床の間に重ねられた草紙が、また一冊増えた。調度のろくに置かれていない、実に質素な部屋で人の気配を示すのはそれきりだった。外に面していないがために窓もなく、時折誰かが訪れる以外にほとんど動きはない。
「はぁ……」
ため息一つ、ヤツハは身体を丸めて畳の上に転がった。せっかく厚意で貸してもらった書物も、ろくすっぽ内容が入ってこずに気分転換になってはくれない。しかし、針の筵の上を散歩したところで気が晴れるわけもなく、こうしてまた無駄を積み重ねてしまった。
ヤツハにあてがわれたこの部屋は、出迎えのときの扱いから思えば、厚遇されていると言ってもいいくらいにきちんとした宿のそれだった。布団は柔らかくて温かいし、食事も言えば出してくれる。このところ安宿ばかりだったので、贅沢だと恐縮するくらいだ。
だが、こちらに害意がないのが伝わったとはいえ、厚くもてなされているわけではない。誰も口にはしないが、これが軟禁だということくらいは分かっている。少し廊下に顔を出しただけで、天井の向こうから殺気が滲み始めるのだから、安らぎとは程遠い。
それに、だ。ヤツハが元々の目的を果たそうとした過程そのものが、彼女の心にずっと疼痛を生み続けている。
向こう側の、滅びの話。
ここに来た次の日に変質したトコヨとサイネが語ってくれた、徒神なる存在と化した向こう側の自分から見た、世界の終焉。
己が桜に害成す存在となった記憶はやはり気持ちのよいものではないようで、時折歯切れが悪くなるのが聞いていて痛ましかった。その記憶が自分自身のものであるかのように意識を書き換えられたようで、今は異なる歴史の記憶として客観視することで、正気を保つことができたのだと苦々しく口にしていた。
メガミという素体ゆえに持つ圧倒的な力は、決闘の衰退により戦力の衰えた向こう側の人々にとって、とても対抗し切れるものではなかった。
さらには自らを種として神座桜に植え付け、桜を枯らすという悍ましい所業。
トコヨたちの見立てでは、生き残った人々は南へと追い詰められ、桜が枯れ尽くすのが先か、それとも人間が死に絶えるほうが先か、むごい選択を迫られただろうとのことだった。いずれにせよ、挽回の可能性は無きに等しいだろうと言っていた。
異なる歴史は、神座桜の敵対者――徒寄花によって潰えたのだ。
『未来を、刈り取ってしまったのです。私のものではない、私自身の手で』
サイネが声を震わせながら、そう証言していたことを思い出す。ただ上っ面だけ追ってしまえば、荒唐無稽な作り話だと思われてしまうような内容であっても、実際に『視』てしまった彼女たちの恐れは本物だった。
しかし一方で、記憶の流入と変質に至った原因にはまだ辿り着いていないようだった。曰く、何かしらの要因によって向こう側との結びつきが強まったことで、同一存在の記憶と力が向こう側から流れ込んだためだと推測しているらしい。
「向こう側と……」
遊んでいたヤツハの爪の先が、畳の繊維の間に食い込んだ。
その推測が正しいとした場合、トコヨたちの異質な力の源泉は、向こう側の彼女たち自身、ひいては向こう側の徒寄花である。つまり、こちら側の徒寄花に根ざすヤツハのものとは、似て非なる力だということになる。
仲間のようで、仲間ではない。
ヤツハに突きつけられたのは、悪夢のような現実から導かれた、非情な結論。
そしてその果てに待つのは――
「ん……」
考えたくなくて、寝返りをうって天井を見上げる。
向こう側の話を聞いてからは、今日に至るまでずっと対話を求められた。相手が主にミズキだったことには配慮を感じざるを得なかったし、以前と変わらずにヤツハを尊重すべき後輩として見る姿勢でいてくれたのは、幾らか救いとなってくれた。
だが、ミズキもまた、紅き剣のメガミ・カムヰの標的となったコダマを、変質から救うという使命を己に課している。威圧しないよう努めて対等に話してくれる中に、少しでも現状打破の手がかりがないか探る意思を、ミズキはあまり隠そうともしていなかった。
些細なことさえ深堀りされるようになったのは、ヤツハが隠し事をしていると確信しているからこそだろう。
ミズキたちの意図は分かる。けれど、それゆえにどうしても隔意を感じてならない。相手からしてみたら理不尽だとは思うだろうけれど、ヤツハもまたミズキたちに対して隠し事をし続けることへ罪悪感を募らせている。
心を開かせるためなのか、一度天詞が聴取に参加したことさえあった。彼女は旅で立ち寄ったときのままに、ヤツハのことをまだ友人だと言ってくれた。
それはとても嬉しいことだったし、できれば言葉通りに受け取りたかった。
けれど、この状況でたった一人の味方ができてしまえば、そこに依存してしまいそうで恐ろしかった。いっとき語らい合った程度の相手に、重荷を背負わせるのは間違っている気がしてならなかった。だから、天詞にはぎこちない笑顔しか見せられなかった。
「…………」
高い天井へ、手をのばす。このまま負の連鎖を続けて、強硬手段に打って出られやしないかと焦ったところで、手の届く範囲に解決策なんて転がってはいない。
元より、この場所自体が行き止まり。
気が遠くなるほど高い壁を越えなければ、ヤツハに安寧は訪れない。
結局、随分前から袋小路へ繋がる一本道に追い込まれていたのだ。
人々の噂やキリコの言葉に出てきた、鏡より現れる怪物も。
明確な敵意を持って、ヤツハに襲いかかってきたカムヰも。
そして、徒寄花の世界で見てしまった光景も――
「あぁ……」
伸ばした手が、目元を覆う。闇に閉ざされた視界には、やがて旅の終わりの果てに目の当たりにした景色を再現するように、星々が瞬き始めた。
そこは広大な夜空の天蓋の下のようでいて、その実狭く、人の温かみのない場所だった。
ヤツハは、身の毛がよだつような感覚にまとわりつかれたことを覚えている。視覚と食い違う奇妙な圧迫感が、認識を狂わせていた。自分の鏡から這い出してくるあのどろりとした星空に、閉じ込められているような印象すらあった。
空間に浮かんだ足元は、極彩色に輝く結晶質の何かで覆われており、あの蔦の材質とよく似ていた。
そして、奥に据えられていたのは巨大な鏡だ。
その鏡は数多の蔦で覆われ、がんじがらめにされたその姿は、蔦でもってこの場に封じ込められているかのようだった。不思議と感じた親近感は、もしかしたら目覚めてからもっとも強いものだったかもしれない。自らと繋がりのある物だと、ひと目見て理解していた。
そうやって鏡を眺めていると、星空の一部がふと、そこが黒い霧であったかのように揺らいだ。そして、天蓋に罅が入ったように隙間から桜色の光が零れてきた。
その光はヤツハが幾度となく見てきたものと相違なかった。桜花決闘の中で纏われ、砕け、輝き、巡る桜花結晶の輝き――すなわち、神座桜の輝きに他ならない。けれど、差し込んだその光に、温かさは感じられなかった。
黒い霧のような星空はひとりでにうねり、光の侵入経路を塞ぐように元に戻っていった。世界に、また闇夜が取り戻された。その星明かりこそが、ヤツハに安寧をもたらした。
桜色という、穏やか陽気をも思わせる光に込められていたのは、害意だった。それは、ヤツハが訪れた徒寄花の世界を侵し、消し去ろうとする敵意の発露であり、ずっと感じていた圧迫感の正体でもあった。
……ここまでは、表現の違いこそあれど、トコヨたちに語った内容である。
だが、その先だ。
隠したその先にこそ、絶望があった。
苛烈だと思っていた桜の光は、まだ春の陽気のようでしかなかった。
どうにか取り戻した夜闇を、激光が再び苛んでいた。
その強大さは、地上の影という影を容赦なく払拭する、灼熱の荒野の太陽のよう。
もはや圧迫感に居心地の悪さを感じるなどという生易しいものでは済まされなかった。眩いばかりに白んですらいた光は、常に四方八方から押し寄せ、星空を歪めて、今にも世界を押し潰してしまいそうだったのである。
徒寄花との繋がりを持つヤツハは、現状を直感的に嫌でも理解させられた。
この場所は、ひどく弱っている。
あともうひと押しでもされようものなら、光に呑まれて消えてしまうだろう。
大鏡は、そんな徒寄花が自らを守るための最後の希望のようだった。輪郭が分からないくらいに巻き付いた蔦は、これを失ってはならないと縋り付く必死さの現れだった。
ただ、どんなに不利でも守る一方では戦いには勝てない。それを学んでいたヤツハは、突如輝き出した鏡に、その答えを見た。
鏡面から次々と這い出してくる、何か。
言うなればそれは、星空を捏ねて焼き上げたような、人を模ったにしてはいやに直線的で歪な巨大人形。
様々な姿形を持っていたが、その四肢は刀や槍といった武具を模していたりと、およそ剣呑ではない。まともな顔もないというのに、淡々と歩いて行軍する様子は、怪物の群れ以外に表現が思いつかなかった。
怪物たちはやがて、空間の端に現れた少しだけ小さな鏡を通して、どこかへ消えていった。当然のように、縮こまっていたヤツハには目もくれなかった。そして再び、光の圧に耐えるだけの世界が戻ってくる。
そこを自分のあるべき場所だと思わされていたヤツハは一転、繰り広げられた光景に戦慄していた。
鏡から現れる怪物、とだけ言えば、まるでヤツハの権能そのものだ。
しかし、姿形が異なるという以前に、ヤツハがいつも生み出している怪物は全くの別物だと理解させられていた。だからこそ、自分のせいではないとミズキにはっきりと答えられたのである。
ましてやあれは、余力のない徒寄花が生み出したものでもない。
鏡の向こう側――ヤツハの知らないどこかから、怪物たちはやってきていたのだ。
「向こう側……」
その単語が、記憶と記憶を結びつける。
トコヨたちの語った滅びの歴史が、ついさっき聞いたかのようにまた蘇る。たまたま同じ表現をしているだけだと、強がることなんてできなかった。
最後の旅を経て、欠片はついに揃ってしまっていた。
「私は……」
自分は、徒寄花に通じる存在である。
そして徒寄花もまた、神座桜の脅威であった。
即ち――
「っ……」
ヤツハはそこで、目元に乗せていた腕をずらし、光の世界に戻ってきた。
彼女には眩しすぎる、桜降る代の光。
天井の明かりが、淡く滲んでいく。
他に道があるはずだろうと、か細い希望は持ち続けていた。
自分が隔絶されたところで、細々と生きていくくらい許されるだろうと思っていた。
だから仲間を探した。同じ立場の者を見つけに来た。
しかし、そこで得られたのは彼方の地の恐ろしい仲間。
自分が愛そうとした地の鏡像を、蹂躙し尽くした怪物の援軍。
そして何よりも、自らの寄る辺となる地こそが、桜に苛まれ、今にも崩れ落ちそうだという事実。
向こう側の悲劇からして、桜は自身を守るために暴威を成しているのだろう。
しかしその保身が果たされたとき、ヤツハが無事だというのは楽観にも程があった。
そうして排斥されつつある徒寄花を、悪逆の徒と捉えることはできるだろう。
だがその徒寄花も、生き延びるために必死に戦っているのだ。
ならば、そこに連なる存在であるヤツハの使命もまた――
「私は、この世界の――」
抑えきれない感情が、言葉となって零れ出す。
この言葉だけは避けていたのに、運命は残酷だった。
自分にとって、この地は何か。
この地にとって、ヤツハとは、何か――
「桜降る代の、敵……」

呟きが、光満ちる大地へ染み渡っていく。
……直後、それを塗りつぶすように、轟音が耳を貫いた。

目を守っていた腕をどけると、辺りにはメグミ同様、往来の真ん中で呆然する古鷹の人々の姿が散見された。大きな地鳴りということで、中にはこちらを――正確には傍らにいたハガネを拝む者もいる。見知った顔からはやや大人びているため、困惑もしているようだが。
突然の光に奪われていた意識を取り戻し、光の発生源を見据える。
「めぐめぐ、あれは……!」
ハガネの声に、表情が一層引き締まる。
天から落ちる暁光の鉄槌に、メグミは今までどれほど救われただろう。
直接肩を並べることはほとんどなかったけれど、彼女がいなければメグミたちが桜降る代に逃れるまでの時間さえ得られなかったはずだ。
「カムヰさんの……暁……。それじゃあ、やっぱり……」
「きりりんの言ってた通りだ」

ハガネが振り返った先で、キリコは串に残った最後の焼き団子を勢いよく口に収めると、綺麗になった串をまっすぐ光の源へと向けた。
「一番槍殿は、のんきに街巡りしてる場合じゃあないと仰せのようだ。相手が複数だとしたらカムヰ様とて危険だ、急ごう」
言うやいなや、キリコが走り出す。ハガネもまた追随していくのが見える。
自分たちが古鷹まで来たのは、観光をするためなどではない。
それでも、実際目にすることは叶わないと思っていたこの都を、このまま何事もなく散策できればどれだけよかったかとは思う。
けれど、皆の希望を新たに根付かせようとしたこの地にも、脅威は降りかかる。
その実在を告げる鐘の音が、今、鳴らされてしまった。
「……メグミ君?」
キリコがやや不安げに、立ち止まったままのメグミに呼びかけてくる。
けれど、それは憂慮でしかなかった。世界を跨いでまで歩み続けた彼女が、ここで先を選ばないわけがなかった。
「ううん、大丈夫……」
束ねた想いを引き絞るように、深く息をして。
握りしめた拳を突き出した先は、カムヰが戦端を開いた都の外。
まだ見ぬ敵を見据えたメグミは、覚悟と共に言い放った。
「あの連中との闘いは……あたし達が、終わらせる……!」

こうしてうつろう時は終わり、命運が動き出す。
残された欠片を集め、彼女は辿り着いた。
もう彼女に謎は無し。秘密も無し。
残るはあるべき本当の物語のみ。
もう一度だけ伝えよう。
これは英雄の物語に非ず。これは――、
怪物の物語さ。
