八葉鏡の徒桜

エピソード8−1:彼女にとっての失楽と飛翔(前篇)

 

 北限の地平に、ぼんやりとした夕日が沈みゆく。元より猛吹雪によって失われていた視界はさらに狭くなり、小指の先ほどのぬくもりも拭い去られようとしている。神座桜の光もろくに届かない、寒さのいや増す夜闇がそろそろ大雪原へ訪れようとしていた。

 ハツミは、自分たちのいる洞窟の中に、その険しい寒気が徐々に入り込んできているのを肌で感じていた。ここに辿り着いたときからわだかまりつつあった暖かさも、より高く嘶くようになった吹雪によって容赦なく剥ぎ取られていく。

 

「うぅ……焚き火が恋しい……」

 

 そう身震いしながらぼやいたところで、極寒の地ですぐに燃やせるようなものが見つかるはずもない。手持ち無沙汰なこの時間、何度か外の様子を伺っていたものの、顔に吹き付ける雪の礫にすごすごと奥へ戻ることしかできなかった。

 ヤツハが奇妙な蔦の中へ消えてから、ずっとこの調子。

 時間の経過をその目で確かめたくなるくらいには、底冷えする洞窟の中でそわそわと彼女の帰りを待ち続けていた。

 

 

「ねえ、火を熾す絡繰とかないんですか……?」

「んー? そこになければないんじゃないですかねぇ……」

「嫌ですよこんな背嚢漁るの……」

 

 一方のクルルも、件の蔦に興味を根こそぎ持っていかれてずっとこの調子だ。いつもなら嬉々として発明の解説と実践をしてくれるというのに、絡繰の話題を振ってもおざなりに返答するのみで雑談もろくに続かない。

 この洞窟の最奥の空間も、絡繰の明かりに照らされているだけで、長く居ると暗闇に喰われているような気になってしまう。枯れた神座桜の根も侘しさを覚えてならないし、あまり居心地のよい場所ではなかった。

 

 だから気分だけでも晴らそうと雑談に興じたかったハツミではあるが、如何せん相手と時が悪かった。変な緊張感を生む沈黙が破られることはなく、ただただ友人の安否を案じることしかできなかった。

 幾度目かの諦めと共に眉を顰める。

 と、そんなハツミの意識に、瞬きのような雑音が混ざった。

 

「……?」

 

 さくりと、雪を踏む音がどこかで鳴ったような感覚。実際に音として耳にしたかどうかも定かではないような、ともすれば気の所為で済ませてしまえるほどささやかなものだ。

 しかし彼女はその事実を元に、洞窟のさらに周囲までをも意識する。

 すると、吹雪で乱されていてはっきりとしないが、生き物の気配を感じ取ることができた。

 

「こんな北の果てに動物ですかねぇ。狐か何かでしょうか?」

 

 雑談のネタにでもなれば、とクルルに聞こえるように呟く。

 これが本当なら、メガミですら凍える大地で意外な出会いだ。狐でなければ、兎か、鹿か……いずれにせよ羨ましくなるくらいには温かい毛で覆われているのだろうなあ、とハツミは想像する。

 だが、返すクルルの声色は、そんな微笑ましい予想とは何かがずれていた。

 

「あー、さっきからいますねぇ。どーでもいいんじゃないんですかぁ?」

「ん……?」

 

 苛立ちも露わに、とまでは行かないが、言葉の妙な棘が気にかかる。

 それに小さな警鐘を鳴らされたハツミは、改めて外にいる存在に意識を集中させた。するとどういうわけか、その何かは意図的に音や気配を潜めているようだった。狩りをする動物だとしても作為的で、もはや野生動物かどうか疑問に思えてくる。

 

 クルルはこの気配の主がどういう存在か、問う前から理解していたようだった。

 ならば、何を意図して『どうでもいい』と言ったのか。

 

「それってどういう――」

 

 問いただそうとしたハツミは、しかし咄嗟に声を呑み込んだ。

 場に突然生まれた変化に、クルルは逆に歓喜の声を上げる。

 奇妙な蔦から、黄緑色の光が淡く漏れていた。

 

「あぁ……」

 

 去来した予感に、安堵の吐息が喉から零れる。

 最初、明かりに負けてしまいそうなほど微かだった光は段々と強まり、やがてそこから光の塊が吐き出された。徐々に作られていく形は人のそれであり、神座桜からメガミが現れる様に似ていた。

 

 そうして帯びていった実体が纏うのは、宵色の装いと、夜空を煮詰めたような濃い黒髪。

 始まりの場所へと帰った友が、自分たちの下に戻ってきたのだ。

 胸の奥からじわじわと湧いてくる安心感が、友の名を喉にまで押し上げる。

 ハツミは自然と、彼女の名を呼ぼうとして、

 

「ヤツ――ハ……?」

 

 だが、再会の喜びは、疑問と不安に取って代わられた。

 尻すぼみになってしまった呼び名が、洞窟の中で嫌に響いて消えていった。それでも、ハツミの呼びかけに応じる声も動きも何もない。

 その視線の先で、現れた彼女は暴れそうな感情を努めて鎮めるよう、胸を押さえる。

 

 ヤツハは確かに、ハツミたちの前に帰ってきた。

 けれどその顔は、深い海の底のようにひどく青ざめていたのだった。

 

 

 

 

 旅の途中で、彼女が不安で表情を曇らせることはあった。恐れることもあったし、涙することもあった。瑞泉での最終実験の結果を突きつけられたときにどんな顔をしていたか、ハツミはありありと思い出すことができる。

 しかし、それでもヤツハは己を知る道を選び、蔦へ還る前には笑顔だって見せていた。

 

 それなのに、今やヤツハは血の気が失せすぎて今にも倒れてしまいそうだった。

 明らかに異常な友の姿に、ハツミは絶句して動きを止めていた。ヤツハが戻ってきたら、どんな結果であろうともまずは温かく受け止めようと考えていたものが、すっかり吹き飛んでしまうほどの光景であった。

 そのうち、驚愕に心配が勝るようになり、自身の不安を呑み込んで優しく問いかける。

 

「や、ヤツハ、大丈夫ですか? 一体何があったんです?」

「…………」

 

 そう訊ねたところで、ヤツハは目を上げることすらしてくれなかった。彼女の心の中にどかりと居座った何かが、視線を足元へと縫い付けているかのようだった。

 声は、確かに届いている。泳ぐその目は、時折ハツミの足元へと向けられていた。

 それでもまともに応じるだけの余力を、蔦の中でやんごとなき何かが奪ったのだ。

 

 ハツミとしては、覚悟を決めていたヤツハをこうにまでしたその何かが気になっていたが、今無理に訊いてしまえば、罅だらけになってしまった彼女の心が本当に壊れてしまいかねない。そう考えると、ヤツハが胸に当てたその手は、自分の心がばらばらに崩れてしまわないように押さえているように見えてならなかった。

 ただ、まずは労ろうと声を上げる前に、ハツミの問いかけに追従した者がいた。

 

「どでした、やつはん!? びっぐな世界が広がっていましたか!?」

 

 クルルという探究者の目に映っていたのは、未知の領域からの帰還者であった。顔に興奮を色濃く浮かび上がらせる彼女に、重苦しいまでのヤツハの表情への意識は露ほども感じられなかった。

 

「ちょっ――」

「根が縦横無尽にある感じですか? どこまで続いてます? 向こう側での感覚は? 顕現体と同じ? 顕現体はどうやって作りました? あっちで権能も使えましたか?」

「っ……!」

 

 ぶる、とヤツハの肩が震える。問いによって想起した何かに怯えるようだった。顔を覗き込んでくるクルルから逃避するように身体を背けたが、霧散した気力ではただ身じろぎをするのと何ら変わらなかった。

 

 元々クルルは、他人にも、そして己にも関心を払わない。ただ興味を覚えた対象に向かい合うだけである。

 そして彼女は今、間近で見え隠れする大発見に昂揚しきりであった。必然、その気質はますます強まり、興味の対象でなければ眼中に入ることはない。

 目の前にある、メガミのようでメガミでない存在以外は。

 そこに収まった心が視界に入っていないのに、どうして慮れるというのだろうか。

 

「クルル、やめましょうよ! クルル!」

 

 ハツミは声を上げて咎めようとするが、溢れんばかりの聞きたいことを指折り数える手は止まらなかった。

 眼中に入っていないのであれば、無理やり眼前に躍り出るしかない。

 彼女の暴走が止まらないことを悟ったハツミは、口を塞いででも迸る好奇心を押さえつけようと決心した。

 しかし、そうやって一歩を刻んだときだった。

 クルルから放たれた問いが、ヤツハに突き刺さった。

 

「お仲間さんとか居なかったんですかぁ?」

「……!」

 

 

 開いた瞳孔が、暗い井戸の底のように恐怖を讃えていた。

 焦点は定まらなくなり、言葉にもならない音を零す口がわなわなと震える。その口元を恐る恐る持ち上げられた左手が覆い、今にも飛び出してしまいそうな叫びを押し込めるように、ぎゅう、と頬に爪が食い込んだ。

 

 荒くなっていく呼吸が、肩を上下させる。

 片方の震える手だけでは、内から弾ける心は、押さえられなかった。

 

「……っ!」

 

 覗き込みすぎて下から問いかけていたクルルを、ヤツハは突き飛ばした。クルルが体勢を崩している間に、ヤツハは逃げるように走り出していた。

 そのまま彼女は一直線にこの洞窟の奥の間から抜け出し、外を目指していく。

 

「……ヤツハっ!」

 

 ハツミが慌てて追い始めたのは、ヤツハが明かりの範囲内からあっという間に抜け出してしまった後のことだった。明かりなしでは足元が不確かではあるものの、この洞窟は一本道で、起伏もあまりない。恐慌に支配された人物であっても通り抜けるのは容易いだろう。

 

「あぁ……」

 

 案の定、先に駆け出したヤツハを捕まえることはできず、ハツミは洞窟の出口でその足を止めた。世界を白く染め上げる吹雪の中、黒い塊が遠くで動いたように見えたが、それも一瞬で呑まれて見えなくなってしまった。

 

「およよ、やつはんどこか行っちゃいましたねぇ」

 

 白い壁を前に項垂れていると、追いついてきたクルルが不思議そうに首を傾げていた。

 ハツミの中に、厳寒に負けないくらい熱いものがこみ上げた。

 

「クルルッ、あんたねぇ! ヤツハになんてこと……!」

「……? 早く探さなきゃですぅ」

「ちが――そうじゃなくて、この……」

 

 怒鳴りつけようとしても、うまく言葉が出てこなかった。自分のやったことを何も理解していなさそうなクルルに、どれだけ憤慨したところで、それを通り越して呆れてしまうような気はちっともしなかった。

 浮かんできた涙は目尻ですぐに凍りつくことはなく、零れ落ちた握りこぶしの上で、薄く固い感触を残して散っていった。

 やり場のない感情が、ハツミの手を突き動かす。

 

「っ……!」

 

 乾いた音と共に、クルルの首が右を向いた。左の頬が、しもやけよりも赤くなっていた。

 ようやくそこで、彼女の意識が本当にハツミへと向いた。じろ、と首を曲げたまま注いでくる視線は、疑問が移り変わった証だった。

 涙目のまま、友を想うハツミは目の前の探究者を強く見返した。

 

 

 

 

 ただ、走る。

 雪深きの大地を、ひた走る。

 一寸先もろくに見えない銀世界で、吹雪く轟音に追い立てられながら、ただだたヤツハは走り続ける。

 

 無心を求めて。

 心の奥底から湧き上がる恐れを、必死に掻き出すように。

 

「はぁっ……はぁ――っぐ……」

 

 息を求めて喘ぐ喉が、痛いほどに張り付いていた。

 ヤツハはもう、どれだけ走っていたか分からなくなっていた。時間も場所も方角すらも曖昧になってしまう白一色の世界で、己の所在を確かめる手段はとうに失われている。あっという間に足跡ですら覆い隠されてしまう以上、あの洞窟へ戻ることも不可能だろう。

 

 それでも、走ることしかできなかった。いや、むしろそれでよかった。

 どんなに必死に走っても、心は未だ澱んだ感情に溺れたままだった。

 どれほどどれほど掻き出しても、手の届かない深奥から溢れ出し続ける泥のような黒は、いつまでもヤツハの心を染めていた。

 

 足を止めてしまったら、そのまま黒い沼に沈んでいってしまう。底はきっと、あの洞窟と繋がっているに違いなかった。

 染み込んで這い上がってくる恐れにまた恐れ、耐えられず必死にもがく。

 だからこそ彼女は、当て所なく走り、走り、ただ走り続けた。

 

 彼女の瞳の奥からまた一つ、透明な雫が零れ落ちる。

 その刹那、雫は緩やかに浮かんでは酷寒に凍てつき、ヤツハの肩の上を背後まで流されようとしていた。

 ……なぜだろうか。瞬きの間に終わるはずのその光景が、ゆっくりと頭に入ってくる。

 

「――――」

 

 疑問に声を上げるだけの余裕はなかった。時間を引き伸ばしたような世界の中、それよりもまずやるべきことがあると直感させられていた。

 ヤツハは何度か、こういった感覚を味わったことがある。

 

 警鐘を鳴らすのは、これまで積み重ねてきた鍛錬や経験。

 己は今、勝敗を――あるいは生死を分かつ境界線上に立たされている。

 決闘の最中に覚えたものと同じ、逐一理由を説明することも難しいあのひりついた感覚だと、全身が告げている。

 それは、恐れに濁るヤツハの心をなお、行動へと駆り立てた。

 

「っ……!」

 

 思わず、後方へと飛び退く。新雪に脚を取られなかったのは僥倖だった。

 その直後、雪に煙っていた天を裂き、一本の大きな刃がヤツハのいた場所へ深々と突き立てられる。

 あまりの勢いに、衝撃が一瞬吹雪をも蹴散らした。

 

「くぅっ……」

 

 身に打ち付ける圧力に、腕で顔を庇う。それでも、前を見ることはやめなかった。

 降り立った刃、それは忌まわしいほどに紅く、大振りな諸刃の剣。

 黄昏時にある白銀の大地にあって、その剣はあまりにも目を引いた。

 息を呑むような刃の血色に思い起こされるのは、ハツミから聞いた千洲波からの侵略者の話だ。

 

 曰く、その一太刀は海を割り、大地を切り裂いた。

 曰く、圧倒的な力で以てメガミたちをも壊滅に追い込んだ。

 曰く、変質したコダマを消滅の寸前にまで追いやった。

 そして曰く、その童女の姿をしたメガミが振るうのは、血の色を思わせる巨剣であり――

 

「…………」

 

 その剣を四本従えた紅のメガミは、ヤツハへと淡々と殺意を振りまきながら、宙に揺蕩っていた。