「こちらでしたか、駆道様」
煮詰めた血色の外套をはためかせ、天幕に入ってきたのは一人の青年だった。手のひらだけを合わせない合掌を作り、親指を胸に当てながら軽く頭を下げるその礼の所作は、同じ使命を抱いた者に向けられるものである。
その千洲波の同志たちを先導する立場にある

「……ああ、変わりはないか?」
「はい、カムヰ様は引き続きお休みになられています。桜の傍に寝所を移したためか、心做しか以前よりも安らかに眠られているように思います。お力を存分に取り戻されていることかと」
「それは良い知らせだ」
そう言ったものの、駆道は内心もどかしく、それでいて畏れ多くもあった。彼の信ずるメガミときちんと意思の疎通を図れた者は未だ誰もおらず、考えを推し量ることしかできない。ミコトとして正しいと考えることを為していても、やはり不安は拭えないものだ。
「再び目覚められるその時まで、必ず守れ。いいな」
「はっ! カムヰ様の裁定と共に!」
今度はきびきびと礼を成した青年は、定期報告を終えると足早に天幕から去っていった。研ぎ澄まされたこの使命感が、駆道が彼を護衛の一人に任命した理由であった。手を挙げた者たちには、栄誉に惹かれた不純な者が少なくなかったのである。
自分たちはあくまで、裁定を執行する刃の一翼でしかない。
下らない欲を捨て、彼女と共に敵を討つべく全霊を注ぐことこそが、千洲波の民のあるべき姿である――そこに、駆道が疑いを持ったことは一度もなかった。
ただ、浮かれるあまりに信仰心が歪むのも無理からぬ話だ、とも彼は思う。
戦場にて躍動する彼女を目の当たりにしたからではない。
彼女をなんと呼べば良いのか、その答えが永い時を経て取り戻されたからだ。
「かのメガミの名も馴染んだものだな」
落ち着き払った女の声に意識を向けると、今は駆道以外無人のはずの天幕の隅に、小柄な白衣姿がいつの間にかぬうっと生えていた。
「来ていたのか。なら早く言え」
「邪魔するのも忍びないと思ったまでだ」
片方の口端に笑みを浮かべるオボロ。
駆道は特にこれ以上追及するつもりはないようで、手振りで座るように促す。けれど、彼女はそれに首をゆるりと横に振った。
小さく嘆息した駆道は、
「盟友に感謝せねばならん」
「件のミコトか?」
「そうだ。奴は俺の願いを叶えてくれた。千洲波の民の悲願をだ。今度は永きに亘って、盟友の名を語り継がねばならんかもしれないな」
今まで、駆道たちは仕えるメガミの名すら分からないままであった。不運によって幾世代前に失伝してしまったそれは、ある出会いによって歴史の狭間より掬い上げられていた。
剣のメガミ・カムヰ。
紅の巨剣を振るい、裁定を下せし者。
その名が蘇ったからこそ、千洲波の民は己たちを指してこう名乗るようになった。
すなわち、カムヰの剣、と。
「俺たちの伝承も、盟友からもたらされた情報をきっかけに多くの部分が紐解かれた。お前たちの助力には感謝している。……しかし、だからこそ分かったこともある。カムヰ様の権能は、未だに全てが明らかになっていない」
「ほう……それは興味深い」
だが、とオボロは好奇心を抑えた。
「長い話になりそうだ、後ほど調査班から直に聞くとしよう。今日出向いたのは、此度の交戦についてだ」
そう言い終わるや否や、微かに風を切る音がしたかと思えば、駆道の手元にあった地図に細い針が突き立っていた。
それが穿ったのは、桜降る代の北の果て。
「十中八九、カムヰの向かった先は北限だろう。仕掛けた網に引っかかった何かを見て、うちの連中が呼んだに違いあるまい。実際、何があったのかは帰還次第報告させるゆえ、しばし猶予を頂きたい」
「これほど広い北限で、流石は忍と言ったところか?」
「なに、本来はもっと気長に待たせるつもりだったんだ。おそらくは、最警戒していた例の場所に何かがひょっこり現れたのだろうよ。幸運を拾ったに過ぎない」
オボロが語る幸運は、河に流れる黄金の粒のようなものだと駆道は知っている。目の細かい笊を用意して川底を根気よくさらった者でなければ、まず出会うことすら許されない。それでいて、砂粒の集まりやすい場所を狙う巧者の前にこそ姿を現すのだ。
彼女は懐にしまった物の形を、白衣の上から手のひらで確かめながら、
「本来は調査だけの予定と伝えていたが、こうして戦力を使う形となってしまった。申し訳ない」
「構わん。事実としてカムヰ様が向かい、剣を振われたんだ。ならば相手はいつか対峙する敵であり、遅いか早いかだけの違いでしかない。こうして無事にお戻りになった以上、何も問題はない」
むしろ、と駆道は続けた。
「それ以上に、俺たちへの協力に感謝している。宝珠も代わりを用意させておこう。敵がどれだけ蔓延っているか知れたものではないからな」
「それは有り難いが……」
礼を述べると、オボロは困ったように笑っていた。
駆道が顔に疑問を浮かべていると、彼女は、
「いや、いつか対峙すべき敵、というところに思うところがあってな。まさにそれは今なのだろうが、あの大層な向こう側とやらの話を考えると拙者も身を引き締めねばなるまい、と」
「俺たちの道は変わらん。共に敵を見出し、共に敵を討つ。それだけだ」
オボロの言を今更とばかりに切って捨てる。
使命の矛先をどこに向けたら良いか、千洲波の民はようやく知ることができた。
自分たちの存在理由が、これから証明されようとしている。
幾重にも世代を越えて受け継がれてきた信仰が、晴れて結実しようとしている。
しかし、その舞台が世界の終わりであろうとも、彼らの意思が揺らぐことはない。
何故なら剣とは、ただ主の意のままに敵を切り裂くためにあるのだから。
「俺たちは、いつまでもカムヰ様の裁定と共にある」
駆道の鋭い眼光に、狂気の色が一筋、歪に波打つ刃紋のように走っていた。
広大な稲鳴平野が、茜色に染まっていく。数多の天幕が作る影法師の群れは、どこまでもその背を伸ばしていき、やがて夜闇に溶けて消えゆく定めにある。夜行性の獣たちは、それに紛れるようにして静かに目覚めていくのだ。
ライラは、地面に半分顔を出した大岩に腰を下ろして、黄昏の光を背中に浴びながら物思いに耽っていた。彼女の周りでは、そよ風が行き先を見失ってしまったように吹いていて、足元に散らばる砂は不自然なまでに綺麗な渦を描いている。
「まだ悩み尽きぬと言った様子だな」

その傍らに先程から立っていたオボロが、ようやく口を開いた。それはライラを慮った言葉のようでいて、自分の存在をわざと主張するようでもあった。
オボロは背後に広がる集落に目を向ける。
「お主も和解を説いて回った立場だろう? 未だ揺らぐ様子を民に見せてしまえば、不満が再燃してしまうやもしれぬ」
「……うん、…………」
「何も全て胸の内にしまい込め、と言ってるわけではない。全員が納得行くような解決を行えていないこともまた確かだ。我々メガミは人々の潤滑油でもあるが、だからこそあえて火に飛び込むような真似は避けたいところだ」
オボロの言っていることはよく分かる。ライラとて、自分のせいでまた諍いが生まれてしまうのは望むところではない。もしもライラが態度をころころと変えてしまえば、背後の集落にはたちまち殺伐とした空気が漂うことになるだろう。
去年よりも倍近くに膨らんだ、天幕の数。
その差分は、ここ稲鳴に駐留を続ける千洲波の民のものである。
そう、最終的に変貌したコダマを巡る戦いを繰り広げた稲鳴と千洲波は、和解を経て共同歩調を取るに至っていた。
和平に向けて最も尽力したのはオボロであったが、稲鳴の民の背中を押したのはライラである。信仰しているメガミの言葉というのは、人々にとってそれほどに重いものだ。
しかし、オボロの言う通り、遺恨が消えたわけではない。あの侵攻によって少なからず被害は出ている。稲鳴平野に突然倍近い食い扶持を求めてしまったことも、冬備えがギリギリの時期だったこともあって、自然との調和の観点から常に難色を示されていた。
もちろん、ライラは民の懸念のどれもを理解している。
ただ、それらをよそに千洲波の民が掲げた御旗こそが、彼女を最も悩ませていた。
「カムヰ、正しい。だから……」
彼らが桜降る代本土へ足を踏み入れた目的は、例えばこの地の支配などといった我欲に基づくようなものではなかった。彼らはあくまで、奉ずるメガミの方針に従うだけだった。
もちろん、メガミというだけで無害と判断するほどライラもオボロも甘くない。眠るばかりで何も語らないカムヰのことを、あれから今この時に至るまで、ライラたちはずっと見定めようとしてきた。
けれど、得られた要素のどれもが、印象と反して千洲波の民の行いを『侵攻』ではない別の言葉で呼ぶことを求めていた。
メガミ・カムヰは、神座桜に深く結びついた旧きメガミである。
カムヰはこの地を害するどころか、その逆の目的を持っている。
オボロによる千洲波諸島の実地調査も、ライラの本能的直感も、それらの仮説を支持するものでしかなかった。さらには、昨今北限で起きた出来事を通して見れば、もはやこの説が最有力であるとすら言える状態になっていた。
「例の向こう側からの客人の存在は、流石に決定打と言わざるを得ないだろう。それとも、自分の目で確かめたいか?」
「いい。忍、嘘ついてない」
「まあ、会合の席には多くのメガミが居たという話だ、そのうち直接裏も取れるだろうし……何よりご本人たちに会う機会もあるだろう。信じがたい話だが、憂慮すべき事態が進んでいるのは間違いなく、我々も座して破滅を待つわけにはいかぬということだ」
まさかライラも自分の直感を肯定してくれる相手の一人に、自分が知るハガネとは別のハガネが混ざっているとは思っていなかった。その驚愕は記憶に新しく、今も一から十まで向こう側の世界の話を正しく噛み砕けているかは自信がない。
しかし、ライラにとってはあのような突飛な話ですら、後付けの材料でしかなかった。
彼女がカムヰを肯定していたのは、もっと前のこと。今の今まで続く彼女の悩みは、そこに端を発していた。
「……でも、戦った。みんな、傷ついた」
侵略を受けたあの日、カムヰと初めて邂逅した。
カムヰの存在を肯定的に捉えるライラの直感は、カムヰが空の彼方から飛んできたその瞬間から生まれていたものだった。ライラにとって本能的に受容する物事とは、それ即ち自然の理に即している事象である。つまり、カムヰというメガミは神座桜の自然に即した存在なのだ。
だが、それを抱えていてなお、ライラは武器を手にとった。
紅の大剣の切っ先が、はっきりと友に向けられていたから。
「殺される、見たくない。コダマも、ミズキも……」
「対立を望まぬ一方、仲間が傷つくのもまた望まなかった、と」
頭頂で耳を伏せるライラに、オボロは、
「これはたらればの話になるが……カムヰたちのことを知った今からすると、もしお主らが全面降伏を選んでいたとしたら、お主やハツミ殿、稲鳴の民が殺された可能性は薄いだろう」
ライラは、力なくオボロを睨んだ。慰めにしても、無意味であり無価値な話だった。ただ、それでオボロを責めたところで何にもならないことが、何よりライラには虚しかった。
周りの者が狙われた理由はカムヰの目的にあり、それはライラが尊ぶ自然の摂理である。本能がそう訴えているし、理屈もついに追いついてきてしまった。
けれど一方で、これは弱い個が厳しい自然に淘汰されることとは違う。理屈はあっても、愛する仲間に牙を向けられた事実には変わらない。
一方を立てれば、一方を諦めねばならない。
稲鳴の民には自然を尊ぶメガミとして説得にあたったが、ついぞコダマが狙われたことへの歯切れのよい説明をできた覚えはなかった。
だから、地平の彼方に向かって、後悔がこぼれ落ちる。
「……みんな、怒る。……わかる」
稲鳴の長が受け入れたからこそ、今の状態が実現している。駐留に際しても、千洲波の民には自活をしっかりと求めており、あくまで条件は対等だ。けれど、仮にいくら物品で補償したところで、過去の遺恨はそう簡単に消せるものではない。何しろ千洲波の民は、自分たちがそうするべきと思ったことを行っただけで、今もその考えは変わらないのだから。
ライラには、その溝を埋めるだけの言葉も、意思も持ち合わせていなかった。それが、説得しきれずに燻る稲鳴の民を生み出した一端であると、思って憚らなかった。
「お主だけのせいではあるまい」
「らい、悩む、みんな、悩まない、できる?」
「…………」
ライラと人々とで、千洲波勢力へ持つ感情は全く同じというわけではないけれど、抱えた想いがあるべき姿から自身を遠ざけているところは同じだった。
ライラや長という力ある者の言葉を重んじる稲鳴の民であれば、決定的な崩壊には至らないだろうとも考えられるが、いつまで続くかも分からない危機を前に、対立の火種が燻り続けているのはいい話ではない。
受け入れるべき存在をどう受け入れるのかは、個人の自由だ。
けれど、そもそも受け入れるべき存在を受け入れるか否か、感情を以て判断することは、自然を受容することとは遠い概念である。
「受け入れる、だけ。でも、難しい……」
「そう言われると、お主にできぬことを皆に強いるのは酷だと思わされるな。拙者としても、その苦悩は理解しよう」
オボロはそれから続けて、
「事実、千洲波の民がいささか以上に過激なことを否定するつもりはない。彼らが事を起こせば、後には必ずと言っていいほど破壊が残るだろう。それが人々の営みや、自然の恵みにとって致命的にならぬよう尽力するのが、橋渡しをした拙者の務めだ」
「話、聞く?」
「心配はもっともだな。狂信的な彼らは極端で、なおかつ獰猛。意見を聞き入れてくれないことは何度もあった。ここまでの狂犬を相手にするのは拙者も初めてだ」
これみよがしなため息が聞こえる。
しかし、と彼女は継いだ。
「彼らは悪辣なわけではないし、会話の一切を拒絶するわけでもない。芯に据えた意思が強固なだけであって、矛先を調整するだけの余地は残されている。努力するだけの価値はあると踏んでいるよ」
まさしくそれは自然そのものではないか、とライラは胸の奥で一人納得していた。同時に、千洲波の民側に働きかけることがいかに困難か、改めて理解してしまっていた。
ならば後は、身を任せるしかない。
彼らがこれからどんな結果をもたらしたとしても。
そう、本能が訴えている。
「……しかし、お主も分かっていると思うが、最後に決断するのはお主自身だ。拙者は話を聞いてやることくらいはできるが、お主に強制する権利は持っておらん」
ん、と喉を鳴らして答えを濁した。
未来に差し支えがなければ、悩む必要なんてない。ライラもまた動かなければならないからこそ、ずっと答えがでない問いに一人向き合っていた。
「オボロは……?」
「もう決断したよ」
即答が返ってくる。
その心がどのようなものか、ライラは確かめたいという欲に駆られた。意見を参考にするというよりは、自分が悩み悩んでいるこの状況ですっぱりと判断を下せてしまうその心情に理解が及ばなかったからだった。
「……!」
けれど、背後のオボロを見上げたライラは、ぶるりと身を震わせた。
茜色の夕日を背にした彼女のその表情が何よりも雄弁であり、これ以上問いを口にする気にならなかった。
言葉を失ったライラへ、オボロは告げる。
誤解の余地も、曖昧さもない、未来を決定付ける結論を。
「旧き誓約の書き換えをな」
長き歴史を誇る桜花大社。その最奥の一室は、主を失ったことでしばらく閉ざされたままとなっていた。もちろん、いつでも帰ってきてもいいように手入れだけはされていたわけだが、誰も使わない部屋というものはそれだけで人の居る空間とはかけ離れていってしまう。

それが、その部屋を以前ユリナが目にした際の印象だった。そのときは大社でのホノカの居室をどうするか、という話の一環で高野に案内されていたけれど、ホノカをお気に召さない者たちと揉めるのも面倒で、結局使わずじまいのままになっていた。
そして現在、最も権威ある者のおわす座には、新たな主の姿があった。
向こう側より来たりし主神は、従者が去ったのを見計らってため息混じりに話を切り出す。
「本当はもう少し早く場を設けられればよかったのですが、思ったよりも落ち着くまでに時間がかかってしまいました。皆さんにこちらに留まっていただいたというのに」
「まあ、しょうがないですよ。こんな状況ですから」
申し訳無さそうなヲウカに、ユリナは苦笑いで応じた。
いかに現在の桜花拝宮司連合をユリナたちが牽引していたとはいえ、元々崇めていたメガミが――別人であったとしても――帰ってきたのだ、そちらの受け入れに労力を割かれていたのは実際仕方のない話である。しかも、今宮司の中で主導権を握っているのが、ヲウカの帰還を熱望していた正村である以上、ユリナたちへの対応が後回しになっていたのはある意味必然だった。
だからユリナの返答は半分本音ではあったが、それでも声色に滲み出た疲れを隠す気にはなれなかった。
それは傍らで遠い目をしているウツロも同様である。
「むしろ、思ったより早く済んだな、って」
「こちらの桜花拝は色々複雑な事情がおありのようなのに、油を注いでしまったかもしれませんね……。事を荒立てるつもりはなかったのですが」
「宮司、勝手に騒いでるだけ。だいじょぶ」
二十年以上付き合っている問題なだけに、もはやウツロは悟りきっているようだった。
しかし、残る一人は纏った空気からして不満を滲ませていた。
ホノカだ。
「そうです。慣れっこですから、今更面倒の一つや二つ増えたところで気にしません」
棘のある物言いだったが、ユリナにそれを咎めるつもりはなかった。ホノカがあえて口にしただけで、向こう側の事情はさておいて、ヲウカの存在そのものが特大の面倒事である事実は否定できないのだから、好意的になれるわけもないのだ。
ヲウカはそれを困った顔で受け流していた。謝ってしまえば、向こう側の記憶を携えて逃げ延びてきた決断を否定することになりかねないのだから当然だった。
ただ、ホノカもあまり建設的ではない事を言った自覚はあるのか、口をすぼめながら言い訳をするように続けた。
「……久しぶりにシンラさんから嫌味を言われずゆっくりできたので、待たせたなんて気にしないでください」
「あはは……」
苦痛というほどではないようだったが、それでも気心の知れた三人旅よりは随分と疲れが溜まっていたらしい。咄嗟に出た言い訳にしては実感の籠もった言葉だった。
シンラと共に巡った調査の旅は、臨時の大家会合を終着点として終わりを迎えた。ユリナたちがここ蟹河に向かった一方、シンラはシンラで碩星楼の顔としてやるべきことがあるのか、別行動となっていた。
「シンラさんも一緒に来てたら、すごいことになってたかもしれませんね。前に書庫の調査で寄ったときも、大社を見るなり悪口ばっかりだったし……」
「私としても、シンラが一緒でなくて安心しています」
「向こうでもシンラさんとは仲が悪かったみたいですしね」
ユリナが言うと、ヲウカは少し逡巡する様子を見せた。
それを疑問に思っていると、ヲウカはやがて声を僅かに潜めて思うところを口にした。
「実は会合の場では詳しくお話しませんでしたが、向こうでは桜花拝と碩星楼の溝は修復できないほどに深まっていました。何故なら私は一度、シンラに殺されかけたからです」
「え……それって」
思わず、ホノカの顔を窺う。
桜降る代においては、転生によって本人の記憶が失われているからこそ、正式な糾弾には至らなかった出来事。
それをヲウカ本人の口から語ることの重みは計り知れない。
ホノカは驚いたような、納得したような面差しで問う。
「もしかして、お話の中にあった、歴史的和解ってそのあたりのことですか? 徒神になったヒミカさんが襲ってきたっていう、そっちでの大家会合のときの話です」
「はい。協調して有事に対処するため、碩星楼がそのとき初めて事実を認め、桜花拝に謝罪を行ったのです。間違いなく話が脱線するかと思い、ぼかしていました」
「……確かに」
先日の大家会合にはシンラと桜花拝の重鎮が顔を揃えていた。そこで燃料を投下しなかったのは実に懸命な判断だったと言えよう。
ある意味、向こう側は向こう側でホノカたちよりももっと面倒な政争が起こっていたことを悟って、ユリナは恐々とした。今のシンラとホノカがまだ可愛らしく思えてくる。ヲウカの『嫌い』は、ただの人の好みで収まる範囲をゆうに超えているのだ。
メグミの出自で思い知らされたことではあるが、歴史の違いがもたらす結果の違いにユリナは改めて感心する。一方で、ホノカがホノカであったからこそ出会えた幸運に感謝した。
「それも、失われてしまった我々の地での話ではありますが……」
ヲウカは一瞬浮かべた儚げな微笑みをしまってから、
「ただ、好悪を抜きにしても、今回のお話にシンラを絡めるとこじれるのは分かっていましたから、その点でも彼女がいないのは有り難いことです」
「そうですね。桜花拝の今後はちゃんとわたしたちで話し合いましょう」
「ええ、メグミやハガネと違って、私は桜花拝に必然的に収まることになりますから。この会談は必ず行われなければならないと考えておりました」
改まった意思表明を受けて、ユリナの気が引き締まる。
ヲウカとユリナたちは桜花拝とどう関わるべきか――それが今回の本題であった。
もちろん、ホノカだけでもずっと意見が別れているというのに、都合よく誰もが認める答えが見つかるはずがないとユリナたちは覚悟している。ただ、他に対処すべき問題がある中での内輪もめは避けたく、当面の方針は必ず定めなければならなかった。
しかし、議論自体は歓迎するところではあっても、相手はあのヲウカだ。シンラからの言葉には公平性に疑問が残るものの、悪い噂ばかりの傑物であることには変わりない。
故にこの場に臨むにあたって、ユリナたちは戦々恐々としていた。立場上、他のメガミに助けを求めづらい中で、以前までこの地を掌握していた存在と対峙しなければならない。世界の終わりを目の当たりにして、大人しくなっていることを祈るばかりとはウツロの言だ。
「では、私が今どう考えているのか、大きな指針からお話ししましょう」
ヲウカは茶で一息入れてから、口火を切る。
彼女がどう持ちかけてくるのか息を呑んで窺っていると、
「まず、私とあなた方とで、分業するべきではないかと思っています」
「分業……?」
オウム返しに訊ねるユリナに、ヲウカは頷いた。
「前提として、この世界において桜花決闘が新たな形で存続していることを、私は高く評価しています。この流れを崩してはならないと考えているため、このまま今の形で推し進めていきたいのです」
「…………」
「我々が徒寄花に負けたのは、神座桜が弱ったためです。その一因に桜花決闘の衰退があると考えてられている以上、決闘が興隆しているこちらが無事であることはある種必然なのかもしれません」
向こう側のメガミたちは皆、桜降る代の神座桜の力強さに心を揺らしていた。それは驚嘆や郷愁であったが、想起させられたもしもが生む羨望でもあった。
ヲウカはさらに続けて、
「決闘文化の浸透が上手くいっている以上、あなた方を、桜花決闘を管理し、広め、祭りを開く者という立場から外すことは悪手でしかありません。元はと言えば私が考え出したものでこそありますが、よくここまで拡大させてくれました」
「いえ、好きでやっていることですから」
「そうであればなおさら、あなた方には桜花決闘に専念していただきたい。そうすれば、間接的にこの地を守る役目を、安心してお任せできます」
しかし、とヲウカは継いだ。
「一方、桜花決闘だけで世の中が回らないのもまた事実。あなた方は私以上に桜花決闘を愛し、尽くしているようですが、それ以外において人々を導くことをあまりしてこられていないとお見受けしました」
「それは……」
「そのがむしゃらな姿勢がこの地を救ったのかもしれませんが、世界は未来に続いていきます。世情が不安定になることもあるでしょう。そのとき、人々は導きを必要とします。故に私が桜花拝の頂に立ち、主神の知恵で以て導きを与えるべきかと。この体制が現状を崩さず、さらに良い発展のためには妥当ではないでしょうか」
出された提案に、ユリナは少し困った顔をしながらホノカを見やった。事前に想定していた中では優し目な内容だったが、やはり主神の座の空席という観点では反論のしようがない。それはホノカたちが半ば先送りし続けてきた問題だったからだ。
この短時間でよく調べたのか、誰かの入れ知恵があったのかは聞くべきではないだろうと思いつつ、ユリナは筋の通らない異論しか出てこない自分に呆れていた。
考える時間を稼ぐために湯呑に口をつける。
そうしていると、ウツロが隣で小さく手を挙げた。
「ホノカの処遇を教えて。あなたへ存在を捧げて欲しいって、思ってる宮司がいる」
「う、ウツロちゃん……」
避けては通れない話題ではあったが、大上段のような思い切りのいい切り出し方にユリナは心中穏やかではなかった。
ウツロが言っていることはホノカがずっと抱えてきた問題であり、あるべきところに還すべきだと言って憚らない宮司は少なくない。その還す先であるヲウカが現れたため、今最も勢いをつけている派閥である。
この回答如何で、ヲウカへの態度が大きく変わってしまう。このまま桜花決闘を任せたいと言われたものの、陣頭であるユリナがいれば問題ないと判断されてしまう可能性は無視できない。
恐る恐る答えを待っていたユリナだったが、意外にもヲウカの反応はため息から始まった。
「そのようなことを私も耳にしましたが、望むところではありません。立場がはっきりすれば不都合もないでしょうから、必要性を感じていません」
明確な否定に、思わずほっとする。顔に出ていたのか、ヲウカがお互い大変だと言わんばかりに笑いかけてきた。
「それを聞いてひとまず安心しました。ねっ、ぽわぽわちゃん!」
「はいっ! ヲウカさん、同じ権能を持つメガミ同士、これから一緒にがんばっていきましょう! こっちの神座桜のことなら何でも教えてあげますからっ!」
「ええ、実に助かります。これからは、私が主神として桜を守っていくわけですからね」
にっこりと笑みを浮かべるホノカとヲウカ。一山は越えたはずなのだけれど、ユリナは何故か、彼女たちの間に小さな火花が散ったような気がしてならなかった。
それからヲウカは、圧のある笑顔を崩して、
「本当は務めとして、私が全てを担うのが道理なのですが、この世界を発展させてきたあなた方の意思を無下にするわけにもいきません。ですから、どうか良き未来のために、あなた方はあなた方にしかできないことへ、邁進していただきたいのです」
「決闘を盛り上げ続けることはいいんですけど……」
「何か支障がありましたらなんなりと」
「いえ……」
ユリナは、喉に小骨が詰まったような違和感を覚えていたが、ヲウカの提案に対して特に大きな瑕疵を見つけられてはいなかった。それはヲウカ自身の人格の問題も含めて、である。隠れてあれこれ動かれるより、身近に居てもらったほうが対応しやすいのは間違いない。
ホノカもウツロも同様に反論できずにいるようだったが、事前の打ち合わせで用意できなかったものをこの場で見つけ出すのは容易ではない。きっとシンラならばあれこれ指摘してくれるのだろうが、いない者をあてにしても仕方がないし、喧嘩になることは目に見えている。
このまま細かい話に入っていくことは簡単だが、難癖をつけているのと大して変わらない。元より、穏当な案として想定していた話ではあるのだ。そこまでして考える時間を作らなければならないほどのものでもなかった。
だから、本当にあるのかも分からない違和感だけどうにか探り当てようと考えていたが、そんなユリナの様子にヲウカは助け舟を出してきた。
「この場で結論は出さなくても構いませんよ」
彼女曰く、
「今は徒寄花への懸念もありますし、そちらを優先すべきです。今はひとまず、私の望みがこういったものであると受け入れてもらえたら助かります」
「ありがとうございます。大きな話で、ちょっとすぐには考えきれなくて……」
「そもそもが異例の状態ですからね、仕方ありません」
こと決闘が絡まないとなると、ユリナの直感も働かない。ヲウカの物言いから話が決まってしまいそうで焦っていたものの、与えられた猶予に胸をなでおろす。
ただ、これは遠い未来のためだけの話ではない。
逃げてはならない話題が残っていると、ユリナは意を決して訊ねるが、
「じゃあ、しばらくヲウカさんはどうし――」
「お話中失礼します」
その言葉を遮って、閉ざされた襖の向こうから老いた男の声が投げかけられた。
ヲウカが許しを出すと、開かれた襖の間には平伏する正村の姿があった。
「取り急ぎ、ヲウカ様のお耳にお入れしたいことがあるのですが……」
彼があえて言葉にしなかった内容がなんなのか、ユリナたちを見て少し顔をしかめたあたりで明らかだった。
しかし、もはや慣れている三人は、めいめいに疑問を浮かべて正村を見返すだけだ。自分から席を外すつもりはさらさらなかった。
彼はやむなしと諦めたのか、
「ユリナ様方もご一緒に、できればご足労願えないでしょうか。その、来客がありまして」
「……?」
ヲウカ自身に出迎えてもらうほどの客に心当たりがなく、ユリナは本心から首を傾げた。
そこで会談は一時中断となり、正村の先導によって大社の中を行く。急ぎとは言われたものの、危機が訪れたような雰囲気ではない。徒寄花関連の情報がもたらされたのであれば、最奥の間に通して報告してもらうだけで済む話だ。
ただ、行く手にあるのは来客用の部屋ではなく、そのうち辿り着いたのはやはり宮司たちが会議によく使うような身内向けの部屋であった。
さらに、近づくほどに強まっていた感覚が、確信に変わる。
襖の向こうにいる人物は、人間ではない。
「ふふっ、どうもわざわざすみません」
開口一番、整った顔立ちに不敵な笑みを浮かべ、詫びる女。
旅装を解いた様子の彼女は、くつろいでいた姿勢を改め、一行に向き直った。
その眼差しの中心にあるのは、呼び出したヲウカその人。
女は胸に手を当てて、こう告げた。
「忠実なる桜花の刃、奉納のメガミ・キリコ。永き眠りより戻りました」