神座桜縁起 前編

第7話:斬舞乱武祭(後篇)

 

 境内に響いた志水の宣言に、会場には波が引いたような沈黙が広がっていた。

 無論、小娘の生意気に白けた空気が皆無だったとまではいかない。しかし、観衆の大半は予想外の展開に固唾を飲んで見守っており、栄誉へ抜け駆けされた武人たちとて、悔しさよりも期待への昂揚が勝っているようだった。

 

 今の志水は、何者でもない一介のミコトの少女である。そんな彼女が前評判通りの活躍を見せていた無雁を打ち破ったのだから、まるで演劇のような刺激的な展開に人々が惹き寄せられたのも無理はない。

 しかし、請願を発した志水の態度は、武人に相応しい堂々たるもの。

 決して伊達や酔狂ではないと皆が理解させられていたからこそ、この挑戦に即座に異を唱える者はいなかった。

 

「まこと、天晴」

 

 禿頭の男が、刀を鞘に納めて観衆の前まで下がった。有力者として名を挙げられていた刀術師範の葛西だ。

 未だ健在だった彼も相応に武を示していただろうに、我も我もと己の武勇を誇ることはなかった。それどころか、土のついていなかった袴に構うことなくどっかりと腰を下ろし、この一幕の観客であることを選んだ。

 

 この葛西の選択が契機となり、一人、また一人と後退り、あれだけ武人がひしめき合っていた境内に空間が生まれていく。恋離もまた、こまりと共に彼らに倣う。

 剣戟の音は鳴り止み、得物を収める音、退く足音が沈黙の上に充満する。

 その空気に耐えられなくなったのか、ザンカの傍に控える宮司が声を上げた。

 

「ま、待て! まだ祭は、途中だというのに」

 

 宮司にしてはまだ若い男だ。目の前の出来事が異例であると理解しながらも、どう諫めるべきかの引き出しを持っていないようだった。あるいは、引き出しが志水の活躍によって固くなっていたのかもしれない。

 彼は必死に言葉を探し、その果てに主賓たるザンカを見やった。

 

「貴殿らミコトたちの武を奉上するのが、この祭の意義であろう。そ、それを放って、あろうことか挑戦などと――」

 

 だが、糾弾めいた言葉は、そこで途切れた。

 静観していたザンカが、一歩を踏んだ。志水の待つ前へ、だ。

 ぎ、と拝殿の床が軋み、若手宮司の顔が引きつった。何よりも雄弁な挑戦の受諾に、本来ならば歓声も上がろうものだが、境内はいっそ静謐ですらあった。もちろん、ザンカ自身が宮司を諫めることもない。全く必要に感じていないという素振りだ。

 

 ゆっくりと短い階段を降り、足袋のままの足が地に触れる。

 彼女を見送る側となった若い宮司だが、彼に助け舟を出すように、老齢の宮司が観衆へ聞こえるように告げる。

 

「前例は、ある。武を奉ずるが祭の本分とあらば、その身分、貴賤を問うは無粋。ならば、最たる奉納とは、御神自身への挑戦に他ならないだろう」

 

 宮司は若手を下がらせ、

 

「突然の請願、些か無礼であろうとも、ザンカ様は斯様にお赦しになられた。かくあれかしと、貴殿ら武人に望まれているからだ。我こそは、彼の者より尊き武を奉ぜらると思いし者は、前に出よ」

 

 問いかけに対し、手を挙げる胆力のある者は一人としていなかった。志水より強いかどうかという以上に、ザンカに惨敗すればそれ自体がザンカへの無礼にあたりかねないからだ。

 宮司の後押しもあって、戦場には今や志水とザンカの二人だけ。

 多くの観客が、多くの武人が、これから行われる一騎打ちを見守ろうとしている。

 無名の少女対武神という、伝説を目の当たりにせんとしている。

 

「感謝します」

 

 向かい合ったザンカへ、志水はただ短く礼を述べる。

 挑戦に至った想いも、目的も、情熱も、彼女が口にすることはない。真っ直ぐにザンカを見据え続ける瞳は、燻る情念のその先を睨んでいるようでいて、それでもなお眼前の武神にぶつけんとしている意思の炎を見出さずにはいられない。

 

 対してザンカは、志水の姿勢を是としてか、静かに微笑む。

 彼女は長大な鞘を佩く代わりに左手で鷲掴みにしたまま、遊ばせた人差し指で軽く弾いただけで固い鯉口を切った。

 

「その刃、受け止めよう」

 

 声なき歓声が、周囲から溢れた。

 畏敬に支配されてなお昂揚が止まらないのは、皆が皆、この祭に何を期待していたのかの表れとも言えた。

 それからザンカは、得物を構える前に右手を掲げる。

 

「斬華六道――天」

 

 赤い光が、弧を描く。降り注ぐ先は、やや戸惑いを見せる志水だ。

 血のように生々しい赤でありながら、しかし忌避感はない。いっそ神聖さすら感じさせるそれに、儀式めいた趣すらあった。

 温かみのある光を志水が受け入れると、激戦を経ていたはずの彼女の身体から、力が溢れ出したかのように桜花結晶がいくつも飛び出してきた。

 

 まさしくこれは、血の奉還。

 力への願いと共に捧げた命が、武への願いの対価として還っていく。

 万全なる武を、ここに奉納せよと。

 

「慧可断臂の戦いを」

 

 奉還は終わり、両者構えたところで雄々しい歓声が一瞬だけ轟く。

 それが雷鳴のようで、決着まではそう長くはかからないという予感が、恋離に駆け巡った。

 

 

 

 

 

 腰だめに構えた志水とザンカは、まるで鏡写しのようだった。変装で黒く染まった志水の髪色も相まって、対峙する親子のようでもある。

 しかし、肌で感じる両者の闘気は、そんな穏やかなものではない。

 まだ抜刀すらしていないのに、彼女たちの間には無数の見えない剣閃が飛び交っているかのようだった。

 

 高まる気迫は、観衆の息を詰まらせる。

 そして二人の意思が重ねるように、同時に告げた。

 

「「斬華六道――獄」」

 

 大量の鮮血が舞った。奉納した血は力の奔流と化し、未だ秘められし刃へと集っていく。

 カタカタと、志水の鞘が暴れる。ザンカと違ってしっかり腰に履いているのに、納めた刃に宿る力が今にも弾けそうになっているのだ。

 両者共に、様子見などという選択肢はない。

 ザンカを忌む未来に生きた恋離には、それが悍ましく、けれど何故か美しく見えた。

 

 臨界点を迎え爆発する刃に導かれ、二人は猛獣の如く踏み切る。

 固く踏み均された舞台に深々と足跡をつけ、二歩のうちに間合いへ突入する。

 命を賭した刃が、解き放たれる。

 

「おおぉぉぉッッ!」

 

 ガッ! と、斬撃同士とは思えない衝突音の直後、風圧が恋離の髪を弄んだ。

 純粋なる膂力、前進する勢い、何より宿した膨大な力の発露によって、凄絶なる威力と化した二つの居合い切りが、一合目となって交錯した。

 

 観衆から感嘆が漏れたのは、志水が力負けせずに鍔迫り合いに持ち込めたため。余裕とは程遠くとも、押し負けてはいない。見た目に重々しいメガミの初撃を受けた結果としては、予想以上だと多くの者が思ったことだろう。

 しかし志水は、予想のさらに上を行く。

 自分からザンカの刃を弾き、そこから果敢に攻め手を繰り出していく。二合、三合と正面から打ち合わされるたび、重苦しい刃音が腹の底にまで響いてくるようだ。

 

 彼女たちの卓越した技巧は下支えでしかなく、刃に込めた意思を交わし合うことこそ本分。

 重なり合う剣閃は恋離の知る剣舞とは住む世界を異にしているかのようで、荒々しくも崇高なそれは、込められた意思の強さに呼応して加速を続けていく。

 

「っかぁッ!」

 

 好機と見たか、身を屈めて飛び込み、横薙ぎに振り切った志水。だが、ザンカもまた同様に振り抜き、やはりというべきか、双方が健在であると示すように再び鍔迫り合う。

 

 もしもザンカがメガミとしての全力を出していたら、今の交錯で勝負は決しただろう。

 間違いなくザンカは、人の枠の中で戦っている。本気のメガミがどういう存在か、徒寄花との戦いを通じて知っている恋離には、もっと理解の及ばないこの先がザンカにはあるという確信を持っていた。

 しかし一方で、ザンカは剣技において手を抜いてはいないはずだった。少なくとも、恋離が文献を通じて知るザンカとはそういう存在だ。手加減と加減は、似て非なるものである。

 

 故に、それに応え食らいついている志水の凄さを、誰もが改めて評価している。

 絶大な才気と数多の修練が折り重なって生まれた、若き剣姫。それが志水だ。

 ただ、他の観客と違って、恋離はいっそう彼女のことを認め直していた。

 今の志水は、楽しそうなのだ。

 

「はッ……ッあぁッ!」

 

 押し負けないように苦んでいながらも、その顔には勝ち気な笑顔が浮かんでいる。

 戦場での憤怒に満ちた顔とはまるで違う。きっとこれもまた、桑畑志水の顔だった。恋離には大して持ち合わせのなかった、純粋に楽しむという才が、ザンカへの斬撃をどこまでも強かなものにしているのだ。

 

 互いに弾かれた大小の斬華一閃を手に、再び向かい合う二人が目を合わせる。

 長髪を靡かせ、強烈に振り下ろされたザンカの一撃。

 志水が受け止めた剣戟が響いた瞬間、恋離は声を感じた。

 

『誰がために、何を秘める』

「え……」

 

 それはまさしく、ザンカの声だった。けれど、彼女は――いや、彼女たちは、呼吸すら惜しい戦いの中で、言葉を作るなどという手抜きをするはずがなかった。

 戸惑うミコトがちらほらと視界に映り、恋離は悟る。

 刃に込められたザンカの意思が、剣戟の余波で伝わってしまっている。

 メガミの御業にあてられて不思議な体験をする逸話はあるが、自分が当事者になるとは恋離も思っても見なかった。言うに及ばず、問われた本人であろう志水はより強烈に受け止めていることだろう。それに十分に応えることが、ザンカの示したこの挑戦の本質なのだ。

 

 しかし、だ。意識の焦点を戦いに戻した恋離は、受けに回らされている志水を見た。

 先程の強烈な一撃に流石の志水も体勢が乱れたのか、反撃によって攻勢を互いに捌き続けていた均衡が崩れ始めている。攻め手を欠くことはすなわち、相手の攻めを咎められない無情な事実を示し、連打される強撃を凌ぐために負担を強いられていく。

 

「ぐっ、ぐぅッ……!」

 

 劣勢を見透かしたような大上段を、志水は辛うじて斬華一閃を盾に受け止める。二回りどころではない得物の大きさの差に、志水のそれが折れやしないかと肝を冷やす。

 焦燥が、彼女を支配していく。

 歯を食いしばればそこに、あの怒りと激情が湧き出している。

 ザンカの問いを皮切りに思い出したかのようなその感情を、志水は荒い鼻息一つで振り払おうとしていた。しかし、ザンカを険しく見返すその瞳から、燃え立つ炎が消えることはなかった。

 

『何を恐れ、何に惑う』

「く、ぅあぁぁッ!」

 

 再びの問い。志水は自ら土に塗れることで、押し付けられた刃を受け流す。

 すかさず追撃するザンカの下段突きが転がる志水の脇腹を抉るが、神速にて放たれた二撃目をありったけの結晶で弾き飛ばす。それでも長大な刀身が遊んでいたのは一呼吸の間だけで、すぐさま引き戻されてきた次の切っ先が迫る。

 だが、身を起こした志水が構えた刀の鍔が、寸分違わず刃先を受け止めた。押し込んでくる力に彼女は抵抗することなく、曲げた左足を軸にして風車のように回転する。

 

 その最中、風を切る彼女が纏うは鮮血の赤。

 回転の勢いでザンカの刀を打ち払った志水は、命を代償に得た力を己の軸足に集中させる。

 本来なら追撃を捌けた幸運を喜び、仕切り直しを図るところ。

 けれど志水が選んだのは、無理にでも前に――ザンカへの反攻を為すために、無茶な体勢から強引に跳躍しての肉薄だった。

 剣閃に火花散るような斬撃が、ザンカを襲う。

 

「おおぉぉぉッ!」

「っ……」

 

 無謀とも言える反撃に、ザンカの右腕から桜が散る。彼女の眉が、初めてひそめられた。

 想像を超えた奮戦に身を投じた志水は、掴み取った好機に食らいついていく。結果としてそれは、得物故に間合いの長いザンカを防戦に留め、決死の形相で繰り出す乱撃を二度三度届かせることとなる。

 

 けれど、反撃を叶えた志水に、勝ち気な笑みなどない。

 生き急ぐような攻め手は、ザンカへ対抗する以上に、彼女にねばついて離れない何かを振り払おうとしているかのように恋離には見えた。それこそ彼女がしばしば宿すあの憤激の矛先かと思ったものの、今それは必死さの陰に隠れていた。

 

『何を求め、何処に往く』

 

 志水を引き剥がせないと判断したか、問いと同時、ザンカが防御をやめて眼前を横薙ぎに振り切った。

 ザンカの右胸が、乱れ咲く。志水の胴に、桜の軌跡が走る。

 歪む顔で、志水は三度、ザンカを見返した。

 

「が、あ、あぁぁぁッ!」

 

 少女とは思えないその絶叫は、屈服を知らぬ狂戦士が如く。

 痛み分けを仕掛けられたところで、彼女が止まることはなかった。新米ミコトであれば即座に気絶しているであろう痛みに襲われているはずなのに、それを物ともせずに刃を振るい続けている。

 何も恐れていないのか、あるいは恐れることすら忘れたのか……一つ分かることは、観客たちの多くが、鬼気迫る彼女に本能的な恐れを感じていること。それこそが、一体何か志水をそうまでさせるのか、皆理解できていないことの現れのようだった。

 

 自信満々で小生意気な天才剣士の貌も。

 刃の交錯を楽しむ闘士の貌も。

 その奥に隠れた焦燥も、恐れも、ねばつくような存念も。

 初めて出会ったときのような、怒りすらも。

 志水の表面を象っていたあらゆる虚飾が、常軌を逸した奮戦によって剥がれ落ちていく。

 

 その殻に包まれた無垢なる刃を、ザンカは水面の如く受け入れている。

 刃はただ、純粋であれと。

 そう願うような彼女にはきっと、志水の真なる煌めきが見えているに違いなかった。

 

「まだぁッ……!」

 

 絞り出すように気炎を吐く志水の口元に、炎すら幻視するよう。

 瞬間的に燃やし尽くした心身は、どこからかまだ湧き続ける力によって動き続けているものの、剣戟に全てを注いでいるためか体裁も失くし始めている。如何に戦国の世と言えど、がむしゃらに打ち込み続ける彼女を、大家の娘と思う者などもはやいまい。

 たとえ、恋離が施した変装が、刃に裂かれても。

 

「っ……、斬華六道――人ッ……!」

 

 足元の死角から迫るザンカの切っ先に、志水の表情が強ばる。刃の軌道に現れた結晶を切り裂いてなお、凶刃が止まることはない。

 守りを突き進んだことで生まれた僅かな猶予が、志水にとっての唯一の僥倖。

 無理やり腰を引いた志水の腹の一寸先を、剣先が通り過ぎていく。

 だが、前のめりだった顔の退避は間に合わなかった。

 

 志水の頬を、切っ先が掠める。散った桜が溢れると同時、ひらりと裂かれたものがある。

 彼女の仮初の顔となっていた、恋離の衣。

 負った傷に耐えきれなければ、化けの皮はただ剥がれるだけ。

 まだ黒髪が残っているとはいえ、正体が露見してもおかしくない。

 

 しかしそれは今、邪魔な最後の仮面が外れただけに過ぎなかった。

 顔を覆っていた衣がはらりと溶け、素顔が桜の薄衣を突き破る。

 磨き上げられた意思に突き動かされるその少女を、誰も別人とは思わない。

 ザンカが剥き出しにした桑畑志水という存在を、ずっと見続けてきたのだから。

 

「しぃが、しぃで、ある、ために……! しぃで、あるうちに……!」

 

 口走る志水が、自身で何を言っているか理解していなくても不思議ではなかった。限界を間近にした彼女の動きからは、機敏さがもう失われている。

 舞い散る塵をその手に集める彼女に、一瞬、ついに守りに入るかと恋離に諦観が過る。

 

 だが、集う塵は盾とするためではなかった。

 舞い込んだ塵は、彼女の手の中で勢いよく弾け、周囲の空間へと這い回った。

 茨だ。白亜の茨が、敵味方関係なく傷つける檻と化し、両者に無数の傷を刻み始めたのだ。

 

「ほう」

 

 感心を見せるザンカが冷静に茨を切り払う。

 その一手の内に、溢れた茨が志水の斬華一閃へと絡みつき、収束した刀身は無数のさらなる刃を宿した凶刃へと変貌する。

 そして、志水は吠えた。

 

「ハドマ……ギリッッッ!!」

 

 

 残る茨に身を裂かれながら、後の先を恐れぬ大上段。

 その強烈な一撃はザンカに受け止められたが、志水の刃の圧がギリギリとザンカの得物を押し退けていく。それはもう鍔迫り合いをする二本の刀というよりは、屹立する大樹とそれを切り倒さんとする刃のようだった。

 

 刀による斬撃にしては、随分と歪だ。

 けれどこれが志水にとっての、飾らない、純粋な一太刀なのだろう。

 ぐぐ、とザンカの胸元が、受ける斬華一閃の刀身を迎える。彼女ほどの剣豪であれば、逸らすなり受け流すなりできてもよいものを、じわじわと志水の刃が身体に迫っていく。

 

 そんなザンカは、静かな瞳で志水を見やる。

 そして告げるのだ。今度は、声ある声で。

 

「そうか……。ならば今は――それもいいだろう」

 

 言い終えた瞬間、志水の刃が均衡を乗り越え、深々とザンカを切り裂いた。

 全霊を込めた一撃を放ち終え、限界だったのか、志水はそのまま片膝をついて、ザンカの足元で咲き乱れる桜花を浴びる。

 それでもまだ戦い続けようと、刀を杖にしてせめて顔を上げようと試みる。

 殺らなければ殺られる、戦場の生きる者の姿勢が倒れるを良しとしなかった。

 

 だが、いつまでも反撃の一太刀は来ない。

 何故ならば、人の手には余るあの刀身は、もう鞘に納められたのだから。

 志水から視線を外したザンカは、両手をゆるく広げて恋離たち観衆に告げた。

 

「讃えよ。直往邁進たる愛し子の、勝利を」

 

 武神の宣言が、しんと静寂を取り戻した境内に響く。

 余韻が消えた頃、ぽつぽつと拍手が鳴り、それから喝采が埋め尽くすまで間もなかった。

 志水の願いが、手を届かせた瞬間だった。

 

 

 

 

 

 拝殿の中へ、二つの影が消えていく。大社が取り戻した静寂の中で、集った誰もが儀式の行方を見守っているかのようだった。一人も同行しなかった宮司たちもまた、本殿に向かった二人を満足そうに見送っている。

 やがて請願の行方を秘するように戸が閉められると、一旦の幕引きに観衆の間の空気が緩んでくる。

 

 恋離は志水が迎える結末が気になっていたが、無理を通すところでもないだろうと素直に報告を待つつもりでいた。現存していない斬華大社の本殿を拝める機会と思うと歯噛みしてしまうが、資格のなさはこの場にいる全員が身に沁みて理解している。

 激闘の一言では片付けられない戦いを見てなお、烏滸がましく同道できるわけがない。

 ずっと握りしめていた拳の熱が、未だ残っている。

 まさしく眼前で繰り広げられたのは、伝説だった。

 

 そうして恋離が未だ冷めやらぬ興奮の余韻を味わっていると、ぽくぽくという軽妙な下駄の音がこちらに向かって来るのを捉えた。

 恋離と同じく、熱を帯びたこまりだ。

 

「加恋ちゃん加恋ちゃん、ねェ見た!? すごいモノ拝ませてもらっちゃったワ!」

 

 戦っていたときとは打って変わって、流行り物に目がない町娘のようだ。若く顔立ちのいい叶世座の団員が公演した際にも、こういった観客が居たのを恋離は思い出す。

 しかし、彼女の持つ視座は、あくまでも芸の道を往く者としてのものだ。

 

「力とか技ダケじゃない、タマシイのぶつかり合いって言うの? あれは単純な勝敗なんて次元を飛び越えた、刀での対話……途中ですこーしザンカ様のお声が聞こえたケド、要は剣戟を通じて問答してたってことデショ!? あ、加恋ちゃんも聞こえた?」

「ええ、何度か問いかけているようでしたね。本当に本当に、寓話に出てくるような試練を化す大いなる存在と、それを乗り越える英雄のようでした」

「そうよネ、挑んで戦うのナラ、乗り越えるべき山となるのがメガミ様の役目だものネ。その先に続くのはきっと、アノ子が求めた栄光への険しい道……ソレを、証明された強かで折れない心で突き進んでいく――あぁ、ココが舞台の上じゃないのが不思議でしょうがないワ!」

 

 こまりの感想に、恋離も力強く頷いた。

 

「挑戦すると事前に知らされたところで、あんな戦いになるとまでは想像できなかったでしょう。それがある意味、常に予想を超えてくる物語の英雄みたいで、志音さんをちょっと遠くに感じてしまったほどでした」

「皆同じ思いかもネ。でもそれって、今までうまく物を見れてなかっただけなんじゃないかとも思うの。どんな演武や、桜花決戦とさえ違う戦いってモノを知れて、ワタクシは今、目が覚めた思いなのヨ。ホント、参考になったワ!」

 

 それから続けてこまりは、しなを作って手を合わせた。

 

「それと、加恋ちゃんもアリガト」

「えっ……。と、言うと?」

「ヤダァ、アナタの舞が色々に勉強になったって言ってるのヨ!」

 

 これこそ思っても見なかった反応に、恋離は戸惑う。あの舞の最中の心境を考えると、素直に感謝を受け取れなかった。

 

「そう、ですか。自分なんかの動きに、そう言っていただけるなんて」

「そんな卑下しないの! アナタ、とってもスゴイんだから」

「は、はい。ありがとう、ございます」

 

 遠慮がちに礼を返すと、こまりは頬に手を添えて大きなため息をついた。

 彼女は肩を竦めて、

 

「まあ、芸の道は遠大ですものネ……。でもイイ? ワタクシはお世辞で言ったつもりじゃないの。ちゃんと胸にしまっておいてちょうだいネ」

「すいま――いえ、ありがとうございます」

 

 釘を刺すようにむっとされたので、改めて礼を述べる。すると一転、こまりはぱあっと笑顔を咲かせた。

 それで最低限満足したのか、彼女は恋離に背を向けた。

 こまりの向こうには、昨日と同じく幾年久遠ことトコヨの姿があった。

 記憶に新しい、何もかもがつまらなそうな冷めた表情は相変わらず。しかし、自分は何も悪くないのに、それに罪悪感すら覚えさせてくるような気配の棘は、気のせいだろうか、何本か抜けているような気が恋離にはしていた。

 

「じゃ、ワタクシはこのへんで。ごめんなさいネ、モット色々お話ししたかったんだケド、久遠が待ちくたびれちゃうから」

 

 そう言うとこまりは、未練を感じさせない足取りでトコヨの下へと去っていった。

 再び一人となった恋離は、漫然と周囲を見渡す。ザンカと志水を待つ者、一度町に引き返す者、戦いの講評をする者と、挑戦の観劇で一体となっていた人々も、それぞれに動き始めている。

 

 熱を帯びたこまりと別れ、頬を撫でる風に冷やされていく。

 風は山から穏やかに下りてくる冷たいもので、森の木々を揺らした後だからか、火照った身体をちょうどよく冷やしてくれる。けれどその心地よさも早々に、涼風に舐られた汗が少しずつ冷や汗のように変わっていくのを感じていた。

 目で追った風の源では、山を背にする拝殿――志水たちがいる社が、今までの熱狂を無視するかのように泰然と建っている。

 

 思いもよらぬ英雄譚が終わり、徐々に現実に戻ってくるにつれ、実感が湧いてくる。

 これから志水は、何を成してしまうのだろうか。

 試練を超えた道の先に、何が待っているのだろうか。

 悲劇という一つの答えを知っていても、この今が恋離の知る歴史通りに進み続けるかなんて分からない。

 分かるのは、まとわりついてくる孤独感が、気の所為ではないことくらいだった。

 

「まだですかね……」

 

 独り言に反して、視線は人々の間を彷徨っていた。

 そのうち足も釣られて動いてからしばし、彼女の目は一つ所に止まった。

 何も分からないなりに、はっきりさせておくべきことはある。関係ないかもしれなくとも、外堀は埋めておくに越したことはない。

 

 目当ての人物へ、恋離は足早に向かっていった。

 

 

 

 

 

 ざり、ざりと踏みしめた玉砂利が擦れ合う。表の大広場以外は、大きい社と聞いて想像したのとほとんど変わらない光景が広がっている。

 祭の会場からは陰になった、別の社殿の片隅。建物と森に挟まれ、暗がりになったそこは、迷い込むのも難しいようなこの大社の死角と言ってよかった。

 尋ね人は、そんな人気のない場所で壁に背を預け、物思いに耽っていた。

 

「先程はどうも」

 

 恋離がそう声をかけると、その女は意外そうに見返してきた。

 彼女の隣には、鞘に収まった長巻が主と並んで立てかけられていた。

 

「おや、君か。衣とは、なかなか珍しい得物を使っていたね。実に面白かったよ」

「そちらも素晴らしい武技の数々、目を見張る物がありました。……ところで、少々お話よろしいでしょうか」

「うん……?」

 

 長巻の女は、貼り付けたような笑みを浮かべて小首を傾げている。

 乱戦の最中に偶然出会ったこの女の名を、知るはずのない恋離は知っていた。

 

  御劔桐子 みつるぎきりこ 。真っ先に浮かんだのは、その剣舞に秀でた伝承上の名前だ。

 この斬舞乱武祭を桜花決闘の源流とした、という学説に則れば、彼女が参加しているのは至極当然のことだ。これから起きる桑畑の惨劇によって、この祭はおそらく今回で最後となる。自然と刃を交えられる機会としては、最上の機会だったと言えよう。

 その上で、現代では謎多き当時の英雄と語らうのを誰が咎められようか。これはいっそ、宿命を帯びた者の特権とも言える。

 

 ……が、恋離はその名で彼女を呼ぶ気はなかった。

 今一度目の前にしてみた気配も、恋離の思考を肯定しているようだった。

 

「なんだい? 用件にもよる、言ってみたまえよ」

 

 黙ったままの恋離に、催促が投げかけられる。飄々とした態度で内心が読めないが、もう一度、胸の中で考えを確認する。

 

 判断材料は色々あった。

 直接対峙して感じた、ただの強さで塗りたくられた剣舞。

 こまりが女を評した、『コンナノ』という言。

 挙げ句、美の大家たるトコヨが興味を示した様子がないという事実。

 その全てが指し示すのは、女の剣舞が秀でた芸とは程遠いということだ。

 

 御劔桐子は、強いから認められたのではない。見て楽しませることができたからこそ、花隠れの逸話において、隠れたヲウカは出てきたのだ。

 故に御劔桐子は芸の達人でなくてはならず、実際そう後世に伝えられている。

 対して、純粋な強さだけを纏ったような、何も伝わってこない歪な剣舞を舞う女からは、メガミに認められるに至るほどの研鑽なんて感じられなかった。武に秀でていても美に無関心で、真に向き合ったのならば伴うはずの、武への信念が生み出す美すら欠片もない。そんな存在を御劔桐子と認めることは、少なくとも恋離にはできなかった。

 ならばこの女は、何者なのか。

 かつて歴史を学ぶ中で棄却した、荒唐無稽な仮説が今ここで訴えている。

 桜花決闘の開祖たる舞手が、もし『必要とされていた』としたら何故か。

 伝承の中に御劔桐子を匂わせ、表に立たせておきたがるのは誰か。

 そんな途方もない面倒を実現するだけの力が、どこにあるのか。

 答えが、色を持って収束する。

 

「すみません、考えを纏めていて」

 

 恋離の唇が動く。つかえないように、舌で湿らせる。

 些かの緊張を伴って、恋離は結論だけを告げた。

 

「……ヲウカ様、ですよね?」

 

 思っていたよりも自信は現れず、小声とすら呼べる呼びかけになってしまう。

 けれど女は、そのか細い問いかけを確かに聞き届けたようだった。

 にやりと、口が弧を描く。

 より頭を壁に預け、横目で見下ろしながら、女ははっきりと答えた。

 

「はい」

 

 と。

 そして反動をつけて壁と別れると、密談に誘うように、社殿のさらに奥へと彼女は向かおうとする。

 肩越しに振り返りながら、この地の主神は恋離にこう告げた。

 

「些か不遜ですが、用向き次第で聞き届けてあげでもいいですよ」