八葉鏡の徒桜

エピソード9−6:古都大決戦・第四幕

 

 硬質な銃口が、唐竿を振り下ろした余韻の残る背中を睨みつけた。

 その主たるクルルは、相手を中心にした円周上を歩むように位置取りをしていく。一歩を刻むたび、腰に巻いた星空色の衣がゆらりと揺れる。

 クルルの動きは雄弁であり、ヤツハと合流するつもりであることは明らかだった。そしてそれは、立ち位置からして分断されている相手に不利を問いかけるものであり、悟った少女は相方の傍まで飛び退いていった。

 

「こんなときに……」

 

 けれど、単純な人数差が生まれたところで、戦いの気配は収まらない。ヤツハに対してあれだけ全霊をかけていた唐竿のメガミは、強い警戒の眼差しと共に臨戦態勢を崩さない。もう一柱も苦しげながら立ち上がり、得物の大鎚を顕現させ直している。

 彼女たちの継戦の意思に対し、けれどハツミとクルルが即座に応じることはなかった。銃口は向けても、害意までは向けておらず、威嚇に留まっている。櫂をへし折られたハツミは、それを放り捨ててなお、ヤツハを庇うように前に出ている。

 

 互いに睨み合う時間が生まれ、息が詰まりそうだった。

 出方を慎重に窺う膠着の中、前のめりにもなれない状況で黙ってもいられなくなったのか、ぼそり、と唐竿の少女が言葉を漏らす。

 

「こっちのハツミ様と違うね。熱湯というより……」

「うん、海の底って感じ。それにくるるんも徒神になってる。気をつけよう」

 

 交戦の前に意思を交えるだけの、簡単なやりとり。

 しかし、ヤツハにはこの会話にどうしても引っかかりを覚えてならなかった。想定を遥かに超える混沌とした現状に頭が割れそうになっていても、決して聞き逃してはならないと直感が囁きかけてくる。

 

 呆然としていたヤツハに、考える力が戻ってくる。思考の奔流に、記憶も蘇る。

 同じくこちらで徒神になったトコヨたちは、原因を何と言っていたか。

 徒神とは、徒寄花の麾下に置かれたメガミの通称である。

 こちらと向こうで徒神の性質が異なると言うのなら、考えられる違いはただ一つ。

 

「うそ……」

 

 クルルとハツミは、ヤツハ同様こちら側の徒寄花に属する徒神である。

 どうやったかはヤツハには分からない。

 だが、誰がこんな突拍子もないことをやったのかは、あまりにも明白であった。

 

 だからこそ、何故、と。

 思わず、クルルの方を見てしまった。近くまで身を寄せていた彼女は、新たに誂えた眼鏡越しにヤツハと視線を交わす。

 クルルが、自分たちだけに聞こえるような声で、眼差しに答えた。

 

「これでもう、一人じゃないです」

「っ……!」

 

 その声色は、その瞳は、今までのクルルとはどこか違っていた。

 今の彼女が向き合っているのは、北限で現れた謎のメガミでも、桜に受け入れられないメガミでも、奇怪な蔦に導かれた存在でもない。

 ヤツハそのもの。

 実験対象という色眼鏡はむしろ外して、旅をしてきた友に向ける眼差しがそこにある。

 ……そして、運命を共にするための言葉も。

 

 それを悟ってしまったからこそ、ヤツハの心は猛烈にかき乱された。

 怪物でしかない今の姿を見られたことすら、もはや問題ではなかった。

 自分がこの桜降る代にとって何なのか理解し、諦観を覚え、決意に至った――その覚悟が、少しずつ波打つように揺らいでいく。

 その揺らぎに身を任せることが、正しいのか、間違いなのか、分からなかった。

 

「どうして……」

 

 口をついて出る、何故。

 クルルはそれに、口端に小さく笑みを乗せた。

 どうしてそんな当たり前のことを訊くのか、と。

 

「やつはんに、いてほしいからですよ」

 

 

 揺らぐ。真っすぐな想いに、揺り動かされる。

 ひとりぼっちなら、これで終わりもいいと思っていたのに。

 めでたしめでたしで終わるなら、それでもいいと思っていたのに。

 怪物であろうとも、孤独な結末は許さないのだと友は言う。変容したその姿は、失意の中で夢想したどんな姿よりも雄弁に彼女自身の意思を物語っていた。

 

 見れば、背中を見せるハツミも、ヤツハに見せるように拳を握り込んでいた。

 だからこそ、揺らいでしまう。

 決意の根底にあったはずの道理がゆらゆらと、形を失っていく。

 旅の中で出会ったどんなことよりも荒唐無稽な現実が、ヤツハの心を暖かく焦がしていた。

 

 ……しかし、ゆっくりと気持ちを整理するだけの猶予はない。

 ここは、世界の命運をもかけた戦場だ。

 英雄は未だ、その使命を果たしてはいない。

 

「この程度でッ!」

 

 決意を新たに灯した少女が、矢のような速さで飛び込んでくる。唐竿を握りしめる手は実に力強く、激戦を経たばかりとは思えない気迫だ。

 クルルの射撃にも構わず突っ込んでくる相手は、正面からハツミを打ち倒す構えだ。先程得物を折ったあたりから、真っ先に頭数を減らせる敵として認識しているようだった。振り上げられた唐竿が、再び打撃力を孕む。

 

 だが、ハツミもただ無手になったわけではなかった。

 彼女の力が高まると同時、ドッ、と纏った衣から膨大な水が溢れ出した。

 

「……!」

 

 目を見開く英雄の少女。

 林に突如として溢れた水は、今までハツミが使っていたような透き通るようなものではない。むしろ深い闇のように光を呑み込むそれは、一度迷い込めば二度と空を仰ぐことの叶わない深海のようであった。

 

 そしてハツミは、狙いを定めていた少女に別れを告げるように、一帯に広がった深海へ足元からずぶずぶと沈んで消えていった。水位はせいぜいがヤツハのくるぶしを濡らす程度であり、認識がうまく追いつかないながらも巻き込まれないようになるべく距離を取る。

 水を蹴り、最後の踏み込みを成した少女が、歯噛みしながら行方を追う。

 

「逃げるなッ!」

 

 溜めていた力を放ち、唐竿が彼女の右手の海を叩いた。けれど暗い水が弾け飛ぶだけで、手応えのなさは見ているだけで伝わってくる。潜ったハツミの姿は、闇に紛れて判然としない。

 ただ、彼女はそこからさらにがむしゃらに深追いすることはなく、冷静に下がり、海の際で唐竿の柄で地面を突いた。そこから咲き誇るのは、ヤツハを苦しめたあの巨大な鳳仙花だ。

 大輪の花が、不気味に広がった海めがけ、種の弾丸を掃射していく。

 

「はつみんっ!」

 

 クルルの防壁が、掃射の一部を防ぐ。しかし活力漲る鳳仙花は、それをあざ笑うかのように海域の制圧を成していった。どこまで深いのか定かではないが、面で攻められればどこに身を隠そうと関係ない。

 やがて水面が乱れ、反撃とばかりに一抱えほどもありそうな水の塊が、鳳仙花を従える少女めがけて打ち出された。

 だが、

 

「そこだっ!」

 

 もう一柱のメガミが、籠手をはめた手を突き出しながら飛び出してくる。

 ヤツハにやったように、反発力で水弾を弾き飛ばすのか。

 否、その逆だ。

 

「うわわっ!」

 

 暗い海の中から、ハツミがひとりでに引き上げられる。まるで彼女が籠手のほうへと凄まじい力で吸い寄せられているようだった。

 鉄槌のメガミが選んだのは攻めだ。水弾に射抜かれる相方を尻目に、水揚げされた深海魚を叩くべく、小柄な少女が鉄槌を振りかぶる。

 

「せぇ―――」

「させませんよぅ!」

 

 雷のような爆ぜる音の直後、水晶じみた杭が空間を貫いた。

 クルルが傍に浮かべた、剣のようでも銃のようでもある形の大型兵装。その砲身に生まれた力場が加速を叩き込み、砲弾たる芯を猛烈な速度で送り出した。まともに受ければ肉体に風穴が空きかねない、単純明快にして強力な一矢だ。

 

 ハツミを打ち据えんとしていた鉄槌は堪らず軌道を変え、腰の捻りを活かして鉄槌の頭を砲撃への盾とする。

 予期せず引きずり出されたハツミの危機はこれで去った。

 だが、集団での戦いで双方を立てることは叶わない。

 聞き覚えのある風切り音が戦場に走る。意趣返しのようにクルルを遠くから狙うは、英雄の少女だ。

 

「あうっ!?」

 

 肩口から大きく切り裂かれ、噴き上がったのは黄緑色の差した桜の霞。クルルたちがこちら側の存在になってしまったのだという証であり、そしてヤツハのために傷も厭わないという証でもある。

 二対二の戦いは互角、ここまでは両者痛み分け。

 そう、二対二だ。そこに、ヤツハは含まれていない。

 

 むくむくと、ヤツハの中で疑問が膨らんでいく。

 呆然と見ているだけの自分は、一体何なんだろう、と。

 それで何か執着のようなものが押し出されてくれれば、どれだけよかっただろうか。激しく揺り動かされたヤツハの心はまだ、自分がどうあるべきかも、どうしたいかも、何もない。衝撃で一度まっさらになってしまったままだった。

 

 しかし、そんな遠くの果てにしか答えがなさそうなことよりも、目の前のことだったら。

 もっと小さな、手を伸ばせば届くようなことであれば。

 それを自覚して、思わずヤツハの手に力が籠もる。

 きっと自分の気持ちははっきりしているのかもしれない。

 友達のために一歩を踏み出す理由はたぶん、それで十分だった。

 

「私も――」

 

 だが、その意を告げる声はすぐに呑み込まれた。

 クルルの援護により体制を立て直す猶予を得たハツミに、横合いから躊躇なく飛び込んでくる一つの影があった。

 容赦のないその一撃は、柄のいやに長い大太刀の刃。

 それを人々は、長巻と呼ぶ。

 

「あぁ――ぐッ……!」

 

 思い切り脇腹を突き刺されたハツミは、相手が着地した瞬間を見計らって強烈な水流を浴びせ、その反動を使ってどうにか距離を取る。

 広がる深海に降り立った乱入者の女は、長い袂が水に浸るのも構わず、刃を下に構えた。

 今にも剣と共に水と戯れ、優美に舞い踊りそうな彼女をヤツハは知っている。

 知っていて――その時が来てしまったのだと、理解させられてしまった。

 

「ふふっ……どうも良い状況とは言えないようだねぇ、メグミ君?」

 

 その女・キリコは、妖艶な笑みを浮かべながら、気楽そうに言った。

 

 

 

 

「き、きりりん! 助かったぁ……手こずってるうちに援軍呼ばれちゃって」

 

 キリコが敵の二柱と同じ勢力に属していることは、火を見るより明らかだった。キリコの敵対は何度も脳裏をよぎったことではあるが、まさか向こう側からの来訪者と手を組んでいるとまでは考えが及ばなかった。

 彼女からの眼差しが、胸に痛い。

 どれだけ軽い調子で言葉を交わしていても、明瞭な敵意がキリコの胸中を物語る。

 

「なるほど……ハガネもいて押しきれなかったなんて、邪悪は随分と強大なようじゃないか。私も手を貸そう」

「よし、これでゆりりんたちも合わせて……」

 

 ハガネと呼ばれた鉄槌のメガミが、希望を瞳に宿す。

 だが、キリコはそれに否定を返した。

 

「ユリナたちは連れてこれなかったよ」

「え……そ、そんな! だって――」

「知己に刃を向ける迷いがまだまだあるようだ。私じゃ武神の代わりは荷が重いよ」

 

 そう肩をすくめて告げられてしまえば、ハガネたちもこと戦闘中とあって深く追及はしなかった。武器を握り直し、不服の言葉を呑み込んでいる。

 ヤツハにしてみれば逆に天啓のようなものだ。ユリナも古鷹に来ていると知ってヤツハは心中穏やかではなかったが、あの武神を相手にせずに済んで安堵しないわけがない。キリコの言う迷いとやらが、このまま自分に味方することを祈るばかりだった。

 

 ただ、あえて乾いた言葉で事実を告げたキリコに、それでもヤツハは微かな不本意の念を感じていた。増援が叶わなかったのだから当然かもしれないし、元々キリコが前線に出る予定がなかったゆえかもしれない。いずれにせよ、相手方の動きが理想とズレているというのは朗報に他ならなかった。

 メグミという名の英雄の少女は、それに煽られてか不安げにキリコを呼んだ。

 

「キリコ、さん……?」

「……っ」

 

 びくり、とキリコが顔を少しだけ強張らせる。ヤツハたちにしかキリコの表情は窺えない。

 キリコはきっと、桜花の従者たるメガミとして、敵陣営の中で頼られているのだろう。

 先輩を頼ってくれ、と言われた声が蘇る。

 けれど、ヤツハにはもう、キリコから救いの手が差し伸べられることはない。

 それをはっきりとさせるよう、一呼吸置いたキリコが言い放つ。

 

「大丈夫大丈夫、これで数は対等だ。桜花の祝福がある限り、私たちが負けることはない。成し遂げてみせようじゃあないか、私たちで、この邪悪なる徒神たちの討伐を!」

 

 自分たちこそが正義であると、そう宣言するかのような鼓舞だった。

 ヤツハとの対話すら、ここにはなかった。怪物はただそれだけで倒される理由になるのだと突きつけられたようだった。あの日の茶屋で話した何もかもが、キリコの敵意に押し流されていく。

 

「邪悪って……このヤツハが、一体何をしたっていうんですか!」

 

 反発するハツミに、応じる者はいなかった。注がれ続ける視線の意味を、ヤツハはその身をもって知っている。

 その態度が答えだとハツミは理解し、再び全身に力を漲らせる。

 

「……まあ、ですよね。できれば穏便に済ませたかったんですが」

「議論もしてくれない子はくるるん嫌いですよっ!」

「同感ですッ!」

 

 憤慨やるかたなしといった勢いで大地を蹴ったハツミが、さらに拡大していく領海に再び飛び込んでいった。存在するはずのない深海の水しぶきが、再開の合図となる。

 夕暮れの林に生まれたのは射撃戦だ。水中を縦横無尽に移動しているのか、あちこちから次々と放たれる水弾が敵陣を襲う。ハガネがそれを力場を用いて捌いていき、流れ弾の当たった木々がざわざわと揺れる。

 

 その間隙を縫うようにして行き交うのは、クルルが撃ち出す光弾と、メグミが放つ風の刃である。クルルの両手には、徒神であることを示すようなあの蔦の斑色じみた色味の小銃が握られており、間断なく敵を射抜かんとしていた。

 二柱は自軍に有利な位置取りを進めようと戦場を駆けるが、弾幕の隙間を縫ってメグミが唐竿を振るいに接近する。

 しかし、クルルが捉えられたかと思った瞬間、彼女の身体が脚も動かさず後退する。

 

「おぉ、でんじゃー……」

 

 脚に纏わせた絡繰が、甲高い唸りを上げていた。戦闘におけるクルルの機動力の要だ。間合いをうまく保ちながら、それでも孤立はしないように、それでいてヤツハを射線上に置かないように立ち回っている。

 彼女たちは、初手で相手にするべき敵をそれぞれ見定めた。

 ならば、三柱同士で相対したこの場において、もう一つの交錯が生まれる。

 西日が、刃に煌めいた。

 

「あっ……!」

 

 飛び込んできたキリコの長巻が、下手から切り上げられる。ヤツハは反射的に右手で己を庇い、怪物の鉤爪が鋭利な切っ先を辛うじて押し留めていた。

 ……動いてしまった自分の身体が、心に熱を注ぎ込む。

 

「これが、真の姿……って、わけ、だねっ!」

「やつは――」

 

 名を叫ぶクルル。けれど、無理に援護に入ろうとする彼女の動きを、ヤツハは力強い眼差しで止めた。

 意思の灯を取り戻した、その瞳。

 数多の迷いの最中、浮かび上がったただ一つの想い。

 

 自分がどうあるべきかは分からない。

 自分がどうしたいのかも判然としない。

 だが、自分を思って助けてくれた友達を、自分もまた助けてあげたい――そう願う心に従うことはできる。

 故にヤツハに斃れることは許されない。

 あの二人のために戦うのだと思えば、いくらだって力が湧いてくる気がした。

 

 

「ち……」

 

 鉤爪と長巻の鍔迫り合いが、拮抗に至る。

 キリコの切れ長の目が、明確に怒りに燃え始めていた。守り手の剥がされた意志薄弱の敵が息を吹き返したのだから面白くもないだろう。挫かれた企図に、内側で飼っていた感情がキリコの顔に表れ始めていた。

 

「キリコさん、あのときは……!」

 

 その熱を正面から受け止めたヤツハだが、それすらも苛立たしいというように、キリコは己の刃を受け止める鉤爪を外へ弾いた。

 くるり、と舞う中、長巻の柄が抜け、顕になるのは隠し刃。

 双刃と化した得物から繰り出されるのは、美麗な剣舞と評する暇もない斬撃の嵐だ。

 

「君が、何なのか……! いくらかは、予測の上で話しかけていたよっ」

 

 言葉を返しながらも、流麗な連撃は続く。明確な流れを感じられるものの、突拍子もなく、それでいて無理のない太刀筋を繰り出され、ヤツハは結晶も使いながら反撃の機会を窺う。後退を余儀なくされる足が、ハツミの生み出した水を蹴っていく。

 

「会話を通して、そういう存在だって、確認できればよかったんだっ」

「じゃあ……!」

「あぁ、君が何を想っているのかなんて、どうでもいいんだよ……!」

 

 睨むキリコの視線がヤツハの瞳を穿つ一方、結晶に逸らされた長巻は奇術でも見ているかのように、いつの間にか次なる一撃を既に繰り出している。

 

 ただの長巻であれば、刀よりも一歩二歩長い間合いを活かした位置取りをするところだが、双刃は使える長さを制限される代わりに至近距離にて刃を乱れ咲かせることこそ本懐にある。

 手数で言えば短刀を二本持つほうが上だろう。しかし双刃は何より重みがある。相手からの攻撃も加えた重みを利用し、逆の刃での動きを加速させているのだ。その分取り回しは困難を極めるだろうが、相手はそれを得物とするメガミであり、桜に認められた剣舞の舞い手だ。

 

 怒りの鋭さを示すように、ヤツハの喉めがけて切っ先が突き出された。

 ギリギリで間に合った鉤爪に罅が入り、衝撃を殺すように後ろへ飛び退いた。

 

「これで、満足かいッ!?」

「っ……!」

 

 その僅かな距離すら疎むように、キリコの肉薄は続く。

 キリコの答えに、失望がないかと言えば嘘になる。ただ、キリコがそうであったように、今のヤツハにとって、キリコがどう思っているかなんてさほど重要ではなかった。元々敵対するかもしれないと恐れていたのだ、あのとき既に敵意を持っていたなら、この帰結も仕方ないと納得できてしまう。

 

 だが、だからといって、キリコの願いを受け入れるわけにはいかない。

 ヤツハは今、自分のためには戦っていない。友達のために、死ぬわけにはいかない。英雄にこの命を差し出そうとしていたのが嘘のように、死んでたまるかとすら思っている。

 それは意思に火をつけるための大義名分でしかなかったが、じわじわと昔日の想いが蘇ってくるきっかけになっていた。

 

 桜降る代をもっと見てみたい。この地で、生き続けたい。

 あの頃の想いに、うっすらと色が戻り始めている。なくして悲しんだのは、大切にしたいと思っていた証拠だ。

 今はそこに、続きがある。

 この友たちと、まだ一緒にいたい。

 ただ守られるだけではなく、支え合う存在として。

 

「世界のことを思うなら、君は、死ぬべきだッ!」

 

 その願いを妨げる障壁が、殺意を斬撃と成した。

 攻撃に勢いを乗せるために、キリコの言葉に力が籠もる。さらに明瞭さを孕んでいくヤツハの瞳の輝きに、己の立場をわきまえない傲慢な怪物を見出したようだった。

 邪魔になってしまいそうな感情を吐き出すように、一撃一撃に呪いが宿る。

 

「だから、死ねよ!」

 

 願う。

 お前には未来を望むことも許されないのだと。

 

「死ね、怪物ッ!」

 

 重ねて願う。

 この地の幸福にお前は不要な存在なのだと。

 

「偉大なるヲウカ様のために、死ねッッ!!!」

 

 乞い願う。

 それこそが、曇りなき理想に必要なのだから、と。

 

 ……だが、最後の言葉には、乗せられた想いに対して不純な意が一つ。

 それを咎めるかのように、不思議と聞き入ってしまう声が、戦場に響き渡った。

 

「『そのヲウカとは誰のことですか?』」

「……!」

 

 がくり、と。切り払おうとしていたキリコが、動きを止めた。突然のことに、ヤツハは思わず距離を取っていた。

 声の主が提起したように、ヤツハの胸中にも何故かキリコの言葉に対する違和感が生まれていた。だが、この違和感が生じていることそのものが、また違和感の源であった。まるで、小さな感情の種火に無理やり薪を焼べられたかのように、響いた女の声に感情を促されていた。

 キリコは自由を取り戻したように手足の調子を確かめていたが、不確かな状況でこちらから攻め入るつもりはなかった。見れば、他のメガミたちも同様に、降って湧いた妙な声に戦いの手を止めていた。

 しかし、不思議な声であっても、未知の作用ではないことをヤツハは知っている。

 つい最近、ヤツハは同じように思考を揺り動かされる言葉を向けられたばかりなのだから。

 

「今、あなたの手が止まったことで、確信に変わりました」

「やっぱり……。『あなたじゃあ……、おかしいと思います』」

 

 夕焼けの中に、予想通りシンラの姿があった。だが、その隣にいるもう一つの声の主を見てヤツハは驚いた。

 武神・ユリナ。この桜降る代において、桜花決闘を司るメガミ。

 しかし、彼女が携えていたのは、象徴たる重厚な刀・斬華一閃ではなかった。シンラが手に書を広げるのと同様、ユリナもまた似たような書を広げていた。ユリナはその書を媒介にしてシンラの権能を借りているようで、自ら発した言葉の厚みに自分で少し驚いていた。

 

 現れた二柱は、場の主導権を握ったと見たか、ゆっくりとヤツハに目を向けた。

 ユリナは、迷いを抱えながらも一歩ずつ進もうとする意思と共に。

 シンラは、冷静に物事を見定めんとする智慧と共に。

 

「どうあるべきか、という答えが出ないのは自然なことですよ」

「え……」

 

 これまでのヤツハの迷いを見抜いたように、シンラは告げる。もしかしたら、少し前から戦いを覗いていたのかもしれないが、彼女ならひと目見ただけで人の考えていることをぴたりと言い当ててしまいそうな納得感がある。

 当惑するヤツハに、シンラは続けて、

 

「私もまた、あなたたちをどうするべきか、未だに判断しかねています。ですから、私はあなたを助けようとするつもりはなく、私は私の目的を果たそうとしているだけ……ということになります」

「…………」

「ですが今、迷いを払う助けとなる面では、利害は一致しましょう。偽りに導かれたまま結論を出しても、待っているのは偽りの結末だけですよ」

 

 何を言いたいのか、理解はできない。なのに、生まれた違和感のせいで納得してしまう。

 彼女たちは、その偽りを暴くためにここに来たのだ、と。

 誰もが、構えを緩めていた。これより開かれるのは弁論の場であり、互いに血を見るより前にやるべきことがあるだろうと、戦意は衰えておらずともその発露を妨げられているかのように、シンラたちの言葉を待っていた。

 

 そして彼女が向き合うは、渦中の人物。

 真意を測る問いかけに反応を示してしまったメガミ。

 疑義を呈されたキリコは、ただ眉をひそめて訝しげに見返すのみ。

 そんな彼女に、シンラは議論の主題を告げる。

 耳を疑うような、その主張を。

 

「『御劔桐子――メガミ・キリコなど存在しない。その不在、私たちが証明しましょう』」