八葉鏡の徒桜

エピソード8−3:彼女のうつろう鈍色の景色

 

 小さな羽音が、耳をくすぐった。

 

「…………」

 

 顔を上げると、膝を抱えていたヤツハの手に小鳥が止まるところだった。腹を鮮やかな橙色に染めたその鳥は、彼女の双眸が向いたのを見て、ヒィ、ヒィ、とさえずりながら足元へと降り立った。どうやら一羽だけのようで、仲間の気配はなかった。

 小鳥は何かを探すように、ヤツハの周りをぴょんぴょんと飛び跳ねていたが、そのうち諦めて離れていった。

 ヤツハの瞳がその姿を追う中、一瞬、入り込んだ光に目を細めた。湖面に反射した陽の光が、彼女の目を焼いていた。

 

 咲ヶ原のどこかにある小さな湖沼、その畔。

 

 

 人の気配はまるでなく、森に囲まれてひっそりと存在しているこの場所に、ヤツハは根を下ろし続けていた。

 ゆっくりと移ろう景色を呆然と眺めては、なにもない瞼の裏を見続ける、その繰り返し。空は少なくとも何度か、明滅していたように思う。時折横にもなっていたものだから、湖畔に薄く広がった緑の絨毯に、人の形の跡が出来上がっていた。

 

 旅を続けていた頃のヤツハであれば、目に映るもの全てが色鮮やかに見えていた。目の前で地面を突いているあの小鳥だって、初めて出会った今、以前ならその美しさに顔を綻ばせていたことだろう。世界は、こんな風にも色づいているのだ、と。

 自分の境遇への不安は確かにあったけれど、その景色をくすませることはなかった。溢れ出る好奇心や、手を強く引いてくれる同行者によって、目にした景色にそれが滲み出ることはなかった。

 今もきっと、見ているものは変わらない。隆盛を極めるこの大地の中心にあって、暗い影が落ちているはずもない。

 

 けれど、今のヤツハには、世界の色が変わってしまったかのように見えていた。

 陽光に煌めく湖も、そよ風になびく草花も、自由に生を営む動物たちも。

 その何もかもが、灰色だった。暖かみを失った、冷たい灰色だった。

 知るにつれて愛し始めていったこの地との温度差に、何度も身震いした。これまでヤツハがいた北限よりも、よっぽど過ごしやすい温暖な気候であるにもかかわらず。

 

「うぅ……」

 

 極寒の地で目を背けて逃げて出してきた真実をはっきりと思い出してしまって、再び直視を強いられる現実が胸に疼痛を生んでいく。

 紅のメガミから身を守るために、という理由すら今では大義名分に感じてしまう。

 あの戦いの中、必死に抵抗する内に生まれた星空の翼が北限からヤツハを逃し、この咲ヶ原にまで逃避行が及んだところで力尽きた。落ちた場所が、一人になるにはちょうどいい静かな場所だったのは幸運だった。

 

 そんな小さな幸いを尊ぶほど、ヤツハの心は傷に塗れていた。

 様々なことを知って、華やかなりし桜降る代に目を輝かせていた頃の彼女はもう、どこにもいない。

 知ってしまったからこそ、景色から色が失われることをヤツハは知った。

 それは見え方を変えさせられたということでもあるし、ひょっとしたら、桜降る代が自分の色を見せてくれなくなったのかもしれない。あるいは、残酷なことにこれが本当の色なのかもしれなかった。

 

 そうやって冷たい景色が見えているのは、ヤツハひとりだけ。

 この地の美しさや楽しさ、素晴らしさを教えてくれたハツミとクルルも、だからこそ同じ視界を共有できないのだと分かってしまう。この地で生きる全ての人々もまた同様だった。

 ひとりぼっち。

 虫を見つけて啄んでいるあの小鳥のように、群れに入れてもらえない。

 自分はあの小鳥のように美しい存在ではないのだから、なおさらだった。仲間に迎えてもらうための資格を、最初から持っていなかった。あったのは、桜降る代には受け入れられないという、存在に刻まれた証だけだった。

 

 真実という名のその刻印がある限り、自分はこの地で隔絶された存在であり続ける。

 人々はきっと、同じ目線で物を見てくれないどころか、桜降る代の住人として隔絶を推し進めてくるに違いなかった。暖かく迎え入れてくれた今までが遠い日の記憶になってしまうくらいの、寒々とした日々が目に浮かんでくる。そこにいるのは、一人凍え、静かに朽ちていく自分の姿だった。

 

 だからもう、ヤツハにはその身に刻まれていた宿命を誰かに話すなんて考えられなかった。当然だ、知れば受け入れるわけもない真実をあえて伝えて何になるというのだ。

 相手が知らなければ、ひょっとしたら今まで通りかもしれない。

 自分の中で蓋をしてしまえば、何も知らなかったことにできるかもしれない。

 今のところ、おそらくヤツハだけが知っているそれを明らかにさえしなければ、決定的にそっぽを向かれることもないかもしれない。

 

 そうやって、かもしれない、かもしれない、とか細い可能性だけが、思い出したかのように湧いてくる。

 ハツミとクルルには、真実を伝えないまま背を向けた。伝えられるわけがなかった。

 伝えれば、相容れない存在だと分かってきっと拒絶されてしまう。けれど、伝えていない今だからこそ、向こうはヤツハのことをまだ友達だと思って心配してくれているかもしれない。

 

 先延ばしをして小さな安寧に浸り、答えから耳を塞いで現実から目を背ける。

 覆しようのない真実を前に、いつまでもこうしていられないことはヤツハ自身理解していた。追いかけられて面と向き合ってしまったら、あのクルルの前でどこまで黙っていられるか自信はなかった。語らずとも真実に辿り着く可能性だって捨てきれない。無理やりな手段もあるとはクルルの口から出た言葉だ。

 だが、それを理解していてなお、深く深く刻まれた隔絶の証を前にどうすればいいか全く分からなかった。焦燥感がただ心を焦がし続けていて、穏やかな湖畔で黄昏れている者とは思えないような火傷が胸の奥に広がっていた。

 

「あ……」

 

 お腹が膨れたのか、ヤツハのことを首を傾げたように見やった小鳥が、翼を忙しなく動かしてどこかへ飛び去っていった。

 触れ合ってすらいないその小鳥がいなくなっただけで、空虚さが一つ積み上がる。未だ動物たちはヤツハのことを警戒しているようで、水を飲みに来るにもおっかなびっくりといった様子である。のけ者だった小鳥は、数少ない例外だった。

 小石のような喪失感であっても、土台が崩れ行くヤツハの心をぐらぐらと揺らしてしまう。草木や動物も、桜降る代の立派な一員なのだと突きつけられている。

 

 そうしてまた、ひとりぼっちになった。

 さえずりさえ聞こえなくなった森の中は、嫌になるほど静かだった。耳をどれだけ塞いでいても、自分の心が軋む音は絶え間なく響いてくる。それに混じって、遠ざかったはずのあの二人の失意の声が聞こえてきて、張りぼての空想で何度も覆い隠そうとした。けれど、あり得るはずもない可能性は既に罅だらけで、どうやっても隙間から恐れが漏れてしまうのだ。

 

 何度も何度も、その繰り返し。

 儚い希望で時折息継ぎをしながら、絶望の海で延々溺れ続ける。

 灯台の光は、まだ見つかりそうもなかった。

 

 そうして、疲弊した心が考えることを拒絶し始めようとした頃だった。

 がさ、と。

 背後から、草をかき分ける音がした。

 

「…………」

 

 ここに来た初めの頃は、ヤツハはそういった動の気配に肩を震わせていたが、全て獣だと理解してから、特段反応することはなくなっていた。

 けれど、

 

「やあ、こんなところで奇遇だね」

「……!?」

 

 久しぶりの人の声に、思わず振り向いた。

 視線の先にあったのは、艶のある紫の髪をなびかせる女の姿。

 見知らぬその女は、外した笠を胸に、にっこりとこちらへ会釈を見せていた。

 

 

 

 

 

 高鳴る胸を抑えながら、ヤツハは凝り固まった身体を動かして、這うように女へと向き直った。ここに来る前のことを考えれば、誰かと遭遇するだけで緊張が走るのは避けようがない。

 ただ、あまりに予想外の来訪者に目を泳がせていると、

 

「……すまない、もしかして邪魔したかな?」

「え……?」

 

 これもまた突然の謝罪に、ヤツハは混乱を通り越して理解の放棄の始まりを感じていた。

 呆然としていると、女は申し訳無さそうに肩を縮めながら、

 

「もしかして、一人っきりの時間を満喫していたのかな、と思って。いい場所だね、ここ。特別目を惹くようなものは無いけど、とても落ち着ける。そんな秘密のお気に入りの場所で、人目も気にせずのんびりしてたら、私みたいな知らない奴に乱入されれば良い気もしない」

「……邪魔、というほどでは」

「そうかい? それはよかった。起きたばかりで、始めましての後輩くんに悪い思いをさせてしまうのは忍びないからね」

 

 女は端正な顔立ちに微笑みを浮かべながら、ヤツハから少し距離を置きながら畔まで近づいて、一度たっぷりと深呼吸した。すぐ隣にまでずかずかと踏み込んでこなかったのは、女なりの自戒かもしれない。できれば去ってくれるとありがたかったが、ここにいる言い訳を考えずに済んだ安心感で十分だった。

 しかし、こんなくんだりまで足を運ぶこの女が何者なのか、興味を向けた瞬間、初対面としてはヤツハに親しみを感じていそうな女の言葉の意味を悟って、表情が強張った。

 ヤツハが問うより前に、女は律儀に名乗ってくる。

 

「私はキリコという。桜花の従者にして、奉納を象徴するメガミさ」

「……!」

 

 口にされた肩書に、小さな恐れが生まれた。それを表に出さないように顔を作る。

 彼女はヤツハのことを後輩だと言った。今まで出会った他のメガミがそうであったように、キリコもまたヤツハのことをメガミだと認識しているに違いなかった。

 ただ、一方でキリコはヤツハ自体のことは特に知らないようだった。

 君は? と問いたげな視線を受けて、ヤツハは何度も使った自己紹介を喉の奥から引っ張り出した。

 

「ヤツハ……です。権能は、まだ自分でもよく分かっていなくて……」

「へぇ、そうなんだ。最近はそんな子もいるんだね。生まれたばかりなのかな?」

 

 こくり、と目を合わせずに頷く。罪悪感が、心のかさぶたを無理やり剥がしていく。

 降って湧いたこの状況に、ヤツハは居心地の悪さを禁じ得なかった。かといって積極的に追い出す勇気もないし、妙な言動で疑いの目を向けられるのが今は一番辛い。相手がメガミであればなおさらだった。

 だから、ヤツハはせめてもの意思表示として、また膝を抱えて一人になる姿勢に戻った。慮って立ち去ってくれればそれでいいし、伝わらないのなら適当に答えながら自分の世界に逃げ込むつもりだった。

 

 けれど、ぼうっと景色を眺めているはずなのに、視界の外にいるキリコに意識を割かれて仕方がない。彼女は、ヤツハが抱えた真実を疎む側の存在なのだから当たり前だった。キリコもまたそれを知れば、ヤツハのことを気楽に後輩などと呼べないだろう。

 そうやって自分から会話を続けまいとしていると、キリコのほうから視界の中に入ってきた。彼女は程近い水辺にまで歩み寄っていた。

 

「白状すると、こんな素敵な場所を見つけられたのは、君のおかげなんだ」

「え……」

「昔はこんな湖はなかったからね。最近まで永いこと眠っていたものだからさ、ちょっと古巣まで足を運んだ帰りだったんだよ。今の世の中はどうなっているのかな、ってね」

 

 キリコはヤツハに顔を向けて、

 

「あの桜、君は見たかい? 凄かっただろう! あの桜を見るに、私の時代よりも桜は力を増しているようにも感じられるね」

 

 桜降る代のへそである咲ヶ原の遺構には、無明桜という眩いばかりに輝くとても大きな神座桜があると、ヤツハは聞いたことがあった。ここへ飛んでくる最中にも、ひときわ目立つ輝きを目にしている。

 ヤツハの反応を待つでもなく、キリコは肩をすくめてから続けた。

 

「ただ、桜が元気で世は事もなし、というわけにもいかないみたいだね。短い旅路の中でも、色々と胡乱な噂を聞いたものさ。とはいえ、何故私が目覚めたのかは、まだきちんと整理がついていないんだけど」

「…………」

 

 変わらず、ヤツハは返す言葉を持たない。キリコが今この時に目覚めた理由に、想像が悪い方向へ飛びそうにもなる。

 ただ一方で、ヤツハの頭に残ったのは胡乱だという噂のほうだった。

 メガミを殺そうとする紅のメガミは、今桜降る代を最も賑わせている存在だ。自分の命を狙う者の動向は本能的に気になるし、例えばコダマのような自分以外の殺害対象が他にもいるかどうかも知って損はないだろう。

 

 だが、痛む胸が欲するのは、身に迫る危険よりも己自身のことだった。

 北限の一件が巷に広まっていないか。訳も分からずに発露した自分の力が、何か悪い影響を及ぼしていないか。ハツミとクルルが追いかけて来ているかどうか。

 何より、誰も知るはずがないのに、真実を知られていないか、恐れている。

 一人ぼっちになった世界で、ありえないはずの出来事はもう、ヤツハの中にはなかった。

 

「おっと、話が逸れてしまった。だから古巣からの帰り道に、気配を感じて君を見つけたわけなんだけど……何か気になることでもあったかい?」

「あっ――」

 

 気づけば、キリコから努めて意識を外そうとしていたはずなのに、先を欲しているような眼差しを向けてしまっていた。いまさら興味のないフリをしても、もう遅かった。

 脚に埋めた顔から、伺うような視線をキリコに送る。

 彼女は苦笑いしながら、手にしていた笠を被り直す。

 

「この湖畔も実に素敵だけど、山を下ったところに良さそうな茶屋があったんだ」

 

 ゆったりと歩み寄るキリコ。

 膝を折って屈んだ彼女は、ヤツハへ手を小さく差し出して淡く微笑んだ。

 

「私の話も聞かせるから、君の話も是非聞きたいな」