じ、と火の灯った芯が焦げる。夜に降りた耳が痛いほどの静寂も、戦時の今となっては貴重なものだ。この瑞泉城の他に、安心して朝を迎えられる場所があとどれくらい残っているのか、誰もあえて問うようなことはしない。
ただ、この場に集った者たちは、そんな現状を正面から見据える責を負っている。
それを共に背負える者が新たに現れたとて、希が感じる空気の重さは変わりそうになかった。
「遅くなりました」

後ろ手に襖を閉めた少女が、この寄り合いの最後の参加者として姿を見せた。足取りに力はなく、表情にも覇気がない。酷く疲れた様子で腰を下ろすその人が――いや、そのメガミが、この地の主神であると言われても、大半の人間は首を傾げるだろう。
「ヲウカさん、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「ええ……今日は少し張り切りすぎてしまいまして。希こそ、無事帰ってこられたようで安心しました」
「うん……」
胸を張って答えられなかった希は、ばつの悪さに目線を泳がせた。
ヲウカが座した側に連なるのは、生き残った人々を束ね、活路を模索する人間側の代表。
依然健在である
そしてこの城の主、
彼ら統率者三名に相対するのは、今日まさに希たちに手を貸した仮面の男。
今は素顔を晒した彼こそは、古鷹の盟主・
「揃ったことだし、始めようか。久々の再会に傾ける盃もなくて寂しいことこの上ないが、まずは古鷹さん、あんたの無事を喜ぼう」
軽口を交える龍ノ宮だが、僅かたりとも笑みは浮かばない。
「そちらも、壮健そうで何よりだ。娘も世話になっているようで」
「……おかげさまで」
古鷹の言葉に応じたのは、希と共に少し離れた位置でこの寄り合いに同席する天詞だった。今は彼らの話を傾聴する本分を果たそうとしているのか、この戦乱の中で再会を果たした父親の姿を、細めた目で静かに見返していた。
古鷹はそれから、列席していたヲウカに目を向けると、
「まさかこの場にヲウカ様もいらしたとは想像だにしておりませんでした。貴方様がここにいらっしゃる、ということは、蟹河は……」
「そう、ですね。そのあたりの情勢をご存じないということですので、まずは我々が瑞泉に身を寄せるまでのあらましをお話ししたほうがよさそうです」
彼女の提案に、瑞泉が頷いて続きを引き取った。
「あの怪物たちは、現れ始めた半年前から急激な速度で我々の町を侵攻していった。狙いは一貫して神座桜。だが、人も町も、他の一切をも慮ることはなかった。いかに積極的に狙われないと言ったところで、怪物の跋扈する土地に人は住めない。そうして、一つ、また一つ、桜と、それを擁する町が奪われていった」
彼はそこまで言うと、懐からくたびれた地図を取り出して広げた。主な桜が存在する位置に点が打たれ、そこにいくつもばつ印がつけられている。南方との境界を示すように何度も引き直された線は、今はこの瑞泉を小さく囲むのみとなっていた。
まず左の指で示したのは、この地の東側だ。
「知っての通り、龍ノ宮の陥落から大家は屈していった。そこから湧く怪物たちと、北緑より南下してきた勢力との挟み撃ちに遭い、桜花拝が死力を尽くすも蟹河は敗北。ヲウカ様は赤東から迂回して辛くも逃れたが、正村氏を始め、宮司の重鎮たちはその尽くが討たれた」
「なんと……」
息を呑む古鷹を前に、瑞泉は次に西を指し、
「西は古鷹が奮闘していたが、咲ヶ原を経由したと思しき敵軍に、鞍橋が落とされたことで状況が一変。そこから瞬く間に陥落し、稲鳴・山城防衛線が築かれることになるが、彼らも必死の抵抗虚しく泥を啜った」
「ライラ様と、ミズキ様はどうされた」
「討たれたさ。顕現体の破壊で済んだようだが、少なくとも半年は戻られまい。山城の民はミズキに逃されて多くが無事だったが、稲鳴の民はその勇猛さ故に……」
その数少ない生き残りの一人が死んだことを、希は知っている。戦場に赴こうとした彼女たちを止めるべきだったのか、希には分からなかった。
瑞泉は最後に、一番新しく引かれた防衛線をなぞる。
「現在はこの瑞泉防衛線を元に、翁玄桜を始めとした桜を守っているところだ。ヲウカ様とウツロの権能によって、少しでも桜の力を強め、どうにか侵攻を食い止めている。そのウツロやハガネに前線へ出てもらっていることも大きい」
「…………」
「我々ミコトもまた戦力を担っているが、それはヲウカ様の尽力によるところが大きい。桜から幾らか離れていても権能を借りられるようになってからは、人、桜双方の犠牲は少なくなった」
ただ、日を追うごとに疲労を隠せなくなっているヲウカには、そろそろ限界が迫っているのではないかと希は胸を痛めていた。しかし、己を含め、余裕に満ちた者などいないという現実が、その心配から閉塞感を生んでいく。
瑞泉は地図を指していた手を戻すと、深くため息をついた。
「どうにか膠着状態には持ち込めている。物資もしばらくは持つ。しかし、獅子身中の虫というわけではないが、頼れるメガミもまた、いつどのように内側から敵に屈するか分からない以上、均衡を保てているとは言えまいよ」
「メガミの変質、か」
唇を噛んだ古鷹が、脚に置いた拳を強く握りしめた。
その呟きに、龍ノ宮が短い問いを発した。
「菰珠の顛末、分かるか?」
「……あぁ、あぁ! なんということだ。そうか、コダマ様もまた――」
「最初は稲鳴・山城との共同戦線だったんだがな。最初は一騎当千の活躍をしていただいてたが、結果はこの通りだ」
地図の上の菰珠には、ばつ印がいくつかつけられていた。
「こうやって直に脅威になる例は多くはないし、顕現した姿もそう目撃されてるわけじゃない。だが、事実として何柱ものメガミが例の変質に襲われてる。原因は不明だが、敵さんの仕業じゃないと疑うのも今更無理だろうよ」
「我々メガミとしても対抗できればよいのですが……手がかりは未だ掴めておりません」
畳に視線を落すヲウカ。項垂れた彼女の首筋に、怪物たちに刻まれていたものを思わせる角々しい文様が見え隠れしていた。ハガネ共々、ここに集まったメガミたちの症状の進行は抑えられているようではあるものの、残された猶予がどれほどなのか知る由もない。
それから、ぽつり、とヲウカは独りごちるように続けた。
「本当に……彼らは何を成そうとしているのでしょう。私たちを――神座桜を滅ぼしたその先に、何を見ているのでしょうか……」
「…………」
誰も、その問いに明確に答えられる者はいなかった。今まで行動を共にしてこなかった古鷹京詞もまた、答える術を持たないようだった。
けれど、彼は深く唸り、誰よりもその問いに心を砕いているように見えた。
やがて古鷹は、険しい表情のままに、顔を上げて切り出した。
「私はずっと、その謎を求めて動いていた。そして、逃げ帰り、ここに辿り着いた。……元凶が存在している、北限からな」
「な……!」
希に動揺が走る。傍らの天詞も、耳を疑うような父親の蛮勇に思わず眉間に皺を寄せていた。
侵攻の経路から、北部にも龍ノ宮同様の敵拠点が存在することは、首脳たちは半ば予想していたことである。けれど、龍ノ宮が陥落して以降、南部に釘付けになっていた希たちに、その予想を裏付ける余裕も、ましてや攻め返す余裕なんてあるわけがなかった。
防衛だけで精一杯のあの怪物たちの本拠地。
そこに乗り込むなど正気の沙汰ではない。
激しい戦いを思わせた姿で現れたのは、事実、古鷹は敵地で生き延びてきたからだったのだ。
「やはり、か」
驚く希をよそに、瑞泉は淡々と古鷹の推測に同意していた。
同様の意見であったらしい龍ノ宮は、冷静に先を促す。
「愉快な土産話が聞けそうだ。何を見てきた?」
「……順を追って話そう」
そう言うと古鷹は、結晶の輝く自分の左手を開いてみせた。
「私が宿すメガミ・カナヱは、この地を襲う脅威を非常に憂いていた。歴史と伝承のメガミとして、ただこの地を見るだけだった彼女が行動を起こすほどには。私は、救世のための彼女の遣い――仮面の預言者として動いていたのだ」
ヲウカ同様、最古の三柱に数えられる存在。そして彼女を宿すことを認められ、遥か太古に災厄へと抗ったと伝えられる英雄たち――昔、天詞から聞いた知識を希は思い出す。
「君たちと同じく、我々も早くから北限に脅威があると睨んでいた。万里を見通すカナヱの権能も、それを支持していた。だが、時を追うごとにその権能も弱まり、現在の北限をくまなく見ることは叶わなかった」
「それで、ミコトの出番になった、と」
「元々、異常らしき異常をカナヱは見つけられてはいなかった。直に確かめに行くのは必然だったんだ。私の他にも役割を与えられた預言者と共に、我々は北限を調査するべく旅立った」
彼は一息置くと、両者の間に広げられたままだった地図のうち、芦原や岩切のある北部一帯に指先を置いた。
そこにはまだ、ばつのつけられていない点が散見されていたが、彼は桜の所在を示すその点を一つ一つ指で潰すように徐々に北上していった。
「古鷹以北の桜は、私が見てきた中ではほぼ全て枯れ果てていた。先程の話からするに、通らなかった北緑地方も同様だろう。つまり、人々に残されたのはこの瑞泉のみと言って差し支えない。まさしく最後の砦だな」
「抵抗勢力は?」
瑞泉が訊ねると、古鷹は感情を抑えるような声色で返した。
「地域住民たちは全滅に近い。桜のない山奥に隠れ潜む者もいるようだ。一方で、進出してきた紅き剣のメガミと千洲波の民は、未だ遊撃手として善戦をしている。合流は望めそうにないが、味方なのは間違いない。安心してくれ」
「……連中、すげえな。まだ保つのか?」
「不明だ。かのメガミの強大な力に依存している面は否めない。行きと帰りで一度ずつ出会ったが、帰りの際には人数が随分と減っていた。楽観視はできまいて」
さて、と間を置いた古鷹は、やがて指を北限へと至らせた。
元凶がいる、果ての大地に。
「北限に辿り着いた我々がまず見たのは、御冬の里の変わり果てた姿だった。屈強な北限の守護者たちはどこにもいなかった。コルヌ様もまた、同様に」
「…………」
「極寒の地には、今までとは比べ物にならないほどの数の怪物が跋扈し、雪をかき分けるようにしてあの結晶質の蔦が這っていた。当然のように、枯れた桜にもそれは絡みついていた。白一色の大地をあの不気味な青が侵す景色は、到底忘れられない」
彼の声色には、恐れが滲んでいるようだった。それが伝えるための演技なのかどうか、判断はつかなかった。
「そこでは怪物たちだけではなく、変質したメガミたちも目撃した。ハツミ様やサイネ、オボロ様……正直、生きた心地がしなかった。必死で逃げ隠れながら進み、私たちは手がかりを求め続けた。結果的に、生き残ったのは私一人になってしまったがね」
「……まじかよ。いや――」
生き残ったほうが奇跡なのだと、龍ノ宮は思い直したようだった。
それほどの無謀を犯してなお、古鷹の表情は明るくない。
彼の土産に希望はないのだと、希は改めて覚悟をし直した。
「我々は、当初の目的地としていた、北限の最奥と言われる果桜にまで辿り着いた。だが、私たちはそれを最初、果桜であると認識できなかった。既に朽ちていた桜には、膨大な量の蔦が絡みつき、全く別の奇怪な大樹にすら見えてしまうほど酷い有様になっていたからだ」
「…………」
「しかし、名桜の骸を侵していたのは、それだけではなかった。少なくない数の枯れた桜を見てきた中でも、他では目にしたことのないものが、そこにはあった」
古鷹はそこで一つ、息をついた。
語る中で再び辿ってきた道筋に、重い疲労を感じていたように。
目の当たりにしたその光景が生む絶望感に、未だ苛まれているように。
やがて彼は、それが何なのか、漏らすように口にした。
「花、だ」
「花……?」
「そう……人ひとり容易く包み込めるほど、大きな大きな黄緑色の花が、そこに咲いていた。まるで果桜を絞め殺した蔦が、勝利の歓喜を叫ぶように、煌々と咲き誇っていたんだ……」
酷暑であっても、大嵐であっても、極寒、果ては水の中であっても。神座桜というこの地の象徴は、他の存在に揺るがされずにあり続けた。
それを枯らしただけでは飽き足らず、堂々と花をつけるその冒涜に、希は声を失っていた。預かり知らぬ神秘の摂理だと受け入れることなど到底できなかった。大地や命を奪われている上に、心の拠り所まで取り上げられた気分だった。
「そのような花をつけた蔦は、今まで報告にはありませんでしたね。私の知り得る限りでも、そのような存在に心当たりは……」
思案顔のヲウカの言葉に、瑞泉が頷く。
「黄緑といえば、怪物の散り際や、ヒミカが桜を枯らした際のことを思い出すが……あれも特に花を咲かせたという話にはなっていない」
「もしかして、北限のそいつが根本だとして、根張りがよくなったんで景気よく満開になったってのか……?」
「我々が相手にしていたのは末端だと? いずれにせよ、その花を咲かせた北限の蔦が特別であるのは間違いないらしい」
龍ノ宮と共に告げられた見解に、古鷹は同意を示す。
「ああ。私もひと目見て、この事態の元凶だと思わず直感したよ」
吐露する彼の声音に力はなかった。
だからと言うべきか、古鷹は語り得る事実を淡々と並べていく。
「故にその花がなんなのか、観察することになった。カナヱが私を通して、ね。結果分かったのは、そこにはメガミの力が集まっているということだった」
「純粋な桜の力、ではなく?」
「そうだ。ヒミカ、コダマ、ハツミ、アキナ、ホロビ、サイネ、オボロ……そして私自身も、トコヨとの繋がりから、一輪の花にだけは、力の流れを感じ取れた。言い様によっては、あの花にメガミが囚われていると言えるのかもしれない」
地図から離した手で、右の手の甲をさする。
そして彼は、一同を順に見渡してから、静かに目を閉じ、ゆっくりと開いた。
まるで、皆に強いた覚悟を、改めて自分に問うたように。
「敵は……神座桜に仇を成し、徒桜たらんとせしめる寄り花――」
その覚悟が、勝利のためのものであればどれほどよかったか。
それは、己らを苦境に落とす存在とこれからも相対するためのもの。
絶望の中で相手を見据えるための名を、彼は口にする。
「
しん、と。
古鷹の吐き出した情報が、静寂の中で皆へ染みていく。
彼は、ここで終わりだと言わんばかりに瞳を閉じて、反応を待っていた。その先を――ならば何を成せばよいのか、反撃のための策を提供できなかった慙愧の念に耐えるように、裾を強く強く握りしめていた。
「…………」
だからこそ、希たちは考えなければならなかった。
もたらされた情報に圧倒されようとも、絶望的な状況にただ呑まれることなく、その先を考えなければならなかった。
だが、その情報が蛮勇とすら言える行為によって得られたという事実が、枷となる。
北限に元凶がいる。
徒寄花を討ち倒せば、事態は収束する。
囚われていたメガミたちを助け出せる。
言葉にするだけなら、なんと簡潔な可能性。
けれど、
「できる、のか……?」
震える声で思考を口から零したのは、龍ノ宮だった。
抗戦すらまともに行えていないというのに、攻め入るだなんて非現実的にも程がある。敵将の首はいつだって安くはないのだから。
瑞泉は、龍ノ宮が同じような考えを巡らせているのだと悟り、
「仮に……仮に、だ。ここに集ってる腕利きとメガミたちとで北限に向かったとして、撃破の可能性はどれほどある……?」
「北に桜がもうないことを、お忘れですか……?」
「ふっ、過程の話にすら至れないとは」
ヲウカの反論に、瑞泉は苦笑いを見せた。
それに、と古鷹がさらなる懸念を述べる。
「瑞泉に身を寄せた民は? 桜は? 戦力を攻勢に回すのであれば、もはや袋の鼠と化した生き残りを守り切ることはできまい。その場合、おそらく最後の大桜たる翁玄桜が朽ちることになるが……」
「ヲウカたちがなんとか保たせてる現状からすりゃあ、考えたくもない。守りは、削れねえ。これ以上、人も、桜も、失うわけにはいかねえよ……」
悲痛な面持ちで、龍ノ宮は己の頭を鷲掴みにしていた。そのままこのどうしようもない現実への苦悩を握りつぶしてしまえればいいのにと言わんばかりであった。
そんな父親の姿を、希は初めて目の当たりにした。共に過ごした時間は短くても、彼がこのような態度を見せるのはきっと初めてだと、そう思えていた。
ただ、彼女にとっての龍ノ宮一志は、幼少期に聞かされていた武勇伝に出てくる、豪放磊落で無鉄砲な傑物であった。
だから希は、年を経てある種の暴勇さを失った彼の言葉を、らしくないと感じていた。
ならば、と彼女は思うがままに龍ノ宮へ反論する。
「なんでよ! 確かに守るだけでも大変だけど、このまま奴らにいいようにされたままでいいの!? 敵の居場所は分かったんだよ? なんなら、あたしがその徒寄花をぱっとやっつけに行くからさあ!」
「馬鹿野郎! できもしねえこと口にしてんじゃねえ! それがどれだけ無茶なことか、前線に出てるてめぇが一番分かってんだろうがよ」
「でも、このままじゃ何も変わらないじゃん! 黙って全滅するのを待つなんて嫌だよ!」
それもまた、前線に出ているからこそ理解していることだった。戦力が減り、桜を守れずに失い、弱った戦力はさらに数を減らす。その悪循環は、どこかで断ち切らなければならない。
しかし、龍ノ宮はその現実を知らないわけではない。だからそれそのものに反論することはなかった。反論できないからこそ、板挟みによって生まれた苦痛が、彼の額に深い皺を刻み込んでいるのだ。
攻めるか、守るか。いずれ、どちらか選択を迫られる。二人の言葉は、その縮図だった。
それを理解しているのか、判断材料を持ち込んだ当の古鷹は、じっと希のほうを見て熟考しているようだった。こうなることが分かっていてなお報告しなければならなかった彼の心情は、察するに余りある。
「……まあ、ここは一度時間を置こう」
見かねた瑞泉が、休会の提案を出す。
希はそれにこくりと頷き、龍ノ宮は深い溜息で肯定を示し、緩慢に立ち上がった。
「もういい時間だし、また明日にしよう。布団の中で、妙案が思いつくかもしれねえしな」
「考えを整理するのに、目が冴えて敵わないだろうな」
そのまま、三々五々に部屋を後にする。希としても、昼間の戦闘から急いで城に戻ってこの寄り合いだったため、そろそろ身体が重くなってきた頃だった。
けれど、立ち上がった希の肩を、皺の寄り始めた手が掴んだ。
「京詞さん……?」
隣にいた天詞も廊下に出ており、明らかに他人の目を意識した頃合いだった。
そして、作り物かどうか分からない柔和な笑みを浮かべ、彼は平然と嘘をついた。
「寝床に案内してもらえると助かるのだが」
「え……」
彼にはもう、希が直接部屋を案内している。迷うほど入り組んだ場所でもない。
やや困惑する彼女に、古鷹の眼差しが先程までの真剣さを帯びて見せた。
まだ告げることがある――そう訴える彼に深く頷いて、希は古鷹と共に部屋を後にした。
差し込む月光に伸ばした背筋を晒す老体を前に、希は息を呑む。
「あたしだけ……よかったんですか?」
二人きりの空間で、恐る恐る声を発する。まだ空きのあった賓客用の客間で、両隣に人はいない。けれど、声を張り上げれば、並びの部屋で眠っている人々がすぐにでも目を覚ますであろう、そんな位置。
古鷹は希の問いに、目を真っ直ぐに見て答える。
「むしろ、希君だけにこそ聞いてもらわねばならん。他の者に左右されることなく、君自身の意思で決めて欲しいからだ」
「決める? 何を……」
今度は、答えなかった。覚悟を固めたような彼の面持ちに、希は疑問を重ねなかった。
彼は仕切り直すように間を置くと、
「まず、君に知ってもらいたいことがある。最古の三柱たる、カナヱの真の権能についてだ」
古鷹の切り出した内容は、希にとって予想できるものではなかった。北限の地でもっと別の何かを見た、といったことではないかと想像するも、無駄だと悟って考えるのをやめた。
だが、古鷹が続けた言葉は、先をおとなしく待っていた希の理解を超えたものだった。
「万里を見通す、歴史を俯瞰する、それを物語として視せる……それらはあくまで、仮面のメガミという表の顔に過ぎない。カナヱの本来の権能は、同胞の天つ空を視る力――こことは異なる歴史を歩んだ世界を視ることこそが、鏡のメガミ・カナヱとしての本当の権能だ」
「異なる、歴史……?」
言っていることは分かる。けれど、理解が追いつかない。まるで、目の前で荒唐無稽な絵巻物を語られ始めたようだった。
古鷹はその反応を百も承知だったのか、
「例えば、だ。徒寄花が存在していなければ、この世界はどうなっていたと思う?」
「どうなって、って……そりゃあ、皆平和に楽しく暮らしてると思うけど……」
「そう。人々が平穏な人生を送っているに違いあるまい。けれど、それはあくまで可能性の話であって、我々は実際に徒寄花に苦しめられている。だが、徒寄花が存在していない世界の住人からしてみたら、我々の状況こそ『もしも』だと思わんかね?」
彼は懐から扇を取り出し、正面に向けて開いて見せた。
要の部分に下から伸ばした指を当てると、その指から一本一本の骨に枝分かれしていくようになぞっていった。
「この世は、そんな異なる歴史を選んだ世界が、可能性の枝に分かたれた先で無数に存在している。常人では決して見ることも触れることも叶わない、もしもの世界では、その世界で生まれ生きた希君が暮らしている」
「えっと……その別の世界を見れるのが、カナヱさんの本当の力ってこと?」
「ああ。そして、異なる世界のカナヱたち同士で繋がることで、あらゆる世界を俯瞰し続けてきた。全てを視るとは、この世界だけには留まらない」
例を出してもらって、希はようやく古鷹の言わんとしていることを噛み砕けた気になった。けれど、実感は到底ないし、夢物語だという感覚が抜けきらない。厳しすぎる現実を突きつけられた後だから尚更だった。
ただ、だから希は、夢のような可能性を胸に訊ねた。
「その別の世界を視たら、何か対策が分かるんじゃ。もしかしたら、徒寄花を倒した世界だって!」
「……そうできれば、どれほどよかったことか」
「…………」
やはり夢は夢なのだと、彼は否定していた。
現実を、彼は語る。
「カナヱの言う……この世界と『近い』、『目の届く』世界は、全て潰えつつあると思われる」
「……!」
「それどころか、神座桜の弱化に歯止めがかからず、この一年でカナヱが異なる歴史を視ることそのものが困難になってしまった」
ヲウカとウツロがどうにか維持している現状を思い出し、希は納得せざるを得なかった。
勝者に方法を問うこともできない。それ以前に、勝者すらいないかもしれない。つまりそれは、あれこれ試したところで徒寄花に敗北する未来しか残されていないという、行き詰まりを示唆してすらいた。
可能性を示されるどころか、可能性を摘まれてしまった。
そうやって絶望を上塗りするための呼ばれたのかと、耐えるようにして希は古鷹の言葉の続きを待った。
そして、その期待に応えるように、彼は可能性を示した。
「だが……もしかしたら、と思える事がある」
ぴくり、と希の眉が小さく跳ねた。
「そうなる以前……それこそ十年近く前から繋がりを失ったカナヱが、一人だけいる。原因は不明。しかし、これが現状我々が知る唯一の例外であり、残された希望なのかもしれない」
「じゃ、じゃあ……!」
ぱあっと、希の表情に光が射した。
「早く皆に知らせないと! 桜の力が足りないとか、色々問題はありそうだけど、打開策が分かるかも――」
彼女の言葉は、古鷹の示した制止の手によって消えていった。
思えば、彼はまだ、意思を求めるほどの問いを投げかけてきていない。
希一人で決めて欲しいのだと、古鷹は彼女を呼んだのだ。
「ここからが本題だ」
浮きかけた腰を落とし、再び続きを待つ。
だが、古鷹の告げた内容は、希を絶句させるに足るものだった。
「この地を守ることは、もはや叶わない。私とカナヱはそう考えている」
「な……!」
何故、とすら声に出なかった。今後のための話なのだと身構えていたのに、裏切られたかのようだった。
けれど、一方で古鷹の眼差しは絶望に澱みきったそれではなかった。
どれだけ小さくても、その選択が苦しくとも、固い意思で光を見据える者の目だ。
希の中で、抗弁する意思と古鷹を信じる意思がせめぎ合う内に、彼は言葉を継いだ。
核心を、希に伝えるために。
「しかし、この世界があったこと、この世界が続いてきたという事実だけは、受け継ぐことができる。原初のヲウカの権能を用いて神座桜の一部を種へと還し、新天地へと向かえば、我々が存在した証を残したと言えるだろう」
「新天地、って……もう行く宛なんてどこにも――」
「ある。希望の世界が、たった一つ」
それが、カナヱが繋がりを失った世界。
ここで戦い続けるためではなく、次へと託すための、希望。
「この歴史のカナヱの存在そのものを使い、鏡の権能を使うことで、希望の世界へ渡ることができる。無論、限られた極少数が、ね」
「そんな……」
生きた証を残すとは、そういうこと。全員が生き残る道であれば、寄り合いでとうに提案しているだろう。
そんな話を、希一人に話していることの意味は明らかだった。
「どうして、あたしが?」
古鷹のように特別なメガミを宿しているわけでもない、ただのミコトに過ぎないのだと、彼女は言葉の震えを抑えながら訊ねた。
それに、彼はこう返した。
「歴史は、メガミとして生まれたメガミではなく、英雄が受け継ぐべき……カナヱはそう考えている。それが人であれば、メガミと成り、世を渡ることになるだろう」
「英雄……」
希にその資格があると、古鷹はそう言っていた。
実際に英雄と謳われた龍ノ宮一志ではなく、大命を担って最古のメガミに仕える古鷹京詞でもなく。強さだけならば、希より腕の立つ者なんていくらでもいる。皆に助けてもらわなければ成し得なかったことも、どれほどあるか分からない。
だから希に、英雄たる自覚なんてありはしなかった。英雄の娘でしかないと思えていた。
英雄と呼ばれるのであれば、日々仲間を失うこともないはずだった。
英雄と讃えられるのであれば、苦境を越えて平和を手にできるはずだった。
父親でさえ、現実に苦悩するしかなく、北限を目指そうとした自分自身だって、一縷の望みに賭けようとしただけだったというのに。
「あーあ、そっかぁ……」
じわり、目端に涙を浮かべ、下を向いて歯噛みした。
皆のことを思えば、座して死を待つなんて耐えられなかった。万に一つも勝ち目がない戦いに飛び込もうとしたのは、それよりマシだと思ったからだった。
そうしなければ、全てが無に帰すから。
怪物が自分たちの何もかもを壊し尽くしてしまうから。
寄り合いでそう訴えたからこそ、古鷹は声をかけたのだろう。
悔しいことに、希は彼の考えていそうなことに納得していた。
非情な現実を前に反論できなくなったのは、今度は希のほうだった。けれど、前を向き続けていたのもまた、希のほうだった。
それでもなお、形は違えど、そこに希望があるのなら。
徒桜になろうとする自分たちの歩みを、花弁の一片でも残すことができるのなら――
「京詞さん」
涙を拭い、希は前を向く。
希望の予言者へ、白くなるほど拳を握りしめながら、彼女は言った。
「やらせてください……大好きな、皆のために」
