深い深い眠りの果て、もがくように浮かび上がった意識が、見知らぬ天井を捉えた。
「つぅ……」
鉛を詰めたような頭の重さに、恋離は顔をしかめる。差し込んできた朝日が彼女を目覚めに誘ったようだったが、心地よい一日の始まりとは程遠い。眠っていたというより、気絶していたというほうが似つかわしい不快感だった。
しかし、布団に横たえられていた上体を起す恋離は、自分が未だ夢の中で彷徨っているのではないかと目を疑った。
部屋そのものは、梁から天板、畳や調度品に到るまで、質素ながらも良い仕事ぶりが窺える居室である。時代を考えれば、相応の地位にある者の一部屋だろう。ただ、恋離とて次期当主の身だったため、一人には広いこの空間自体に特段の驚きはない。
問題は、その持て余すはずの部屋の至るところに飾られた、可愛らしい数多の人形たちだ。人形と言っても精巧な木彫りのものではなく、蕎麦殻や綿を布に包んで詰め込んだ、いわゆるぬいぐるみである。それが、棚や箪笥の上どころか、雨後の筍のように部屋中に散らばっていたのである。
「ふかふか……」
傍の帽子の重しになっていた、牙を抜かれたような面構えの犬のぬいぐるみを、手慰みに掴んだ。作りは無駄に丁寧であり、外に連れ出して土塗れにするのが憚られる上等な生地を使っている。お花畑で遊ぶ夢に出てくるような脳天気な見てくれとの落差があまりにも激しい。
そんな動物や花、食べ物を象ったぬいぐるみで溢れかえった部屋は、美麗な人形に親しんで育った恋離には別世界のようだった。今が血なまぐさい戦国時代なことを考えると、部屋の主がどれだけ夢見がちなのかが分かろうというものである。
と、そこまで考えたところで、頭に急に血が通っていく感覚が恋離を襲った。
その戦国の戦場で、恋離は負けたのだ。
「あの女……」
ザンカを宿したあの黒き鎧の少女に、生殺与奪権を握られていた恋離は曖昧な返事でその場を凌ぐことしかできなかった。迷い子に変身させられた上で桑畑の陣に保護という名の拘留をされ、撤兵の号令が下るなりあの少女に拉致――もとい、強引に同行させられた。そして同じ馬の上で緊張の糸をずっと張り詰めていたところで、記憶はぷっつりと途絶えている。
果たしてそれが昨日の出来事なのか、それすら自信がなかった。新しい自分を自覚して初めての目覚めなことも相まって、長いこと意識を失っていた気になってくる。
「ふぅー……」
一つ、大きな深呼吸をして、焦燥感を追い出していく。幸先の悪さを、どうにかひとまず横に置いておく。
囚われの身になったはずの恋離ではあったが、縛めの類はなかった。温度差に気が狂いそうになるぬいぐるみたちがいるだけで、見張りの者の姿もない。それこそ、襖を開けてそのまま逃げ出してしまえそうだった。
だが、気づいてしまえば見過ごせない人の気配が一つ、ここにはあった。
耳を澄ませばすぅすぅと、人の気も知らないような穏やかな寝息が聞こえてくる。
その源を辿れば、呼吸に合わせて微かに上下するぬいぐるみの山が。よく見れば、山裾から見覚えのある色の抜けた髪がはみ出していた。
「えっ――えぇ……」
あまり考えたくはなかったが、夢見がちな部屋の主はきっとその中だ。
狂気じみたあの戦いぶりとはかけ離れているのに、恋離はその可能性で頭がいっぱいになってしまった。戦慄に襲われた彼女の手が、ぬいぐるみ犬を無意識に締め上げていた。
さらに、混乱する恋離が立ち直る暇もなく、どたどたどた、と騒がしい足音が廊下から聞こえてくる。
こちらに向かっていたその音が部屋の前で一瞬止まり、恋離は慌てて布団を被る。
直後、襖が軽快な音を立てて開かれると、
「しぃーーーやぁーーーん! 起きぃやーーー!」

部屋に投げ込まれたのは、訛りのある少女の声だ。
主の返事も待たずに、足音はずかずかと入り込んでくる。まるで威勢が脚を生やしてやってきたかのようだ。
そして祈り虚しく、恋離の潜んでいた布団が無情にも引き剥がされた。
『…………』
光の下に晒された恋離との間に、沈黙が挟まる。目が合ったのは、癖のある柿色の長髪を垂らした少女だった。
相手は布団を剥いだままの姿から動かず、布団の中身に面食らっているようだった。しかしそれで頭が真っ白になっているという風ではなく、むしろ恋離に対して「何か言ってみろ」と待っているかのようである。
一見して武装は見受けられず、殺気もなく、まだ話を聞いてくれそうな期待を持てる。彼女は拉致された恋離の存在を知らなかったのだから、下手に逃げ出すよりも先にやれることは多い。警戒を喚起させないこの幼い姿にひっそりと感謝した。
恋離はそっと、引っ張り込んでいたぬいぐるみを顔の前で盾にした。
「……わ、わん」
「なんやわんこ入ってきてもうたんか〜、って誰やねん!」
少女にぬいぐるみをひったくられる。眉間に皺を寄せながらどこか仕方なさそうにするという器用な顔つきで、彼女は部屋に視線を彷徨わせる。
やがて彼女が目を留めたぬいぐるみの山を恋離も眺めると、むにむにと動いて山肌が崩れて始めていた。そこに覗いたのは、悲しいかな、あの黒い鎧の少女のご尊顔であった。
だが、戦鬼のような形相はどこへやら、悍ましいほどだった威圧感すら欠片もない。可愛いぬいぐるみの大群に押し潰されている姿は、敵の大将を瞬く間に屠ったミコトの姿とは到底思えない。
立ち入ってきた少女が、部屋の主であろうミコトの反応を待つ。
彼女は寝ぼけ眼のままこちらを一瞥すると、問いかけの眼差しへ寝言のように応えた。
「……新作ぬい」
「ばちくそ動いとるやんけ!」
座布団の代わりに配られたのは、星のぬいぐるみだった。
しかし恋離には、綿がたっぷり入ったふわふわのお星さまに腰掛ける心地よさを感じる余裕などない。
「なあ……これ誰や」
起こしに来たきたほうの少女が、ため息混じりに問う。おざなりに指差された恋離は、今のところ発言を許されていなかった。
ゆえに、小袖に着替えた元黒き鎧の少女が、胸を張って自信満々に答える。
「拾ったのよ」
「なんでや」
「しぃの計画に要るから」
「どこでや」
「決まってるわ、岩切盆地の戦でよ」
「どーしてや……」
頭を抱え、引きつり笑いを浮かべる訛り言葉の少女。告げる蛮行とは裏腹に、敵であった少女は抜けた調子であっけらかんと答えるばかり。それどころか、伝わっていないと誤解したのか、「だからぁー」と説明を繰り返そうとすらする。
話がうまく進まないと思ったのか、説明を求める眼差しが恋離に移ってきた。
「こう言うとるけど、アンタは?」
いよいよ水を向けられて、恋離は密かに息を呑んだ。拉致は独断専行のようだが、彼女は要は敵に捕まった捕虜のはずである。しかも身分を偽っている恋離に頼れる宛はなく、これからの言動は薄氷の上を渡るに等しい。
この時代の捕虜の運命なんて、離反か始末のどちらかと相場が決まっている。
覚悟をしていた弁明の時を迎え、肝を冷やしながら名乗る。
「夜山恋離と申します。確かに、あの戦に参じていました」
手の甲に浮かんだ結晶を見せるように、わざとらしく膝の上に手を置き直す。人の身だったときより一回り小さくなったその結晶は、未だメガミに至りきっていない半端者の証であったが、身分を示すのにこれほど都合のいいものはない。
自分からあまり話したくない恋離は、振られた話を下手人に押し付けようとしたが、
「その最中、交戦したこちらの――えっ、と……」
名前が出てこない。そもそも、戦場で追い立てられていたときからこちら、名乗られた記憶がないことを思い出す。
困惑していると、察してくれたのか、威勢のよい少女が「しーやん、名前」とじろりともう一方を軽く睨んだ。本人は言われてようやく気づいたようで、なんとも他人事のような反応を顔に浮かべてから、恋離に微笑みかけてくる。
「
「ウチは

二人の名乗りに、恋離はこくり、と頷いた。すぐに口を開こうものなら、驚きに満ちた思考がそのまま零れてしまいそうだった。
源上安岐那。それは、商売のメガミ・アキナの源流を示す名である。
商人としての才覚ゆえにメガミへ至ったのだと伝えられている彼女は、それ以前、ちょうどこの戦国時代において、鞍橋商店会の有力者であった源上家の娘であった。その繋がり自体は、現代で商店会が発行する貨幣・安岐納幣の名の由来でしばしば語られるものである。
しかし彼女の詳しい来歴となると、桜花暦制定からさらに百年以上遡ることになるため、同時代の英雄とされるキリコと共に、確度の低い記録が大半を占める。その点は、近代の英雄たるミズキやサイネとの大きな違いだ。
幼い頃から、歴史に想いを馳せ、英雄に憧れてきた恋離としては、興奮のあまり顔が上気してやしないか心配で仕方なかった。一瞬、あらゆる事情を横に置いて根掘り葉掘り訊きたい質問で頭が埋め尽くされたほどだ。
だが、自制が叶ったのは、もう一つ名乗られた名のため。
歴史に精通する者であれば知らぬはずはなく、ゆえに信じがたく冷静になってしまった、桑畑志水という名。桑畑軍のミコトである以上、出てきても不思議ではない名ではあるものの、記憶の引き出しが少し軋む感覚が否めない。
ただ、考えを整理する前に、志水がまた話を引き取っていた。
「でねでね、戦場で恋ちゃんと出会って、協力してもらうことになってたんだけど……あっ、あんまり詳しい話、してなかったかしら。なるべくすぐ出発したいし、ちょうど安岐ちゃんも来たことだから――」
「はいはい、ちょい待とうか」
制止した安岐那は、顎で邸内のいずこかを示しながら、
「その話する場合ちゃうで。そもそもウチが来たんは、朝飯の呼び出し頼まれたからや」
「あっ!」
「親父さんら、きっともう待っとるでー。はよ行き」
慌てて飛び上がった志水は、短く礼だけ言い残し、襖を快音を立てて閉めて廊下の先へと消えていった。遠ざかる足音はあまりに早く力強く、それが目覚めてから初めて志水に感じた、あのザンカのミコトの面影だった。
安岐那と一緒に取り残された恋離は、ぽかんとするしかない。
志水の態度は、自分勝手に敵兵を拉致した者のそれとはとても思えない。もはや自分を捕虜と呼ぶことも憚られる。なにせ極めつけは『恋ちゃん』だ。五秒くらいしてようやく自分を指していることに思い至ったくらいだった。
「くくく。まあ、そら面食らうやろなぁ」
安岐那があぐら座に右腕で頬杖をついたまま、苦笑いを浮かべていた。こめかみをぽりぽりと掻く様子からして、やはり彼女は志水の奇抜な行動に慣れているようだった。
「代わりに詫びとくわ。アレがすまんなぁ」
「いえ……。志水さんとは長いお付き合いなのですか?」
恋離が訊ねると、安岐那は軽く襟を正して、
「紹介が半端やったな。うちは、鞍橋商店会の東部支部預からせてもらったり、桑畑家の御用聞きやらせてもらっとる源上家が娘・安岐那や。まあ、御大層な肩書並べとるけど、うち自身は駆け出し商人や思ってもらえればええ」
「御用聞き……あぁ、なるほど」
「せや。昔からこの城にもようお邪魔させてもろてたからな、その縁でしーやんとは親友や。今じゃ『志水係』言うて、あのお転婆抑えるの、皆から押し付けられとるんよ。言っても聞かへんこと多いし、そんなん任されてもどないせいっちゅう話なんやけど」
言葉とは裏腹に、安岐那はあまり嫌そうな顔をしていない。大家の子と御用商人の子が幼馴染、というのはそう珍しい話ではないが、ずっと親密でいることは少ない。どちらかが『お付き合い』に疲れてしまうのが大半だからだ。
自分には縁遠かった微笑ましい光景をよそに、恋離は窓越しに遠くを眺めた。
「そっか、桑畑城か……」
「呆れた! まさかあいつ、それすら教えてへんかったんか」
「帰るとしか言われてなくて……」
目を覆い、天を仰ぐ安岐那。そうしたいのは恋離のほうだったが、十分に代弁してくれた気がして小さく苦笑するに留めた。
桑畑は、岩切を挟んで古鷹とは反対側に位置する。これから初志貫徹とばかりに古鷹に向かうには、随分と遠い道のりだ。弱い身体とお別れできたとはいえ、旅慣れていない恋離には気の遠くなる距離である。
戦国生活二日目にして、早くも身の振り方を見直す必要に迫られている。
しかし、ぱん、と手を叩く軽い音が、思考の海に潜るをよしとしなかった。
「さて、ウチのおもんない話はこれくらいにして――」
安岐那がにこにこと、気さくな笑みを浮かべている。
そしてそのまま、今日の夕飯を何にするか相談するような軽さで、本題に入った。
「アンタが何者か、そろそろ教えてくれん?」
「…………」
口をつぐむ恋離。
安岐那の軽快さの裏に、丁寧な警戒が隠されているのは明らかだった。政に関わる者や、それこそ凄腕の商人を前にしているかのようで、うかつな返答は許されない。恋離がそう感じてくれるであろうことも織り込み済みに思えるのが、いっそう油断ならなかった。
空想的な部屋であったり、別人のような志水であったり、起きてからの出来事で緩んでいた気が引き締まるのを恋離はひしと感じた。
これまでの情報と、自身からの言及を胸中でしっかりと精査する。志水にほとんど情報を渡さなかったために、齟齬を気にしなくてよい分いくらか楽だった。
下手に詰まらないよう、唾で口の中を湿らせてから口火を切る。
「自分は、古鷹軍に与していた一兵卒に過ぎませんよ。戦場で志水さんと偶然相対して、敗北を喫し、こうして連れ去られたわけです。それはそれは素晴らしい『出会い』でした」
「……あいつには言わんとき。まんま受け取るで」
盛大なため息をついた安岐那は、肩から力を抜いたようだ。振り回されて迷惑だ、という想いに共感してくれたのなら狙い通りだった。
恋離としても、敵の本拠地で大立ち回りをするつもりはないし、安岐那もそれが分かっていて確認した節がありそうだ。冤罪ではあるが恋離は依然不審人物なのだ、桑畑側の人間として抑えておくべき点なのは間違いない。たとえそれが建前だとしても、だ。
だが、これですっかり笑い話になるかといえば否だった。
安岐那はわざとらしい笑みをやめたかと思えば、志水がいたときの素と思われる顔つきに戻り、少しばかり眉間に皺を寄せていた。
分かりやすい被害ではない、別の何かを彼女は警戒している。
表向きの警戒が解けたことで、むしろ顕になったそれは、安岐那が決めた恋離に対する態度に他ならなかった。
「悪意がないのは信じる。問題は、アンタが連れてこられた理由や」
「理由――」
それは既に、志水が答えている。この場で、安岐那に対して、だ。
志水は、計画と言っていた。きっと、あの耳を疑うような目標の話だろう。
それを平然と告げられ、そして平然と受け入れている安岐那はつまり、
「知っとるで、しーやんのしたいこと」
顔に出ていたのか、安岐那が先んじて肯定した。
けれどそれは、彼女が親友を肯定することと同義ではなかった。
まるで釘を刺すかのように、恋離の目をまっすぐ見つめ、安岐那は言った。
「叶えるとこまでは、うちは全然望んでへんけどな」
「え……」
戸惑う恋離に、安岐那は言葉を補うつもりはないようだった。気怠げに立ち上がる彼女の顔は恋離の位置からはうまく見えず、そのまま出口のほうへとすたすた歩いていってしまう。
何を言えばいいのか、そもそも声をかけるべきなのか、判断に迷っているうち、安岐那は襖に手をかけながら振り返ることなく言った。
「腹、減ってるやろ。適当に貰うてきたるわ」
襖が最後まできっちりと閉め切られなかったのは、後ろ手だからというだけではない気がしてならない。
恋離の前で、星型の座布団が二枚、ぬくもりを失っていった。
空を巡っていく日差しが、うず高く積まれたぬいぐるみにふと遮られる。束の間、一人ぼっちの部屋が薄暗に覆われる。
襖の向こうからは時折人の気配はするものの、慌ただしい朝の賑やかさのようなものはほとんど聞こえてこない。それが余計に、ついさっきまでここにあった騒々しさを嘘のように思わせて、耳を突く静寂に痛みを覚えていた。
ぎゅっと、正座した脚に押し付けた拳を恋離は握りしめる。
緊張から解放された後に待ち受けていたのは、腹の底を抓られるような焦燥感だった。
「っ……」
歴史を変える。その大義を成し遂げる。
だが、初手を挫かれたこの有り様で、命運に胸を躍らせたままでいられようか。
志水のような強者と敵対した不運を呪おうとも、新たな力を貸し与えられた昂揚感に冷水を浴びせられた現実は変わらない。同じ力でも使い手が違えば、と思ってしまうのは、恋離がミコトであった以上避けられないことだ。
結局、自分自身の至らなさに考えが至ってしまう。
命運を帯びたのだろうという自負が、ぼろぼろと剥がれて、必死に掻き抱いても手の中から零れ落ちてしまう。
元より恋離が目指すのは、前人未到の偉業である。当然、やり方なんて知らないし、知る者がいようはずもない。
彼女の得意な歴史に、答えはない。
答えは、自ら作り出さなければならない。
講評してくれる者すら存在しない以上、正否が分かるのは三百年後の未来。さらにもう一度やり直せるだなんて都合のいい話があるわけもない。間違えれば、元の時代に帰ったときに目にするのは、あの荒廃した大地と屍の山である。
躓いた身に、責任が、ひどく重い。
皆に送り出されたわけでもないのに、皆の期待が裏返る妄想が割り込んでくる。死を再度決定された者たちの眼差しが、胸の中から苛んでくる。
振り払うように顔を上げる恋理だったが、そこにもまた無数の双眸が広がっていた。
「うっ……!」
ぞくり、と背筋に走った恐怖に、彼女は思わず立ち上がる。
部屋に蔓延るぬいぐるみたち。
静寂と仄暗さの中、ただの物でしかないはずの瞳に、急に生々しい視線を感じてしまう。感情があるはずもない彼らだからこそ、かえって不気味な恐ろしさがあり、物言わぬ数多の怪物に責められているようだった。
一度意識してしまえば、それは甚く耐え難かった。この部屋に居る限り安寧とは無縁だと、心が訴えてくる。
そもそもここは桑畑城。敵軍の本拠地という大蛇の腹の中である。
それに、先の戦いで直面した恐怖の権化はいずれここに戻ってくるのだ。希望を打ち砕いた女の寝所で安らげるほど、恋離の肝は据わっていない。先程までの抜けた様子も、どうせ一皮剥けば血に狂った武者が現れる。
なにせ相手は、あの桑畑志水だ。
大罪人――それが、後世へ継がれた彼女の異称である。
これ以上彼女に振り回され、命までもが擦り切れるなど、御免だった。
「い、嫌……私は、まだっ……!」
口をついて出そうな激情を噛み殺し、適当な人間に化ける。
恐る恐る襖を開けた恋離は、人の目がないと見るや化け物の巣から飛び出した。