人々は、恐れ慄くことしかできなかった。
数多の骸晶で編まれた怪物が蠢く。地の底より生まれたばかりのその身体は、身動ぎ一つするたびにぱきぱきと音を立てる。それが巨体の方々で鳴り響くものだから、まるで砕けた硝子の上を行進されているかのように耳障りだった。
怪物の全容は、誰も知らない。けれど、出来損ないの手を赤子のように彷徨わせる様が、発展途上であることは明らかだった。
だから、怪物が身体を支える手がかりとして、禿げた白金滝桜に寄りかかったことに、特別な悪意はないであろうことも想像がついた。
結果として、桜が幹の半ばから折れたとしても。
「な……」
絶句する人間たちの前で、メガミ二柱だけが決意を固くする。
不朽の光華を散らす者・徒寄花。この怪物こそがその権化であると示すように、起き上がるのに失敗した怪物を、咲いた徒神たちが守るように陣を組む。
地面からは、怪物を育むべく数多の蔦が這い上がっていく。
「きっと、自分で種を広げるつもりなんだ。今のうちに止めないと……!」
告げるメグミに頷いたユリナは、背後で腰を抜かす人々へ叫んだ。
「全員逃げてください! わたしたちでなんとかします!」
「な、なんとかって――」
「いいから早くッ!」
反論を掻き消す威圧感が、所員たちを追い立てた。彼らは口々に悲鳴を上げ、あるいは茫然としながら、この炉室だった場所から逃げていく。有事に慣れていないのか、忍の多くも避難誘導すら満足にできていないあたり、やはりメガミ以外の戦力は無と言って過言ではない。
徒神たちは逃げ惑う人間たちには一切興味がないようで、むしろ居残ったユリナとメグミに冷えた視線が降り注ぐ。
単純な数で考えても明白に不利。
けれど、メグミが地面に打ち付けた唐竿は、戦意強かに光を纏い始める。
「勇者の杖よ……魔女の杖よ……」
黄金と紫紺の輝きに包まれ、呪いの杖が如く変容する得物に、絡みついた新緑の蔦が光の結実たる二色の花を咲かせる。
光は地へ広がり、メグミの背後へと駆け抜け、瞬く間に芽吹くは神威の花園。人を容易く呑み込んでしまうほどの大輪の花の数々が、弓兵隊のように敵を睨みつける。
それは、古都での決戦で目覚め、御しきれなかった力。
しかし平行する枝において、数奇にも再び古都にて決戦に臨むメグミは、今やその力を完成させていた。
やがて訪れる真の決戦を信じ、全てを注ぎ込んできたのだから。
「七指の燭台よ、神の恩寵よッ!」
唱えた瞬間、彼女の杖の花から光弾が放たれる。
刹那、腹の底を叩くような音が圧となって響く。
メグミの攻撃を号令として、花々が怪物めがけ一斉に火を噴いた証だった。
ギリギリギリ、と不快な金属音が、蠢く怪物から奏でられる。
金屑がうず高く積み上がったような巨体は、未だ大地に根を残しているのか、避けようがない弾幕にただ悶え苦しんでいた。果たして痛みを本当に感じているか不明だが、削り取られていく身体をよしとしていないことだけは確かだ。
守り手であろう徒神たちも、嵐のような攻撃を回避するわけにもいかず、その身を賭して受け止めるなり逸らすなり、いきなり釘付けにされている。
見た目には草木なれど、メグミの植物たちは大山をも砕く勢いだ。このまま全てを薙ぎ払ったとて不思議ではない攻勢である。
しかし、いつ止むとも知れぬ攻め手に敵が甘んじるはずもない。
背後へ射撃を通すのを承知で、凍えた桜の花のような容姿のトコヨが宙を行く。
ゆらり、ひらり、と黄緑の花を纏いながら、彼女の姿が怪物の前から右方へ逸れていく。
そして、怪物を狙っていたはずの弾幕の一部が、トコヨを追った。
「な、なんで!? あのデカいのを倒さないと!」
動揺するメグミの叫びも虚しく、右翼に広がった植物たちのほとんどが、トコヨに釘付けになる。如何にトコヨが体術でいなそうとも、一人で捌くには厳しい量だが、時間稼ぎだと捉えればこれほど覿面な対処はない。
メグミの植物は、大半が彼女の命を受けた上で行動する半自律型の駒である。メグミからの供給が続く限り勝手に攻撃し続けるが、絡繰ではなく一つ一つが立派な命である以上、人と同じように危機を覚える存在だ。
放っておくと大変なことになるのではないか――戦場を舞うトコヨが励起させた恐怖は、否応なしに矛先を向けさせられる。
メグミは自らの得物も下手人へ向けようとして、唇を噛んで思い直した。事前に情報が共有されていても抗いがたい恐れを前にして、砲撃部隊の一翼が持っていかれただけで済んでいるだけ幸運だろう。
けれど、弾幕の偏りは攻撃面に穴が空いたことを意味する。
蒼炎を棚引かせ、炎神の成れ果てがメグミへの接近を為す。
「あっ――」
「させ、ませんッ!」
振り下ろされたヒミカの炎拳を、ユリナの刀身が受け止めた。真っ向から切り裂く構えを見せていたが、既でずらされた軌道に合わせて刀の腹を盾とした形だ。
上空から加速を得て放たれた打撃に、刹那、ユリナは無理に抗うことなく刃を下げる。メグミに辛うじて直撃しないように逸し、二柱の間にヒミカが墜落してくる形となる。
「おぉッ!」
気勢を吐き、身体を回転させての斬撃を放つ。
ヒミカはそれに思いっきり床に身体を押し付けることで、脚があった位置を刃が素通りしていく。手と床の間から、反発のための火花が散る。
しかし、ユリナを蹴り上げるはずだったその身体は、地面に縫い留められた。
空振りで前に傾いだユリナが、それを強烈な踏み込みとしてヒミカの右手を戒めた。
「っ……!」
微かに苦悶の吐息を漏らすヒミカの胴へ、ユリナの返す刀が直撃する。
たまらず手のひらを爆発させてユリナから逃れようとするも、読んでいたかのようにユリナは自ら足を離す。爆炎が彼女たちを包み込む中、自由になったヒミカの右腕が余った威力で暴れ、天地逆さのままかえって体勢を崩すはめになる。
隙を見逃さず、振り落とされる斬華一閃。炎で加速された足が鍔を蹴りつけ、一撃、二撃と阻止されるが、続く斬撃の手前に配された桜花結晶が、抵抗を許さない。
「はぁぁッ!」
瞬きする間もない交錯の間に、二度の痛撃。一対一の接近戦に持ち込めば、ユリナに勝てる者などまず存在しない。
だが、メグミの弾幕を誘導されて生まれた余裕は、ヒミカだけのものではない。
焦熱に囚われた思考を冷やすように、戦場を痛烈なる冷気が駆け巡る。
徒神と化したコルヌの力が、瓦礫の海を――そしてメグミの聖域を凍りつかせていく。
「み、みんな、頑張って!」
爆炎から退避していたメグミが、歯噛みしながらさらに力を解き放つ。放たれる攻撃の間隔は広がり、背の低い草花は萎れることも許されずに氷漬けとなっていた。
着実に攻め手を削がれるメグミが、杖の狙いを苦しげにコルヌへと向け直す。
しかし、もう一つ天から落ちてきた異貌が、彼女に回避を選ばせる。
山吹の衣は今や凍み、氷に閉ざされた大地の色を纏う、徒神・ハガネ。
彼女の破壊力を象徴する大槌であったものは文字通り先鋭化し、歪な太い釘のように鋭利な打面が光る。
がむしゃらに振り下ろされたそれが、凍てつき脆くなった大地を硝子のように打ち砕いた。
「うわっ!?」
衝撃が大地を揺らし、粉砕された建材が散弾となって撒き散らされる。無差別な攻撃は辛うじて無事だった機材や配管を尽く破壊し、漏れた櫻力が血のように桜の光となって垂れ流されていく。
間近で食らったメグミが防御を固めざるを得ない一方、容赦のない礫はユリナと、さらにはヒミカにまで迫る。
これ以上巻き込まれては堪らないとばかりに、ヒミカはユリナとの肉薄を放棄して、後方の空へと逃れるべく足元に発火の兆しを見せた。
無論、それを見逃すユリナではない。
「吹き荒れよッ!」
ユリナから発された気が、飛び上がった瞬間のヒミカを捉える。下半身を直撃するように絞られた気風は、離陸前後という繊細な姿勢を乱し、ヒミカの推力をユリナ側へと強制的に向けさせた。
慌てて手からの爆風も使って姿勢を取り戻そうとするヒミカに、ユリナが飛びかかる。
真っ向から突き出された切っ先が、額からヒミカを貫いた。
「ぁ、が――」
噴炎が、息切れする。全身から、力が抜けていく。
最後に一度だけ炎が膨れ上がり、けれど破壊は生み出せず、ヒミカの権限体は黄緑色の輝きとなって解けていく。
「一人、討ちまし――」
歓喜の欠片もなく、ただの報告として叫び上げるユリナだが、言葉尻が消えゆく。
次の標的に踏み出そうとした足が、沈む。
ハガネの破砕によって撒き散らされた瓦礫が邪魔をしているだけではない。石や鉄板によって築かれていたはずの床が、まるで砂漠にでもなったかのようにきらきらとした砂状に変貌しているのであった。
破砕された地面を中心に、じわじわと脆弱な大地は広がっている。
それは人の足が取られる以上に、戦況の要たる植物部隊への侵攻に他ならない。
「伸びやかに、強かにッ!」
育む力をメグミが一層注ぐ。凍気と大地の崩壊に負けないよう、被害の及んでいない深部までさらに強く根付かせる。それと支えとして、自身が立ち回る足場のために、細かい根を砂中にびっしり張り巡らせて周囲の地面を補強する。
迅速な対応が、継戦のための土壌を文字通り整える。しかし、蠢く怪物は徒神の犠牲になど目もくれずに地中から蔦を取り込み続けていて、手足もかなりはっきりとしてきている。じわじわとメグミの戦力が削られた結果、均衡が徒寄花側へと傾き始めていた。
だからか、メグミは冷や汗を流しながら、素早く周囲を窺った。砲撃のみに力を割くためには、無事な大地が望ましい。制御に気を取られたくないと、ダメ元でも探したのだろう。
だが、メグミが見つけたのは次の陣地などではなかった。
彼女の背後、人々を逃したはずのその方向に、人影がある。
やや大柄なその背中に、メグミは目を剥いた。
「銭金さん!?」
落ちてきたものだろうか、瓦礫に袖を挟まれた彼が、砕けゆく地面で踏ん張りも効かずに身動きが取れずにいた。
その周囲では、たくさんの書類が地中に呑まれようとしている。
一瞬の逡巡を経て、歯を食いしばったメグミが力を溜めるように屈んだ。
「今行くから!」
メグミの身体が、足元から急速に伸びた太いバネ状の蔓に弾き飛ばされる。
寸分違わず銭金の下へ急行したメグミは、手にした杖を思い切り地面に叩き込む。もちろんメグミごと沈んでしまうが、杖が持つ輝きが地中へ広がった直後、彼女と銭金の身体がそれ以上大地に呑まれることはなくなった。
急ぎ地面を安定化させたと見るや、抜き払った杖を一振り。軌跡から放たれた小さな風の刃が、銭金を捕らえていた瓦礫の端を削り飛ばす。
後は彼を無理にでもまだ安全な通路に放り込もうとしたのか、メグミの腕が彼の腕へと伸ばされる。
しかし、これは戦場の要が曝してはならない隙だった。
小柄にして大柄な影が、メグミを穿たんと迫った。
「く、あぁッ……!」
ハガネの歪なる鉄槌の切っ先を、輝く杖の柄が受け止めた。ずず、と補強した地面に広げた両足が沈み込み、必死の形相でメグミは耐える。咲いた二輪の花が、嵐のような風圧に弄ばれている。
ギリギリと、釘と木の杖の拮抗とは思えない金切り音が絶え間なく響く。
彼女には逸らすという選択肢はない。図らずも、背後の銭金を庇う形となっている。直撃はおろか、足場を崩されるだけでも彼の命に関わるだろう。通路まで彼が自力で逃げられる退路も、ない。
メグミの荒い呼吸と同調するように明滅する杖。彼女は両手で構えたその杖越しに、鉄槌を振り下ろすハガネを力強く見据えた。
徒神と化した大地の象徴に、表情は乏しい。燦々と降り注ぐ太陽のように眩しいあの笑顔など、面影すら見られない。
これが、メグミたちが幾度目の当たりにした徒寄花の傀儡の姿。
敵意すら、立場故と言わんばかりに棘がない。
けれど、メグミが知己の変わり果てた姿を悼むかと言えば、そうではなかった。
ハガネからは、ただの操り人形とは言い難い意思の片鱗が漏れ出ている。硝子球のような瞳に不気味さよりも違和感を覚えるような、本能的な衝動がこのハガネには確かにあった。
まるで何かを問いかけ、いっそ追及するかのように。
「は、ハガねぇ……?」
メグミが困惑を訴える。ハガネの眼差しはメグミを見ているようで見ておらず、その真意も答えることはない。
だが、ハガネが応える代わりに背後から声が上がる。
「ははっ、くそ……俺を殺そうっていうのか……?」
へたり込んだ銭金が、皮肉げに嗤う。
まるで刃を首元に突きつけられ、諦観に蝕まれるかのように。
力なく襲撃者を見上げる彼の姿に、メグミの顔に居た堪れない感情が滲む。
「銭金、さんっ……」
「俺が……俺たちが、お前らの遺志を蔑ろにした――だから間違ってる……そう言いてえのかよ」
悔しさを噛みしめるような言葉に、メグミは口をつぐんだ。
桜花炉による産業の発展を推し進めた銭金にとって、炉心となったメガミは、悪く言えば利用してきた相手に他ならない。ハガネ自身に……ましてや徒神となったハガネに、そのつもりがなくとも、だ。
果たして、炉は真に正しく活用されたのか。
本物の脅威が顕現した今、予言を都合よく解釈したと謗られれば、彼に返す言葉はない。
そんな銭金が吐いた悔悟とそこに燻らせた不服を介したように、ハガネの目が細められた。
大槌に乗せられた重みがいや増す。メグミの身体が、根をぶちぶちと千切ってさらに沈んでいく。
「が――うあぁッ!」
「ちくしょう……俺はただ、この産業の先をぉ……!」
銭金の拳の隙間から、砂と化した床の鉄板だったものが溢れ出す。涙を堪え、見上げる彼の瞳に映るのは迫り来る死だ。
メグミは、それでも――否、だからこそ諦めなかった。
余分な吐息一つで容易く崩れてしまうこの鍔迫り合いの中、彼女は叫んだ。
「そんなことないっ!」
ほんの一瞬だけ振り返った隙に押し込まれた大槌を、どうにか堪える。
メグミは、絞り出すように続ける。
「間違えたところも、あったと思う! でも、間違えるのなんて、当たり前だから!」
「ぁ……?」
「あたしだって、何度も、何度も、間違えた! 喧嘩だって、いっぱいした! でも、泥塗れでも、遺志とずれてたって……自分が目指す未来があるんなら!」
じりじりと、メグミが杖を押し上げる。張り直した根に支えられながら、拮抗状態へと押し戻していく。
その瞳で燃える意思は、潰えない。
口端さえ釣り上げて、メグミは言い放つ。
「全部が全部間違いだなんて、あるもんか! 開拓ってのは、そういうもんだあぁぁぁっ!」

解き放った気合が、一気に凶器を押し返す。
ハガネは崩されそうになった姿勢を立て直そうと苦慮し、もはや柄を支点に逆立ちのようにすらなって体重をかけている。
けれど、その眼差しを注ぐ先は、嘆くこの歴史の開拓者・銭金幣爾。
メグミが、その視線に割って入る。
今を切り拓く者たちの眼差しが、一本に撚り集まる。
人々を未来へ牽引する弛まぬ縄の如く。
綻んでしまわぬよう、強かに。
「そうでしょ、おっ父……ハガねぇッ……!」
その絶叫が、号令となった。
ドドドドッ、という地を揺るがす轟音の輪唱に、ハガネが振り返った瞬間、その小さな身体が宙を舞った。乱れ咲いた、植物の砲撃であった。
手を離れた歪な鉄槌がメグミと銭金の間に落ち、主は星屑のような黄緑色の輝きの尾を引いて、瓦礫の山へと打ち付けられる。狙いを絞り、十全な威力で放たれた斉射は、ハガネの顕現体を尽く喰らい尽くしていた。
身体が崩れ行く中、無感情な瞳がメグミたちを捉える。
そこに、敵に討たれた怨嗟はない。怒りも憤りもなく、徒神らしい冷え切った表情だった。
けれど、小さく口が動いたかと思えば、彼女は何を言うでもない。
ただ、少しだけ両の口角が上がった気がした。
「お前……」
呟く銭金は、立ち上がろうと手をついたところでふと気づく。ハガネの撃破に合わせるようにして、流砂のようだった大地が鳴動をやめている。
やがて五つ数える間もなく、ひと柱の徒神が光に消えると、彼は改めて跳ね起きた。
瞳に炎を宿し、彼は通路へと駆け出した。
「ここは任せた!」
「うん!」
その力強い背中を目で追うことなく、メグミが戦場へと向き直る。
聳え立つ怪物の威容は変わらず、背に相当する部分から腕とは違う部位が形成されている。まるでそれは、翼に見立てた奇怪な葉のようであった。
前線に駆け出した彼女は、唯一の友軍の姿に目を見張った。
コルヌの冷気から逃れるユリナ。
その手にあるのは刀ではなく、巻物だった。
砂と化す戦場は、ユリナの自由を著しく奪っていた。
敵なる徒神たちは空を舞う。もちろん、ヒミカを除けば機動力に富んだ者はいないものの、そのヒミカが近接戦で圧倒された光景を彼女たちは目撃している。距離を取られるのは必然であった。
「くっ……」
そもそも、相手の目的は時間稼ぎ。怪物が準備を終えるまでに守りきれれば十分であり、ユリナたちの撃破は手段の一つでしかない。その際たるものが、弾幕をその身に集めるトコヨである。
だがこのとき、ユリナは目にしていた。怪物の背に生まれた翼のような葉が、調子を確かめるように揺らめく様を。メグミの弾幕が密度を減らした今、その胎動はようやく自由になれるとでも言いたげであった。
巨体を切り刻んでいる時間はない。それどころか、着々と崩れ行く足場に肉薄すらままならない。
冷徹に見下ろしてくるコルヌを睨み返してから、ユリナは物言わぬ怪物を見上げた。
そこで、はたと気づく。
「そうだ……!」
歯噛みしていたのが一転、決意漲らせ、ユリナは手にしていた斬華一閃をコルヌめがけて投げつけた。
目にも止まらぬ速さの投擲は、しかし相手には躱されるものの、ユリナの強かな瞳は怪物に既に注がれている。
彼女が持つのは、武神としての刀だけではない。
問いかける者の心の形として、顕現させたるは一本の巻物。
疾く開いたユリナが、異なる権能を解放させて告げる。
破滅を運んできた、この怪物へと向けて。
「『あなたは……何がしたいのっ!』」
巻物から、さらには彼女の全身から、意思を込めた桜色の光が迸る。
かつての決戦では神座桜へ。そしてこの決戦では、徒寄花へと伝えんがために。
溢れかえった輝きが、夜天を駆ける星の川の如く、怪物めがけ殺到する。
その力の大なるは、徒神たちと言えど顔を強張らせた。
トコヨが、守りに動く。
「真意は、この胸に……」
台詞を伴い、挑発的に企む顔を浮かべる。どう考えたところで捨て駒程度の扱いしかされていないはずなのに、あらん限りに発された権能があらゆる敵意を吸い寄せる。
ユリナの心の奔流は、だからこそトコヨへと進路を変えた。あまりにも急場凌ぎの策だったためか、怪物の脇を少しばかり掠めたものの、植物の砲火を引き受けていたトコヨへと重ねて襲いかかった。
光に呑まれ、トコヨの表情が抜け落ちていく。茫然自失といった様子が似つかわしく、問いへの答えを致命的にまで持ち合わせていなかったかのよう。
回避も防御も全てを忘れ、彼女の顕現体が崩れ去っていく。
敵の守護神が、消えた。
再び、全ての火力が怪物へと注がれる。
「みんな、最後の一踏ん張りだッ!」
前線へ戻ったメグミが、大輪の花咲く杖を掲げ、残存する植物たちに活力を注ぎ込む。自らも固定砲台となり、苛烈な弾幕は立ち上がらんとしていた怪物に激しく突き刺さる。
数多の破砕音に、ユリナはメグミの正面に立つ。刃を正眼に、メグミを守る構えだ。
怪物が直接攻撃してこない今、残る脅威は後ひと柱。
砲手を排除する選択を封じられたコルヌは、必然、盾となることを強いられる。
弾雨の渦中に飛び込んだ氷の象徴は、聳える怪物や弾幕の範囲からすれば、あまりに心細い壁だ。
しかし、宙でうずくまったコルヌが自ら凍りつき、巨大な氷の盾となる。
よもや氷壁を張り巡らせて攻撃を遮るのかと思われたが、それだけではない。
真に彼女が展開したのは、万物を凍てつかせる冷気。
「届いてない……!?」
絶対零度の領域に差し掛かった弾が、氷霧に絡め取られたかのように動きを止める。砲撃の核となっていた種が纏う炎や光を失い、瞬く間に萎びて落ちていく。
だが、膨大な領域を覆うために無理をしたのか、領域の中心たるコルヌの氷盾へは少なくない数の砲弾が当たっている。否、それは怪物の守りを優先するために、自身を最低限守るための鎧かもしれない。
もちろん、直前で凍てついてしまう種が大半だ。
しかし、過密な砲撃がその凍てついた種までをも押し出し、あるいは砕き、じりじりと鎧を削り取っていく。
「いっけえぇぇぇぇっ!」
そして集中砲火を叩き込み、メグミの放った光弾がコルヌの顔を氷から露わにした。
そこを皮切りとして、次々と砕けていく氷の鎧。修復に回す余力も全て後ろへ弾幕を通すまいとつぎ込んでいるようで、やがて宙に浮かぶ力もなくなったのか、全身が剥き出しになった時点で墜落していく。
それでも、コルヌは微動だにしない。たとえ身体が食い破られていても。
残った氷の鎧ごと地面に落ちたコルヌは、ガシャン! と大きな音を立てて割れた。その顕現体も余すことなく氷と化していたかのように、全身がバラバラに砕け、蒸発していくように輝きへと解けていった。
「メグミさん、翼を狙って――うっ」
氷霧の霧散を待たず、叫んだユリナが腕で顔を庇う。
守護者たちは全て討ち果たした。だが、彼女たちには時間が残されていなかった。
烈風が、廃屋と化した炉室跡に轟と吹き荒ぶ。
骸晶の破片や大地の躯たる砂が、硝子の砂嵐となってあらゆるものを切り刻む。まともに目を開けてはいられず、歩くことすらままならない。
吹き飛ばされた氷霧の向こう、大いなる影が上へ上へと登っていく。
怪物が、奇怪な葉を揺らして飛び立とうとしていた。
「ま、待てッ……!」
身体を切り刻まれながら、メグミが植物たちに命令を飛ばす。けれど、巨体の翼がただ蠢くだけで、突風は花や茎を弄び、一切の狙いを許さない。
怪物はきっと、攻撃しているつもりすらないのだろう。
ただ動くだけで、ただ存在するだけで、それは暴力だった。
風の逃げ場のない屋内なことも相まって、追撃の手すら伸ばせない。
やがて、まともに見上げられる程度の風圧になったとき、巨体の影は既に小さくなった後。
天高く舞う巨体は、まさに異形。
蔦を寄り集めた四束の脚を垂らし、鞭の如く揺れる二本の腕を揺らす。
胴にはいくつもの木のうろのような穴が、ゆっくり生まれては塞がっていく。
そして頭の代わりに頂点に咲き誇る、硬質な黄緑色の巨大な花。
「あれが、徒寄花……」
生まれ変わり、完全になったと呼ぶべき威容が、異史の空に浮かぶ。
真なる顕現を果たした敵を、ユリナとメグミは、歯噛みしながら見送ることしかできなかった。
吹き付けた潮風が、長い髪を弄ぶ。
闇昏千冬は、左手に二つ持った湯呑をサリヤへと差し出した。
「お待たせしてしまいました。特急便の手配に少々手間取ってしまいまして」
「いえ、ご苦労さまです」
両方受け取ったサリヤは、片方を屋根の上に向けて掲げる。すると、海上で襲撃を警戒していたチカゲが音もなく隣に降り立ち、緑茶の入ったその湯呑を受け取った。
芦原精製所の最端部、桜花炉の直上の部屋は今、一角に設けられた隔壁が開かれ、外から中が見える状態となっている。チカゲが落ちたあの部屋だ。階下を見通せる硝子窓も床に格納され、下へ大きな物資を降ろす錆びた鉄縄が激務を終えて天井の滑車でぐったりしている。
彼女たちがいるのは、その部屋の脇で海にせり出す、海路搬入用の小さな船着き場である。昨日と今朝で、陸にある倉庫から運ばれた機材やら何やらが、ここから次々と炉室へと運び入れられていた。
手すりに腰を落ち着けたサリヤに勧められ、千冬もそれに倣う。チカゲは、穏やかで何も起きなさそうな海原でも視界に収めたいのか、二人の前にただ立った。
千冬は自分の分の湯呑に軽く口をつけると、
「色々お手伝いまでしていただいたおかげで、ここまで早く軽微異常の検知までこぎつけられました。本当にありがとうございます。それで、お話というのは?」
そう訊ねた千冬を、チカゲが見据えた。
淡々と、彼女は単刀直入に議題を述べる。
「藤峰古妙について。それから、オボロ様について」
「……あまり、釣り合いの取れない名前が並びましたね」
どういうつもりか、と暗に問う千冬は、少しだけ眉間にしわを寄せていた。ただ、それは理解が遠く及ばない困惑ではなく、本来ただのいち職員である古妙が話題に上るだけの心当たりを匂わせる顔つきだった。
故にチカゲは、望むままに思うところを告げる。
「あの女は独自にも動いています。しかし、桜花炉に害を為すわけでもなく、何かを求め、使命に駆られているように見えました。上に立つ母様のことです、何かしら気づいてはいましたよね?」
問われた千冬だが、答える前にこそばゆそうに苦笑いした。
チカゲが意味を掴みかねていると、
「その『母様』って呼び方は、できれば控えてほしいと……」
「あっ――そ、その……すみません。そうでした」
外套をかき寄せ、恥ずかしそうに縮まって口元を覆うチカゲ。微笑ましそうなサリヤに抗議の視線を送る。
間を置くように空を見上げた千冬は、やがてぽつりと言った。
「察しては、いました。確信も証拠もありませんでしたが、どうやらあの子は……暗躍、しているのではないかと。……あの子はなんと?」
千冬は、チカゲたちが責めに来たわけではないとは分かっているようだった。けれど、その歯切れの悪さは、メガミたちから改めて訊ねられたことを重く考えているのかもしれない。
チカゲは慮るわけでもなく、ただ話を進める。
「時間が限られていましたから、断片的にしか。ですが、信用の担保でしょうか、オボロ様の名を出してきました」
「なるほど……」
「もし、この歴史に絡繰使いのメガミが存在しないとしたら、桜花炉のような技術開発の元締めとして考えられるのは、忍の開祖ただ一人しかしません。あなたのように、櫻力公社が忍を中心として組織されていることも、そう考えれば自然なことです」
ですが、とチカゲは続けた。
その先を待ち構える千冬に向かって。
「相談相手として真っ先に挙げるべきその名前を、あなたは口にしなかった。かといって、炉心になったようでもない。この歴史で、オボロ様に何があったんですか?」
昨日の会談は最終的に着地点を見いだせたからよかったものの、メガミたちにはしこりが残った。その一つが、このチカゲの疑問である。
頼るべき相手としてオボロを紹介されるという展開は理想に過ぎるが、会談中、誰もその名を挙げることはなかった。忌み名というほどではないものの、語る必要がないから意識すらしていないといった調子で、結局訊ねる機会も今まで逸していたのである。
いよいよ問われ、千冬は湯呑に視線を落とした。チカゲたちへの罪悪感で目を逸らしたというよりも、自省を始めたといった趣だった。
ややあってから、彼女は顔を伏せたまま言った。
「私も、知っていることはほとんどありません。しかし、オボロというメガミについて、かつて古妙と話したことはあります」
そこに、開祖に対する敬意の類はなかった。メガミの力を宿す者が皆無となった、この歴史の住人の一人でしかなかった。
「思えば、あの子が不自然に明るく、わざとらしい不真面目さを見せるようになったのは、その頃からだったかもしれません。あの子なりの心の閉ざし方だと考えれば、どこか納得できてしまう気がするのです」
「何を話したんですか?」
チカゲが訊ねると、千冬はそっと立ち上がった。そしてチカゲとサリヤに背を向けて、沖を遠く眺める位置へ歩いた。
力ない背中が、語り始める。
「まだ、私が幼い頃のことです。忍の里の外れにある小屋に、オボロは滞在していました。話によると、随分昔に研究室として使っていた場所の一つだったそうです」
そこで彼女は少し言い淀み、手すりに体重を預けてから、言葉を続けた。
「時々私は、愚かな好奇心で小屋を覗きに行っていました。ですが、オボロと話せたことは一度もありませんでした」
「…………」
「あの人は、何に対しても真っ当な反応を返さなかったのです。時折うわ言を呟いて、何もない宙をただ眺めるばかり。飲まず、食わず、誰と関わるでもなく、日を置いてまた訪ねてみても一切がそのままで、メガミと知ってなお生きていると呼び難い様相でした」
千冬の声は、少しだけ震えていた。
「それが一時期であればいざしらず、実際には何年も続きました。親には触れるべからずと言いつけられていましたが、幼くして知った狂気に手で触れようとまでは思えませんでした」
そして、と彼女は言い、肩越しに横顔を見せた。
「ある日、オボロはそのまま姿を消しました」
失望と混乱と憤りが乾ききった、大人の顔だった。
衝撃を隠せない様子のサリヤとは対照的に、チカゲは顔色一つ変えずに黙ってその告白を聞いていた。
千冬は浅く笑った。
「その頃から……メガミという存在への、不信が根付いていたのでしょうね」
それを聞いても、チカゲは千冬から目を逸らすことはなかった。それが理解や同情なのか、責めているのかははっきりせずとも、少なくとも千冬はひと柱のメガミを前に取り繕うことはなく、疲れたように見返している。
その疲れがどっと去来したのか、千冬は眉間を指で揉みしだき、大きなため息をつく。
「それから公社の技師となり、昇進を重ね、今や総監督の立場。古きメガミたちの遺志が、肩に重くのしかかる一方です」
「…………」
独白が、海風に溶けていく。彼女の瞳は泥を纏ったように艶を失っていて、澱み燻るその様がチカゲと同じ血筋を思わせた。
おそらくこれこそが、不信と責任の間で板挟みになった彼女の心そのものなのだろう。会議の場で保っていた体裁を、千冬は脱ぎ捨てていた。
もちろん、どんな形だろうと千冬は今チカゲたちメガミと手を取れている。銭金に苦言を呈されるほどに保守的な彼女にしては、大きな前進だったのだろう。だが、ここまでの歩み寄りや危機の大きさで辛うじてというあたり、刻まれた溝の深さが知れる。
訪れる沈黙。相槌を打っていいかどうかも分からない空気が、会話に停滞をもたらす。
千冬ははたとそれに気づいて、愛想笑いを浮かべた。
「すいません、話が逸れましたね。纏まった休みをもらった折、里に帰ったときのことです。まだ小さかった古妙に、オボロの叡智について真面目な顔で訊かれたものですから、私が抱いていた想いをそのまま伝えてしまったのです」
「オボロの叡智……とは?」
「他愛もない噂です。里の何処かに、オボロが忍の智慧を残しているという趣旨の、当時流行っていた与太話ですよ。あの狂人じみたオボロを見知った世代は、ろくに信じてはいませんでした。……私も、その一人でした」
後悔が、重く滲む。
幼い古妙には、それより遥かに重い否定だったに違いなかった。
「もしも、古妙の秘密がオボロに由来するものだったとしたら……あの子の抱える才気は、私たちの誰をも超越していたのでしょう」
悔やむように、千冬は吐いた。
「あの子は幼いながらに、規則と符丁において天性の眼力を見せていたのです」
「暗号の天才……ということですか?」
「おそらくは。ただ、見えるものが違ったのか、里では孤立気味だったと聞きます。公社に入ってからも表面的な付き合いばかりで、ひょっとしたら、あの子は誰に対しても失望していたのかもしれません」
自分もその中に入っていると、悲しげな顔が物語っていた。そうでなければ、古妙が内密にメガミと接触する必要などないのだから。
ただ、そんな千冬を素直に慰めることなどせず、チカゲはサリヤの隣で手すりに寄りかかった。
北に伸びる海岸線を眺めながら、チカゲは言った。
「オボロ様にも困ったものです」
古妙が何かを見つけたとして、元はと言えばオボロが開示していれば済んだ話である。どこまで見通せていたかは定かではないが、暗躍しがちなメガミとはいえ、危機を覚える情報を封じておくほど彼女はこの地に愛着がないわけではない。
だが、オボロは現に秘匿を選んだ。
苦い笑みを見せた千冬は、冷静に指摘する。
「ですが、この事態を見る限りは……」
「理由はあるんでしょう。まったく……それでもチカゲや愚弟みたいに、若輩を導くのが開祖の役目でしょうに」
そう言って、チカゲは疲れたようにため息をついてみせた。ただの愚痴になったそれに付き合って、千冬がまた愛想笑いを浮かべようとして、塩梅が分からずに曖昧に微笑んでいた。
開かれた悔悟に、空気は重い。
午後の太陽は西の沖を粛々と目指しており、凪いだ海面をぎらぎらと輝かせる。桜降る代と変わらない光は、それでもこの場ばかりは少しだけ翳っているように見えた。
……だが、その仄暗い穏やかさを、不穏なざわめきが乱す。
室内で開け放たれていた炉室の天窓から、騒がしそうな声がちらほらと響いていた。
三人が顔を見合わせると、一人の所員が彼女たちを見つけて声を上げた。
「所長! 『ミカガミ』に出力密度異常が現れました!」
「すぐに向かいます!」
今まで吐露していた表情を引っ込めて、千冬が白衣を翻して早足になった。チカゲとサリヤもそれに倣い、湯呑を適当な机に置き捨てる。
一行は炉室直上のその部屋を抜け、少し進んだところにある物々しい扉へ。千冬が首から下げた名札を装置の溝に沿わせると、絡繰仕掛けで扉が左右に開いていく。地下にある炉室へはここからしばらく螺旋階段を下っていくことになる。
「『ミカガミ』の稼働率への影響は?」
道すがら問うた千冬に、所員が答える。
「それが、超過駆動が発生している気配はなく、閾値を前後する程度に収まっています。おそらく、『ミカガミ』そのものに起因する異常ではないと思われます」
「先日の『サイハテ』と同様だと?」
「はい、他桜花炉に劇的な変化が起こり、それが伝播したとの見方が優勢です。しかし、今回の影響はあまりに大きく、最大で七倍の密度変化を記録しています」
道中の報告も早々に、一行は地階に辿り着く。本来水鏡桜が輝いているはずの海底であり、白亜の壁を隔てた一部の向こう側には海が広がっている。
炉室はやや末広がりの円筒の形をしており、下部は中心に鎮座する桜花炉が空間の大半を占めている。平常時は全て炉側に取り付けられた計器で稼働を見守っているが、今回の点検のための追加の計器が床を埋めており、技師も増員中とあって手狭になっている。
千冬の登場に、混乱が滲み始めていた所員たちが僅かに安堵する。壁の一角に集っていた者たちは、彼女を招くように輪を開けた。
そこには、大きな木の板にいくつもの横に長い紙が貼り付けられていた。大小はあれど、どれも左から右に伸びる線が乱高下している箇所がある。
それらの記録を俯瞰し始めた千冬に、矢継ぎ早に新たな記録が手渡される。
見比べるうちに、彼女の顔がどんどん曇っていく。
「これは……尋常ではない事態が起こっているようですね。おそらくは西、『シロカネ』からの影響と思われますが……この波形、先日の『サイハテ』崩壊の比ではない……まともに来たら、どれだけ持たせられる……?」
次第に独り言じみていく彼女の見解に、誰も異を唱えない。技師には見ればすぐに分かる程度の、それでもにわかには信じがたい常軌を逸した異常なのだろう。
呟いた千冬は、受け取った記録を鋲で止め、改めて全体が見える位置に立つ。衆目を集めていることをちらりと見て取ると、慎重に考えをまとめているのか、口元を抑えて足元に視線を落とした。
熟慮する長の姿に、所員たちはただ言葉を待っている。たとえすぐ後ろで、次々と異常が噴き上がっていたとしても。
あるいはそれは、過去の経験に即した熟慮だったのかもしれない。
あるいはそれは、初手を見誤らないために必要な時間だったかもしれない。
「ここは……いや、もう少し情報を――」
しかし、その深慮を遮るものがあった。
チカゲの手が、千冬の肩に置かれる。
「そうじゃない……ですよね?」
「……!」
はっと振り返った千冬の顔に、小さな気まずさがあった。言い訳を指摘されたかのように、彼女は目を逸らした。
一度呑み込んだ答えを、そこから千冬が押し通すことはなかった。けれど、新たな選択肢を模索しているわけでもないのだと、蘇らぬ思慮の眼差しが訴えていた。
だから、チカゲは重ねて告げる。
「もし、予感を覚えているのなら。燻りに、蓋をしているのなら」
強いることはない。押し付けることもない。
回る車輪がその硬い轍に導かれる是非を、彼女はただ問うだけ。
その先だけが道ではないと、ただ伝えるだけ。
「後悔しますよ。……チカゲも、そうでしたから」
「ぁ……」
「ですが、チカゲはぎりぎり間に合いました。……また真似事というのも甚だ不愉快ですが、次はチカゲが、母様の背中を押します」

置かれた手が滑り下りて、言葉通り、千冬の背中を支える。
彼女たちに、血の繋がりはない。片や、今となっては人間ですらない。
けれど、垣根を超え、歴史をも超え、その温もりは手袋越しであっても確かに届けられる。
チカゲの背を、こうして送り出した誰かの意思と共に。
「っ……」
千冬が小さく俯き、猜疑を噛みしめるように一度強く目を瞑る。
力強く眦を決することはない。重苦しく開いた瞼から、未だ泥のように澱んだ瞳が顔を覗かせる。
しかし、その瞳はただ曇っているわけではなかった。
乾いて罅割れた泥の隙間から、ちろちろと燃える意思の灯火が垣間見える。埋もれた泥炭が、紫紺の炎を燻り燃やすかの如く。
「でも、私が行ったところで――いや、違う……」
邪魔な不純物を火に焚べるように、口に出した思考を自ら否定する。
深い轍を乗り越えるために。
「私が向かうことも命運で、そこに意味があるのなら――」
一歩を刻んだ千冬の背から、チカゲの手が離れる。千冬の前に広がる一面の記録につかつかと詰め寄って、食い入るように見つめ直す。
それから所員たちが眺める前で、かつかつと歩き出して方々に転がっている計器類を物色していく。既に得られている情報と見比べ、まだどこにも繋がれていない計器に手をついてはもどかしくこめかみを掻く。
やがて彼女は、意を決したように装置の一つの前に立って、その手に無数の工具を取り出した。そして目にも止まらぬ速さで手を閃かせたかと思うと、螺子があっという間に回転の勢いで吹き飛び、外殻が次々と外れていく。
突然の行動に困惑した所員が、
「しょ、所長、何を……」
「銭金さんたちが居るはずとはいえ、事故なら動けない可能性があります。最低限、現地で事態を把握する必要がありますが、その場で修繕を強いられれば、機材の不足は免れえません」
しかし、と千冬は唇を噛んだ。
異変の規模は、状況が刻一刻と変化していることを告げている。
前に踏み出そうとも、崩壊は待ってはくれやしない。
「急行するにも、手段が……」
ここ芦原から古鷹まで、櫻力駆動車でも半日はかかる。それでも向かう価値はあるかもしれないが、全てが終わった後では意味がない。『サイハテ』が瞬く間に壊れた事実が、立ち上がろうとした彼女を地に下ろそうとしている。
取り外した部品を手に、千冬が顔を顰める。
だが、そのときだった。
炉室の底で苦悩する人々の頭上に、影が落ちる。
もはや吊り下げて搬入する物資などないはずだと、誰もが空を見上げた。
天窓から降臨するように浮かぶのは、鋼の騎獣。
翼を広げ、荒い息を吐き捨て、金属音を鳴らして骨身を組み換えながら虚空より現出する。その大きさは、桜花炉のためだけにあるこの炉室程度では、もはや檻としてあまりに心もとない。
そして、螺旋階段から人影が宙へ飛び出す。
「I AM THE SKY. I DEFY YOU. AND I AM THE CROWD. I MYSTYFY YOU. AND I AM THE HEAVEN. I UNITE YOU」
祝詞が如く口上を述べるサリヤが、その背に舞い降りる。
その鋼鉄の姿は、地上の如何なる動物の姿とも、如何なる絡繰の形とも違っていた。
半ばから楽器のように弦が張られた二枚の翼。底で唸る二つの車輪は、桜色に淡く輝いて両側へ大気を散らしている。胴から流線形を描いて連なる最後尾には、眩いばかりに白んで見える光板が、加速の時を今か今かと待ちわびていた。
「TRANSFORM, FORM:GARUDA, GANDHARVA, AND… DEVA!!」
乗騎ヴィーナ。その数ある変形体が合体し、空駆ける機械の脚としてここに現れた。
サリヤはヴィーナを炉室の底すれすれにまで下ろし、身を乗り出して手を伸ばした。唖然とする技師たちにヴィーナの吐息が叩きつけられ、書類が舞い踊る。
「乗って!」
最初にその手を掴んだのは、チカゲだった。
そして乗り込んだ彼女は、サリヤと同じように身を乗り出し、手を伸ばした。
相手は、迷わなかった。
「お願いします!」
千冬がチカゲを手がかりにして、ヴィーナに飛び乗る。
三人を乗せた巨体は、炉室に小さな嵐を巻き起こしながら天を目指し、搬出口から海を切り裂いて飛び立っていった。