ぱちり、ぱちり。
扇を一段だけ開き、また閉じる。そんな乾いた音が、トコヨの手元から生まれている。彼女のその仕草が、考え込みすぎて自分の世界に没頭しないようにするためのものであると、天詞は浅からぬ付き合いで知っていた。
あるいはそれは、語ろうとしている何かを直視しすぎないようにするためかもしれない。
僅かに目を伏せて言葉を選んでいるその姿は、悲壮な体験を客観的に見ようと、記憶の扉を慎重に開こうとしているようだ。
「何から話したものかしらね……。随分と入り組んだ話だし、あたしと細音が視たものも大分違いそうよね」
稽古ではずばずばと的確に問題点を指摘してくるトコヨらしくない物言いだった。それが、彼女が未だ核心を得ていないのか、それとも結論から述べることが憚られているのか、判断のつかない天詞には息を呑んで待つことしかできない。
トコヨは隣のサイネに視線を送り、
「どう? 何か、分かりやすい『違い』でもあるといいのだけど」
チカゲもミズキも、言外にかわされた内容を理解できていないようで、サイネの反応を黙して待つ。
ただ、彼女の反応は、糸を解しきれていないといった様子のトコヨとはまた異なっていた。
「はい……私からお話するべきでしょう」
自分だけがそれを知っており、いよいよそれを語るべき時が来た――重く口を開いたサイネは、確信と共にこの出番を待ち望んでいたようだった。けれど、彼女ほどの武人とあろう者が言葉を繰るためだけに息を整える様は、肩の荷を下ろすだけでは済まない何かがこれから告げられるのだと強く予感させる。
光を映さないサイネの瞳が、その何かを捉えるように揺れる。心なしか昔日を懐かしんでいるように天詞には見えたけれど、すぐに曇って隠れてしまった。
「この地と向こう側が大きく道を違えたのは、おそらく二十年前……あの決闘からでしょうから――」
懐旧を噛み潰すように、サイネは語り始める。
それは、彼女が未だ人間であった頃、この地におけるかつての英雄譚の幕開け。
天音揺波と氷雨細音の、最初の決闘であった。

一歩、ないしは二歩分の距離。それが、刀と薙刀の間合いの差である。
手を伸ばせばすぐに縮まるであろうその距離は、この銀世界に現れた、刃ひしめき合う決闘の舞台においては絶対的なものとなる。
「はッ!」
懐へ入ろうとする揺波の動きに、薙刀が振り下ろされる。
予めそこに置いてあったかのように放たれた斬撃に、揺波の前進は拒絶される。思わず足踏みをしてしまい、そこを狙う次の一撃を察知して、一歩だけ下がる。
少しだけ、揺波の眉がひそめられる。
盲目であることが嘘のように、迎撃は的確であった。
美しく迷いのない太刀筋は、揺波が今まで相手にしてきたどの相手のものよりも正確だ。打ち合うことすら必要なく、たった一度振り下ろされた刃を見ただけで、この戦いが今まで通りにいかないだろうと彼女の直感が告げていた。
「てやァッ!」
「……っ!」
追撃として大きく横薙ぎに振るわれた薙刀を、辛うじて刀で受け止める。
だが、揺波のやるべきことは変わらない。
ただ勝つために、前に出るのみだ。
「ふッ!」
合わせた刀に力を込め、薙刀の軌道を無理やり明後日の方向へと逸らす。そうして僅かに空いた隙間へ揺波が身を躍らせ、小さく刀を振り上げる。
細音もそれは想定の範囲内だったようで、急速に引き戻された刃が揺波の肩を捉えた。
そこにあるのは、揺波を護る結晶たちだ。
「おぉッ!」
砕け散る盾を見送って、細音の胴を斬りつける。
しかし、細音もまた同じミコト。桜花結晶は等しく彼女たちの力となる。
揺波の刃は、自分がまたそうしたように、細音の結晶を砕くだけに終わった。
後手となった彼女に訪れるのは、隙だ。
「やッ、はぁッ!」
「ぐ……」
下がりながら、それでいて鋭い細音の連撃が、打ち合わせようとした刀を尽く避け、揺波の身体から結晶の成れの果てを吐き出させていく。その精緻さは、一太刀ごとに彼女が集中力を高めていっているようでもある。
細音が捉えたものは全て断ち切られる、不可視の領域。
立ち入れば、なます切りにされた上で追い出される、細音の支配圏。
初陣で相手にした偉丈夫のミコトのように、後の先を得意とする者は何度か相手にしたことがあった。けれど、彼らの最も大きな圧力は腕力だ。障害を乗り越えた先に、暴力が待っている――そんな戦法を前にして、揺波は一度その身で攻撃を受けた上で、さらに前に出る解決を図っていた。
細音の圧力は、技だ。
一度受けきってしまえば、撹乱する揺波を捉えきれない腕力だけのミコトとは違い、受けられてもなお臨機応変に斬撃を繰り出してくる細音が相手では、払う犠牲が多くなりすぎる。
細音自身もまた、それを理解した上で、後の先を戦術の中核に据えているはずだった。
だからこそ、
「……!?」
それでもなお飛び込んでいく揺波に、細音の顔に動揺の色が浮かぶ。
揺波は斬撃の雨に怯むことなく、その身体から護りを吹き散らしながら、噛み付くように刀を振り下ろした。
「あぁッ!」
「っ……」
一閃された胸元から溢れる桜吹雪は、揺波の払った代償に比べたら小さなものだ。
そのまま揺波は、細音が力の入らない至近で振るった薙刀と鍔迫り合いを演じながら、ぐいぐいと彼女を押していく。
一瞬、互いの息遣いだけが場に響く。
揺波が睨め上げる細音の瞳は、やはり揺波を映すことはない。けれど、意思は確かに交差しているのだと、微かに歪んだ口端が示していた。
「ぐぅっ……!」
「……!」
膠着状態を破ったのは揺波だ。薙刀を払い除け、大上段に刀を振り上げる。
しかし、刀が振るえる位置というのは、薙刀を振り落とせる位置ということでもある。短く持ったそれを盾に使っても構わない。揺波が望んで組み合ったにもかかわらず、離れるときには一方的に不利であった。
細音が選んだのは、護りの少なくなってきた揺波の頭に刃を叩き込むこと。
一拍にも満たない間に下された両者の決断。
分は、揺波にあった。
「な……!」
彼女は刀を振り上げたまま、一寸足らずの距離で細音の刃をやり過ごした。
相打ちする覚悟などではなく、細音がきちんと隙に合わせて打ち込んでくれると信じ、即座に攻撃に移らなかったのである。
「やあぁッ!」
肩口からの、大胆な袈裟斬り。盾を取り戻さずにいた細音がまともにそれを受ける。
続いての二撃目は、引き戻した薙刀の柄で防がれてしまうものの、さらに手首を返しての細かな一刀が相手の腕を傷つけた。
「ぐぅ……!」
たまらず薙ぎ払ってきた細音に、揺波もこれ以上の連撃は不可能と判断したのか、刀を盾としながら細音が後退していく様を見送っていた。
一気呵成に勝負を決めてしまうには、結晶が心許ない。猛烈な攻めは、猛烈な返しを相手にしては慎重にならざるを得ない。必要経費を支払って傷を与えてきたのだとしても、勝負を決めるために経費を払って先に結晶が尽きてしまったら元も子もない。
しかし、それでいて細音には依然近寄り難い。揺波の間合いに再び入るまで、同じような打ち合いが行われたとしたら、敗北するのは揺波であった。
このままでは、勝つことができない。
自分の存在意義を、果たせない。
「さあ……どうしますか?」
純粋に、揺波の出方が楽しみといったように、細音は問う。
それに揺波は、細音を見据えたまま、深く息を吐く。迷いが、白い吐息となって銀世界に消えていくようだ。
その直後だ。
揺波は、前に一歩踏み出すと同時、空いた右手を袖に突っ込んだ。
目の見えない細音にその様子は判然としないようで、次の行動にもまた、疑念を呈するのみだ。
「何を――」

ほんの一瞬、揺波はその姿勢のままで固まっていた。否、一瞬と語るのも憚られるほど濃密な彼女たちの時間の中で、細音は確かにそのように感じていた。袖に差し込んだ右手を出すのを僅かに躊躇したような、刹那の交錯が命運を分かつ決闘においては無駄でしかない動きだった。
無論、明確な隙が生まれれば、後の先を志向する者であっても前を踏む。
小細工を弄する気配を孕んでいたのであればなおさらだった。
「おぉッ……!」
「ぁ――」
揺波の迷いを断じるように、薙刀の刃が迫る。
自らの愚行を悟った揺波は、猛くも落ち着いていた今までとは裏腹に、焦りを顔に滲ませて今度こそ袖から右手を解き放つ。
ぱらぱら、と。
雪と混じり合った地面に、指先大ほどの黒くて丸い何かがこぼれ落ちる。
揺波の手から解き放たれたそれは、メガミの力を借りたものでもなんでもない。故にそれは、もしも先んじて放たれていたのであれば、細音は一切身構えることができなかっただろう。
癇癪玉。
聴覚を鋭敏とする者にとって毒となる、大きな音を生み出す小道具。
この奥の手があったからこそ、決闘前の揺波は相手が耳聡い盲人であると知って幸運に感謝しさえした。
だが、およそ刀と薙刀の真剣勝負には似つかわしくない搦め手は、あと一寸の命を断ち割るべく振り落とされていた刃には、もはや無意味であった。
「っ、うッ……!」
盾とする結晶もなく、慌てて刀を起こすものの、細音の刃はそれを予想していたかのようにするりと身体へ吸い込まれていく。
そして、これを皮切りとして生み出されるのは、抗いようのない刃の嵐。
癇癪玉が掻き消すはずだった猛威の中で、苦し紛れに突き出した刀は、空を切った。
ぱぁん! と。
そこでようやく、求めていた破裂音が響いた。突然のことに立会人たちもどよめくが、全て天音の使用人である彼らの声は、舞台に生まれていた光景によって消えていった。
「あ……あぁ……」
幼い身体が、膝から崩れ落ちる。取り落した刀が、細音の足元で転がった。
とどめの一撃のために踏み込んでいた細音は、足の裏で爆ぜた癇癪玉の音に顔を歪めていたが、瞼を閉じたまま、睨みつけるように揺波のことを見下ろした。
「見損ないました……!」
侮蔑の言葉を吐き捨てて、細音は息を整える間もなく桜鈴を回収、そのまま背中に怒りを漲らせながら足早に去っていってしまった。
己の存在意義を果たせなかった少女を、ただ一人、決闘の舞台に残して。
この日、天音揺波は初めて敗者となった。
その『事の起こり』を語り終え、サイネは沈痛な面持ちで湯呑に手を伸ばした。
聞き手たちが呑み込むための時間が、静かに過ぎていく。突飛な内容に、誰もが少なからず眉間にしわを寄せていた。
その中で、まず声を作ったのはチカゲだった。
「あ、あの、念の為ですけど……それは――あなたが言うところの『この地の歴史』では、ユリナが勝利した決闘、ですよね? 癇癪玉で、あなたを翻弄して」
英雄譚における彼女たちの初戦というのは、両者の因縁の起こりであると共に、勝利のためならば手段を選ばない当時の天音揺波の気質にも言及する逸話として登場する。天詞ももちろん知っており、それは他の聞き手たちも同様のようだった。
チカゲの確認に、サイネは「はい」と短く認めてから、
「この姿になってから私は、この地と向こう側……二つの歴史についての記憶を持つようになりました」
「…………」
「……あのとき、天音がほんの僅かに逡巡したのか、それとも私が、ほんの僅かに見切るのが早かったのか……こうして思い返し、二つの記憶を比べてみても判然としません。それだけ、あの決闘は紙一重でした」
そして、とサイネは一呼吸置いた。
「この決闘が、最後の決闘でした。それから天音家は衰退し、表舞台から姿を消します」
誰もが知る事実とは違うのに、まるで実際に見てきたかのような物言いだった。
いや、と天詞は胸中で打ち消す。
サイネは本当に、『視た』のだ。
そしてもしもその光景の中で、英雄譚の幕を開けるはずの幼き戦神が、早々に膝をついたというのなら。
「つまり、細音の考える向こう側っていうのは――」
一同を代弁するかのように、トコヨが続く。
この場で生じた認識の差異こそが、彼女の言っていた『違い』。
それを端的に示すべく、サイネは言葉を結んだ。
「はい。向こう側は、天音揺波の敗れた――いいえ、天音揺波の……いない世界です」