八葉鏡の徒桜

エピソード9−2:師弟と姉弟・再演

 

 破壊の爪痕残る屋敷の廊下は、静けさに満ちていた。

 今まさに闇昏姉弟が師であるオボロに立ちはだかったところだというのに、重苦しさとは無縁だった。ましてや殺気など微塵も感じられず、チカゲが手にした苦無も、たまたまそのとき手に持っていたからと言わんばかりに手慰みに弄ばれているだけ。

 

 彼女たちが立ち合っているとは誰にも思われまい。ヤツハを逃がすために、微細に位置取りを変えて牽制し合っていたのが嘘のようだ。

 まるで、そのままお互いに歩いてすれ違って、簡単な挨拶でもして何事もなく通り過ぎてしまいそうな雰囲気ですらあった。たとえばここが忍の里だったとしたら、いつかの日常に存在したであろう光景と同じだったかもしれない。

 

 しかし、自然と場に溶け込むことから忍の戦いは始まっている。

 どこまでも静かで平然としたこの空気漂う場こそ、武人にはおよそ想像もできない、忍の戦場に他ならなかった。

 

「はてさて。拙者はこの状況を、師として悲しむべきかな?」

 

 チカゲには嗅ぎ慣れたその空気に混ぜ込むように、淡く微笑んだオボロが告げた。

 返答を待たず、彼女は再び問いかける。

 

「それとも……よくぞここまで、と喜ぶべきかな?」

「…………」

「どうにも拙者は我儘に過ぎるようでね。本懐を遂げるために、最短を辿ることすらままならない。毎度毎度、地道に遠回りする拙者も拙者かもしれんがな」

 

 困ったように肩をすくめるオボロ。

 それに、チカゲたちは苦笑いを浮かべた。

 

「よ、よく知っていますよ」

「なにせオボロ様ですから」

 

 上辺だけ見れば、苦労する師を慰める弟子たちという、暖かいやりとりだ。

 しかし、もしその心の奥もまた温もりに溢れていたとしても、彼我の間に横たわる空気までもが温まることはなかった。交わされる言霊は偽りではないのに、張りぼてを投げあっているように思えてならなかった。

 そして、顔を伏せたオボロが続けた言葉に、微かな冷たさが宿る。

 

「ならば見逃してはくれないかな。今回は……絶好の機というやつのようでね」

 

 チカゲたちが、平時の脱力状態から少しばかり体勢を整えた。得物の切っ先をオボロに向けずとも、それが彼女たちの答えだった。

 

「事実、先の一事ですらも口惜しいところなんだ。彼女が行わんとしていた、権能の用い方を見たか?」

「…………」

 

 僅かに項垂れるようにオボロは言い、無言の返答に吐息を零した。

 一つ、息を吸うごとに見せかけの日常に罅が入り。

 一つ、息を吐くごとに戦場から平穏さが失われていく。

 オボロは忍だ。だが、その前にメガミでもある。超越者として我を押し通さんとする彼女の周囲から、尋常ならざる圧が今までの空気を押し潰していく。

 

 チカゲとて、これほどまでに濃いオボロの威圧感に曝されたことはなかった。メガミに成ったばかりの頃、メガミとして修練の相手をしてもらっていた時期はあったが、そのときのオボロがいかに本気とは程遠かったのか、肌身に叩きつけられるようだった。

 しかし、だからこそチカゲは、北限でオボロに背を向けた選択の正しさを確信する。

 徒神と化したトコヨたちの前で見せた、あの寒気のするような表情――それがこれほどまでの腐心に基づいているのだとしたら、この欲望を誰かに向けさせるわけにはいかなかった。

 

 チカゲは一度、彼女にとっては世界の全てにも等しかった存在を、メガミの好奇心によって奪われている。

 師がその毒に冒されているのならば、弟子としてそれを取り除いてやらなければならない。これが師の告げる好機――世界を危機からも救う大義名分の下で己の欲求を満たす機会だとしても、やるべきことは変わらない。危険な存在と見込まれるヤツハが対象だとしても、ましてやチカゲの友人たちに刃を向けられる可能性があるのならなおのことだ

 

「拙者としても、あれに類する用い方には心当たりがあり……その先の成果を求めてもいた」

 

 オボロの物言いは、理屈を理解できなかった教え子に講釈するようだった。

 しかし、普段そういうときはもう一度淡々と教え直す彼女とは違い、そこには分かってもらえない失望が隠しきれずに滲んでいた。

 それを期待の裏返しだと呑み込んだチカゲは、オボロの右手が白衣から抜かれようとする動きを見て取り、千鳥と共に緊張を高める。

 

「力を整える瞬間の結合と――」

 

 だが、そうして身構えたのが仇となった。

 オボロの手は、得物も持たず、罠を操作することもなく、ただ単に取り出した何かを額へと運ぶためだけに動いていた。

 彼女の指先が、それを額へと押し付け、そして埋め込んだようだった。

 

 チカゲたちはそこで己の小さな失策を悟る。

 オボロは、自分の顕現体に桜花結晶を直接埋め込み、力を底上げする秘術を持っている。

 その名を朧霞。彼女が動物での実験を通して開発した、成果物の一つである。

 

 しかし、可能なのはどこまでも力の底上げであって、何倍にもなるといったでたらめなものではない。もちろん、一対一の状況で使われればチカゲが不利を背負うが、こちらには若くして頭領の座まで上り詰めた千鳥もいる。

 だから、失策はあくまで無策でその行使を許したことにしかなかった。

 その、はずだった。

 

「それを通したある種の……神渉にね」

「……!」

 

 しかし、一度目を閉じ、息を整えるオボロのその額。

 桜色に輝く結晶が埋め込まれているはずのそこで、微かな輝きを零す一粒の結晶。

 その色は、紅。

 血に染まった歪な瞳が新たに生えたような、不気味な力の依代。

 目を見開いたオボロの口から、開戦が告げられる。

 

「朧霞――血桜開花」

 

 

 

 

 声が、置き去りにされた。

 向かい合っていたはずのオボロの姿が、言葉が終わるより前にかき消えていた。

 

「っ……!」

 

 対し、姉弟の反応は迅速だった。

 千影が正面に苦無を構える一方、千鳥がすぐさま背後の警戒へと回る。互いに背中を預け、僅かな猶予の間に神経を研ぎ澄ませる。

 その刹那の後、チカゲの視界の端に鈍色の殺気が閃いた。

 上だ、と思った瞬間には、チカゲの手は既に苦無を掲げていた。

 

「ぐ……!」

 

 天井を蹴った勢いを乗せたオボロの斬撃を、辛うじて受け止める。あまりの威力に床板が悲鳴を上げていた。

 だが、チカゲがここから無理に反撃する必要はない。

 間近に迫ったオボロの表情が迫る危機を察知し、溜め込んでいた斬撃の反動を使って背後へ跳躍せんとする。

 彼女に迫るのは、鎖に繋がれた仕掛け番傘と、獲物を絡め取るべく壁を這う蔦だ。

 

 距離を取っての千鳥の援護に、チカゲは前を望んだ。

 苦無を弾かれた反動をうまくいなし、間合いを離そうとするオボロへと音もなく肉薄していく。撃ち落とされた番傘を盾にされかけたが、衝突の直前で光へと還り、巻き付いた蔦を切り裂くオボロへそのまま至近を成し続ける。

 オボロの意図から逃れるような、攻め筋を知る者にのみ許される間合いを姉弟はそれぞれに選び、攻守の基点としていく。

 しかし、反撃の波に呑まれそうであっても、オボロが動じる様子はない。

 

「はぁーっ……」

 

 彼女はチカゲの追撃を捌く傍ら、気を巡らせるように深く息を吐く。

 すると、今まで見通しのよかったこの廊下に、青白い霧が彼方から吹き込んでくる。あっという間に視界は奪われ、肌に水気がまとわりつくような不快感が中途半端に感覚を鈍らせる。当然、自然現象などではなく、オボロの使役する鰻が奇妙に霧の中を泳いでいた。

 

 その霧に紛れるように後ろを望むオボロを、このまま逃すまいとチカゲはどうにか食らい付こうとする。だが、それはこの至近距離だからこそ為せる技だ。

 このとき既に、背後の千鳥の位置からは、オボロは正しく視認できない距離となっていた。当然、そこに追いつこうとしているチカゲもまた霧に呑まれようとしている。遠距離から正確に援護するには厳しい状況だ。

 同士討ちを狙われているのならば、前に出るしかない。

 そういった判断が至極真っ当なものだと思わされる状況こそ、足元が疎かになる。

 

「がぁッ!」

「……!」

 

 千鳥の悲鳴に、チカゲは一瞬振り返ろうか迷った。前へおびき出された千鳥が罠にかかったのだと悟ったが、被害を把握するだけの余裕もない。

 しかし、その一瞬の躊躇が隙となり、苦無を受け流された先にあった、壁にもたれかかるように倒れた障子戸を無用に貫いてしまう。認識こそしてはいたが、霧とオボロの陰に隠れていたために判断が遅れた形だった。

 

「ちッ!」

 

 引き抜く時間も惜しみ、障子戸を思い切り引き下ろす。飛び越えようとしていたオボロの前に壁を作る算段であったが、彼女は迫る戸で逆立ちするように天井へ着地、僅かな継ぎ目を足場に勢いをつけ、さらに背後へ引いていく。

 チカゲはそれを追い、かえって自分への壁となった障子戸を真っ二つに切り裂く。

 そこで、辛うじてまだ捉えられる範囲だったから、最短を目指してしまった。

 焦りもまた、周囲への注意を失わせる。

 

「ぁ、がッ……!」

 

 チカゲの脚を、黒い棘が何本も貫いていた。壊れた障子戸の影になっていた部分から、この先立ち入る者を罰する菱の鋭利な棘が伸びていた。

 その場に縫い付けられたチカゲに、これ以上オボロを追うことはできない。棘を砕いて自由になったところで、オボロの姿は再び消えていた。

 

「姉さんッ!」

「来ま――」

 

 警告を発すると同時、飛び出したのは直感でしかなかった。

 霧のせいで、振り出しよりもさらに悪い状況に落とされたチカゲは、脚の痛みを無視して急反転を成す。

 各個撃破は多数を相手取る際の基本だ。

 オボロがこちらを翻弄しようとするのであれば、と宙空で桜花結晶を破裂させた勢いに乗って引き返した。

 

「後ろッ!」

 

 前のめりになっていた千鳥に、二つの刃が迫っていた。

 背後から首を狙うように、オボロが。そして、極めて低い姿勢から胸を狙う、オボロが。

 小刀を振るう二つのオボロの姿が、彼を挟み撃ちにするように現れていた。

 どちらかが本物か、あるいはどちらも偽物か、それすら分からない。一つ言えるのは、分身であったとしても刃の切れ味は本物だということだ。

 

 千鳥はチカゲの声に従い、背後のオボロに注意を絞る。振り落とされようとしていた刃に辛うじて右手の苦無を合わせ、凶刃が背筋を掠める程度に受け流す。

 一方、足元から突き上げられた刃は避ける猶予がなく、盾にした左腕の隙間を縫うようにして肉体に切っ先が届く。身を捻ったおかげか、最も避けたかった心臓は外れ、左の脇を短い刃が抜けていった。

 

「おぉッ!」

 

 千鳥はさらに、背後のオボロへ苦無を振るった勢いを使い、傷から桜の光を零しながら一回転。前から仕掛けてきたほうのオボロを、顕現させた番傘で鋭く打ち付ける。

 そして同時、ようやく合流の叶ったチカゲは、千鳥の後ろで追撃を画策していたオボロに苦無を放つ。防がせた隙に肉薄し、斬りつけた瞬間、手応えと相手の姿を失った。

 

「もうッ、一丁ッ!」

 

 千鳥が、弾き飛ばしたオボロに再度仕掛け番傘と蔦を放つ。受け身を取って勢いを殺さんとしていたオボロの脚を蔦が締め付ける。

 容赦なく胸元めがけて飛来した番傘に、オボロは咄嗟に腕を交差させて身を守った。距離を隔てたとは思えない打撃力に、整っていない姿勢が少し揺らいだが、番傘が離れる間際にろくろ――傘の先端から飛び出した針が彼女の肉を刺し穿った。

 

「ぐ……」

 

 桜色の血潮を払い、オボロが体勢を立て直す。チカゲたちも再び肩を並べ、両者は霧に包まれた屋敷の廊下で向かい合い、刹那の睨み合いの中で次の手を練り上げていく。

 千鳥の遠隔攻撃を起点とした仕掛けは、接近戦を得手とするオボロに対して成果を上げていた。あの蔦――壬蔓は、取り付いた相手から力を奪う性質を持つ。そうして得た力を循環させるように攻めの手を繰り出すことで、安定して優位を築くことができる。

 

 だが、決闘ならいざしらず、これは相手がいつ倒れるか分からないメガミとの戦いだ。

 オボロを正確に捉えきれていない今、いつの間にか設置されている罠はどこまでも姉弟を苦しめる。直接的な負傷もそうだが、『罠があるかもしれない』と思わされる心理的な負担が何よりも大きい。紅の結晶で強化されたオボロに、純粋な戦闘能力では勝てないという事実もある以上、悠長な戦略はいつまでも使えない。

 

 その苦境に、二人は連携することで抗っている。だからこそ、辛うじて互角に指をかけることができている。

 しかし、その均衡を崩し、崖の下へ突き落とさんとする要因は他にもある。

 

「すぅーっ……」

 

 姿を現しているためか、憚ることなくオボロの呼吸音が聞こえる。周囲の環境から力を取り込む、オボロ独自の呼吸法だ。

 千鳥が使った神代枝に制限時間があるのは元より、チカゲだって深手を負えば顕現体を失ってしまう。呼吸により他にはない持久力を誇るオボロ相手に、同じ程度の傷をつけあったところで先に倒れるのはこちら側でしかない。

 

 無論、その不利は当然分かっていて、チカゲは刃を向けている。

 事前に知れている障壁なら、いくらでも打ち破る術がある。

 その結果が、オボロが息を吸うのを止めて顔をしかめた様子に現れた。

 

「ひひ……」

 

 正解を告げるように、笑みを零す。

 時を追うごとに身体を癒やすのなら、時を追うごとに身体を蝕めばいい。

 オボロが青白い霧で戦場を覆った一方、チカゲはそこに毒の霧を放っていた。当然、千鳥にも僅かながら影響はあるものの、大気から力を取り入れようと過剰に呼吸するオボロは、その毒を余計溜め込んでいたことになる。

 

 天秤に載せるものがないのなら、軸をずらしてでも傾かせるのが忍だ。どちらの皿が重かったかではなく、大事なのは最後に傾いていたかどうかなのだから。

 オボロは持久面での優位を失ったことを理解したようだったが、むしろこうなったことを喜んでいるかのように微笑んでいた。

 だが、それは瞬き一つの間に過ぎた出来事。

 自らの本懐を顧みたように、姉弟を見据える眼差しが、いっそうの衝動を宿す。

 

「はッ!」

 

 次なるオボロの仕掛けに、チカゲたちは目を剥いた。

 オボロが選んだのは、またもや圧倒的な速度を利用した接近戦だった。彼我の間合いを消し飛ばし、チカゲの死角の足元で小刀を閃かせる。

 しかし、オボロの攻め手はそれに留まらない。

 オボロは得物を持った右手から血色に染まった力を発露させ、床へと叩きつけた。その反動は刃を急激に加速させ、地を這うような低い姿勢から、いきなり首元を狙う異常な太刀筋を作り出す。

 

「……!」

 

 微かな空気の流れによって反応を成したチカゲは、殴打で初撃をいなす目論見へ咄嗟に目眩ましを組み込むべく、手のひらに桜花結晶を生み出し、握り込む。

 だが、オボロの放った力がチカゲを逃さない。

 足元に血溜まりのように広がっていた赤い力が、鋭く伸び上がってチカゲの手を貫いた。

 

「っ……!」

「姉さんッ!」

 

 応手が封じられたと見た千鳥が、感情も露わに叫ぶ。彼は割って入ろうと番傘を構えて一歩を踏み出す。

 けれど、オボロの刃が振り抜かれる直前、千鳥の動きは一拍遅れた。

 彼は、気づいてしまったのだ。チカゲ自身が、割り込む彼を見咎めていることに。

 必然、凶刃はチカゲのみぞおちから首までを躊躇なく切り裂いた。

 

「が、ぁッ……!」

 

 鮮やかな桜色が、霧の中で眩く散っていく。桜花決闘であれば勝敗を悟ってしまうような痛打に、致命の二文字すら脳裏を過る。上体を反らしてなるべく傷を浅くしようと試みていたものの、オボロの太刀筋はそれすら許さず、えらに至るまで深々と痛みが刻まれた。

 それをただ黙って見送るわけにはいかない千鳥であったが、直前で判断を切り替えた隙はオボロに十分なまでの対応の猶予を与えていた。

 

「っ、ぐぅッ……」

 

 紅き三連星が、攻勢に切り替えようとしていた千鳥の腕と胸に突き刺さる。抜け目なく死角から放っていた手裏剣は、チカゲの手を貫いた棘同様、紅い力によって編まれたものだ。

 無理をして振るわれた番傘は大した脅威にならず、相応の見返りを与えることも叶わない。腕を動かすために使う身体の部位を的確に刺し貫いているあたり、オボロの技巧を褒めて叱るべきだろう。

 

 今の交錯で、天秤が傾いてしまった。

 続く追撃を恐れてか、千鳥はよろめきながら番傘を下段に構えた。

 

「千鳥ッ!」

 

 その姿勢を叱責するように、チカゲが名を叫んだ。

 守るために、守るべきではない、と。

 何故ならチカゲは、あえてその身に刃を受けたのだから。

 

 棘に貫かれた手から、縦に切り裂かれた胴から。

 今までチカゲが負った傷という傷から噴き出し、この廊下に大量に漂う桜の塵たち。

 それらが彼女の意思に呼応し、蠢き始める。

 

 澱み、渦巻き、戦場に這うは禍々しき気配。

 密かに潜ませた毒の霧とは違う、己を害した存在に確実な最期をもたらす破滅の香り。

 相手がこの澱みに溺れるか、それともチカゲが意思を挫かれるのか――暗殺者として影から討つのではなく、正面から刃を交えた相手だからこそ突きつけられる死への予告状を、チカゲは趨勢を計る天秤に叩きつけたのだ。

 

「……!」

 

 それを目の当たりにしたオボロは目を見開き、一転して身を翻す。

 距離を取る彼女の懐から、一抱えほどもある桜色の光の塊が飛び出し、やがてそれは額に桜花結晶の埋め込まれた鳶の姿を成した。

 チカゲから広がる澱みにも怯まず、鳶は複雑に旋回しながら宙を駆ける。

 すると、鳶がチカゲを飛び越して最後の回転を成した瞬間、彼女の腰を前から切り上げて真っ二つにするような位置で、周囲に仕掛けられていた鋼の糸が締まった。さらには強い害意を示すように、糸から生えた小さな紅の棘が茨の檻を作り上げ、チカゲが守りとした結晶が容赦なく削られていく。

 

 オボロはダメ押しとばかりに、チカゲの胸元めがけて手裏剣の群れを放つ。ただでさえ猛毒の発現が済んでいないチカゲは、紅の茨によって回避軌道は限られ、予め構えていた結晶もなくなった以上、これを甘んじて受ける他なかった。

 けれど、手裏剣は空を切るのみに終わる。

 チカゲの身体が、ひとりでにオボロへと引き寄せられるかのように、茨の檻から脱していたのだ。

 

「な――」

 

 宙を舞うチカゲが、身を捻って間一髪手裏剣を見送ってから、床板を軋ませて着地する。

 その上を、オボロと同じ鳶が飛び去り、そして桜へと還っていった。オボロの力の一端であるその聡き鳶を使役できるのは、オボロ本人以外にはあと一人しかいない。

 

「へっ……」

 

 不敵に笑っていた千鳥の腕から、真実、桜の光だけで依られた糸が二本、伸びていた。

 一端は、チカゲへ。もう一端は、オボロへ。

 そしてその二人にもまた、お互いを引き合わせるかのように一本、伸びている。

 

 結ばれたのは縁の糸。誰かと誰かを巡り合わせる、とあるメガミのおせっかい。

 そのおせっかいには、いつか来る別れをもたらすことまで含まれている。

 けれど、千鳥を介して結ばれたその力強い縁の糸は、いっときであってもチカゲにとって十分過ぎる再会を叶えてくれた。

 

「ぃひ……!」

 

 手裏剣を回避したチカゲは、破滅をたなびきながらぬるりとオボロへと肉薄する。

 右手で苦無をあからさまに構えた直後、空いた左手で懐から抜き取った小瓶たちをオボロに向けてばらまいた。

 

「ぅ……」

 

 度重なる破砕音の中、解き放たれた中身がオボロの顔を引きつらせた。

 チカゲが受け継いだ死の権能を抽出した、誰にでも例外なく死をもたらす猛毒・滅灯毒。それは相手に打ち込めばもちろん勝利を得られるものだが、生きとし生ける者全てにとって強制的に忌避の対象となる存在は、他のどんなものよりも効果的な足止めとなる。

 

 オボロの周囲に漂う死が、彼女をその場に釘付けにする。

 しかし、もはや額と額がぶつかり合うほどの至近距離では、効果的な一打は望めない。歪に輝くチカゲの眼差しは、選択肢の限られたオボロの一挙手一投足を決して見逃さない。

 チカゲが、その泥濘へと引きずり込んだのだ。

 不吉なほどに澱む、最期を携えて。

 

「オボロ様の道を妨げて、申し訳ないですけど――」

「ぁ……あ、ぐッ……」

 

 鍔迫り合いに持ち込む中、チカゲはオボロの目を見て口にした。抵抗するオボロの力が、徐々に弱まっていく。

 チカゲの暗い瞳は、かつてはたった一つの心情に覆われ、あるいはたった一人だけを映し続けていた。忘れ去られた湖沼のように濁りきった水面の下で、陽の届かない、澱んだ世界で鈍く輝く宝物を眺めていた。

 今も、彼女の目が晴れることはない。澱んだままだし、穿った見方もやめられそうにない。

 

 けれど、今の彼女は、畔から眺めた世界の景色も知っている。

 時折眩しさに眇めながら、その瞳に映るものは――

 

「これが……今のチカゲの、生きる道です」

 

 

 小刀が、床を転がった。

 オボロを完全に包み込んでいた澱みが、倒れ伏す小さな身体を追いかけた。

 決死の猛毒が、時々痙攣するオボロの顕現体を蝕んでいく。

 その身に詰まった欲望を、滅ぼし尽くすように。

 

 

 

 

 みしり、と天井から埃が落ちてくる。ただでさえ凄まじい衝撃によって倒壊間近となった屋敷の寿命は、チカゲたちの戦いによってさらに削られてしまったようだった。もしもこれが忍同士の戦いでなかったとしたら、途中で生き埋めになっていたかもしれない。

 チカゲにはある意味親しみのある埃は、彼女の隣で壁に背を預けて座り込んでいる千鳥の頭に降り掛かっていた。凄まじい緊張下に置かれていたことも相まって、チカゲ共々疲労は色濃い。このまま泥のように眠って、崩落に巻き込まれてしまいそうなほどだ。

 

 ただ、既に屋敷と運命を共にすることが決まっている者もいる。

 オボロは荒れた床に大の字に倒れて、顕現体が崩壊する時を漫然と待っていた。澱みから解放されはしたものの、その手足はもうぴくりとも動かない。

 

「やっぱ性に合わないことはするもんじゃないですよ」

 

 その師の有様を見て、仕方なさそうに千鳥は苦笑いしていた。

 

「心中お察しするところではありますけどね? でも、こんな大ごとにまでしちゃって、らしくないですって」

「ふっ……そうかもしれんな」

 

 身体が動いたら肩を竦めていたことだろう。喋りづらそうなオボロは、天を仰いだまま自嘲気味にそう呟いた。

 

「俺の裏切りがなければ、もっと大変なことに――ぃだぁっ! おい、何すんだよ姉さん!」

 

 ちょうどいいところにあった千鳥の脳天めがけ、チカゲのげんこつが炸裂した。ほんのり伸びていた千鳥の鼻もこれで引っ込んだようで、今まであれほど痛い思いをしたのに若干涙目になっている。これで素の反応なのだから、何歳になっても千鳥はこのままだろう。

 チカゲは抗議してくる弟からそっぽを向くと、

 

「ふん……そういえば、チカゲたちの隠密行動の情報を漏らした馬鹿への制裁がまだでしたから、オボロ様に代わって済ませてあげたんですよ」

「隠密行動って……え、えぇ、北限のアレ? それ今やる?」

「ふふ、感謝しよう。この通り、手が動かせぬのでな」

「オボロ様まで!」

 

 声を潜めて笑うオボロからは、決して追い求めていたものへの執着までもが失せていたわけではなかった。諦めてなお後ろ髪引かれているような、寂しい夢との別れだ。

 忍の里の住人たちは、無条件でオボロに付き従わなければならないわけではない。彼女は人々の長ではないし、あくまで敬愛される規範でしかない。ゆえに歴史上、彼女の行いの是非を巡って稀に里が紛糾することもあった。

 

 だから、千鳥の言う裏切りが、紛糾の末に生まれたものである可能性は否定できない。オボロが好奇心に囚われて暴走したのであればなおさらだ。

 だがチカゲは、実際のところそうではないだろうと考えていた。頭領である千鳥がここまで明確に裏切るのであれば、事実上里の決定に等しい。総意でなければ、少なくとも大層な分断を生じているだろう。この師をして、流石にそれを看過するとは考えづらかった。

 

 そもそもこれは大局的に見れば、侵攻とすら捉えられる千洲波勢力の調査に端を発し、そこから世界の危機と呼びうる何かが顕になっていった、という話だ。ヤツハを見る目からして討伐の強行が目的ではなさそうだったし、トコヨたちにも同様だろう。

 桜降る代を救うという大目的の下で、致命的に反目するほど忍は合理性を欠いていない。反発が無だとは思わないが、直接の目標にメガミ殺しがないのなら燻る程度で済むだろう。

 

 そうなると、千鳥の裏切りは別の側面が見えてくる。

 里がオボロを裏切ったのではなく、極少数。あるいは……千鳥個人。

 ならば、とチカゲはささやかな叱責から繋げるようにして、探りを入れることにした。

 

「千鳥……あのときトコヨに情報が伝わったのは、あの女を経由してのことでしたね」

 

 軽く腕を組み直したチカゲが、遠くを眺めながら独り言のように確認していく。

 その視線の先は、戦いの爪痕が刻まれた廊下の奥へ。

 そして、弟の顔色へと向け直された。

 

「今回もその流れですか?」

「……!」

 

 僅かにだが、千鳥の顔が強張った。瞬き一つの間に隠しても、もう遅い。忍の自制心をも揺るがすだけの何かが裏にあると答えたようなものだ。

 千鳥は急に切り込んできた姉の鋭さに感服したのか、眩しそうにチカゲのことを見上げてきた。降参の意を示すように、わざとらしくため息までついてみせる。

 項垂れながら、彼は諦めと共に白状する。

 

「あぁ……。ただ――」

 

 けれど、語る千鳥の意思は、元の強靭さを取り戻す。

 委細を話すわけにはいかないのだと、きっちり蓋をしていた。

 

「流れは変わっちまったが、な。悪いけど……」

「…………」

 

 最後まで言い切らなかった謝罪は、チカゲには不要だった。その在り方は、忍に求められる一つの形そのものだ。よほどのことをしたところで無駄だと悟ってしまうだけの強固さが、秘密を内側に抱え込んでいた。

 チカゲもまたそれに諦めを覚え、彼を注視していた眼差しを少し柔らかくした。

 

「できるなら最初からそうしなさい。……詳しい話は、全てが終わった後にでも」

 

 チカゲには、千鳥を拷問して情報を聞き出すという選択肢はあった。彼の今後の動きを懸念して、殺してしまうという極端な手もないわけではない。

 だが、彼女はそれを選ばない。

 肉親への情はある。けれどそれ以上に、勘定に見合わないといった計算が先にあった。チカゲが認めるほどに卓越した忍となった彼に対し、強引な手段をとるために途方も無い労力を注ぐのが愚かしく思えてならなかったのである。

 

 チカゲは、限られた資源を無駄にはしない。

 ミコトからしたら無尽蔵に思える、その身を形作る桜の力も。

 そして、万人に無慈悲に流れる時間を思い、壁から背を離した。

 もう、この場に留まり続ける理由はなかった。

 

「チカゲは、チカゲの道を行きます」

「あぁ、姉さんの邪魔をすることはないよ。……ありがたいことにね」

 

 冗談めかして言葉を補った千鳥が顔を上げると、そこにはもうチカゲの姿はなかった。

 霧の晴れた廊下の先で、散った桜が、一陣の風の中で遊んでいた。