桜花133年。かの英雄譚が繰り広げられた、桜降る代を迎える前の時代。
私たちの知る歴史では、前年から続いた天音揺波による快進撃が、当時没落していた天音家を一年足らずで大家の座にまで押し上げようとしていた。これは、かの英雄・龍ノ宮一志により招かれた大家会合を間近に控え、揺波が運命の時を迎えようとしていた頃のことである。
茫洋たる時の海を、私の意識はただただ揺蕩っていた。
始まりは夢の中で目が覚めたかのように曖昧で、いつそれを迎えたのかすら判然としない。時間の感覚はふやけてしまったように不確かで、もはや気の遠くなるほど昔から過ごし続けているよう。けれどその実、さしたる時間は流れていないのだと、理解もまたしていた。
遥か天上に穿たれた、空を切り抜く大穴。
時に明るく温かい光が降り注ぎ、時に暗く冷たい光が差し込める、その変化だけが時の流れを確かに物語っていた。自分にとってどれだけの時間が流れていようとも、空の明滅は先頃に三十を数えたばかりだった。
私にとってその天窓こそが、世界が私を置き去りにして動いている証だった。初めの頃は変わりやすい空模様を気晴らしに眺めて、それが恨めしく思え、今では虚しく感じられるようになった。
時が流れようとも、私は目覚めたこの場所から一寸たりとも動けない。
まるで私は、この小さな石の揺り籠に横たえられた赤子のようだった。
誰にも気づかれることなく、気づいてもらうために泣き声を上げることもできず、誰かの下に辿り着くために自ら手足を動かすこともできない。時折この揺り籠で羽を休める小鳥に、どこかへ連れて行ってもらうことすらできやしない。
そもそも、誰かに連れ立ってもらおうとしたところで、私は自分の名前すら告げることができなかっただろう。
決してそれは、言葉を交わせないからではない。
自分が何者か、分からない。
自分をなんと呼ぶべきかも分からない。
ごっそりと、自分を形作る大切なものが抜け落ちてしまっている感覚が、いつまで経っても拭えない。
そして、私がどうしてここにいるのか、それすらも分からない。
天に向かって伸びた巨木の体内にいるような、薄暗い場所。苔むした壁面は、私がこうして揺蕩った時間が矮小に思えるほど、ここが長い年月を経ているのだと教えてくれる。
ただ、漂う厳粛さは、自然の温もりを全く思わせない。
ここは酷く冷たく、恐ろしい――言いしれぬ感覚がいつまでも囁き、考えることしか許されていない私を苛み続けた。どこまでもこんな場所が広がっているのだとしたら、ずっとこのままでいたほうがいいのではないか、とすら思えた。
数少ない救いの一つは、意外なことに、冷え切ったように聳える花も葉もない枯れた大樹であった。
その威容に見守られているといったことではなく、その樹がどこか私を受け入れているように思えていたのだ。何故そう感じられるのか、欠けてしまったであろう自分の一部に答えを求めたけれど、返事はなかった。
手を伸ばすことのできない私には、大樹の膝で眠ることも叶わない。
だから、私にできたのは、目覚めからずっと私をあやし続けてくれたこの小さな石の揺り籠の中で、僅かな温もりを支えに時を過ごすことだけだった。
変化に憧れながら、外界という変化に怯える。
そうしてさらに、空の明滅を二十、三十と数え、回数も次第に曖昧になっていった。
それでも、誰も来ることはなかった。
掻き抱いた温もりが、孤独に削られていく。
そんなある日のことだった。
ざり、ざり、と二足で土を噛む音が、遠くから響いてきた。この空間の地面に空いた、横穴の暗い奥からだった。
やがてその主はこの空間に出てきたようで、足音が少し鮮明になる。明らかに意思を持って歩む足音だった。それも、二組。
私が最初に覚えたのは、歓喜だった。小動物が稀に顔を覗かせるくらいしか動の気配のなかったこの冷たい場所に、人がやってきたのだ。その高揚感は、目覚めてからもっとも強く私の心を揺り動かした。
けれど、刹那の後、本能が身震いをした。
瞬く間に私から歓喜を奪い去ったのは、恐怖――否、危機感と呼ぶべきものだった。
身を潜めろと、本能が叫んでいた。
ここからどこか温かい別の場所へ連れて行ってくれるなどという、磨り減った想いを捨てろと必死に訴えていた。
無論、身を隠そうにも私には身体がなく、潜める息もない。どうすればいいのか迷い、私自身という存在を思いつくままに小さく抑えることで、代わりとした。
やがて足音は大きくなり、この空間の中心、すなわち私のいるほうへと向かってきた。
そして聞こえてきたのは、人間の男の声だ。
「ようやく着いたか……。いやはや、一時はどうなることかと思ったが、無事に役目は果たせそうだ」
彼の安堵に、二人目の男が訊ねる。
「旅程は特に何事もなく消化したかと思いますが、何か懸念でもおありでしたか?」
「ん? ああ、天音の件だよ。動向如何によっては、この調査も延期しなければならないところだったんだが、存外あのままあっさり消えてくれたからな。おかげで、晴れて予定通り来れたわけだ」
「おや、そういえば見る陰もなくなったとは聞き及んでいましたが」
それに答える男は嘆息混じりだ。
「最盛期など、シンラ様が直々に動かれることも視野に入れていたほどだというのに……北で敗北を喫してからは、見ているこちらが居たたまれなくなる有様だったよ」
「元々、無謀な拡大戦略でしたからね」
「天音の娘も、敗北以来人が変わったように精彩を欠いていたらしい。だから、やつらは時間を戻したように奉土を失っていったよ。そして先日届いたのは、屋台骨だったその娘が行方知れずになってくれたという吉報だ」
ふふ、と秘めた喜びが漏れる。
片割れがそれに追従するように、
「天音家も晴れて断絶というわけですか。佐伯殿も枕を高くして眠れたのでは?」
「随分と頭を悩ませてくれたからな。最後にもうひと暴れされるかと危惧していたが、杞憂に済んで本当によかった。まったく、調査一つとっても調整は楽じゃないんだ。今回も、最悪私一人で来る羽目になっていたかもしれなかったところだよ」
こつ、こつ、と彼らの足音が硬質なものになっていく。石の揺り籠がある広い石床へと足を踏み入れたようだった。
「その調査ですが、これから何をお手伝いすればよいので?」
付き添いらしい男の問いに、ああ、ともう一方が応じる。
「君は不審な変化がないか、辺りに気を配ってくれているだけで構わない」
「はあ」
「目的としてはヲウカの捜索だよ。シンラ様曰く、生存している可能性は捨てきれないらしくてな。こうして全土を調べ回っているわけなんだが、奴が身を隠すとすれば、最も縁の深いここ――陰陽本殿が有力なのではないかと、私が遣わされたわけだ」
恐怖のままに目を逸らし続けていたかったけれど、むしろ恐れのあまりに私の視界は彼らを捉えていた。どちらも知性を滲ませる風貌であるが、主体である男の眼差しは特に、隠されたものを容赦なく暴き出すように鋭い。
これから彼らが何をするのかは分からなかった。けれど、見つかった場合に良い未来が待っているような気はしない。私の内側に感じるか細い力ですらも遮二無二抑え込んで、懸命に存在を潜める。
ただ、男たちは私の努力をあざ笑うように、やがて私の宿る石の揺り籠の前で立ち止まった。
男は懐から取り出した巻物を広げ、息を整える。巻物の見た目はさして特別さを感じるものではないのに、伝わってくる気配は奇妙としか言い表せない。
そして彼は、不思議と響く声で、それを唱えた。
「『ヲウカよ、顕れよ』」
ぞくり、と。
どこにもないはずの私の身体が、彼の声に震え上がった。
巻物のように、その言葉もまた奇妙な力を孕んでいる。その力が、私に働きかけている。否、言葉面は希うものであっても、これは干渉とでも言うべき強引さだった。
だが、ヲウカというその名前を、私は知らなかった。
けれど、私にはまた、自分の名前というものに覚えがなかった。
もしかしたらこれが自分のことである可能性は捨てきれない。微睡むように淡々と過ぎていく時間の中、何度もその答えに手を伸ばそうとした私にとっては、天啓のように降ってきた手がかりとも言える。
しかし、剣呑な男の言葉を肯定することはできない。そうしてはならないと、本能がまたしても叫んでいる。
ここで名乗り出ようものなら、奇妙な力の宿る彼の言葉に引き寄せられてしまい、私が私でなくなってしまうような気さえした。だから私は、違う、違う、と縮まりながら必死に否定を続け、願いに抗い続けた。
「……ふむ、どうだ?」
どれだけの間、そうして耐えてきただろうか。私が応えずにいると、彼らは目を皿のようにして周囲を延々と調べ始めた。もちろん、言葉の引力はずっと生まれたままだ。
やがて、しゅるしゅる、と巻物が巻かれていく音で、私は石の揺り籠の内側にひたすら向けていた意識を、男たちへと戻した。奇妙な力が、収められていく。
「やはり変化は」
「……そうか。あてが外れたのか、それともシンラ様の杞憂なのか。いずれにせよ、ヲウカはここにはいないと考えてよさそうだな」
結論を得てからというもの、彼らは後ろ髪引かれることなく、手早くもと来た道へと戻っていく。天窓から射し込んでくる光の具合からして、実際にはあっという間の滞在だったのだろう。
「ところで、桜も枯れているのによくあんなに力を使えましたね」
「ふふふ……、それも当然! 何故ならこの書は、畏れ多くもシンラ様が直々に力を込めてくださったのだ! 本来ならば我々の手で探し出さねばならないというのに、あの御方はなんと慈悲深い……お前にはまだまだ早いだろうが、お力を下賜していただける日を夢見てよく励むんだぞ!」
「あー……。はい、がんばります……」
目的を果たした男たちの会話が、遠ざかっていく。
気配も消え失せた頃、私は深く深呼吸をするように心を落ち着けた。
しん、とこの冷たい場所に静寂が戻ってくる。
また、私は独りになった。
それからまた、空の明滅を何十と繰り返した。けれど、誰もここを訪れることはなかった。
もう見飽きた空の顔だけが日常における数少ない変化だったが、その飽きにももう慣れ始めていた。私に許されているのは、ぼんやりと空を眺めることだけなのだから。
その日も私は、ただ空を眺めていた。珍しく、雲一つない眩い空だった。
視界を彷徨わせていると、ちょうど天窓の縁から顔を出し始めた太陽とふと目が合った。切り抜かれた空が、照り返す鏡のように輝く。
目を焼く光に眩む中、意識は不思議と見覚えのない像を結んでいた。
私の宿るこの石に、刀を佩いた一人の少女が腰掛けていた。ぼやけた周囲には、他にも男女の姿があるように思える。
その空想の中で、私はその少女の左手へと移り宿った。

見に覚えのない光景を、私はどこか憧憬と共に眺めていた。
けれど、ふと意識を瞬かせた刹那の間に、その幻視は掻き消えてしまった。後に残されたのは、清々しいほどに晴れた空……元の空模様だけだった。これが擦れ始めた自分の空想に過ぎないと思ったら、胸の奥からも自嘲しか湧いてこなかった。
そうしてまた、私は一人現実に取り残されていた。
空の明滅は、さらに無情に繰り返されていく。
百が過ぎ、二百を経て、三百を超えた。
それでも、人が来たのはあの男たちで最後だった。
誰も、来なかった。
しかし、その繰り返しの中で、私は私の存在が徐々に大きくなっていくのを感じていた。
最初のうちは糸のように細く、何一つ成せないような力だったが、今となっては多少は自信の源になってくれていた。ここに至っても未だ、その力が一体なんなのか、うまく言葉にすることはできなかったけれど。
だが、力とは実現の礎である。
だから私は、願いをもって、力を籠めた。
「……っと」
するとそこには、一人の少女が、石柱を支えにして立っていた。
石の揺り籠から抜け出して、私は自ら作り上げた身体に身をやつしていた。
未だ名を持たぬ、私の姿。
ここではないどこかへ行くための身体。

外が恐ろしいという思いは変わらない。
けれど、誰も来ないまま、ここに在り続けることのほうが、私にはよっぽど恐ろしくてたまらなかった。時間の流れに独りでどんどん磨り減っていってしまったら、最後にはどうなってしまうのか、想像することも嫌だった。
だから私は、小さな手を握りしめて外へと歩き出した。
ひとり目覚めた、冷たい場所に別れを告げて。
一目見たとき、あれは糞婆ではなく、むしろ小娘……ホノカに近しい存在だと私は判断しました。
ホノカと違ってそれらしい役割をきちんと与えられたようで、表面上は随分と上手く取り繕っていますが、他ならぬ私が分からないはずがありません。あの糞婆にどれほど辛酸を舐めさせられてきたか……思い出すだけでも腸が煮えくり返るほどですとも。
面倒で不快な存在であることは確かです。しかし他方で、この地に忌々しくも根付いた腐れ木を焼き払う好機になるかもしれません。この娘の到来が何を引き起こすのか。今は慎重に見定めるべきでしょうね。
寧ろ危惧すべきは正しく彼女らの本題でしょう。あの小娘……内面はともかく、装いは正しく――いいえ、影の力すらも感じる在り様は、隠し記されていたかつての本質そのものだと類推できます。
私が見たこともないほどに旧い、最古のメガミたちの時代……その頃のヲウカだと。
……目覚めたときからあの姿ではないでしょう。影は影として在るのだから。
ならば彼女がここに至るまでに……、
はてさて……何があったというのでしょうかね。
