着点だった。

 

 

「あったわ」

 

 そっけない志水の言葉に顔をあげると、行く手を奥から淡い光が照らしていた。

 道を外れ、岩肌を避けて下り、せせらぎを尻目に川原へと降り立つ。

 一行の前に現れたのは、この山系を代表するに相応しい大きな神座桜。戦とは無縁ゆえに陽炎こそ立っていないものの、その形ある威容だけで七大名桜に勝るとも劣らない。月下の秘境に悠然とそびえる姿は、まさに歌に詠まれるべき佇まいだった。

 

 事実、その名もなき桜は密かに謳われることになる。

 禁忌の滲む、触れるべからざる悲しき神座桜、と。

 

「ええ景色やな」

 

 辿り着いた桜の前で、最初に声を漏らしたのは安岐那だった。

 見上げる彼女に、美しい景色へ恍惚とする艶はあまり見受けられない。この桜がもっと小さく儚かったとしても、きっと彼女は同じ感想を呟いたのだろう。

 込められた情感に唯一寄り添ってよい志水は、けれど黙して語らない。

 安岐那は構わずに続けた。

 

「最初はどうなるか分からんかったけど、案外楽しい旅やったわ。どやしてくる商会のおっちゃん共がおらんだけで気が楽やったし、あんな馬鹿みたいにぎょーさん買い食いしたのも、なんだかんだおもろかったで」

「……うん」

「でも、やっぱしーやんの挑戦が一番やったなぁ。あの激闘、ほんま震えたわ。一生もんの思い出っちゅーんは、ああいうのなんやろな。ウチも負けずに頑張ろ思うたわ」

 

 まるで、もう旅が終わったとでも言うような語り口だった。目的を果たすのはこれからだというのに、振り返る彼女が帰り着いた町の鐘楼を眺めているようにすら思えてくる。

 実際、安岐那にとってはこれが終わりなのだろう。

 挑むように見上げていた志水は、そんな安岐那の様子を横目で追っていた。

 

「ごめんね、安岐ちゃん」

 

 それに、答えはなかった。代わりに、安岐那はただ黙って、志水の固い手を解いて提灯を受け取った。

 同じ立場だったとしても、恋離もそうしただろう。

 友の道行きを、ただ見送ることしかできない。たとえそれが、己が望まぬ道であったとしても。途中まで同じ道を歩めたところで、最後には結局、手の届かぬ先へ行ってしまうのだ。

 

 英雄とは、概してこういう存在なのだろう、と恋離は思う。

 目の前の憤怒に焦がれる少女は、恋離の愛した少女とはまるで違う。けれど、背負わされた命運へと向き合い、果敢に挑む有様――いわば英雄の相は、驚くほどに同じだった。

 

「あぁ……」

 

 芽生えていた想いに気づいて、恋離は軽く天を仰いだ。

 旅を経て、桑畑志水という人間を好きになり始めている自分がいる。

 初めは歴史を変えるための手掛かりだったものが、今では力になりたいとすら思っている。斬舞乱武祭での活躍が大きな後押しだったことには違いないが、振り返ってみれば、桑畑城で彼女に共感を覚えたときにはもう種が蒔かれていたのだろう。

 

 だからこそ、突き動かされたのかもしれない。

 自分の宿命であった以上に、恋離は――

 

「ザンカはね」

 

 志水の小さな声が、恋離の意識をそっとすくい上げた。記憶の引き出しに伸びていた手が、取っ手に指をかけたところで止まっていた。

 志水の声は、彼女らしからぬか細さだった。なのに、山々に吸い込まれてしまいそうなこんな場所だというのに、その声は響いてやまなかった。

 

「しぃのこと、止めなかったの。勝って認めてもらったとはいえ、メガミなんだから怒って当然だって、覚悟はしてたの」

「…………」

「でもね、ザンカは言ったわ。『陽炎桜が、人と桜が織りなした意思の帰結とするならば、桜を通じ、挑む意志もまた良し』って。どういう意味か、全部は分からなかった……それでも、不思議と腑に落ちたわ」

 

 だから、と継ぐ。

 瞳を閉じたその様は、何かを振り払うよう。

 

「しぃは、あの桜を叩っ斬ってやるって、それだけの想いを込めて――訊きたいのよ。その意志の帰結ってのが、どれだけ偉いものなのかッ!」

 

 恋離や安岐那だけではない誰かに、最後には歯噛みし、宣言する。

 確固たる瞳は、開かれた。見据えるは、神々の光輝なる座。

 歩み寄る志水の手に桜が舞い、完全なる顕現を待たずして鞘を抜き捨てた。

 

「そしてザンカにも……意志を、見せるわ」

 

 掲げられた刃が、力を孕む。

 確かにそれは、斬華一閃だった。けれど、恋離の目には――否、恋離という存在には、それが全く別物であるかのように思えた。

 

 刃という概念そのもの。断ち切るという本質の現れ。

 研ぎ澄まされた意志が、形を持って生まれたかのよう。

 迂闊に注視すれば意識も断ち切られそうな気配に、息が止まる。

 これが、志水がザンカより授かった力。

 ひとたび振るってしまえば、残酷なほど明瞭に決着するのだと確信させられる。桜が真っ二つになるか、意志をやつした刃が折れるか、そんな一目瞭然の結末が迫っている。

 

「ふぅー……」

 

 静かに構えられた大上段。

 刀身よりもなお太い桜は、薄陽炎を時折揺らめかせるだけ。寡黙に、挑戦者を待っている。

 何度、志水が挑んだかは知らない。

 何度、志水が敗れたかは知らない。

 それでもなお、成さねばならぬと求めた刃を手に、彼女は今、全身全霊の一太刀を振るおうとしている。

 

 決意に呼応するように、刃が輝きを放つ。

 大きく息を吸った志水の眼差しが、鋭利を極めた。

 彼女の全身が、力を帯びる。

 

 ……だが、その瞬間だった。

 恋離の肌を、志水のものではない力の発露が粟立てた。

 

「っ……!?」

 

 悪寒に追い立てられるように、恋離は力の在り処の方へ衣を広げる。

 刹那、光条が夜を引き裂いた。

 右手側から、恋離たちに向かって桜色に輝く光の槍が幾条も飛来したのだ。

 

「なん――」

 

 疑問を交わし合う暇もなく、突然の襲撃が厳粛でさえあった空気を貫く。

 明確な殺意が込められた不意打ちに、うまく逸らせたはずの衣すら危うく破れかけていた。ただ、このまま押し切るつもりはないのか、通り雨にでも降られたかのようにすぐに攻撃は止んでくれる。

 

 その間は、いっそ温情を与えられたかのようで。

 見上げた空からふわりと降りてくるのは、たった一つの人の形。

 堂々と、泰然と、当然のことを成したまでと言わんばかりに、女の手がこちらを示す。

 

「どう、して……」

 

 主神ヲウカ。

 数多の桜の精を従えたメガミが、罪人たちの前に降臨したのだった。

 

 

 

 

 

 

 柔らかな花弁で編まれたような、白桜を基調とした衣。花びらの意匠が刻まれた、遺物を思わせる腕輪と足輪。そして背中に咲いた、六枚三対の桜の翅。

 現れたヲウカは、恋離が知るヲウカとよく似ていた。御劔桐子を連想させた斬華大社での姿とは打って変わって、桜の化身とも呼ばれるメガミに相応しい装いだ。しかし、あのときは抑えていたのであろう膨大な気配が、殺気と相まって剣呑極まっていた。

 

 恋離の頭の中は、その気配に押されるように、端から真っ白になっていく。

 けれど、水を差された本人は、意に介していなかった。

 

「あんた……自分が何したか分かってるのよねッ!?」

 

 激怒した志水が、谷中に響き渡る声で叫んだ。戦場に生きる者の啖呵だった。

 彼女が構えた斬華一閃からは、練り上げられた力は霧散していたものの、纏う剣気は未だ健在だった。邪魔者は斬るという明確な意志が、切っ先となって闖入者に向けられている。相手が、大男が手を届かせられるかどうかという宙に揺蕩っていようともお構いなしだった。

 

「さっさと去れ! 今ならまだ、なかったことにしてやる。できないと言うなら――」

「ちょお! ちょお待ち、待って!」

 

 言葉を遮ったのは安岐那だった。ぎろ、と勢い余って志水が安岐那を睨みつけるが、安岐那の視界にそれは入っていないようだった。

 これほど動揺を浮かべる安岐那を、恋離は初めて目にした。

 制止のために伸ばした左手が、震えている。

 

 筋書きの一つとして、想像はしていたかもしれない。

 それでも、安岐那は理解したくはなかっただろう。

 寓話のような最悪の結末が、訪れてしまったことを。

 

「も、もしかして、ヲウカ様であられますか!?」

 

 震える声をどうにか張り上げて、安岐那は訊ねた。流石の志水も、思わず瞠目する。

 ヲウカは問いに答えなかったが、それこそが雄弁な答えだった。唯一無二である主神を誰が見紛うというのか、とでも言いたげだった。

 安岐那は腹をくくるように大きく一呼吸し、深々と頭を下げた。

 

「ほんま、申し訳ありません!」

 

 上げた顔には、恐れはなかった。凄まじい胆力で編んだ仮面が、安岐那の鎧だった。

 冷や汗を滲ませながら、安岐那はやや芝居がかった身振りと共に続ける。

 

「主上に対して大変無礼な物言い、まこと許されることではないと思います。それに、我々がメガミ様方の大切な桜に刃を向けたんは事実……人々を温かく見守ってらっしゃるヲウカ様であっても、お怒りになるのも無理ない所業やと存じております」

「…………」

「ですが、寛大なるヲウカ様の施しによって、我々が桜を斬る罪を犯すことは免れました。愚かな我々を諭していただけた慈悲を今、噛み締めてます。ですからどうかお怒りを鎮め、桜と貴女様に感謝を捧げる日々を、我々に許してはくださいませんでしょうか」

 

 被った仮面が鎧なら、この静かな強かさを持つ言葉は武器だった。

 咄嗟に捻り出したにしては上出来だと、為政者としての恋離が心のどこかで感心していた。格上も格上の相手に、いきなりここまでの謝罪を口にできる者はそういない。大半はまず、一緒に罪を被ることができずに、相手にとってどうでもいい言い訳探しに終始するからだ。

 

 殺意を教導へ転化した上での、着地点の提示。首を差し出す土下座を選ばなかったのは、安岐那にとってこれががむしゃらな命乞いではなく交渉だから。

 姿勢などではひっくり返ることはないと、彼女は読んでいる。

 決裂してなお差し出す命が安岐那にない以上、無用な危険を冒す義理はない。

 

 そして実際、彼女の読みは正しかった。

 交渉は、双方が望まなければ交渉にはならない。

 メガミが、人の願いを聞くとも限らない。

 ほくそ笑んだヲウカは、はっきりと告げた。

 

「いえ……あなたたちには、ここで死んでもらいたいのですよ」

「っ……!」

 

 無慈悲な宣告に、安岐那が歯噛みする。

 破局を受けての決断は、志水が最も早かった。

 

「斬華六道――獄ッ!」

 

 借り受けた権能を即決で解き放ち、夜陰に血風が舞う。ザンカの恩寵を手に、志水は赤く輝く地上の流れ星のように駆け出した。

 そのまま志水は、宙に浮かぶヲウカの数間手前で膝を折り、桜の粉塵を撒き散らしてヲウカをも超える大跳躍を為す。

 

 全霊を込めた一太刀が、相手を変えて振り下ろされる。

 しかし、刃が反逆を為すことはなかった。

 

「なっ――」

 

 ギリギリと、斬華一閃が光の膜に阻まれ、光の火花が散る。ヲウカは片手を掲げただけで、志水の尋常ならざる斬撃を受け止めてみせたのだ。

 たった一合で見せつけられた、圧倒的な差。

 これは当然で絶対の帰結だというヲウカの態度が、絶望的な結果を想像させる。

 

 けれど、志水が怯むことはなかった。

 さらに刃へと力を注ぎ込み、纏う光に赤みが差していく。それでも結界を喰い破ることはなく、落ちそうになった志水は結界を足場にするように蹴った。

 

「くぅぅあぁぁッ!」

 

 雄叫びと共に、志水の身体が宙をさらに跳び上がった。刀を支点として、途方もない力を込めて自らを上へと持ち上げたのだ。

 無茶苦茶な方法で間合いを保った彼女は、柄頭に全体重を乗せるように構え直し、切っ先を真下に向けた。

 空舞うヲウカに、頭上から飛びかかる。

 真球を描いていた膜に、一筋の罅が走った。

 

「む……」

 

 顔をしかめるヲウカ。けれど、その薄い反応を引き出しただけで、守りを貫くまでには到底至らなかった。

 まるで頭上を飛び回る虫を鬱陶しがるように、すい、と後ろへ下がる。置き去りにされた結界が、瞬く間に霞となって溶けていく。

 

「うわ――」

 

 拠り所を失った志水の身は、無防備なままに地面へ向かう。

 冷たく見下ろすヲウカの手に力が収束し、形を得たのは桜模様の刻まれた大きな旗。思わずその下に集ってしまいそうになるほど、彼女の掲げたそれは神座桜にも負けない神々しい輝きを放っていた。

 

 しかし、その御旗に導かれるのは、数多従えた桜の精。

 桜色をしたこぶし大の光の球に、花を象ったような五枚の翅を生やしたそれは、権能によって切り出された、淡い意志を持つ桜の力そのものだ。如何に可愛らしく、あるいは神秘的に見えたとて、桜花結晶の何倍もの力が凝縮された弾丸であり銃である。

 

 ヲウカはただ、旗を掲げるだけでよかった。

 彼女の周囲を漂う桜の精たちから、初撃のような光の槍の弾幕が放たれた。

 光条が、地を這う者たちを滅ぼさんとする。

 

「んあぁっ!」

「しーやん!? ――ちぃ、こっちにも……!」

 

 撃ち落とされた志水を案ずる暇もなく、恋離たちにも罰は等しく降り注ぐ。一発一発が地面を大きく抉るほどの威力で、直撃しなかったところで撒き散らされた砂礫すら打撃に感じるほど。それなのに矢のように速いのだから、防いだり逸らすだけで精一杯。

 そんな出鱈目な攻撃が残す傷跡は、桜の精を写し取ったような桜の花模様。それが決定的な敵対をさらに突きつけてきて、心も抉られるようだった。

 

 その爆撃は十秒もの間続き、最初と同じようにぱたりと止んだ。

 撃ち続けられないのであれば隙となる、だなんて楽観的な考えを恋離は持てなかった。叩き潰そうとした虫がどさくさに紛れて逃げていないか確認するような、そんな間にすら思えてならなかった。

 

「二人とも、無事!?」

 

 前に広がった土煙の中から、志水が飛び退いてきた。土塗れではあるが、一見して生傷まではないようだ。

 三人とも、桜の守りのおかげで生きている。ただの人間であれば十回は死んでいるだろう。

 けれど、見上げた空に悠然と揺蕩い続けるヲウカは、熾烈な攻撃を繰り出してなお、涼しい顔をしていた。

 

 これが、絶対なる存在。最古の三柱と謳われし、主神ヲウカ。

 どれほど英雄的であろうとも、ミコトの身では勝負にすらならない。

 ましてや、今は半端者の恋離になど、抗えるはずがない。

 ……だから、争わなくて済むように考えたのに。

「……逃げて」

「え……」

 

 告げられた志水の言葉が、恋離の頭に何度も反響した。

 切実さも、悲痛さも、鳴りを潜めている。当然だ、戦の達人が後ろ髪引くような声色で指示を出すものか。

 ましてやそれが、殿を買って出る者の言葉であれば。

 

「しぃ一人なら、逃げ切れるかもしれないから」

 

 言い切ったその自信が、本物か、虚飾か、恋離には分からない。

 志水という武人を思えば信じられる気もする。

 志水という少女を思えば信じられない気もする。

 けれど、確かめる前に志水は踏み出してしまっていた。

 前へ。

 強大なるヲウカの待つ、前へ。

 

「獄……ノ弐ッ!」

 

 血潮を纏った志水が、霞みゆく土煙を踏み散らす。迷いなく刻まれる足取りが、見た目以上に遠いヲウカへと続いていく。

 似たような光景が、恋離の脳裏に蘇る。

 一つ一つを大切にしまっておくには疲れていたけれど、同じことがたくさんあったのは覚えている。

 命を賭けた戦いとはそういうものだ。

 そういう場に、旅の終わりはなってしまったのだ。

 

「おい、逃げるで!」

「あぁ……」

「おい聞いとんのか、ボケチビ! 死にたいんか!?」

 

 安岐那の手が、腕を痛いほど強く握った。その痛みが、水に沈んでいたかのように呆然としていた恋離を現実に引き戻す。

 言われるがまま、慌てて踵を返した恋離だったが、

 

「きゃぁっ!?」

 

 目の前の地面が撃ち抜かれ、気構えのできていなかった恋離は爆ぜた土塊から思わず顔をかばう。

 嫌な予感に導かれて振り返れば、そこには次弾が。

 

「くぅぅ……!」

 

 わざと倒れ込んで回避し、三の矢の行方を衣で彼方へ追いやる。

 確かに、志水はヲウカに斬り込んでいた。宙を舞う相手への不利など意にも介さず、帯びたザンカの力でもって果敢に攻め込んでいる。

 幾重もの光条の合間を縫って、肉薄が叶っているだけで奇跡的。その上、一度結界に罅を入れられたためなのかどうか、ヲウカは志水と正対した上で斬撃を捌いている。それだけで歴史に残る大事件だろう。

 

 だが、それだけだ。未だ、ヲウカには傷一つついた様子はない。

 つまりヲウカは、適度に志水をいなす片手間で、恋離たちの動きを牽制しているのだ。

 辛うじて手の届く高度に居るのも、希望があると勘違いさせる悪辣さを思わせてならない。万が一散り散りに逃げられて、全員仕留めるまでこの夜の山を探し回るよりはずっといいと判断したのかもしれない。

 

 逃げられない。

 ヲウカの矛先にいるのは、恋離たち全員。主神の言に過ちはない。

 戦わなければ、死ぬ。

 戦ったところで死ぬかもしれないが、全くの別物だ。

 その違いを刻み込まれていた自分に、恋離は、胸の奥で涙した。

 

「うぅぅぅぅっ!」

「ちょっ、アンタまで――おわっ!」

 

 ぐちゃぐちゃになった頭は、恋離を前線へと引きずり出す。一歩遅れてついてくる心をごまかすように、衣を翻してその身に纏う。

 光の繭から現れた姿は、忍の始祖・オボロ。

 かのメガミに化けた恋離の手が閃けば、手裏剣が闇夜を切り裂いてヲウカへ襲いかかる。

 

「ほう……?」

 

 けれど、ヲウカはそれに手を一振り、結界を改めて貼っただけだった。さらには、力なく弾かれた得物を見るや、肩透かしを食らったように志水へ視線を戻す始末。

 それでも諦めずにか細い牽制を続け、変化で得た速度を活かして距離を詰める。小柄な身体で迎撃の合間を縫うことすら肝が冷えるというのに、反攻の機会を確かに掴んでいる志水の凄まじさが身にしみる。

 

 一枚の手裏剣が、発射間際だった桜の精を切り裂く。ただの力の塊を滅するには至らずとも、一射分の間隙を見て恋離は地を蹴った。

 ヲウカの手前で失速したところで、召喚した鳶を手がかりにさらに上へ。

 体重を乗せた忍者刀が、ヲウカの側面を捉える。

 だが、桜の御旗が視界を遮った。

 

「ぎッ――ぃあぁっ!?」

 

 剛槍の如き打擲が、恋離を跳ね飛ばす。身体の中身が前に飛び出るような衝撃に襲われ、受け止めた刀を持つ手が一瞬感覚を失った。

 それでも、増えた羽虫を払った程度にしかヲウカは思っていないのだろう。

 事実、僅かな差で斬り込んできた志水を見ても、ヲウカは小揺るぎもしなかった。

 

「おおぉぉぉぉッ!」

 

 振り上げられた刃が、守りを貫くことはやはりない。斬撃に合わせてただ結界に力を注ぐだけで、ヲウカは恋離たちを完封できるのだ。

 恋離の変化がより本物に近ければ、手段はもっとあったかもしれない。

 彼女のそれは、あくまで模倣。先程の攻め一つとっても、速さも、鋭さも、本物とは似ても似つかない。メガミすら模倣できるだけで常識はずれであっても、これは使い手の稚拙さを帳消しにしてくれる力ではないのだ。

 ましてや主神が相手だ。メガミの技であろうとも、それが既に見切られている可能性すらありえてしまう。

 

 しかし、それで良かった。

 恋離の持てる有利は、そこにしかないのだから。

 落ち行く彼女は、衣を再び翻す。

 

 纏った姿は、燃え盛る感情の形・ヒミカ。

 けれど恋離が手にしたのは、近寄る者を焼き焦がす炎ではなく、好奇心の末に生まれた彼女の愛銃・バーニングマッチロック。

 この時代に存在しない得物が、火を噴いた。

 

「当たれっ!」

「……!?」

 

 パンッ! と乾いた音と同時、紅蓮の軌跡が瞬く間にヲウカへ届いた。

 結果として、炎弾は輝く結界に阻まれていた。けれど、桜の壁の向こうに、訝しるヲウカの顔が透けて見えていた。

 目が、ようやくこちらを向いた。勝ち得た瞬間に、震えて笑う。

 月光を吸い尽くす影の茨が、反逆者を聖域へと踏み込ませる。

 

「おぉッ!」

「っ……!?」

 

 

 ヲウカの背中から、桜が散った。影を伝った志水の刃が、手薄な結界を引き裂いて、固く守られたヲウカへと届いたのだ。

果てしなく遠かった有効打。

 ヲウカの顔が、険を帯びる。

 

「よくもッ!」

 

 旗で周囲を大きく薙ぎ払い、呼応した桜の精が輝きを強めた。乱舞するそれらはヲウカの周囲に雨あられと光を降らせ、何者も近づけない光の柱の領域を築き上げる。

 あまりの物量に、恋離は元より、志水も前線から追い出される。目の前を幾度となく貫いていく光条に、目がやられてしまうようだった。

 

 もう、攻めさせる気はヲウカにはないようだった。

 ろくに避けることすら叶わない大攻勢に、生存だけが恋離の頭を埋め尽くす。

 

「その衣もその得物も、大変興味深いですが……」

 

 ヲウカが高度を上げる。ぽつりぽつりと、新たに桜の精が咲き、狂ったように力の奔流を解き放つ。

 遊びは、終わった。

 虐殺が、始まった。

 この圧倒的な光を前にしてしまえば、先程までのほうがまだ逃げる希望があったと思い知らされる。ようやく届いた一太刀は、状況を悪化させるだけに過ぎなかった。

 何故なら、自分たちこそがヲウカに目的を思い出させてしまったのだから。

 

「今は捨て置きましょう。やはり、そこにいますね――ウツロ」

「……!」

 

 ヲウカの眼差しは、志水を捉えていた。反攻の中で影を渡った、ミコトの少女を。

 突きつけられた名に、姿を戻した恋離の中で思考が合致する。

 志水が何度か使ってみせたあの術の性質を考えれば、まず影を司るウツロの権能を連想するのが自然というもの。全容の知れぬザンカのミコトであったり、妙に独特な術の見た目であったために、今まで勝手に目を眩まされていたのだ。

 

 縁を結んだことのある者として、恥がこみ上げる。

 しかし、その昔日の経験は、告げられた絶望が一粒の希望なのだと訴えた。

 投じた衣の一端が、安岐那の身体を捕まえる。

 

「は!? 何!?」

「堪えてください!」

「なんで――ぇあっ!?」

 

 次々と光条が大地を穿つのに構わず、安岐那を引っ張り、真正面から抱きとめる。

 無論、そんな隙だらけの合流をすれば、狙い撃ちにされるのは必定。

 光が、二人をまとめて貫いた。

 

「が、ぁっ……」

 

 内側から焼かれる痛みで済んだ代償に、体内の力が大量の塵となって撒き散らされた。

 苦痛を堪え、叫ぶ。

 もう一方の衣を辿り来る、志水へ。

 

「影を!」

 

 処刑場に散った数多の塵が、志水の左手へ渦を巻いて吸い寄せられる。右手の斬華一閃で逸らせなかった光の矢が彼女を貫き、その負傷もまた糧となる。

 収束の果て、塵が得た形は球。伸びる五枚の翅の色は、深藍。

 淡く輝くその漆黒は、ヲウカの使役する桜の精と対になる、いわば影の精。

 似た存在であれば、これもまた形を得た力なのだろう。けれど、これが希望の運び手である以上に、数多咲く桜よりも目が離せない。

 

 志水の手を離れてひらりと舞ったそれが、恋離との間の地面に飛び込む。

 精は煤が弾けるようにその身を散らすと、沈んだ塵は星のない夜空が如き漆黒の沼となって広がった。

 その光景に志水は困惑の色を見せていたが、それも一瞬だった。

 

「飛び込んでッ!」

 

 号令の終わりを待たず、三人揃って影に沈んだ。

 底が見えずとも、それが絶望の澱でないことだけは、確かだった。

 

 

 

 

 

 影の中は、色彩がない以外には外と大して変わらない世界だった。

 それも五つも数えないうちに追い出され、恋離たちは柔らかな月明かりに再び照らされた。坂に長く落ちた影から、三人まとめて吐き出されたのだ。

 

「ここは!?」

 

 恋離は言ってから、思った以上に大きく響いた声に口を手で塞いだ。あの悲惨な戦場から離れられた証左ではあったが、ヲウカの耳に届いていたらと思うと冷や汗が流れる。

 影渡りを仕掛けた本人である志水は、無言で首を横に振って周囲の警戒に努めている。あの桜に至るまでに時折見かけたような木々が広がっているが、純粋な野生というには少し整った山肌である。斜面もなだらかで、夜でなければ先もそれなりに見通せただろう。

 答えを求める安岐那は、小走りに駆け回って緑の合間から空を見上げた。

 

「たぶんそんな遠くやあらへん、もっと逃げなあかん! 南や南、走るで!」

 

 号令に異論はなかった。今となってはあまり関係ないはずなのに、ミコトの本能が桜から離れたことへの恐れも生んでいた。

 走り出した恋離たちは、誰に言われるでもなく、たびたび背後を振り返った。暗闇でろくに見渡せない林を確認しては、あの恐ろしい輝きがないことに安堵する。最初は気配を隠したヲウカに不意打ちされたことを、あえて口にする者はいなかった。

 

 先の見えない逃避は、永遠にも思えた。瑞泉という最期の地へ辿り着いてしまったことのある恋離は、逃げられるだけの幸せも吐き捨てなければならなかった。

 だから、恋離がそれを見つけるまでにどれだけ逃げたか、覚えてはいなかった。

 右手のほうで、視界が開けていた。

 

「あれは……村でしょうか」

「知らんわ、んなもん! 誰が助けてくれるんや!」

 

 安岐那の正論に、けれど恋離の目は離れなかった。

 もう月も随分昇っており、住人も明日のために眠りについているだろう頃合いだ。寒村では夜を過ごすための灯りも贅沢で、月の光に煌々と照らされていなければ、目に留まることすらなかっただろう。

 

 しかし、頭の中で広げていた地図は、小さな悲鳴によって畳まれた。

 つられてよそ見をしていた安岐那がころんだのである。

 

「いつつ……勘弁してーな、もう」

 

 視界の悪い山の中だ、根に足を引っ掛けたのだろうと恋離は思っていた。

 だが、地面に這っていたモノの色は、木肌よりもぼんやり明るい色で。

 たとえばそれは、人の肌――

 

「ひっ!?」

 

 立ち上がりかけていた安岐那が、尻もちをついた。

 人だ。中年くらいの男が、腕を伸ばしてうつ伏せに倒れていた。

 普通なら安否を訊ねるところだけれど、誰もそうしなかった。

 

 蹴り飛ばされたのに反応がないことが一つ。

 もう一つ、簡素な着流し姿の背中は、無惨に焦げていた。

 鉄錆の臭いが、鼻をつく。

 彼は、とうに事切れていた。

 

「……様子、見に行ってもいいですか」

 

 追われている身で何を、とは安岐那も志水も言わなかった。胸騒ぎはきっと、全員同じだった。

 木々の合間を抜けると、集落では二十軒程度の家々が一つの広場を囲むように存在していた。田畑こそないが、山奥であればこれでも立派な村で、軒で干されたいくつもの獣の毛皮は、麓に売られるはずだったのだろうと思われた。

 

 しかし、その毛皮がこのままここで朽ちるのは明白だった。

 広場には、そこかしこに人が倒れていた。

 大人から子供、男女も関係ない。外套を着た者もいれば、衣を抱えただけの裸の者もいる。多くはうつ伏せになっていて何かから逃げるようだったが、辺りはあまり荒れておらず、あっという間の出来事だったのだと察した。

 

 彼らより他に、気配はない。

 全員、死んでいる。

 住人たちは、既に永遠の眠りについていた。それも、他人の手によって。

 皆殺しだった。

 

「…………」

 

 恋離は、口を抑えるだけで何も言えなかった。不幸なことに死体には慣れていたが、彼らの死因と思しき特徴に絶句していたのだ。

 最初に見つけた男のように、全員、何かに焦がされていた。

 そしてその焦げ跡は火で炙られたものではなく、焼きごてをあてられたかのよう。そして人の身には耐えきれず、貫かれている者も多い。

 

 その意匠は、丸に五つの突起が生えたような形。

 嫌でも想起してしまう。花弁のような翅を持つ、ヲウカの桜の精を。

 あれが全身から放った光条は、まさしくこのような花びらを思わせる断面をしていたはずだった。

 本人か、あるいはミコトか――ヲウカの権能を有する者の関与を否定することは、今しがた殺されかけた恋離にはひどく難しい話だ。もし、何も知らずにこの死体を見ていたら、桜の祟りとでも口にしていたかもしれない。

 

 恋離たち三人に対する以上に、虐殺でしかなかっただろう。

 だから、目の前の悲惨な出来事を簡潔に表せる言葉に、恋離は思い至ってしまった。

 彼女が追っていた、出来事の呼び名でもあるそれを。

 

「なん、で……」

 

 惨劇。

 何の罪もなさそうな村人が、突如何者かの手によって皆殺しにされた光景を、惨劇と呼ばすしてなんと言うのか。

 だが、首謀者たる志水が犯人ではないことは、恋離が一番よく知っている。

 

 志水は確かに桜へと刃を向けた。けれど、願いが結実することはなかった。ザンカの力を用いて為さんとしたことではあったが、結局は未遂に終わった。未遂を追及されるにせよ、そもそもこの村の住人は志水とは全くの無関係だ。

 ならば何故、この惨状は生まれたのか。

 それに何故、既に惨状は生まれていたのか。

 ヲウカや彼女の信奉者が犯人だとして、無意味な殺戮を望むわけがない。

 もし、この虐殺に意味を持たせるとしたら。

 

「ぁ――」

 

 桑畑の惨劇は、桑畑家凋落の第一歩である。

 それは、名前だけ念入りに後世に残された、桑畑志水こそ主犯だからである。

 

 けれど、この時代における桑畑家とは、隆盛を極めんとしている大家だ。

 たとえ罪人を家から出したところで、一体誰が桑畑家を追及できるというのか。

 武によって覇を競っていた時代、一体どの勢力が実のある糾弾を為せるというのか。

 

 選択肢は限られている。

 答えはもう、心に刻まれている。

 

「…………」

 

 辿り着いてしまった結論に、背筋が凍る。

 呆然とする恋離は、横目でその様子を窺う安岐那にも気づくことはなかった。