翅を失ったユリナが、石床を砕き、着地した。
「っはッ……!」
己の精魂を絞り出すような息と共に、刃を構え直す。
彼方の枝からの連戦ともあって、彼女の疲労は想像を絶する。しかし、英雄として、武神として、得物を下げることは許さなかったようだった。
そう、手応えはあった。けれど、未知の相手との決着がどこにあるのか、誰も知らない。
ヤツハも、メグミも、アキナも、決定打を浴びた相手の様子を固唾を呑んで見守っている。
イニルの身体は、水中で揺蕩うように仰向けに浮かんでいた。
胴に刻まれた一本の傷跡は癒える気配すらなく、彫像に走った亀裂の如く周囲の肉体が罅割れている。全身が小さく痙攣するたび、その傷跡からは黄緑と青白の混じったか細い光が、鼓動に合わせて出血するように漏れ出していた。
ほうほうの体で彼女の傍に戻った結晶も、何をするでもなく浮かぶばかりで、むしろ主の負傷を反映するかのように軋んだ音を立てていた。
打倒と勝利を思わせる様相。一方で、まだ身体は朽ちていないとも言える。
止めを刺すべきか否か。
ユリナが翅を失ったとて、イニルの身体は少しずつ落ちてきている。着陸を待てないのであれば、まだ飛べるヤツハの手を借りてもいい。
「…………」
けれど、迷いなく斬華一閃を構え直したにもかかわらず、ユリナは逡巡を見せた。それが決して情けの類ではないことは、他のメガミの目からも明らかだった。
新手の途絶え始めた怪物の進軍を背景に、メガミたちが肩で息をする音が小さく響く。しかし、誰も明確な答えを出すことはなかった。
それは、未だ判然としないイニルの本質が故か。
時間に追われるように、ユリナが柄を握り直し、満身創痍のイニルを再び見据える。
けれど、ユリナが踏み出したときだった。
背に守っていた無明桜から光が迸る。
幹の中から飛び出してきたのは、高速回転する車輪を一つだけ脚につけた、大きなやじろべえじみた木偶人形だ。
「ごっきげっんよぉーう!」
「きゃあああああ!」
人形は着地の衝撃で軸が折れ、肩に捕まっていた二つの人影が放り出される。
一つは満足そうに息を荒げるクルル。そしてもう一つは、涙目を浮かべるレンリである。両者とも嵐にでも巻き込まれたように服や髪が乱れており、常識外れの強行軍をこなしてきたのだと窺える。
人形は勢い余って怪物の戦列にまで突っ込み、大暴れして怪物の残党を引き付け始める。
クルルは絡繰銃を構えつつ、きょろきょろと辺りを見回しながら、
「北限はどーにかなりそだったんで、爆速れすきゅーに来たのですが……もしや、一歩遅かった感じですかぁ?」
銃口が、ぼろぼろのイニルを指す。クルルはそこで、ほっと安堵の息を漏らした。
突然の増援に呆気にとられていたメグミが、警戒を取り戻しながらも、疲れた笑みで返す。
「まだ分からないけど、ちょうど、いいのが入ったとこだよ」
「ほー……とするとあれが、眠る脅威ってことですか」
普段通りの好奇心を滲ませ始めるクルル。
それに、地表間近まで降りたヤツハが、
「はい……間違い、ありません。可能性の大樹で会った、そのままです」
「いっちばん反応のおっきなここが、大正解だったわけですな。怪物も残ってますし、くるるんも追いかけてきて正解でした」
「助かります。こちらも、被害が……」
目を伏せかけたヤツハは、頭を振ってイニルを再度注視する。
北限の戦線に目処がついた以上、後は首魁を撃滅し、残敵を掃討するだけ。イニルに関係なく無尽蔵に湧き出してくるならいざしらず、クルルの知らせはヤツハたちに決着の時を確信させるのに十分だった。
故に、メガミたちは気力を振り絞り、幕引きへの決意を固める。
……ただ、ひと柱を除いて。
「おい、腰抜かしとる場合ちゃう、ぞ……?」
懐疑的なアキナの声が、尻すぼみに消えていく。
彼女の視線が捉えるのは、レンリ。
立ち上がろうとして、片膝を立てたまま、固まったように動かない。
その目が、震えている。
見間違ってはならないと見開かれ、けれど目に映る光景が信じがたい。その板挟みで悲鳴を上げる眼球が、震えている。
震えが伝わった手足に、これから勝利を掴み取ろうとする勇ましさはない。
それはきっと恐怖であり、本能が恐怖から必死に目を逸らしている姿だった。
それが、徒寄花打倒を真に願った者の姿であるはずがなかった。
レンリの異様な態度に、メガミ全員に緊張が走る。
誰かが、息を吸った。レンリに問いかける言葉の、前触れだった。
しかし、声になるよりも前に、レンリは呟いた。
「ち、違う……」
皆の視線が、零させた言葉だった。
しかし、仔細を問う色がその眼差しに混じった瞬間、レンリの感情は爆発した。
悲壮が、絶叫を生む。
「こいつじゃないっ! 戦国で見た眠る脅威は、こいつじゃないんですよッ!」
「――――」

時が、止まった。
驚愕すら、誰の顔にも浮かばなかった。
歴戦の猛者が揃い踏むこの戦場で、一人たりとも、反応できなかった。レンリの悲鳴の意味を、汲み取り切ることができていなかった。
頭が理解を拒絶する。
これまでの道のりが足元ごと崩れ去る、その信じがたさ。
けれど、反論したくとも、反論できるはずもない。
レンリは、眠る脅威の危機を最初に唱えたメガミなのだから。
そこに嘘はないと、誰もが分かってしまったのだから。
唯一、事前に対峙したヤツハの証言は、しかし誰も疑うはずがない。
この惨状が、脅威の証。あの犠牲が、脅威の印。
ならば、これは。
これは、絶望であって、絶望でないのだとしたら――
「だ、め……」
「……!?」
反論は、空からだった。
静かに降下していたイニルが、歯を食いしばって顔を傾け、レンリを睨みつける。
ユリナの刻んだ傷跡は、見た目以上に深いようだった。
それでも、イニルは気力を振り絞ってでも否定を唱える。
「思い、出すな……起こそうと、するなぁ……!」
必死で黄緑の輝きを集め、手のひらに収束させる。しかし、槍を生み出す余力はないのか、か細い骸晶の蔦が一本、力なく垂れ下がるだけ。地上も間近であり、後は大地に横たわって消える光景すら目に浮かぶようだ。
もはや脅威ではない。そうとしか見えない有様なのに、悪寒が駆け巡る。
捨て身の覚悟を吠えるような、涙を噛みしめるような、激情が渦巻いているだろうに、その核は敗北による屈辱といった単純な感情では決してない。
戦いの最中で見せた、傲慢ですらある悲壮と同じ。
レンリが、開けてはならないその感情の箱を、ついには開け放ってしまったのだ。
「そのため、に……あたし、だけで、こいつらを――」
「斬ります!」
戦意を耳にして、ユリナが踏み切った。
誤解の余地の一切ない、止めを刺す宣言。結論がどうあれ、生かしておくべきではないという極めて現実的な判断だった。
だが、その判断も無意味に終わる。
石床を踏みしめたユリナの足が、沈んだ。
地面が、蔦へと解ける。
「なっ……!?」
革靴から這い上がった、無数の骸晶の蔦。棘を持ち茨と化した絶望の触腕が、ユリナを既に戒めていた。
足元から湧き出した蔦の拘束は、まるで元から脆い糸で編まれていた地面を踏み抜き、罠にかかったような有様だ。だが、ユリナの驚愕が示す通り、そんな生易しいものではなかった。
か細い気配にもかかわらず、ユリナは正しく反応し、備えていた。
にもかかわらず、刀で振り払おうとした直前にはもう、彼女は必然の如く戒められた状態だった。
速さという領域で捉えることも困難な、不可避の攻撃。
武神の直感すら掻い潜るそれは、ヤツハ以外のメガミを捕らえ、地の底に引きずり込もうとしていた。
「出ずっぱり……です……」
大地が、蔦となりて渦を巻く。陰陽の要として打ち込まれた、黒い石柱も構うことなく巻き込んで、冷えた七色の茨へと解けていく。
茨はやがて隆起し、人の背丈ほどの塊になったかと思えば、表面が徐々に剥がれていく。
骸晶の中から現れていくのは、女の形だった。
儚げに瞳を閉じて、茨の揺りかごで眠り続けているような、長躯の女。イニルに似た意匠の衣をゆったりと靡かせ、玉虫色の長髪は果てなく伸びて地面で蠢く蔦へと続く。
外気に曝される豊かな肉体を、窮屈そうに両腕で抱く。
けれどその声は、どこか無垢で、間延びしたもの。
「あなたたちの、英雄譚は、そろそろ……終わり」

そして全身が露わになったとき、瞼が眠たげに薄く開かれる。
底なしに澱む、その瞳。
見つめているだけで吸い込まれ、意識が塗りつぶされてしまいそうだった。目としての機能が本当にあるか疑わしく、曇りきった黄色い硝子球が眼窩に嵌っていると言われたほうが、まだ納得できそうな悍ましさである。
茨に苛まれるレンリが、恐れに打ち震える。
次第に荒くなる呼吸を噛み殺し、彼女は嫌悪を吐き出した。
「眠る、脅威っ……!」
悲鳴じみた叫びが告げる、最悪の訪れ。
メガミたちは全ての嘆きを呑み込んで、眠る脅威たる女を睨みつける。しかし、敵対心だけを表に出せた者は皆無であり、悍ましき存在を前にした嫌悪感を誰も隠しきれていない。それに疑問を持つメガミもおれど改めることは叶わず、嫌悪こそが必然であると眠る脅威には定められているかのようだった。
その絶対なる嫌悪には、一人だけ例外がいた。
ついに地に横たわったイニルが、軋む首を動かして、割れる身体をもよじって、現れた女を目に入れる。
悔しげであり、なのに愛おしく、相反する望みでぐしゃぐしゃになった感情。
嫌悪や恐怖とは程遠い情念に突き動かされ、喉の奥から溢れる吐息が唇を揺らす。
イニル・マヒル――マヒルが、掠れる声を漏らした。
「イヌル、姉……さま……」
今にも涙を浮かべてもおかしくない、望外の再会を受け入れた光景だった。同時にそれは、辛酸を嘗めさせられた相手と同格以上の敵が合流したという、破滅の邂逅を見せつけられたのと同義だった。
恐ろしい事実にメガミたちが声を失う中、マヒルが弱々しくも、はっと空へ目を向ける。
眠る脅威――イヌルは、その言外の気づきに眠たげに答えるが、
「ん……イヌルが、起こされました。きっと――」
「うおぉぉりゃああぁぁぁぁっ!」
遮ったのは、クルルの気合だった。
陰陽本殿が、大きく揺れる。膨大な力が瞬間的に発露され、彼女を戒めていた硬いはずの茨が、みしみしと音を立てて罅割れていく。
クルルの背に広がるのは、巨大な絡繰の翼。
桜の光を激しく迸らせ、地面に輝きが叩きつけられるほどになったところで、茨を引き千切ってクルルが勢いを余らせたように高々と宙に舞った。他のメガミにはまるで動じなかった蔦が、飴細工のように粉々に砕け散る。
「あぁ、あなたは……そういう」
イヌルが気怠そうに嘆息する中、クルルが左手を右の二の腕から先に這わせ、みるみる内に右腕が装置に包まれる。
脱出したクルルが見据えるは、眠る脅威・イヌル。
「あるてましーんっ!」
右腕の装置から力が溢れ出し、身の丈を遥かに超える膨大な光の刃が顕現する。
宙を蹴り、決死の表情でクルルが吶喊する。
「おめが……ぶれーどぉ!!」
しかし、その背中を、星の瞬きが照らす。
夕焼け色がはっきりと差し込め始めた本殿が、不気味なほどに美しい星空に覆われる。マヒルが発現させたものではない、天窓を越えた先にある本当の空が、時間を飛ばしたかのように夜空に置き換わっていた。
突然の夜陰に、急停止するクルル。きょとんとした横顔が、巨大な光刃と、望まぬ夜桜となった無明桜の明かりに照らされる。
狙われた側のイヌルは、微睡む瞼をもう幾許か開き、星空を眺める。
瞳が期待に染めたマヒルが、すぐにその期待そのものを悔やむように、涙した。
「くすくす……」
闇の中に響く、悪戯めいた幼い少女の声。
クルルがその出処を探る中、声はクルルへと問いかける。
「そんなに頑張って、何を見てるの?」
クルルが眉を顰めた、その瞬間だった。
その手から、輝きが消える。
イヌルを断つための光刃が、力の供給に失敗したように掻き消えた。
生み出していた絡繰は、既に、無言。
代わりに、くすくす、と。
憐れむ声の主は、天窓でくり抜かれた星空を背景に揺蕩っていた。
遠目でも分かるほどに小さな、四尺を超えたばかりかという童女。玉虫色の長い髪がふわふわ揺れるのも相まって、小柄な体躯は綿が風に弄ばれているよう。けれどその眼差しは元気や爛漫といった言葉とは程遠く、達観し尽くしてしまったように冷めていた。
「ほら、やっぱり上手くいかなかったじゃない」
「っ……!」

クルルの顔に、戦慄が這い上がった。そこから眼差しがみるみるうちに険を帯び、ふっと浮かぶ戸惑いすら呑み込まれていく。
まさしくそれは、敵視。それも、怒りや憎しみからくるもの。
滅灯毒から死の恐怖を知り、大切な仲間から友情を知ってなお、着想の輩では在り続けたメガミが見せた、おそらく初めての感情。研究を邪魔する者にだって向けたことはなかった、どうしようもなく湧き上がるような敵愾心。
自分でも感情を御しきれていないのか、クルルの口は反駁を形にできない。
その間に童女は、振り回されているクルルをさらに翻弄するように、くるりふわりと宙をその場で巡りながら語りかける。
「くすくす……そうね。でもあなたは、それそのものじゃない」
回転をやめた彼女が、余った勢いにゆったりと流される。
膝を折り、胸の前で両手の同じ指先同士を合わせた童女は、指の隙間から果てしなく遠い何かと、その先にあるクルルの姿を見つめる。
「わたしだってそう。そんな、こわぁいお顔に意味はないわ。だから――」
その顔が、悪戯めいて、されど儚く微笑む。
そして彼女は、自身の視線からクルルの姿を隠すように、両の手のひらを一度合わせ、そこには何もなかったと示すように開いてみせた。
「はい、消えた」
クルルの姿が、そこにはなかった。
初めから存在していなかったかのように、大きな絡繰の翼ごと、クルルの顕現体がそこから綺麗に消え去っていた。
しばし遅れて、メガミたちが夢でも見たかのように辺りを見渡す。
身震いと共に。
「くるるん、さん……?」
ヤツハの呼びかけに、答えはなかった。
クルルの姿は、どこにもなかった。
少女の言葉通り、クルルは『消えて』いた。
悲鳴一つ……痕跡一つ、残すことなく。
薄ら気味悪い少女の笑いがなければ、何かが起きたことすら忘れてしまいそうなほどに。
「くるるんさんっ!? くるるんさんっ! くるるんさぁんっ!」
「分かってるはずなのに、どうしてかしら?」
悲痛に叫ぶヤツハに、少女がさぞ不思議そうに問いかけ、返答を待たずに勝手に得心したようにまた笑った。
誰も、理解ができていなかった。
否、遡ればマヒルの力にすら、理解が及ばぬままに皆戦っていた。
そして今、何が起きたかすらも理解に苦しむ現象を前に、誰もが絶句する。
「みんな……がんばり屋さん。忘れて、眠れば、いいのに」
うつらうつらとしたイヌルの様子とは裏腹に、ぱきぱきぱき、とメガミたちを戒める茨がさらに力強く繁茂する。
指一つろくに動かせない状態でも、諦める者はいなかった。
けれども、ユリナの威風に揺らがなかった。
メグミの新緑の蔦に動じなかった。
アキナは戒めの配置の書き換えられず、レンリが思いつく限りの権能を引き出してなお、逃れることはできなかった。
それどころか、茨は彼女たちの内側からもじわじわと湧き出している。始めから棘が食い込んだ状態で現れる戒めに、あらゆる努力が水泡に帰す。
「くっ……!」
唯一自由なヤツハが、反撃を覚悟で身体から怪物を呼び出す。
無数に現れる、怪物の手。敵の全てを毟り取る、悪魔の顕現。四人を同時に救い出し、かつ傷を負わせない中での限られた選択肢だった。
だが、
「なん、でっ……!?」
大山を押しているかのように、悪魔の手は無力だった。
妨害すら、されなかった。
星空で編まれた手に纏わりつかれただけの拘束が、どんどん沈んでいく。
やがて、顔も見えないほどに埋まっていき、
「ヤツハ、さん……に、げ――」
か細いユリナの声を最後に、四柱のメガミは地に呑み込まれた。ずるずると地面を這う蔦が蓋をして、後には何事もなかったかのような元の石床が現れた。
残されたのは、ヤツハただ一人。
その瞳の奥にはまだ、敵に抗う意志が辛うじて火の形を保っていた。けれど、目の前で繰り広げられた惨劇に、身体は動くことをよしとしない。戦いの達人が残した言葉が、勇気と無謀の違いを嫌でも思い知らせる。
幼い姿の徒神が降りてきて、ヤツハの前に絶望の化身が並ぶ。
無論、視線が注がれる先はヤツハ。気づけば、倒しきれなかった怪物たちが、徒神らの指示を待つように、静かに無明桜を包囲していた。
もう、桜を守ることは叶わない。
後はただ、ヤツハの処遇が決まるのを待つだけ。
絶望的な、決着。
けれど、幼い徒神が何かに感づいて、怪物の包囲の外へ目をやった。
その視線と交錯するように、怪物の合間を縫って赤い影が飛来する。
向かう先は、ヤツハ。
「かはッ……!?」
胸を、背中から長大な刃が貫いた。
血色の刀身の持ち主は、ただ一柱のみ。それは桜へと接ぐ刃――名を神居剣。
たじろいだヤツハが背後を見ると、戦場の片隅に、桜飛沫を立ち上らせる人の形があった。
胸から上だけになったカムヰが、声を振り絞る。
「……どうか、最後の……めい、うん、を……」
果たしてそれは、実際には残滓のような囁きでしかなく、誰に届いたかも分からない。
力を使い果たしたカムヰの顕現体が、霧散する。
しかし、それとほぼ同時、ヤツハの姿が桜の光に包まれた。
「ぁ――」
そのまま、彼女の姿は光となって収束し、虚空に消えた。残り香のような輝きだけがそこに漂うだけで、顕現体が破壊されたわけではないようだった。
神座桜の前から、メガミが全員、消えた。
しん、と静まり返った陰陽本殿が、静謐とは異なる無音を響かせる。
宙に浮かぶ幼い徒神は、長身のイヌルと目線を合わせるように高度を下げ、言外に語り合うように見つめ合う。
そこに、マヒルの震える声が割り込む。
「イヌル、姉さま……。アクル……」
果てしなく揺れ動く感情が、そのまま声を揺らしていた。倒れたままの顔を、か細い涙が伝っていく。
呼ばれた二人の徒神は、先程までの非道などなかったかのように、優しい笑みを向けた。
「マヒルちゃん、お疲れさま。今は休んで、傷を癒やして……」
「小姉さまは、そのお顔が一番可愛いわ。ずうっと、そうしていてもいいのよ?」
温かい……やり取りだけ切り取れば、ただ仲のいい姉妹でしかない、そんな光景。
けれど、メガミたちを一蹴した徒神たちは、間違いなく侵攻の途上にいた。
無明桜へ、彼女たちの手が翳される。
地より湧き出た骸晶の蔦が、その巨体を覆っていく。忌まわしき宿木が、その輝きを喰らい尽くしていく。
無数に咲き誇っていた桜花結晶の尽くが、光を失う。塵に還ることすら許されず、落ちた抜け殻の結晶が滝のような音を立てて落ちていく。
無明桜の灯が、再び消える。
その名に等しき光景が、二十余年越しに再現される。
否、大いなる影が作り出した闇よりも、この枯れ姿の意味は重い。
ここに、絶望的な侵攻の旗が、打ち立てられたのだから。
「あり、がとう……ごめん、なさい……」
少女は――イニル・マヒルは告げた。
連なる者への感謝と、呼び覚ましてしまった後悔を。
「気にしないで。さあ、いきましょ、大姉さま」
童女は――イニル・アクルは告げた。
向けられた想いへの慰謝と、引き継いだ願いへの共演を。
「うん、ちょっと頑張ります」
女は――イニル・イヌルは告げた。
駆逐への無垢なる肯定と、暴虐への無邪気なる奮起を。
アクルの姿が掻き消える。
上天の星々に溶けゆくように。
イヌルの姿が沈みゆく。
大地の蔦に呑まれるように。
そして、寝転んだマヒルの口端に、複雑な笑みが乗る。
最愛の背中二つを見送って。
最愛であるが故の苦渋を噛み締めて。
今日この日、目覚めた脅威は三つの人の形をしていた。
最古の徒神・イニルノルニル。
絶望の体現たる三姉妹。