
天音の夜に、斬華大社が煌々と浮かんでいた。
黒衣を羽織った恋離は、夜陰に紛れて境内の森を行く。灯籠や行灯、往来する宮司が携える提灯から小さな燭台まで、敷地に存在するあらゆる明かりが灯されているようで、夜通しの祭事すら思わせる光景が広がっている。
しかし、街から繋がる参道は封鎖され、参拝者の姿はどこにもない。
文や書を抱えた宮司が巣を突かれたように忙しなく行き交う様は、ハレの日とは程遠い。ましてや彼らの表情が、苦々しく暗澹としたものとあればなおさらだった。
だからこうして、裏手から本殿に忍び込もうとする恋離を見咎める者は誰も居ない。降って湧いた凶事に気を取られ、夜警に意識を割く余裕がないのだろう。最初からここまで侵入が簡単だったら、と浮かんできた可能性を恋離は一笑に付した。
欄干をよじ登り、狭い廊下に音もなく足を着ける。
拝殿のほうへと回り込むと、渡り廊下から続く本殿の戸の隙間から、細く光が漏れていた。主がいないのことのほうが圧倒的に多い社に珍しく気配があり、さらには話し声のような音もしていた。
尋ね人かどうか、様子を窺おうと忍び寄った恋離だが、
「隠れずともよろしいですよ」
「……!?」
女の声だった。忘れるはずのない、高慢さが滲んだ声だった。
間違いなくそれは、ヲウカのものだった。
中から投げかけられた声に、戦慄で身体が竦む。その一方で頭は、何故彼女がここにいるのかを理解し、その拙速さにますます慄いた。
けれど、幸か不幸か、幽邃渓谷で襲われたときのような害意は含まれていなかった。むしろ友好的に、会話の席に誘うかのようですらあった。
恋離にはそれが不気味であり、手のひらの上で転がされているように思えた。もはやヲウカの筋書きにおいては、恋離を殺す必要などないということなのだろう。未来のヲウカは周りに自然と助けてもらうように人を動かしていたが、このヲウカのそれは盤上に駒を置くような抗いがたさがあった。
「……失礼します」
緊張を覚えながら、恐る恐る戸を引いた。
本殿の中は、手前側と奥側の二間に分かれているようで、ヲウカは襖の閉ざされたこちら側で膝を折っていた。照明以外に何も家具の置かれていない無骨な板の間であり、隅に何枚か積まれた座布団のおかげで、これで幣殿かあるいは客間のつもりなのだとようやく理解できた。
当のザンカは見当たらない。その代わりに、ヲウカの対面には男がいた。
甲冑姿から宮司へと転身しているが、その顔には覚えがあった。桜花決戦で肩を並べた、蟹河からの援軍・佐沼だ。
「貴様は……」
彼は現れた恋離を見て、小さな驚きを口にした。恋離もまた怪訝に思いつつ、彼が戦場で手にしていた得物を思い出して納得した。
ヲウカも二人の関係までは知らなかったのか、少しきょとんとしながら、
「彼は
「もったいなきお言葉……」
軽く頭を下げる左沼。このやりとりすら当てつけのように思えてしまって、恋離の顔に険が出る。応えるように微笑む二人の腹は知れなかった。
それからヲウカは静かに立ち上がり、入室を促してきた。
指し示すのは、最奥の間。
恋離の目的を最初から知っていたように、彼女は言った。
「少し、二人で話をしましょう」
言うなればそれは、光の繭だった。
桜色の光の粒子が寄り集まってできた淡い膜が表面を覆い、中身を外界との接触から守っている。触れれば儚く散ってしまいそうに見えるものの、求められた機能からして、恋離からの干渉は――そして、中身からの干渉も、一切受け付けないのだろう。
ザンカは、その中で目を閉じ、両手を組んで眠っていた。
体動はなく、胸も微動だにしておらず、時間が止まっているかのようだ。殺風景な拝殿の奥に安置されたその身に、恋離が対話を望んでいた意志はまるで感じられなかった。
史実通り、彼女は封じられた。
目の前で戒められているのはいわばただの器ではあるが、恋離の手の届かない領域でも、ザンカ本人もまた自由を奪われていると思われた。
予想していた光景に、恋離は今更驚くでも嘆くでもなかった。落胆にはもう慣れていた。
事を為したヲウカを窺うと、彼女は淡白に告げた。
「お察しでしょうが、ザンカは此度の事件の責任を取り、しばし私の手で封じられる運びとなりました。大社の方々にも早々に合意していただけて、実に助かりました」
まるで歴史書の記述を確認する程度の軽い口ぶりで、語られた内容の重みを勘違いしてしまいそうなほどだった。当事者の物言いとは程遠いし、教えていないはずの恋離の来歴を前提としているかのような、それは念のための補足であった。
恋離も恋離で、大きな反応を見せなかったのは不審の種になり得た。けれど、ヲウカの前でわざわざしらを切る度胸は、今までもこれからもなかった。
「ミコトは、どうなるのですか」
「お友達のことであれば、ご心配なく。当面、人の世での干渉を控えてもらうだけに過ぎません。短い命では再会は叶わないかもしれませんが、彼女の愛刀を皆から取り上げるほど、私は無慈悲ではありませんので」
つまりこの戒めの立て付けは、桜に仇為すための助力をしたザンカ本人の謹慎ということになる。志水という個人も罪人に数えられているが、ザンカのミコトという単位には何も触れないつもりなのだろう。できなかっただけかもしれないが、ヲウカは素直に言わないだろうし、そもそも強いて推し進める必要はなかったのだから。
あえて何かするでもなく、この後ザンカのミコトは数を減らし、ほぼ皆無の時期が長く続くことになる。忌避感が広まったこともそうだが、こうして封じられたことでまともな請願の門戸が閉ざされた結果である。
突然力を奪って混乱を引き起こすより、よほど平和で、狡猾なやり口だった。
後世の人間として根底にはその忌避感を抱く恋離としては、収まるところへ収まったという印象は拭いきれない。けれど、自分が企図のきっかけになってしまったという一点は、ずっとしこりとなって残る気がしてならなかった。
どこまでが狙いの内なのか訊ねようとしたが、ヲウカの言葉に遮られる。
その語り口は、やや真剣味を帯びていた。
「ザンカ本人が健在とあらば、その力もまた道理。あくまで私は、彼女の自省を手伝ったに過ぎず、この空虚な身という枷の向こうには、依然として鋭利な刃が息づいているのです」
そう言ってヲウカは、眠るザンカへと歩み寄った。
ちょうど胸のあたりに手をかざすと、桜の繭がざわめき始め、抜け殻のようだったザンカの身体が強張った。
やがてヲウカの手に導かれるようにして、白桜色の光の球がザンカから抜け出した。桜花結晶のような依代もなく、ヲウカの精よりも形の不確かなそれは、戒めを切り裂いてヲウカの手中に納まり、そして輝きが揮発した。
もはや不可視となったそれに、恋離は息を呑む。
取り出されたのは、まさしく純粋な力とでも呼ぶべき代物。それも、志水があの夜掲げた刃に感じたものに通じている。
刃の本質。断ち切るという概念を体現せし核。
そんなものを剥き出しにされて、本殿が粉微塵になっていないことが不思議にすら思える。これを意志を込めて向けられたとき、まともに立っていられる自信は恋離にはなかった。
それを手にしたまま、ヲウカは踵を返し、恋離の下へ。
そしてあろうことか、恋離にそれを差し出した。
「あなたは、これを求めてきたのでしょう?」
「……!」
あまりに都合のいい話に、警戒心が湧き上がった。当然だ、一度は命を狙われた相手からの施しなのだから。
しかしヲウカは、一歩後退った恋離が可笑しいとでも言うように微笑みかけてきた。
「必要でなければ、殺生などしたくもありません。今なら、あなたとより良い関係を築けるのではないかと、そう思ったが故の贈り物です」
「良い、関係……?」
「ええ。人のようでもあり、メガミのようでもあるあなたは大変興味深く、私としても色々想像したのですよ。例えば、あの早替りの舞台裏がどうなっているのか……とか」
逃れるためとはいえ、手の内を晒し過ぎたか、と後悔が滲む。
志水の行動に関する事柄しか恋離からは明かしていないのに、ヲウカは既に恋離という存在の答えに近づいているのだと言わんばかりだった。
そして次の問いは、決定的だった。
「この戦国の世は、あなたにとって興味深いですか?」
ぞくり、と。
対面しているのに、首元から囁かれたようだった。
狂人じみていると志水たちに打ち明けなかった因果に、目の前のメガミは辿り着こうとしている。メガミだからこその論理があるのかもしれなくとも、こうして自説を信じ、唯一無二であろう力を勝手に他人に譲り渡すまでする胆力は、あまりに眩しすぎた。
恋離の小さな手を優しく掴まれても、抵抗する気は起きなかった。
刃の本質が、そっと受け渡される。手のひらに乗ったそれは、形も定かではないのに、振るえば何かが断ち斬られるという確信だけがある。あまりに危うい代物だが、無理に振り払って何が起きるか分からず、優しく握らせてくる手を拒否できなかった。
目的を達したというのに、達成感の代わりに募ったのは不安だった。
ヲウカは、恋離が答える前に告げる。
「私としては……この乱世は、あまり好ましくはありませんね」
迷っていた恋離が悪かったのだが、否定の余地を残すようでいて険しさを悟らせる、低きに流すようなずるい言い方だった。
背を向け、天井のさらに向こうを見上げたヲウカは、諭すように語り始めた。
「血で血を洗う、終わりなき戦い……人間たちが地位を欲したことから、この愚かな争いに満ちた時代は幕を開けました。桜の恩寵に与れるのは誰か、守り人の資格を持つのはどの家か、ありもしない権利を論拠に、傲慢で身勝手な闘争を繰り返したのです」
自然の恵みは誰のものでもないが、半端な知性はやがて占有を企てる。神座桜もそれと同じであり、同じに貶めてしまった人間に擁護する資格はない。
花隠れの伝承はいわば、人間の反省の物語だ。
だが、ヲウカが続けたのは愚かな人への憂いではなかった。
「やがて、闘争を求める彼らの意志は、桜へと届いてしまいました。そして、然るべき帰結へと至ってしまい、人間たちをさらなる闘争へと導いてしまったのです」
「…………」
「無邪気に願いを聞いたわけでも、混沌を追い求めたわけでもない。まるで桜は、何かを恐れていたかのようでした」
なるほど、と恋離は得心した。桜を駆り立てていたものの正体が分かるのは、今から約三百年後だ。それも、破滅と共に。
結果的に非道だっただけで、この時代から神座桜は本能的に対抗していたのだろう。
しかし、桜の力が激しく循環するこの時代はもうすぐ終わりを迎える。
ヲウカの嘆きを以て。
「――なんて、実にくだらない!」
振り返ったヲウカの憂いは本物だった。
一人の少女を陥れ、殺戮にすら手を染めた者とは到底思えない憂国がそこにはあった。
「そのような曖昧な恐れのために、人々が死に、苦しむだなんて虚しいにも程がある。民も民で、歪んだ欲を抱えるから、甘言に踊らされるのです。正しい営みの先には、公正で安心できる理想の園が待っているはずなのですから」
だから、とヲウカは言った。
「皆、私を崇め、私の導きに従えばよいのです。私の下では、愚慮に惑う必要などありはしないのですから」
その自信がどこから出てくるのか、為政者としての恋離は素直に羨ましかった。どんな当主にも、ここまで自分の正しさを信じきっていた者はいなかった。当時、時代の中心だった龍ノ宮であってもだ。
これが、主神の器なのだろう。
そして堂々と、締めくくってみせた。

「故に、桜へと届けるのですよ。主神の導き、その必然を」
「んな――」
流石に絶句してしまった。
間違いなくそれは、神座桜への叛意だった。このメガミは、自らの拠り所に対して、手づから否定を叩きつけようとしているのだ。
方向性は異なっても、桜に挑むという点では志水と同じとすら言える。
恋離は思わず周囲に目を向けて、誰も聞いていないことを確認してしまった。場合によっては桜花拝すら分裂しかねない壮大な思想に、聞かされた恋離のほうが肝を冷やしていた。主神の名の下であっても、神座桜原理主義派の誕生は想像に難くない。
無論、おいそれと公にできない考えを語られた理由には察しがついてる。
良い関係を望んでいたヲウカの声色は、胸襟を開くような優しいものだった。
「だからこそ、私には手が要るのです。あなたの背負ったものは、実に意義深い……故にあなたの命運、私が示して差し上げましょう」
差し伸べられた手を前に、恋離に震えが走る。
それは恐れというよりも、見渡しきれない未来に当惑していると言ったほうが正しかった。ましてやこの後の歴史を下手に知っているため、ヲウカがどこまで為したのか、思索がまるで追いつく気がしなかった。
それに付随して、強い違和感が無視できないほどに思考に居座っている。
過去に恋離が縁を結んだ者たちの様子が、脳裏に去来する。
「そんなこと……メガミが、やって……」
しかしヲウカは、笑顔のまま胸を張って是と答えるばかり。
「最古の三柱である私こそが、これを成し遂げるに相応しいでしょう」
「ですけど――」
考えも纏まらないまま反駁しようとして、雷に打たれたような衝撃が意識に走った。
やっていいはずがない、やれるはずがない……次に巡ってきたのは、やれるようにした、というものだった。
違和感の源泉の片方は、かつてヲウカとウツロが一つだったことにあった。
異なる歴史への道を開くため、恋離の知るヲウカは、過去に分離したウツロを取り込まなければならなかった。そもそも何故手放したのかと訊ねたとき、完全な自分にはウツロの権能は相応しくないと疎んだためだと、あのヲウカは秘匿された伝承を語ってくれた。
だが、目の前のヲウカは、最も偉大なる力の一つをそんな理由で捨てるものだろうか。
こうして来歴の定かでない恋離を手駒として欲してすらいるというのに、美意識めいた感情を優先するような人物には思えなかった。清濁併せ呑んでなお自分の完全性を誇りそうなこのヲウカならば、力の巡り全てを司り、桜に対抗している姿のほうがまだ想像がつく。
そしてもう一つは、同じ最古の三柱であるカムヰの態度だ。
感情を深淵に置いてきたような絡繰人形じみた彼女は、恋離に眠る命運とやらを見定めていた際、珍しい驚きと共に意見を態度を改めていた。それはカムヰが自身にしか聞こえない声で翻意を求められたかのようだったことを、恋離はよく覚えていた。
恋離が知る限り、トコヨやハガネといったメガミがそういった天啓じみたものを受け取った様子はない。特別な状況故の出来事かと頭の片隅にしまっていたが、ここに来て一本に繋がる事実を思い出してしまった。
何かに語りかけられるという話は、ごく最近聞いたばかりだ。
躰にウツロの遺骸を埋め込まれたという、あの少女から。
共通点は、一つ。
「最古の三柱、だからこそ……?」
溢れ出した思考が、口に出ていた。
儚く響いた余韻が消え、静けさとの落差が声に出ていた現実を示していた。
はっとしたときには、もう遅かった。
ヲウカの顔から、一切の笑みが失われていた。殺戮を選んだ側の冷徹な権力者の顔だった。
共感を迫っていた圧は途端に沈黙を強いるそれと変貌し、最悪の実現手段に思い至ってたじろいだ。
相手は、不都合な真実を隠してきた存在だ。
書を焼き……そして、人を焼くことで。
「あ……あぁ……」
「正体を見抜かれた事実を、もう少し重く捉えるべきでしたか」
無慈悲な肯定に、重苦しい命の危機が腹の底まで落ちてきた。
咄嗟に逃走手段へ思い巡らせる恋離だったが、この本殿という密室でヲウカを翻弄できる気がしなかった。襖を突き破る僅かな時間で、桜の精に串刺しにされるだろう。
しかし結論から言って、恋離が決死の覚悟を抱く必要はなかった。
ヲウカは落とした面を被り直すように、微笑みを浮かべ直したのだ。
「沈黙を約束させる容易い手段はありますが、そうしないことにしましょう」
「え……」
ある種感化を求めていた先程とは違い、真摯さが垣間見える。
ヲウカの腹の中がまるで分からなくなった恋離が固まっていると、ヲウカはゆっくりと手を恋離の頬に添え、感触を確かめるように優しく撫でた。
開花を担う彼女の手は、冷える山間の夜にあっても温かい。
安堵できるほどではなかったけれど、意図を聞くまで待ってみようと思える程度の温もりではあった。
「弱々しい器……」
そう呟くと、ヲウカはやんわりと恋離を見上げさせ、目を合わせた。
「しかし、歴史を織り、絵図を導くその力は、確かに命運を担うのでしょう。ならば私の道のためにも、今ここにいるあなたを見定めることにします」
「見定め……というと?」
話の流れが掴めず、きょとんとしてしまう。悪いようにはされない雰囲気はありつつも、命運の迷子にでもなっているような恋離としては身構えざるを得ず、中途半端な声色で聞き返してしまった。
ヲウカは一瞬顔を顰め、出会ったときのような高圧的な態度を現した。
告げるのは、導きだった。
「主神ヲウカが同道するということですよ。拒否は許しません。さ、目的地を教えなさい」
一寸先に吹き荒ぶ白亜、礫のように叩きつけてくる豪雪。視界のまるでない道行きが、恋離にはどことなく心境に重なって見える。
もこもこと羊毛の詰まった外套を重ね着してなお、身体の芯まで凍えさせる寒気は如何ともしがたかった。油断すれば転がされてしまいそうな猛吹雪は、元の身体の頃であれば立ち入ろうとすら思わなかっただろう。

そんな北限の極寒の中、恋離の横を歩くヲウカは、体表に薄い結界を張ってどこ吹く風と言った様子だった。もちろん、時折強風に煽られることはあれど、その歩みは淀みない。結界を広げてくれと頼んでもにべもなく断られたが、恋離を置いていくことだけはなかった。
斬華大社での宣言通り、ヲウカにとってはこれは恋離を見定める旅だった。
決して短くはない道中、来歴を問い質すこともできただろうに、ヲウカからその話題を出すことはなかった。おかげで話のネタに事欠く始末だったが、元々和気あいあいとお喋りするような関係ではないので、ある意味では気が楽だった。
けれど、ヲウカは進みを止めることだけは望まなかった。
言葉にしないまでも、その眼差しは絶えず、それでいて終着へ誘う優しさも見え隠れする。その気持ちを裏切ったときに何が起きるのか、想像だにできない。
恋離の人生で数少ない長旅の中でも、輪をかけて恐ろしい道中だった。
「はぁっ……はぁっ……、っく……」
大雪に足を取られ、転びかけながらも前へ。
それでもこれは、絶好の機会だった。進み続けるしかなかった。
相手が破局の黒幕だろうと、幸運なのは間違いない。これが命運の途上なのかは誰にも分からないけれど、縋りたくなる縁であることは確かだったのだから。
目指すは七大名桜が一つ、果桜。
御冬の里を数日前に通り過ぎ、純白と酷寒が支配する北限を越え、どうにか最果てとされる領域に手を伸ばそうとしていた。
そして今、その圧倒的な白に、桜色が混ざり始めている。
壁のような猛吹雪の向こうから、果桜の輝きが微かに見え始めていたのだ。
だが、希望の如き光が迫ったところで、足を止めざるを得なかった。
あり得るはずのない――けれど、遅すぎる第三者からの声が、恋離たちに投げかけられた。
「止まれ」
冷徹に振り下ろされた、極薄の刃のようだった。
吹雪の中から抜け出してきたように現れた人の形は、この北限を守護するコルヌである。恋離は初めて会ったはずなのに、感覚もそう告げていた。
「珍しくヲウカ自らが足を運んだとあって、これまで黙認しておったが……愛しき者たちの碑に手を出すのならば、看過はできぬ」
そう言ってコルヌは、距離を置いて恋離たちの前に立ちはだかる。同じ高さの雪の大地の上に立っているはずなのに、こちらが遥か上から見下されているようだった。
ヲウカは一歩前に出ると、
「あなたの言う通り、主神たる私がわざわざ足を運ぶだけの用向きだということです。ここは一つ、私に免じて、コルヌも一緒に見守るということでいかがでしょう」
「ならん。貴様の面がどこでも免状になると思うな」
「それでは――」
半ば予感していたことではあったが、ヲウカの手が恋離を示した。
本来、矢面に立つべきは恋離なのだから。
「彼女が、私の手の者でないとしたら? それにもしかしたら、あなた自身の使命とも繋がるやもしれないと私は睨んでいるのですよ」
「なに……?」
コルヌはそこで改めて――いや、もしかしたら初めて、恋離をはっきりと見た。視界が悪いせいかもしれないが、ようやく眼中に入ったと表現してもおかしくない様子に見えた。
それはすぐに、品定めするような目つきに変わり、やがて嗜虐的な笑みに辿り着いた。
嫌な予感がして、恋離は衣に手をかける。
予想通り、コルヌが告げたのは宣戦だった。
「いけ好かないヲウカの言葉ごと、試してくれよう!」
言い終わるや否や、コルヌは前傾で屈んだかと思えば、踵の後ろに作った氷の壁を蹴って瞬時に恋離へと加速した。
そして跳躍したコルヌが縦に回転する中から、すらりと刃を履いた右脚が伸びる。
素早い一手は見るからに鋭利である一方、わざとらしいまでの大振りだ。
踵落としの要領で振り下ろされる刃に、恋離は衣の盾を突き出した。
「くぅっ……!」
「ほう?」
頭上で、吹雪が切り裂かれた。しかし、強靭な衣は小揺るぎもしない。
キリキリと拮抗する中、宙空に留め置かれたコルヌは、全く刃が通らない衣に感心しているようだった。一方、その衣に仄かに文様が光る様へは、少なからず関心が顔に出ていた。
飛び込んだ威力が相殺されたのを見計らい、コルヌを払い除けて恋離は後退る。吹雪に紛れるように衣を翻し、ヒミカに変じて銃を構えた。
この戦い、唐突ではあるが恋離には納得できるものだった。
これが己の命運であれば、前に進まなければならない。使命を果たす意志でもって道を開けさせなければならない。
歯を食いしばり、雪に襲われる目を開き続け、狙いを定める。
だが、引き金を引いた刹那だ。
圧倒的な威風が、炎弾を掻き消した。
「ぐぅっ!?」
あまりの強風に、思わず顔をかばう。
冷気を孕んだ凄まじい風に、雪すらも彼方へ追いやられ、一瞬周囲の視界が開けていた。
向き合わされるのは、険しい表情を浮かべたコルヌ。絶対なる北限の番人。
その番人の試練にして、この大雪原の試練を、恋離は今、課されているのである。
かじかむ手が、冷え切った銃の部品にくっつきそうになる。暖かい空気を蓄えていたはずの防寒着が、雪の塊を背負わされているように思えてくる。
凍てつく身体は、人知を超えた寒風に悲鳴を上げていた。
だが、

「ここ、でっ……!」
脳裏に、近くて遠かった英雄たちの姿が浮かぶ。
彼らならば、ここで折れはしない。恋離とて、ここで折れてはならない。
たとえ届かなくとも、手を伸ばすことはやめてはいけないのだから。
試練は、命運は、恋離にそう問いかけている。
「はああっ!」
ヒミカの炎を、眼前の地面を巻き込むように爆ぜさせた。
立ち上る白煙。反動で凍りつきそうになっていた身体を起こし、さらに後ろへ。
そこで身に纏うは、小さくも大いなる影。名をウツロ。
手にした影を地面に叩きつけるように振るえば、雪煙を斬り裂くような黒き波動が、威風を吹き荒らすコルヌへと迫った。
「何!?」
咄嗟に回避を選んだコルヌだが、地面に広がった影は彼女のつま先の刃を捕らえた。直後に斬り裂かれたものの、僅かにでも意識が足元に行ったのは恋離にとって僥倖だった。
再び炎の化身へ姿を変え、構えた二丁の銃の狙いは過たず。
威風に負けぬ力を注いだ連弾が、威風の中を駆け抜けていった。
「がッ――ぬ、あッ……!」
コルヌの身体を、辿り着いた数発が貫いた。未知の攻撃の嵐から身を躱そうとするも、崩れた体勢ではそれも叶わない。
不承不承、結晶を身代わりに立て直し、凍った雪を滑って射角から逃れる。
それに追撃の一手を考える恋離だったが、突然、吹き付けていた極寒の威風が止んで、多少穏やかな吹雪が戻ってきた。
つぅー、と氷の道を来るコルヌに、もはや戦意はない。
試練は、終わりを迎えた。恋離が立っていることが、結果の全てだった。
退避していたらしいヲウカが揃うのを待って、コルヌは告げる。
「深き命運の一端を垣間見た気分だ。確かに、これは我が役割にさえ連なるやもしれぬ。ヲウカ貴様、どこで斯様なものを拾ってきた」
問われたヲウカは、微笑みを返すばかり。
ため息をついたコルヌは恋離を一瞥すると、着いてこいと言わんばかりに背を向けた。
歩き出す直前に、彼女は顔だけ振り返って言った。
やんごとなき使命を果たせ、と。
「果桜への干渉、我が名において許そう」
吹雪く北限にて逞しく咲く桜の根本には、無骨な石碑が山積していた。
恋離はそれらが邪魔にならない位置を探し、懐から取り出したモノを両手で構えた。
不可視ながらに存在感を放つ、刃の本質。
万象を斬り裂き、神座桜にさえ……そして、仇敵にさえ届き得る、ザンカの力の粋。
仇敵――元の歴史で恋離の父が見たという、この果桜を蝕むように咲いた徒寄花は、実際はどんな姿なのかも、咲いていない今、どうなっているのかも分からない。確かなのは、いつかこの桜を踏み台にして咲き誇るということ。
故に恋離は願い、刃に意志を込めた。
この切っ先が、滅亡の芽を刈り取るように。
神座桜とこの大地が殺される因果を、断ち切れるように。
この一太刀が、時間の旅の終わりになるように。
精一杯の意志を乗せ……刃は、振るわれた。