八葉鏡の徒桜

エピソード9−1:古都大決戦・第一幕

 

 野太い雷鳴のような轟音は、天井のさらに向こうで響いているようだった。

 それを裏付けるように感じ取っていたのは、天の彼方より降り注ぐ大きな力。ヤツハには、心がひりつくようなその力に心当たりがあった。

 

 北限で彼女を襲った紅の剣。

 桜に仇なす者を処断する刃。

 向こう側でも徒寄花に連なる存在を屠っていた、物言わぬメガミ。

 

「…………」

 

 そうと推測したところで、いまさら焦りも恐れも生まれない。ヤツハにとってそれはもう、当然訪れるはずの断罪の時だった。一度がむしゃらに掴み取ってしまった猶予がいよいよなくなったのだと、諦観が彼女の心身に回っていく。

 そして轟音から僅かに遅れ、畳に投げ出していたヤツハの身体が浮きかける。

 大地に伝わった衝撃が、屋敷をまるごとかき乱した。

 

「っ……」

 

 あまりの揺れに思わず膝から立ち上がろうとして、よろめいてしまう。床の間に置いてあった本たちが暴れ、遠くでは陶器が割れる音どころか、太い木の柱が折れるような音すら聞こえてくる始末。

 しかし、ヤツハが思い描いていたような破壊はもたらされなかった。揺れは続いているものの、屋敷も、ヤツハ自身もまだ形を保ち続けている。

 

「どうして……」

 

 自分の予想が間違っていたようには思えない。けれど、外れたふすまの向こうにある廊下が目に入って、考えている猶予がないと悟った。耐えられなかったのか、壁板に亀裂が走っている。

 今すぐにこの部屋が崩れるということはないだろうが、柱が折れた音といい、屋敷は既に悲鳴を上げている。このまま無為に時間を過ごせば、倒壊した屋敷に生き埋めになってしまうかもしれなかった。

 

 初めの尋常ではない衝撃をやり過ごした今、ヤツハはふらつきながらもどうにか立ち上がる。

 壁を頼りに廊下へ出た彼女は、一路屋敷の外を目指す。

 己の行動に、どこか違和感を覚えながら。

 

 

 

 妙な気持ち悪さの源は、屋敷が僅かに傾いてしまっているためだと気づくには、少し時間がかかった。

 

「い、っ……」

 

 床に転がっていた木の破片を踏んでしまい、ヤツハは痛みに顔をしかめる。まだ屋内で失礼だとは思いながら、作り出した靴を仕方なく履いた。

 激しい揺れからは解放された屋敷は、やはり目に見えて傷んでいた。みしみし、と軋む音も絶え間なく、今まで支えていた重みも支えきれず、膝をつくのを待つばかりといった様相である。日が変わる頃まで形を保っていると考えることすら楽観に過ぎるほどだった。

 

 しかし、そんな危うい場所から逃れようとしても、この屋敷はなかなかに広い。あてがわれていた部屋は奥まった場所にあったものだから、目指す外はなお遠い。

 何より自由な散策をさせてもらえるような空気ではなかったため、ヤツハには最短経路など分からない。見えてきた突き当たりをどちらにいけばよいのか、最初に案内されたときの記憶を頼りにあたりをつけるしかなかった。

 

 ただ、そこで彼女の耳に入ったのは人の足音だ。

 この状況でやや悠長に思えてしまうようなその足音の主は、角からヤツハを認めるなり安堵の表情を見せた。

 

「や、ヤツハさん……! ご無事でしたか!?」

 

 柱に手を付き、息を整えるのは天詞だ。

 先日に聞き役として相手をした彼女と、ここで鉢合わせたことにヤツハは驚いていた。前回も公務の予定をやりくりして時間を作ったと言っていたのに、この巡り合わせの悪さは如何ともし難い。

 駆け寄ったヤツハは、不運を呪いながら天詞に問う。

 

「私は大丈夫です。天詞さんこそお怪我は!?」

「こちらも幸い無傷です。ちょうど、トコヨ様たちとおりましたもので」

「よかった……。たまたまこんなときに、私がお手間を取らせているばかりに……」

「いえ、今日はそのことではなく。市中で騒ぎが起きていたもので、トコヨ様たちに報告しに上がったところだったのです」

「え……」

 

 もしや都のほうにまで火の手が、と青ざめる。

 しかし、天詞は慌ててそれを否定した。

 

「ご、ご心配なく。桜花拝の方々が参られたというだけですので、市中で荒事は起きておりません。今はカムヰ様をどうするのかが先です」

「……! そうだ、やっぱりこれはカムヰさんの襲撃なんですね?」

 

 こくり、と神妙な顔つきで頷く天詞。

 

「初撃を凌いだミズキ様が、そうおっしゃっていました。そのままトコヨ様らと急ぎ対応に向かいましたので、間違いなく戦いになっているかと」

「そんな……」

「一蓮托生とここに身を寄せていたのが露見したのです、揃って打って出るべきだと……そう決断されたのでしょう」

 

 そう言う天詞は、悔しそうに歯噛みしていた。

 そして彼女は、沈痛な面持ちを浮かべていたヤツハの手を、両の手で包み込む。

 まるで、ヤツハに縋り付くように。

 

「お願いです、トコヨ様たちに力を貸してはいただけないでしょうか」

「え、っと……」

 

 突然の願いに面食らったが、天詞の手に輝く結晶が目に入ってはたと気づく。

 荒ぶるメガミを鎮めたという逸話は、おとぎ話として語られるくらいには例に富んでいる。しかし、その物語の主人公は得てして名うてのミコトであり、史実でもまた同様だ。稀有な才でもなければ人はメガミに勝てないのだと、青雲はいつしか語ってくれた。

 

 古鷹天詞というミコトは、そのような英傑の器ではない。

 メガミと肩を並べることも、ましてや最古と呼ばれる強大な一柱に抗うことも、その細腕では許されてはいないのだ。

 

「今の私、ただの人間です。当主と仰がれようが、メガミ様方の争いでは何の役にも立ちません。桜のないここでは、崇めるメガミの危機を前にしようとも、何もできない無力な人間なのです。……でも、あなたは違う。あなたには、力がある。ヤツハさんなら、トコヨ様たちを助けられるのですっ!」

「…………」

「確かに、思うところはあるかもしれません。不自由を強いているのも事実です。ですが……トコヨ様は、私をここまで導いてくださった、大切なお方なのです。決して、失いたくはないのです……」

 

 涙は、なかった。誠意がぼやけてしまうとでも言うように、天詞は切実にヤツハへと訴えていた。

 ここに来て初めて天詞と顔を合わせたとき、彼女は開口一番に謝罪を申し出てきた。ヤツハをこの屋敷までおびき寄せた件だ。天詞は何も言い訳をせず、目的のために縁を利用してしまったと頭を下げた。それが、ヤツハをまだ友人と呼ぶためのけじめだと言って。

 

 そのとき既に一通り事情を聞いていたヤツハは、当然のことだと表向き天詞を許したものの、内心、以前会ったときのように天詞のことを見れなかった。依存すまいと意識していたこともそうだが、天詞もまた、桜降る代の存在だと再認識してしまったからだ。

 しかし、彼女は冷たい隔意を仕向けてきたわけではない。ヤツハの破滅を望んだがために、罠にはめたわけではない。

 

 天詞の願いは、その答えだった。

 ヤツハにとってひどく寂しかったとしても、天詞は守りたいものを優先しただけのこと。

 もしかしたらヤツハは結果として切り捨てられていたかもしれないけれど、天詞にそうさせた元凶はヤツハの生みの親と目される徒寄花だ。向こう側の徒寄花のせいだったとしてもそれは変わらない。境界線を跨いだところで、変わらないのだ。

 

「……分かりました」

 

 ぽつり、回答を告げる。

 罪滅ぼしだなんて高尚な想いを抱いたわけではない。その願いが天詞にとって都合の良すぎるものだったとしても、ここで拒絶するほどの気力がなかっただけだった。

 それに、ここで逃げたところで、次はどこへ行けばいいというのか。

 真に仲間と言えない者たちだったとしても、見捨てたらその次に出会えるのだろうか。

 一人真っ暗な地平をあてどなく彷徨うよりも、未来を恐れる自分をちっぽけな善意で慰めるほうが、命がけだったとしても選ぶのは簡単だった。

「申し訳ありません、ありがとうございます……! トコヨ様をどうか――」

「急ぎましょう。天詞さんも早く安全なところへ」

 

 天詞の手を振りほどき、記憶の中からもう一度邸内の道を呼び起こした。交戦するにしてもとにかく外に出なければ始まらない。玄関まで遠い道のりしか知らないのがもどかしい。

 与えられた目的だけが、ヤツハの脚を温める。

 ひとまず、ヤツハの知っていた、天詞が来た方角へ身体を向けると、

 

「逆です! ここからでしたら裏口のほうへ! 一度左に曲がって、ずっと進んでいけば分かります!」

「ありがとうございます!」

 

 礼を言い残し、天詞を置いて駆け出した。床板を硬い靴底が鳴らす慣れない感覚に戸惑いながら、ふすまや調度品の転がる廊下の先を目指す。

 だが、十歩も刻まぬうちのことだった。

 注意していたはずなのに、何かに足を取られて体勢を崩す。

「ぁ――」

「ヤツハさん!?」

 

 そこには何も転がっていないはずだった。割れた花瓶も、外れたふすまも。

 足元には、虚空にぬらりと妖しく輝く、細い細い一本の線。

 それを認めた直後、ヤツハを影が覆う。

 目元めがけて突き出されたのは、こぢんまりとした刀身だった。

 

「っ……!」

 

 ヤツハは咄嗟に身体を右に捻りながら、即座に出せるギリギリの大きさで怪物の腕を呼び出す。斬撃を繰り出した襲撃者の肩を、小刀を振るった腕ごと左手に追いやるような軌道で迎え撃った。

 こめかみに、一筋の痛みが走る。

 相手はヤツハの排撃に対して追撃を避けたのか、怪物の拳に逆の手を着いて、自らを運んでもらうように跳躍、間合いを離していた。

 

「いきなり、なんですか……」

 

 力なく、下手人を睨む。初手で目潰しを狙ってくる相手に、威圧するだけ無駄だろうと声に怒気を込めることはしなかった。

 廊下の奥、行く手を阻むようでいて、人形のように動かずこちらを窺う一人の少女。

 理知的な眼差しを眼鏡の奥に隠し、小柄なその身を白衣ですっぽりと覆っている。垂れ下がった襟巻きと二つに結ばれた長い髪は、瞑想する隠者に這う木蔦のよう。構えられることなく逆手に握られた小刀すら、生活の道具だと言われたら納得してしまいそうなほど、彼女はこの期に及んで自然体を保っていた。

 

 

 繰り出した不意打ちに対して、確固たる敵意が感じられない。

 だが、かといって仲良くなれそうな相手でもないことは確かだった。

 

「そこを、どいてください」

「…………」

 

 沈黙を守った襲撃者に、息を呑む。

 気配なく襲ってきた彼女は、言外の答えとするように自らの気配を大とした。紛れもない、メガミを相手にした威圧感が、改めて道を塞いでいた。

 

 意図の読めない相手に、警戒心を募らせる。話を聞くだけでは満足しないであろうことは、火を見るより明らかだった。

 殺意も、敵意もない。しかし、そこには抵抗を求められるだけの害意がある。

 突然現れた障壁が、ヤツハの鏡に不気味に映し出されていた。

 

 

 

 

 一部のミコトが不思議と決闘で行使しているらしいとはいえ、ヤツハの権能は多くの者にとって未知の力である。

 遠慮のない不意打ちからして、相手はヤツハがメガミであると認識した上で襲ってきたようだったが、今は慎重に間合いを測っていた。それほど広いとはいえない廊下では、一度の交錯で致命的にまで追い込まれてしまう可能性がある。それは、懐に潜り込まれてしまえば小回りが余計に利かないヤツハも同様だ。

 

 戦場に選んだこの場を観察するメガミは、やがて何かを捉えたように目を細めていた。

 その焦点は、ヤツハを越えて、さらに背後へ。

 そこには、彼女が置いてきたものがある。

 

「……ふむ」

「っ……! 天詞さん逃げてっ!」

 

 叫ぶと同時、相手の視界を遮るように、暴虐に満ちた数多の怪物の手を解き放った。

 相手が何を考えているのか、詳しく追う暇はなかった。今はとにかく、戦闘能力のない天詞から目を逸らさせることに精一杯だった。

 

「ほう……!」

 

 少女は感嘆の声を上げながら、まるで壁のように迫っていく怪腕を次々と捌いていく。いつの間にか両手に構えた小刀は目にも留まらぬ速さで閃き、捉えきれない手には結晶をあてがって弾き飛ばしている。

 それでも、怪物の群れは少女の肉体を啄み、ヤツハの感覚の正しさを証明するように桜色の霞と散らせていた。もちろん継戦能力を奪うほどではないが、この一瞬だけでも守りを強いることができたのだから上々だった。

 

 背後の足音が遠ざかっていく。そこに僅かな安堵を覚えながら、けれど目の前の相手は一切引く気配はない。

 少女のメガミは面で押されて確かに下がりはしたが、一定以上に大きく後退するつもりはないようだった。敵をかきむしる無数の細腕たちが、鏡からどこまで力を保っていられるか、早くも見極めつつあるようだ。ヤツハにも見えるようになってきた剣閃がその証拠である。

 

 少しずつ、少しずつ、まるで瞬きをした間にだけ移動しているかのような、動きを感じさせない歩みで相手は強かに間合いを測り直している。音どころか気配も希薄に過ぎ、こちらの感覚が狂ってしまいそうになる。

 彼女の意図は判然としない。余裕を見せているわけではなく、十全な警戒が窺える。

 けれど、まだ引かぬというのであれば、そこは依然怪物の餌場だ。

 

「ならッ!」

 

 全力での牽制からさらに押し切らんと、ヤツハの鏡から怪物の巨腕が顕界する。

 細腕の群れと交代するように伸びたそれは、廊下の空間を半分以上削り取る勢いで、鋭利な大爪を少女へ叩きつける。

 相手はこれに冷静に反応。横に構えた小刀を大爪の甲に合わせ、苛烈な斬撃の勢いをさらに下へと誘導した。彼女に見送られた爪は床板を食い破り、文字通りの爪痕を残す。

 

 だが、それは逆に少女が上へと――宙の方向へと僅かたりとも勢いを持った事実を示す。

 水面から跳ねた魚を攫うように、怪物が大口を開けて少女へと食らいついた。

 

「おぉッ!?」

 

 体勢が戻りきっていない相手は怪物の剛力を受けて踏みとどまることができず、盾にした小刀も逸れて桜吹雪を散らせた。肩口を食い破られた勢いで、彼女はさらに宙空へと跳ね飛ばされる。

 しかし、当然ながら彼女の目は死んではいない。

 器用に宙で身を翻しながら、何も持っていない手をぐい、と引っ張った。

 

「っ、ぅあっ……!?」

 

 瞬間、細切れにされたかのような無数の斬撃の痛みがヤツハを襲った。最初にヤツハの足を引っ掛けた極細の糸だ。

 全く予期していなかった反撃に動揺しつつも、怪物を盾に睨みを利かせ、全身を刻む戒めから逃れようとする。間違えると肉体を輪切りにされてしまいそうで、これほど恐ろしい罠を怪物の暴虐を乗り越えて張った相手の技巧に舌を巻く。

 

 簡単に退けられる相手ではないのは分かっていたことだ。今までメガミ相手に勝利を収めたことだって、桜花決闘という舞台だったからこそ。決まり事のない純粋な戦いを挑まれた場合にどうなるか、北限で思い知ったばかりだった。

 だが、ヤツハはそうやって差を理解したと同時、可能性もまた理解していた。

 あのカムヰをも退けることができた、ヤツハ自身の可能性を。

 

「はぁーっ……」

 

 痛みと共に雑念を追い出すように、深く息を吐く。

 眼差しは相手から逸らさず、されど自らを感じるように集中の海へ潜り込む。それは、底に横たわるとうとうとした力の流れを捉えるように。

 

 そして、切り刻まれたばかりの身体が小さくひび割れた。

 溢れ出すのは血潮でも灰でもなく、冷めた新緑の光。

 訳も分からずに白銀の大地に零した星空色の膨大な力を、今度は自分の意思で。

 

 

「…………」

 

 相手のメガミは、そんなヤツハの様子をただ注視するばかりだった。何か仕掛けてくるのではないかと攻めあぐねているわけでもなく、この戦いを自分が仕掛けたのだということすら忘れ、目を奪われているかのようだ。

 もしかしたらそれは、魅入られている、と言ったほうが正しいのかもしれない。

 微かに歪み始めていた口端が、今まで機微の窺えなかった彼女に狂気を匂わせる。

 

 その源泉が何なのか、ヤツハには知る由もない。けれど、力の発露をやめる理由になるとは到底思えなかった。

 故に、汲み上げた力を解き放たんと、盾にしていた怪物を戻そうと命じる。

 ……しかし、そのときだった。

 

「む……!」

 

 突如、相手のメガミが何かを察したように後方へと飛び退った。

 今になってヤツハが行使しようとしている力に危機感を覚えたわけではない。

 

 とすん、と。

 少女が居た場所に、まるで彼女をヤツハから遠ざけるような角度で刺さっていたのは、畳針もかくやという大きな針だった。

 状況の変化を悟り、ヤツハもまた解放する寸前であった力を引き戻す。

 

 見れば、だらりと脱力した彼女は天井を見上げていた。その意味するところを遅れて理解し、ヤツハもまた目で追う。

 だが、そこにあった意外な姿に、思わず懐疑が口から漏れてしまった。

 

「なんで……」

 

 外した天井板から半身を覗かせていたのは、事情を話した後も唯一表向きすら警戒を解いてくれなかったメガミ。

 心底嫌そうな顔を浮かべたチカゲの眼が、襲撃者のメガミをじっと捉えていた。

 

 

 

 

 音もなく天井から降りる最中も、攻撃されそうでチカゲは気が気でなかったが、ヤツハを襲っていた自分の師であるメガミ――オボロは特に動きを見せなかった。

 目に見える範囲での罠に足を踏み入れないよう注意しながら、己の立場を再度示すように苦無を握る。

 そして、背中に隠したヤツハに一瞥だけくれてやると、横合いの部屋に向けて胡散臭そうに声を投げかけた。

 

「いい加減出てきたらどうですか」

「え……?」

 

 ヤツハの戸惑いをよそに、気配がもう一つ、はっきりとこの場に現れる。

 部屋から頭を掻きながら姿を見せたのは、あえて特徴を消そうするように黒い衣を全身に纏った男だった。年の頃は三十代も後半になったというのに顔立ちは未だ幼く、わざと生やした髭が実に似合っていない。威厳をつけようとして失敗した若い商人のようである。

 

 闇昏千鳥。チカゲの弟にして、忍の里の頭領。

 彼は苦無を指で弄びながら、壁を背にしてちょうどチカゲとオボロの間に立った。ほんの一瞬だけオボロが眉をひそめたが、既に平然とした様子で千鳥を目で追っている。

 チカゲもまた鋭い眼差しを向け、ヤツハに至っては見知らぬ人物の登場でさらに混乱を極めていることだろう。必然、彼の次の言動に注目が集まる状況となる。

 

 だが、彼は注がれた険しい視線を受け流すように、苦笑いしながら肩をすくめた。そこに戦場へ躍り出た殺伐さはまるでないものの、緊張まで解いているわけではないようだった。

 彼の右手が、切っ先を自分側にするように苦無を持ち替えた。

 そうやってやんわりと指差したのは、チカゲ――否、後ろにいるヤツハだ。

 千鳥の口から、予想もしなかった言葉が紡がれる。

 

「あんたがヤツハさん……で、合ってる?」

 

 その問いかけの意図が掴めず、オボロと同じく流れを注視せざるを得なかった。

 ちら、と背後を見れば、ヤツハの顔に困惑が色濃く出ていた。集まる視線に耐えかねたように、こくり、と静かに彼女は頷いた。

 答えに満足した千鳥は、立ち位置を変えた。

 すなわち、チカゲたちに少しだけ背を向け、オボロと向かい合う形へ。

 肩越しに寄越された視線が、チカゲに何かを訴えていた。

 

「ここは俺と姉さんに任せて、先に行ってください」

「え……、あの、姉さ――えぇ?」

 

 突然のことに、ヤツハの混乱が口からぽろぽろと零れだしていた。チカゲと千鳥を何度も見比べ、さりとてこの緊迫した状況であえて訊ねることも憚られる板挟みに遭っていた。

 チカゲは特に補足してやることもなく、小癪な弟を軽く睨みつける。オボロはオボロで現れた障壁が鬱陶しそうに一歩だけ横に動いていた。

 

「千鳥、おまえ……」

 

 真意を探るよう小さく呟く。目が合った千鳥は、悪戯めいた笑みを作っていた。メガミたちの渦中で状況を引っ掻き回す彼のことが、小憎らしかった。

 刹那の内に勘定を済ませ、ため息を一つ。

 着地点は、確かに見える。

 乗せられたようで少し腹立たしいが、チカゲは筋書きなぞるべく、問いを口にした。

 

「……迂回路は?」

「そこの部屋に入ったら、中を通って俺の後ろまで抜けられるよ。罠はできる限り潰してあるけど、油断はしないで」

「愚弟にしては上出来です。……ヤツハ!」

 

 現実を再び見据えさせるために、鋭く呼びかける。研ぎ直された緊張が伝わってくる。

 手にした苦無の調子を確かめながら、チカゲは告げた。

 

「き、聞いていましたね? ……行きなさい」

 

 じり、と廊下の左側に身体を寄せる。交錯する間に誰かに横を駆け抜けさせられるほどオボロは甘くないが、この廊下という戦場に釘付けにして時間を稼ぐだけならば随分と現実味がある。

 

「……ありがとうございますっ!」

 

 僅かなためらいを振り切って、ヤツハはふすまを勢いよく開いて駆け出していった。壁一枚隔てたすぐ隣の部屋の連なりを、足音がどんどん奥へと進んでいく。

 オボロは追おうと脚に力を込めたが、同時に細かな一歩を踏んだ姉弟を見て脱力した。

 

 わざとらしく眼鏡を白衣の袖で拭い、諦めたのだと態度で示す。

 けれどそれは、ヤツハへの執着を断ったからではない。この姉弟を退けねばまともに追うことも叶わないのだと、認識していたからだろう。

 つまりは、敵だ、と。

 距離を取り、チカゲと並んだ千鳥共々、猶予を与えられたかのよう。

 

「後で詳しく聞かせてもらいますよ」

「はは……もうひとつの狙いなら、今すぐにでも言えるよ」

 

 あくまでも場は静かなままに、戦いの流れへと導かれていく。

 千鳥は懐から取り出した神代枝を砕き、桜霞に包まれた彼は、正対するメガミの力をその手に宿していく。

 ばつが悪そうに微笑んでいた彼の面差しが、真剣さを帯びる。

 

「姉さんを助けに来た」

「生意気な愚弟ですね」

 

 真意は横に置けど、一つの想いが姉弟の間で通じ合う。

 話は済んだのか――そう言いたげに微笑む師に、相対する姉弟は不敵に笑い返してみせた。