手にした膳から、芳しい焼き魚の香りが立ち上る。皮の下に詰まっているであろうほくほくとした身を拝める立場ではないものの、一歩進むたびに縁側の外気に攫われていく温かな香ばしさを楽しめるのは、料理番以外には女中くらいしかいないだろう。
ただ、それを特権と思えるのは、彼女たちが作るこの長い列の中でただ一人、以前の身分にて味を既に知っている恋離だけに違いない。
そんな些細な優越感で誤魔化さなければ、焦りが化けた顔の下から覗いていたはずだった。
「ちょっと、後ろ詰まってる!」
「ご、ごめんなさい……」
後ろから小声でどやしてくる女中に、当然客人に対するような遠慮はない。あるいは姿を借りた女中は、普段からあまり仕事熱心なほうではなかったのかもしれない。
志水の私室から抜け出した恋離は、本来なら既に城下町あたりで今後のことをゆっくり考えているはずだった。だが、巡回する兵に見つかりそうになったあたりからケチがつき始め、逃げ出した先で女中と鉢合わせし、気絶させて成り代わった直後にまた別の女中に目撃され、挙げ句は朝食の配膳に駆り出される羽目になってしまった。
恋離としては本物が目を覚ます前に脱出したいところだが、女中の集団に引っ張り込まれてしまって人の目を避けられない。強引に突破して尾を引いても困るし、変身した相手が要らぬ疑いをかけられても目覚めが悪い。
故に、キリのいいところまでは従うことにして、お膳を運びながら穏便な脱出方法を捻り出しているところだった。
「失礼します」
先頭の年を召した女中が恭しく襖を開き、ぞろぞろと吸い込まれていく。
中は百人の宴だって開けそうな大広間であり、その前半分では向かい合う形で人々が居並んでいる。ともすれば広さに対して寂しさを覚えかねない人数だが、それを感じさせないほどに彼らの存在感は強く、歓談していてなお重厚な雰囲気が満ちていた。
一見して歴戦の戦士から、政を司る老中まで、男女やミコトか否かもばらばらな面々。おそらくは桑畑の重鎮が集められているのだろう。朝っぱらから酒宴という様子ではないが、それでも折り目正しく介する一同の連帯感を見出さずにはいられない。
その忠臣たちを率いていると思しきは、上座に位置する初老の男だ。屈強さと老獪さを両立したような風貌は、老境を見据えてなお野心に溢れ、まさしく彼こそは恋離が抱いていた桑畑家の主の像に相応しい存在だった。
そんな彼の左手に座す青年は、その野心を受け継いだかのような顔立ちをしている。そこに加えた鋭い怜悧さから、恋離は思わず瑞泉驟雨を思い出さずにはいられなかった。けれど青年から感じる自信は挫折を知らぬそれで、瑞泉の影のある優しさは似合いそうにない。
そして、彼の対面に座るのが、あの目立つ白髪の持ち主だった。
三膳目を配した恋離は、よもや志水に勘付かれていないかこっそり窺って、
「ぇ――」

そこにあった意外な光景に驚きを小さく漏らし、慌てて噛み殺した。
志水が顔に出していたのは、戦場で見せつけられた苛烈なる怒りでも、安岐那に見せたような抜けた調子でもない。
強いてどちらが近いかと言われれば怒りのほうだが、純然たるそれとは程遠い。不満を抱え込んでいるというのがもっともらしいけれど、単純な不平だけではない様々な思いを、火口のように丸めて燻ぶらせているように見えたのである。
恋離が志水の表情に戸惑うのは、これで二度目だ。
周囲を振り回す質だと思っていた彼女は、どんな言葉を呑み込んでいるというのか。
「ぼさっとしない!」
後ろ髪引かれるように歩いていた背中を小突かれる。重鎮たちの列を尻目に、広間を辞する流れに攫われる。
忙しなく引き返していく女中たちには、この後も山ほどの仕事が待っているのだろう。ただ、御膳所へ引き返す者とそうでない者とで半々に分かれており、一か八かで列を抜けた恋離を誰も責めることはなかった。
三々五々散っていく女中に紛れ、このまま城外を目指すことは可能だろう。
けれど、先を目指していたはずの恋離の足取りは、次第に鈍っていった。
ついには立ち止まった彼女を、すれ違う家臣は不思議そうに眺めていた。
「……? ご苦ろ――」
「すみません、失礼します」
遮るように詫びて、踵を返す。向かう先はもちろん、あの広間だ。
わざわざ重臣を集めての会食なのだ、交わされる情報はきっと有用に違いない。現在の情勢を知る貴重な手がかりになってくれることだろう。今一番勢いに乗っているはずの勢力の本拠地に連れてこられたのだから、見返りがなければ拉致された代償に釣り合わない。
そんな言い訳を心の中で唱えながら、恋離は襖の向こうで垂れる灰色の毛先を追った。
食器の音が静かに折り重なる空間というのは、恋離にとって少しばかり心地よい。特に作法に厳しい古鷹では、宴席であっても落ち着いた振る舞いを求められるため、静謐な食事風景こそが普通だったのだ。
ここ桑畑でも、その当たり前は同じだった。有翼の人が描かれた襖の隙間から、黙々と、美味を語らうにもしめやかに、まだ朝餉を口に運んでいる一同が窺える。
恋離はと言えば、巡回の兵に化けた上で、いかにも警備をしていますという態度で盗み聞きをしていた。先程女中が出入りしていたのとは反対側に陣取ってはいるものの、ちらほら別の家来の往来はある。警備の手の者に見つかれば終わりなので、心臓は高鳴り続けている。
その選択に至るまでに時間を使ったものの、広間の中では話が進んでいるといった様子はなかった。志水はと言えば、相変わらず浮かない顔のままだ。
けれど、しばらくしてから彼女は手を頬に添えて破顔する。新たに運ばれてきた赤い水菓子に舌鼓を打っているようだ。
私室での様子が思い起こされる彼女に、対面の青年が反応した。
「気に入ったか? 赤南の果てに生る、珍しい果実だそうだ。鞍橋商店会が、今回の祝いにと贈ってきたものだよ」
「そう、ですか」
志水に浮かんでいた幸福が、揺らいだ。彼の言葉が、恋離が見出していた燻りに息を吹き込んだかのようだった。
それでも火炎となって燃え上がらせるでもなく、志水は愛想笑いで話題を受け流そうとしている。
けれど、その機微を無視しているのかどうか、
「そうだ、さっき安岐那嬢に会ったはずだよな?」
「それは――」
「呼びに行ったと言うには、随分と話に花が咲いていたようだが、どうだ? 何か南部方面の土産話でも持ってこられたか?」
その声色は、少女たちの語らいを微笑ましく思う大人のものではない。
役立つ情報がないか探る、事務的なもの。人間関係を、家を有利にする手段の一つとしてしか見ていない者の問いかけ。
恋離にもすぐ理解できたそれを、志水が分かっていないわけがない。
「いいえ、上兄様。何もありませんでした」
努めて淡々と告げた志水に、恋離は燻りの一端を見た気がした。
やがて、一同がすっかり箸を置いた頃だ。
上座の男が、聞かせるように手を一つ打ち鳴らした。
「さて、本題に入ろう。現在の情勢について……まずは先日の戦から報告せよ」
重鎮たちの衆目を集めた上で、彼は青年――志水が兄と呼んだ男に目配せした。
志水兄は居住まいを正してから、
「今回、我々が直面したのは、敵勢力による挟撃でした。およそ天音を中心として、東部では蟹河本家の軍が、西部では古鷹軍が、それぞれ反攻を画策したことにより、二つの戦への対応を迫られた形となります」
「…………」
「事前に兆候は掴んでいたため、部隊の展開が間に合ったのが幸いでした。結果として、天音攻略への橋頭堡を築かれるという事態は避けられています。特に私が直率した東軍では、我々弓兵隊の主力を用いたことで順当な勝利を掴みました。しかし、全体で見れば決して当方の被害は少なくありません」
そこで一旦終えた志水兄の言葉を、将校と思しき屈強な男が引き取った。
「西軍は……二十七のミコトが、地に還る結果となりました」
申し訳無さと、隠しきれない悔しさが声に滲む。
概算だが、恋離が対峙した桑畑軍の三割強が斃れたことになる。
その数の中に、恋離が直接殺めた二名が含まれているかと思うと、慣れないごつごつとした今の恋離の手が汗でぬめっていく。
「古鷹軍の奮戦は当初の想定以上で、苦戦を強いられました。本家が秘密裏に西に派兵していたようで、数的不利を押し広げられた形です。年端も行かぬミコトまで駆り出していたという報告もあり、向こうも手段を選ばなくなってきたものと思われます」
「……!」
化けて広間に潜入という豪胆な手を選ばなくて良かったと、恋離は心底安心した。同時に、小さな子供を戦場に送る非道が後世に残されないか猛烈に心配になってくる。忍を名乗った以上、それらしい姿に化けているべきだったか、と後悔がふつふつと湧いてくる。
恋離が下唇を噛んで感情を殺すと、西軍の将は上座に――否、志水へと向き直っていた。
「しかし最終的には、敵軍には我々以上の損耗を与えることが叶いました。弓兵戦力を大きく欠いていたことを考えれば、決して悪くはない結果だと考えています。これも、志水様が敵将を討ち取ってくださったことによるものです」
「おぉ!」
歓声に、彼は笑みを深めながら、さらに志水を手で示した。けれど当の志水に、斬首を成したあのときの面影はなかった。
「初動の戦果が芳しくなかった折、志水様のご活躍により敵軍は混乱、戦況を盛り返すことができました。敵の懐に潜る件の術に、極められた武、まさにお見事でございました」
「そうかそうか。よくやったなぁ、志水」
朗報を受け取った当主の反応に、恋離は顔をしかめた。ねっとりとしているとでも言えばいいのだろうか、彼の笑みや声色は快く言祝ぐといったものではなく、端的に言って気味が悪かった。
それが単に、愛情の方向性が歪なだけならマシだったのだろう。
そうでないことは、讃えられた当人を見れば分かることだ。
「はい、父様」
そこに、何の感情も見えはしなかった。志水の胸の中で激しく燻っているものを、炎も煙も出さないよう、固く蓋をしているようだった。
それがかえって情動の強さを物語る。
父親たる当主も、重臣たちも、その様子を気に留めることはない。個性とか、畏まった場だとか、そういった話で済ませられる範疇では明らかにないのだから、分かっていて無視しているのだ。ぎこちない空気にすらならないのは、恋離には異常としか思えなかった。
きっと、これが桑畑における志水の当たり前なのだ。
そして彼女の態度が取り上げられることはなく、各将による詳細な報告と、それに伴う物資や資金繰り、政治的な話題がぽつぽつと続けられた。その間はもう、聞き耳を立てているだけで十分だった。
やがて、近隣の動静についての報告が終わると、当主がまとめに入る。
「蟹河本家には、今回の勝利を踏まえて十分な配慮を促すとする。その一方、古鷹方面での領土拡大に当面は重きを置き、以て咲ヶ原北部の守りを盤石なものとせよ」
「はっ」
「神座桜の大義は我らにあり! 皆の奮闘に期待する」
めいめい立ち上がる音を耳にして、恋離は静かにその場から立ち去る。
確かに、今手に入れた数々の情報は、鞍替えも視野に入れざるを得ない彼女が、今後立ち回るための判断材料として貴重なものだった。詩家であり歴史家である恋離は、生の声の強さを知っている。文字だけでは得られない情報は、まさに値千金と言えた。
でっち上げの目的にしては、これ以上ない結果だ。
しかし、それでなお当主たちの言葉が、恋離には枝葉にしか思えてならなかった。
思考の中核に居座るのは、人が変わったような志水の様子。
その内側に押し込んだ炎の色を、恋離はきっと知っていた。
生い立ちも、才能も、期待されることも、まるで違うのだろう。むしろ、古鷹天詞という人間は遥かに恵まれていたかもしれない。父・京詞からは、親としての愛は確かに注がれていたのだから。
だが、燻りの源泉は同じなのだ。
家族が、自分を見てくれない。
自分のことを、役割でしか見てくれない。
本当に見てほしいところに、目を向けてくれない。
少なくともそこだけは同じなのだと、我が事のように傷んだ胸が訴えている。想いを秘すのは、従順や無言の抗議などではなく、労力の無駄を厭うただけだろうということも。
けれど、
「まだ、何か……」
もう少し奥にあるはずの理由に囚われる。
桑畑志水とは、策謀巡らせる巨悪ではなく、ただ苦しみもがく一人の少女である。
恋離には、そのようにしか見えなかったのだから。
深呼吸をし、襖に手をかける。
開かれた志水の部屋では、片膝を立てて座る安岐那が算盤を弾いていた。床に広げた通帳には、紙を惜しむようにびっしりと細かい文字が書き込まれている。
「いきなりなんでしょ。しーやんならまだですよ」
入ってきた兵に一瞬だけ目を向けた彼女は、また珠を操っていく。
しかし、部屋に立ち入って襖を閉めた兵の身体が、するすると光の帯へと解けていく様に目を丸くし、そして幼い女の子の姿が現れたところで歯噛みした。
目と目が合って、安岐那は怒りを顕にしたけれど、何と言えばいいのか迷い、どれも喉元で引き返しているようだった。頭をぐしゃぐしゃと搔き、溜息として吐き出した後には、諦観がそこに加わっていた。
じろり、と安岐那が睨め上げてくる。
「なんで戻ってきたんや」
「お腹が空いたんですよ、朝ご飯がまだだと思って」
「ちっ……」
膳どころか、口にできるものが用意されていないのは歴然だった。書き込まれた墨字はまだ乾ききっておらず、根を張って金勘定をしていたようだった。
安岐那は、友の宿願成就を望まないと言っていた。
ならば、その願いのために連れてこられた者を歓迎する理由はない。
「すみませんね」
結果として安岐那の期待に背いた恋離は、軽く詫びながら、冷え切っていた星型の座布団に腰を下ろした。
しばし、二人の間に沈黙が広がる。
安岐那は今更、恋離を無理に追い出すつもりはないようだった。説得の一つでもあるかとやや身構えていたものの、口を固く結んで何も語らない。積極的には応援できないが、さりとて強く止めることも選べない……そんな友との経験を、恋離はぼんやりと思い返していた。
ただ、気まずい空間はすぐに終わりを迎える。
再び開かれた襖の向こうでは、帰ってきた志水が燻った顔をぶら下げていた。
けれど、部屋で待っていた恋離たちを見るやいなや、今朝の不快な出来事が全て霧散したかのように、顔いっぱいに喜びを咲かせた。
「あぁっ、恋ちゃん! ごめんごめん、話の途中だったのに」
「いえ、大丈夫で――」
志水は勢いよく襖を閉めるなり、滑り込むようにして膝を折る。そのまま恋離にぶつかりそうになりながら、志水の両手が恋離のそれを包み込んだ。
今の恋離よりも、昔の恋離よりもなお大きな、皮の厚い武芸者の手。
親愛なる友とも少し違うその手に力を込めて、志水は告げる。
「改めて言うわ。桜を斬りに行くのに、力を貸して」
それは頼みというより、半ば命じているようだった。脅しているというわけでもなく、相手が断るだなんて夢にも思っていない口ぶりだ。
だが、戦場でならいざしらず、もう恋離が怯むことはない。
彼女は真っすぐに見つめ返して、
「それは、身分を隠すためと考えていいですか?」
「そう! 安岐ちゃんが要るって」
名を挙げられた当人は、不満ながら呆れた様子だ。難題をふっかけたつもりが、反則じみた解答を持ってこられて腐っているのかもしれない。
そう、反則だ。本来この時代に、恋離と衣の力は存在しないはずなのだ。
だからこそ、為せることがあるはずだった。
恋離の大目的は、敗北に至る歴史を変えること。しかし、何をするべきか、何をもって変えられるのか、手段は未だ漠然としたままだ。
だが、もうじき戦国は大きな転機を迎えるのだと恋離は知っている。
桑畑の惨劇。
戦国時代に起きた、隆盛を極めんとした桑畑家の凋落に深く関わる事件。
だが、そのような歴史の転換点とも呼べる出来事なのに対し、仔細を伝えるのは胡乱な口伝のみ。まるで意図的に隠されたかのように、実際に何が起きたのか、どうしてそのようなことになったのか、後世に伝わっていないのだ。
皆が知るのは、大家を丸ごと一つ滅びに向かわせたという悲惨な結果と、それを為した主犯の名だけ。
その忌み名こそ、
「桑畑志水……あなたは――」
「……?」
未来の大罪人は、こう見るとただの押しの強い少女でしかない。
事実として、現代に至るまでに不可侵である神座桜が破壊された事実はなく、それは徒寄花の侵攻に際してヲウカたち桜花拝も誓って証言したことである。恋離の歴史では、志水の望みは叶っていないはずなのだ。
ならば何が時代を動かしたのか。
闇に葬られた変動が目の前にあるのに、目を背ける理由はなかった。
世界を救う術が分からないのなら、巻き込まれた大禍の種へと向き合おう。
そのために今は、この麗しき大罪人と共に歩むとしよう。
そこに未来を救う手がかりがあると信じて。
英雄たちはきっと、こうして命運に至ったはずなのだから。
「ええ、お供しましょう」
共犯者として。
あるいは、この少女を知ったその先に、それ以上のものを幻視して。
命運の形代たる衣を、恋離はこの時代の相棒に授けた。