桜花148年。向こう側にだけ存在する時間は続き、こちらでは三盟15年にあたる。
古鷹天詞が瀧河希と初めて出会い、さらに七年の時が流れた。桜降る代ではありえるはずもない交友を深めた二人であったが、家の務めという向こう側らしい平和な理由によって、天詞はいっときの間別離を余儀なくされていた。
しかし、その間も赤東の大地は――世界は、健やかに育まれ続けていた。
垂れ絹越しに照りつける日差しが、目に痛い。たとえ頭が蒸していようと、市女笠を外そうものなら、生白いとすら言える柔肌はあっという間に焼け焦げてしまうだろう。これでも赤南よりはましなのだから度し難い。
「ふぅ……」
燦々と輝く初夏の太陽の下、天詞は竹の水筒から一口、温くなった水を含む。その小休止とも呼べない間を置いて、彼女は再び赤東の赤い大地を踏みしめた。
古鷹家次期当主・古鷹天詞は、生まれつき病弱な子であった。父・京詞に倣って舞踊の稽古をしようものなら、その日のうちに熱を出す始末。周囲からは歳を七つ数えられるか常々不安に思われていた、そんな触れれば壊れてしまいそうな儚い少女であった。
故に、彼女の成長を祈った父は、より気候の穏やかな土地を奉土に持つ瑞泉家へ、幼い天詞を預けることとなる。舞を継承することまで考えれば厳しい選択ではあったが、その頃には詩文方面への才を芽生えさせていたことが、彼の背中を押した。
過去の桜降る代においては、この選択が悲劇の始まりの一つに数えられる。瑞泉驟雨が世界を手中に収めんとした陰謀の中で天詞の存在は利用され、騒乱に呑まれた京詞は没することとなる。
瑞泉の企図が挫かれた後、父亡き古鷹領へと戻された天詞は、トコヨとシンラという二柱のメガミの教えを受けながら育てられる。そして領主代行を務めていたトコヨから襷を渡され、現在では年若き大家の主として、歴史と伝統の都を守っている。
……と、そのようなあり得たかもしれない未来を、荒野を一人歩くこの古鷹天詞は知る由もない。
彼女が瑞泉の地で過ごした時間は、桜降る代のそれと比べると随分と長い。元来の予定からも引き伸ばされた理由には、南方での療養が実際に効果を上げていたことや、瑞泉家なりの教育が評価されたこともさることながら、時代の中心である龍ノ宮との地理的距離も挙げられよう。
その数年間、彼女は赤東へと度々赴き、瀧河希との交友を深めていった。瑞泉からの出資や技術提供もあって、訪れる理由を作るのはそう難しいことではなかった。
しかしおよそ三年前、ついに天詞は瑞泉を離れることになった。教育も終わり、古鷹家当主を継ぐための新たな暮らしが待っていたからだ。
彼女としては帰郷を渋り続けていたものの、体調も事実として相応に改善しており、盾にするにも限界があった。その頃にはもう、ミコトとしての修練を行ったところで、すぐに寝込むなんてことはなくなっていた。
「…………」
そして今、天詞は久方ぶりに希のいる荒野を訪ねていた。古鷹で学ぶ日々は慌ただしく、まとまった時間が取れるまで三年の月日が流れてしまっていた。
どこにでもいるような市女姿をした彼女は、身分を隠したお忍びの旅路にある。坑道との分かれ道まで荷台に乗せてくれた商人も、まさか一人旅中の大家の次期当主を相手にしていたとは思うまい。
しかし、いくら幼少期と比べて身体が丈夫になったとはいえ、まだまだ虚弱な彼女だ。本当の一人旅など叶わない。
遥か後方、旅人に扮した二人の男が忍であることを天詞は知っている。彼らが同道しないのは、父が一応一人旅としての体裁を守ってくれたからなのだろう。わがままに付き合ってくれたことに感謝しておこう、と既に乾いた唇を歪めた。
「あと少し……」
疲労を押して、天詞は淡々と歩き続ける。
尋ね人がいるはずの彼方では、荒野の中に新緑の絨毯が広がっていた。
「オラァ! そんなしみったれた量じゃ稲乾いちまうだろうがよォ! 二班、もっと気張ってけやァ!」
荒々しく尻を叩く声が、天詞の耳を掠めた。そこに混じって、赤東という乾いた大地には似合わない、激しく水が流れ出す音が聞こえ始める。
しかし、初めて訪れた七年前であればいざしらず、その水音はもはやこの場所になくてはならないものだ。
そして、それに負けないくらいの活気も。
「いい時期に来ました」
水田の若い稲たちを撫でる風に心地よさを覚えながら、天詞はあぜ道でひとりごちた。
農地開拓の最前線として努力を続けていたあの村周辺には、今や見渡す限りの田畑が広がっていた。記憶の中では稗を育てるだけで精一杯だった一角も、たっぷりと張られた水の中で稲葉がその身を揺らしている。さらに遠くの田では、今日が田植えだったようで、賑やかな唄が風に乗って届いてくる。
道をすれ違った牛が引く荷台には、世間話に花を咲かせる奥方たち。手にした風呂敷は、農作業に精を出す皆への差し入れに違いなかった。
目の前を横切るあぜ道を、なにかと競争するように駆けていく子供に気を引かれて見てみると、水路で飛沫を上げる水の流れを追っているようだった。
彼らの来た道を逆に辿っていくと、多くの恵みを見守るように咲く一本の神座桜が。
その脇に建つ社こそが、この風景を下支えしているのだと天詞は知っていた。
「しばし見ない間に、これほども……」
米作り。開拓の目標に据えられたそれが実現し、軌道に乗ったとの報は遠く古鷹の都にも届いていたが、実際にこれだけの発展を見せられてしまうと驚きを禁じえない。
近隣の地下水を源流とした農業用水路の整備が一段落し、本格的に稲作に乗り出したのが天詞が瑞泉を去る前年、いまから四年前のことである。予めできる限りの土作りを進めていたのが功を奏したのか、結果が出るまでそう時間はかからなかった。まだ全員が年中安定して米を食える日は遠いけれど、決して夢などではないと目の前の光景が訴えている。
そして、この一帯を七年前から様変わりさせた原動力が、あの社で振るわれているメガミの力だ。
社とは言うが、従来のそれとは異なり、ただメガミを敬うだけの場所ではない。同時に、ミコトがその力を用いて当地の発展へと尽くすための設備となっている。例えば目の前のそれは、ハガネやハツミを宿したミコトたちが権能を使い、多くの田を満たすだけの水資源を生み出している。
話にだけ聞いていたその社へと、天詞の足は誘われていった。実際に稼働している様を見るのもこれが初めてである。
水音に包まれた社は、後ろ側に舞台のような円形の作業場が設けられていた。壁はなく、中央からぼこぼこと噴き出す水に向かって、ミコトたちがびしょ濡れになりながら力を送っている。どうやら底が溜池になっているようで、切り取られた円の一角から太い用水路の主流へと溢れた水が流れていくのが見える。
「予定の量までまだまだだ! うまい米が食いたいか!?」
『応!!』
「うまい酒が飲みてえか!?」
『応!!!!!』
責任者なのだろうか、年のいった大男が、ミコトたちへ発破をかけていた。彼らが桜の下で散らすのは桜花結晶ではなく、労働の喜びが溶けた玉の汗だ。
桜花決闘が興隆を極めた桜降る代では、なかなか考えられない光景だろう。向こう側の世界では、歯止めの効かない衰退の末に、桜の下が神聖なる決闘の場だという認識が薄れてしまったからこそ実現した在り方である。
「おや、桜にも何か仕掛けがありそうな……」
少し寄って覗くだけのつもりだったけれど、思った以上に興味をそそられていた天詞は、吸い寄せられるかのように社へ近づいていく。
作業場を挟んで反対側にある桜へどう行こうか――そう思案しながらふらふら散策していたときである。
「おいそこの女! 勧請中は立入禁止だ!」
「……?」
見咎める怒声は、先程から号令をかけていた大男のものだ。激怒しているふうではなく、やや呆れの色が滲んでいる。
作業を中断した彼は、作業場の欄干にもたれかかるようにして、天詞を胡乱な目つきで見下ろしている。
さらに別のミコト二人が、作業場から飛び出してきた。
「なーにノコノコ入ってきてんだテメェ! 死にてえのか!?」
「こちとら死ぬ気で水汲んでんだ、オメェが邪魔したせいで田んぼ乾いちまったらどうすんだ、えぇ!?」
粗暴さを絵に描いたような彼らに睨め上げられる天詞。しかし、この程度で動じるような彼女ではなかった。父親からのたまの叱責のほうがよほど恐ろしい。
ただ、大男はそれが開拓地に似合わないか弱そうな女の態度ではないと感じたか、訝しむように告げる。
「あんた、見ない顔だな」
それにどう答えたものか思案するが、その間に粗暴なミコトたちが彼の言葉へ見当違いな同調を示す。
「そうだ! テメェ怪しいぞ!」
「詫びの前に、さっさと笠脱いでその面晒せや!」
垂れ絹に手を伸ばした男の手を、す、と身を引くことでかわす。
そこで我慢の限界だったのか、後方に控えていた忍の一人が、男どもの間に身を滑り込ませるようにして姿を現した。客観的に見れば、次期当主が危険に晒されている図に他ならない。天詞も流石に抗議することはなかった。
無言で威圧してくる、見た目だけはただの旅人に、絡んできた男たちが気圧される。
けれど、引くに引けなくなったのか、そのうちの一人が声をやや震わせて虚勢を張る。
背後にいる、大男を指しながら。
「な、なんだテメェ! こっちにゃ山岸さんがいるんだぜ!? 赤東にその名轟く、力自慢のあの山岸さんだぞ!」
ご指名ですが、と口に出すまではしなかったが、天詞は彼のことを見やった。
山岸と呼ばれた大男は、ふとしたことから厄介なことになったこの状況を前に、ぽりぽりと掻いて頭を悩ませているようだ。自分もああして、下の者の不始末に煩わされる日が来るのだろうか、と心中げんなりする。
とはいえ、友人のいる土地で揉め事を起こすのは本望ではない。それに彼らの態度は別として、天詞には詫びるべき理由も確かにあった。
一歩前に出て忍に目配せすると、天詞は笠をとって腰を折る。
「勝手に敷地に入ってしまったようで、申し訳ありません。こちらに住む友人を訪ねに来た折、目に入ったこの社が珍しく、ついつい立ち入ってしまいました。ご迷惑にならないよう、早々に御暇いたします」
「そうか。今度から気をつけてくれや、ミコトが力使ってて危ねえからな」
よそ行きの謝罪を並べ立て、それを渡りに水とばかりに山岸が受け取った。荒くれ者たちが因縁をつける隙はなく、つけた勢いのやり場を失っているようだった。
宣言通り、さらに面倒なことにならなうちに行こう。そう決めた天詞だったが、
「おぉーい、天詞ちゃーん! だいじょうぶー?」
己の名を呼ぶ声に、懐かしさを覚えて振り返る。
ここへと続くあぜ道を駆けてくるのは、尋ね人である希だ。その後ろにもう一人の忍が姿を現していることから、騒ぎの間に呼びに行っていたらしい。
出会った頃から歳によらず天詞とほとんど背の変わらなかった希だが、あれから七年の時間が経ち、もう目を合わせるにも天詞から見上げねばならないだろう。最後に会ったときからさらにすくすくと成長しているようで、あのときに残っていた幼さは残り香すらも感じられない。
畑仕事に心血を注ぐ体つきは豊かであり、胸部に至ってはもはや天詞と比ぶべくもない。豊かではないこの荒野で育ったとは到底思えない体つきである。かの豪傑の血を引くだけあるということだろうか。

「やー、久しぶり久しぶりー。来てるって言うからびっくりしちゃったよー、先触れもなんもなかったからさ」
「希ちゃんこそ、お久しぶりです。今回はその、お忍びなので……」
三年ぶりに見る希の笑顔は、相変わらず南天に輝く太陽よりも眩しかった。どうやら田植えの最中だったようで、手足が生乾きの泥にまみれている。
そんな希の様子を見て、どうしてか燻っていたミコト二人が天詞に対して慌てて頭を下げた。
「い、いやぁすまねぇ。あんたが希の客たぁ知らねえで……」
「つい調子乗っちまって悪かった。でも勧請中は危ねぇからな」
打って変わっての陳謝に、天詞としてもやや困惑する。
さらに、作業場にいるままの山岸も、苦笑いしながら彼らに続く。
「わりぃな、この通りだ。許してやってくれると助かる」
希が現れたのを境に、天詞への扱いががらりと変わってしまっていた。
その当の希は、頭を下げるミコトたちの肩をぽんぽんと叩いて、
「うんうん、しょうがないって。みんなの大切な社だもん、きつく言っちゃう気持ちも分かるよ。それってお仕事に対して真面目ってことだから、すごいじゃん!」
「希ぃ……」
「次から優しく注意してあげればいいってことよ。じゃあどうするかは、今夜みんなで反省会をですね……」
「オメェは呑みてえだけだろうが!」
反論を楽しそうに笑って誤魔化す希。
いかに体躯が立派だとはいえ、希はまだ少女と呼ばれて然るべき年の頃である。けれど、それを理由に軽んじられることはなく、皆からはある種の敬意を持って接されているようだ。込められた親しみが、決して希が単に上に立っているわけではないと教えてくれる。
数年間で様変わりした友人の姿に天詞がぽかんとしていると、ふと、皆の視線が注がれてきた。
今度は、自分が慌てて詫びる番だった。
「え、っと、こちらこそ、お仕事の邪魔をしてしまってごめんなさい。私も、いいお米が採れることを祈っています」
それから、宴会の約束をなし崩し的に取り付けられ、ミコトたちが持ち場に戻っていく。
彼らを見送り、激励する希の後ろ姿は、彼女の笑顔よりももっと眩しく見えた。
三年の時の中で起きることはあまりに多い。それも、方や大家の重責を担う途にあり、方や土地を切り開く挑戦の途にある。若い乙女の間で交わされるような華々しい話題ではないかもしれないけれど、それは初めて出会った日も同じことだ。
希が住む野田の屋敷で腰を落ち着けた二人は、かれこれ一刻以上も話し込んでいた。希の近況を聞いているだけで、囲炉裏にかけていたやかんの中身はすっからかんだ。
天詞が今日見てきた通り、稲作が軌道に乗り始めたこの開拓村で、希は立派な開拓民として励んでいるようだった。田を一枚起こし、教わりながら米作りを始めたり、去年は酒造りを手伝ったりと、順調に大地を育んでいるようである。もちろん、ミコトとしてあの社でも力を発揮しているようだった。
希は肩書としては、この村の顔役の子ということになるが、父代わりの野田為吉同様、色眼鏡で見られているわけではなさそうだった。皆良くしてくれる、と彼女は言うが、真実それは瀧河希という人がそうさせているのだろう。
「トコヨ様ったら、いつもいつも私の詩を酷評なさるのですよ。この間なんて、『もっと世界が色づいてることを知りなさい』って、歌集を山程お持ちになられて……お父様からの課題も山積しているというのに、あれでは身体が足りません!」
「あはは……、そんなのでよく来れたね……」
乾いた笑いを漏らす希が、きゅうりのぬか漬けを一枚摘む。
今は天詞が三年間の足跡を語りつつ、希へと苦労を零す番になっていた。古鷹に戻ってからの悩みのタネの一つは、父親に紹介されたトコヨというメガミが、時折訪ねて来ては天詞に難題を与えることであった。
「お父様に、旧交を温めよとご高配いただいたのです。トコヨ様からもよく旅を勧められていますし、たまには、と。……ただ、以前赤東には行ったことがあるとトコヨ様にお答えしたときには、それはそれは渋い顔をなさっていたのですよね」
「最近の赤東のこと知らないからかもしれないけど、そりゃまだまだ荒野ばっかりだからねえ。でも、旅なことには変わりないのに、いちいち厳しいなあ。それじゃあ全然宿させてももらえないんじゃない?」
「それが、不思議と認めてはくださったんですよね。父の勧めもあって、元よりお願いはしていたのですが、期待の裏返しなのでしょうか……」
天詞はため息を一つ、
「メガミ様とのお付き合いはやはり、希ちゃんのようにはいきませんね。ウツロ様とは少々仲良くなれた気がしますが、クルル様のお言葉は相変わらず理解の外にありますし、トコヨ様もお話した通りで……」
「大変だなあ。ハガねぇにはたまに叱られるくらいだし、全然想像できないや」
羨ましい、とばかりに天詞は困ったように微笑んだ。
と、そのときである。
屋敷の外から、どたどたと大きな足音と共に、誰かを呼ぶ男の声が聞こえてきた。
「おーい、大変だ! 希、いるか!?」
開けっ放しになっていた戸から慌てた様子で顔を覗かせたのは、先程社でミコトたちをまとめていた大男の山岸だ。
彼はちょうど炉端で談笑していた天詞たちを見つけると、
「おお、よかった! わりぃ、権能の扱いをしくじった馬鹿のせいで、水かさが阿呆みてぇに上がっちまってんだ。このままだと、溢れて稲ごと流されちまいかねねぇ!」
「そりゃあまずいね。――ごめん、天詞ちゃん。ちょっと見てくる!」
「あ……」
告げられた緊急事態に、希の切り替えは早かった。歓談の余韻を早々に振り払って、天詞が止める間もなく風のように走り出す。
そのまま希は、先行した山岸を追って屋敷から出ていってしまった。取り残された天詞がもたもたと立ち上がり、表に出た頃には、希の姿は既に声も届かないような遠くにある。たとえ同時に駆け出していても、天詞の身体能力ではあっという間に置いていかれる速さだった。
「あのお社ですよね……」
幸い、行き先に目星はついている。ただ屋敷で待つのも落ち着かないと考えた天詞は、先程訪れた社へと、午後の日差しを受けて輝く神座桜をあてに向かった。
常人であればそう時間はかからない道のりだが、天詞の歩みと体力で急ごうものなら、疲れ果てて水路に落ちてしまうかもしれない。荒野で水難だなんて笑えない冗談だ。
結局、しまいには忍に担がれるをよしとして、問題となっていた社の近くまでたどり着く。
傍から見てその現場は、局地的な水霧に見舞われているような有様であった。ざあざあと、まるで滝のような音を立てて、あの作業場から抑えきれない量の水が噴き出しているのだろうと知れる。
しかし、到着まで相応の時間を使ってしまったからか、既に事態は解消に向かい始めていたようだ。
「そのまま抑えてて! 支流はまだ持たせるから!」
『応!』
噴き出す水を鎮めるミコトたちとは別に、希の姿は川べりにあった。そこには田畑へと流れ込む用水路の支流が口を開けていたが、迫りくる濁流が流れ込むことはなく、そこだけを水が不自然な動きで避けている。水底からせり上がった土塊が、侵入そのものも妨げていた。
希の宿すハガネとハツミの力によって、被害を最小限に抑えるよう巧みに水流を操っているに違いなかった。がむしゃらに力を発揮するのではなく、繊細な操作まで行えるミコトは今どき少数派だ。桜花決闘という研鑽の舞台も減じて久しい向こう側の世界であれば、稀有とすら言える。
しかし、いかに希が優秀であったとしても、一人でどうにかできる規模ではない。
それを支えているのは、天詞に突っかかってきたあの荒くれ者を始めとしたミコトたち。希を中心とした動きが、一同の背後に広がるか弱い新緑の葉を守っている。
「流れの向き、岩が浮いてきたらもっと内側にしよう!」
「おうよ! そいじゃ、下流が削れねえよう膨らませといたらぁ!」
「逆に流して勢いも殺さねえとな!」
「ありがと、助かる!」
彼らが希の実力を認めているからこそ、指示に応え、それだけでは足りないところを各々の意思で補い合うように立ち回っている。その信頼関係から生まれる活躍の成果は、最も近い田が小揺るぎもしていないという結果に現れていた。
やがて山岸を中心とした別の対応班が、用水路に段階的な堰を設けることで時間を稼いでいるうちに、荒れていた地下水も収まったようだった。完全に出水を止めたことで用水路の水かさもみるみる減っていき、どうにか収拾をつけられたと言えるほどになった。
変形させてしまった用水路も元に戻されていき、事態の名残となるのは、いっそ涼しいと感じるほどに辺りに満ちた水気と、濡れ鼠になったミコトたちの姿だけである。
「ったく、この大馬鹿野郎が! 今度やったら簀巻きにして流してやるからな!」
山岸の岩塊のような拳骨が、ヘマをしたと思しきミコトの脳天に落ちた。天詞に絡んできたうちの一人だ。褌一丁で、重くなった着物を絞っている。
「いやぁ……なんだか最近、ハツミ様の力がざわついてる感じがしてよぉ」
「どうせ昨日飲みすぎたとかくだらねえ理由だろうが!」
「い、っ――!」
言い訳をした彼の背中に、綺麗な手形が刻まれた。
天詞はそんなやり取りを横目に、支流の確認をしていた希を見つけ、できた水たまりを避けながら早歩きで駆け寄っていった。
「希ちゃん、実に見事でしたよ! あれほどの使い手になられていたのですね!」
「いやあ、まだまだだって。ハガねぇに比べれば全然だし?」
照れたようにはにかむ希。そもそも比較すること自体がおかしいのだが、そんな照れ隠しに天詞もくすりと笑った。
気づけば、ぼんやりと虹のかかった空の向こうで、太陽が遠く咲ヶ原の山々にかかろうとしていた。後少しもすれば天が焼け始めるだろう。
遅れて気づいた希は、濡れた髪をがしがしと掻きながら、
「あー、もうこんな時間かあ。ひと仕事したし、ここは一つ、みんなで慰労といくしかないかなぁ〜。天詞ちゃんとの約束もあるしね」
「え……約束?」
「ほら」
そう言うと希は、親指と人差指で丸い何かを掴むようにして、呷る素振りを見せた。
目を丸くする天詞をよそに、欲望を叫ぶ希の周りへ、あれよあれよと人が集っていく――
「んでね、飯より酒寄越せっておっちゃんたちと一緒にね、よぉーやく作れたのがこのお酒なわけですよ! 美味いかどうかで言ったら、そりゃぁー都ののほうが美味いかもしんないよ? でもこの、お米飲んでるぅー、って感じがさいこーじゃない?」
「は、はあ……これもこれで面白いかと」
ちびり、と口につけた酒からは、確かに強烈とも言える濃厚な味がする。これでもかなり水でかさ増ししているというのだから驚きだ。古鷹で親しまれる酒は清らかなものが多いので、その落差にくらくらしそうになる。
だが、それ以上に天詞の常識を揺らすのは、この嵐のような食卓そのものだった。
床に雑然と並べられた、彩りもへったくれもない料理の数々。それに見合う量を遥かに超える勢いで供される数多の酒。それらを、いっそ奪い合いでもしているかのように消費して騒ぎまくる荒くれ者たち。
そして、
「あっ、もうないじゃーん。ねえ、ばっちゃー! 甕持ってっていいー?」
「まだこっちにあるから、おらよっ」
「うへへ、やったぁ」
受け取った甕の栓を開け、注ぐ前にちょっと味見とばかりにごくりと飲む希。彼女の手元にある五合枡が幾度か空になったという事実を、天詞はまだうまく受け入れられていない。
野田邸での夜。突然のことであったにもかかわらず、希による鶴の一声で、居間が埋め尽くされるほどの人々がこの大宴会に集っていた。立場上宴席に出ることも増えた天詞だが、これほどまでに激しい宴会は初めてで、合戦場にでも立たされている気分にすらなってしまう。
何より、いかにも大酒飲みといった風体の男たちを差し置いて、希が水でも飲むかのように杯を空けていく様は衝撃的であった。こんな様子では村にある酒を一晩で飲み干してしまうのではないかと心配になってしまう。
「よかったのですか? あんな大変だった後で、宴会を開いてもらって」
隣でものの見事に酔っ払っている希に苦笑を禁じえないながらも、気持ち申し訳なさそうに訊ねる。
それに希は、ややおぼつかない手つきで酒を注ぎながら、
「んー? いーのいーの。言ったじゃん? むしろ大変だったから、お疲れ様っ! ってぇことで」
「いつもこのような感じなのですか?」
「こんなに大勢なのは久々かもぉ。でもー、天詞ちゃん歓迎会にもできてぇ、あたしは大変、うれしーです!」
枡を片手に、肩を組んでひっついてくる希。
彼女は、にへにへと笑みを浮かべながら、
「ほらさー。みんなを引き締めてくれるのは、山ちゃんやー、源八さんがやってくれるしぃ。上からまとめてくれるのは、じっちゃのお仕事だしねぇ。田辺ちゃんも、なーんだかんだやらかしちゃったの気にしてるだろうし、みんなもちょっとは苛々したと思うんだー」
「…………」
「だからねー、ここはお酒で解決するのが一番なんだよ〜」
言って、喉で音を立てながら酒を流し込む。
その態度は、荒れる世の中であろうと泰然と我が道を行く、ひょうきん者の盟主のようであった。立場として上に立っていなくとも、希なりの視点で共に開拓する仲間たちのことが見えている。酒は手段であって、彼女なりに皆をまとめようとした結果がこの宴会なのだ。
己も酒を入れたせいか、天詞はやけに嬉しくなって深いえくぼを作った。友人に確かな力があり、大きな器を見いだせることなど経験できることではない。酒を好むことですら、過去の英傑に重なって見えるようだ。
そうした酔い混じりの高揚感を味わっていると、そんな天詞の顔を希が覗き込んだ。
「どしたのー? ……あーっ、お酒足りてないんじゃ―ん! ほらほら〜」
「えっ、ちょっ、零れて――」
枡から無理やりお猪口に注がれた酒が、天詞の膝にだらだらと垂れていく。その様子が他の者たちの笑い草にされ、なんだか可笑しくなった天詞も声を上げて笑った。
友が育む地で過ごす、乱痴気騒ぎの夜が更けていく。
遠い未来、荒野を切り拓いた英雄と讃えられるかもしれない者たちと共に。