黄緑の花弁が、鎧のようにヤツハの全身に咲き乱れる。急激な繁茂に堪えた土壌のように、四肢の至る所が罅割れていく。
突破の意思を固く漲らせたヤツハへ、襲い来るは大嵐。
こちらへ踏み切ったライラから、猛烈な風が乱動する。
「っ……」
荒々しい風はそれそのものが打撃力を持ち、抗うためのさらなる腕力をヤツハに強要する。
ろくに目も開けていられないような風は、ライラに尋常ならざる加速を与える。踏み切った力強さとは裏腹に、決して小さくはないライラの体躯が木の葉のように運ばれる。それでいてなお鋭く空を駆ける姿は猛禽であるかのようだ。
しかし、大自然の猛威を前に、ヤツハはひどく落ち着いていた。
相手の得物は左手に据えた黄金の爪であり、志向する間合いは明確に前。互いが肉薄しきるかどうかという距離こそが焦点となる。今となっては、こういった戦況への理解も手にとるようだ。
必要なのは、この中でヤツハ自身の勝ち筋を見失わないこと。
僅かな猶予で呼吸を整え、爪から遠い左側へと逃れんとする。
「オォッ!」
宙を行くライラの脚が、虚空を蹴った。着地の隙すら晒さず、懐に飛び込んだ彼女の斬撃がヤツハを強かに捉える。
硬質となった右腕に三筋の傷が深々と刻み込まれ、散った光を浴びるライラは一瞬の着地で爪撃の余韻をさらに加速、柔軟な体捌きでさらに喰らいついてくる。
だが、ヤツハの決意が連撃を許さない。
「邪魔ッ!」
「……!?」
ライラの繰り出した爪が、弾かれた。まるで、ヤツハから漏れた黄緑の輝きのもやが、ヤツハの意思の固さを孕んで壁となったかのようだった。
予想外の防御にライラが動揺している間に、ヤツハは飛び退きざまに、己に宿る星空色の怪物を全身から解き放つ。
生き物のようでいてどんな生き物とも異なる、ヤツハの身の丈の三倍はある巨大な怪物。
真価を曝け出したその怪物さえ、もはやヤツハに完全に呼応する。
ライラを丸ごと呑み込んだ怪物が、彼女を形作る桜の力をも呑み込んでいく。ヤツハに立ちふさがる壁の一切をも、貪欲にも願いの糧とするように。
相手の一挙手一投足が理解できている。暴虐的な力は、もはや自らの意思の中にある。そして力は、己の心に従い、振るわれている。
恐れる必要などありはしない。
ヤツハの中には、この地で重ねてきた経験があるのだから。
「が、ぁぁぁッ!」
ライラに喰らいついていた怪物が、内側から四散した。ライラから放たれた千の雷が暴れ狂い、夜闇に溶けていく肉片を暴風が切り刻んでいく。
その金色の瞳が、ヤツハを鋭く射抜く。
大自然の壁は、砕けない。
「ォ、オオォォァァッ!」
獣の如く吼え猛るライラが、瞬く間に彼我の間合いを無とする。
突き出される三叉の大爪は荒ぶる風雷を纏い、鋭利さだけではない破壊を予感させる一矢が喉元へと仕向けられる。
切っ先と肌の間に、割って入るは折り重なった徒寄花の結晶。
ヤツハの備えが、電光石火の反撃を受け止める。
「ぐっ……!」
「…………」

砕かれた結晶を挟んで視線が交錯する。
曇りなきヤツハの瞳が、微かに揺れ動くライラの瞳を見咎めた。刹那の邂逅にもかかわらず、歯ぎしりするライラが、敵意で定めた眼差しで睨み返してくる。
その瞳たるや、縄張りを侵された獣のそれ。
この悪意なき純粋な敵意をヤツハは痛いほどに知っている。徒寄花の世界で味わった、桜色の光に似た排除の意思だ。
目の前の敵は、この戦いで刃を向けてきたメガミの中で一番、ヤツハが恐れた神座桜を露わに体現していた。
我欲を秘めず、因縁に依らず、嫌悪にも染まらず、それでいて血は確かに通っている。
ならばこそ、意思でもって乗り越えなければならない。
故にヤツハは、鉤爪と化した拳に力を込める。
だが、そのときだった。
ライラと彼女の纏う風雷の行方しか目にしていないはずなのに、ヤツハの背筋を悪寒が這いずり回った。
「っ……!」
本能が、退避を呼びかける。踏み込もうとしていた脚を止め、その場に鏡像を残して距離を取る。
直後、意識が捉えたのは、無数の刃が大気を切り裂く音。
横合いから鏡像に飛びかかってきた者の手の中で唸るは、巨木を刻むほど大きな鋸。それも、全周に配された刃が目にも留まらぬ速さで駆け巡る、おぞましいほどに残酷な破壊をもたらす刃だ。
ウツロを屠った、鋸のメガミの乱入。鏡像が、豆腐でも切るかのように両断される。
トコヨたちが誘導しきれなかったこのメガミが、そのまま最前線を走るヤツハを迎え撃つのは実に自然な成り行きだった。今まさに、ライラという強敵も相手にしている以外は。
咄嗟の判断で強襲から逃れたヤツハは、増えた相手に思わず距離を取る。
しかし、意識を戦場に広げた彼女へ、さらなる脅威が迫る。
じゃら、と耳を掠めた音の先で、鎖を従えた分銅がヤツハを背後から戒めんと宙を突き進んでいた。
重なる敵襲に歯噛みする。ハガネに分断されていなければあるいは、と思っても遅い。
孤独な前線で、それでも歩み続ける策をひたすら絞り出していく。
けれど、ヤツハはまだ、一人ではない。
「え……」
ヤツハの背中を守るように、駆け込んでくるのは一頭の馬。
手綱握る騎兵の後ろに同乗していた人影が、飛び降りざまに分銅を拳で撃ち落とし、地中にまでめり込ませる。
桜色の焔が象るは、力のメガミ・コダマの逞しき姿。
さらに、彼女の乱入に応じて前方へ意識を戻すと、
「盾兵、前へ!」
振り下ろされたライラの爪が、雄々しき武者たちの盾に阻まれる。一人ひとりならばメガミにとって雑兵に過ぎないかもしれないが、肩を組み、背中を押し、共に抗する兵たちが大いなるメガミの力を凌いだ歴史をヤツハは知っている。
その伝承を体現する者は、ずっとヤツハを守ってくれている。
自らの手で、ヤツハを守ろうと駆けつけてくれている。
ならば、ヤツハが為すべきことはただ一つ。
「越えてみせますッ!」
道を開くための意思を、ヤツハは再び研ぎ澄ませた。
この桜降る代の何処よりも深い谷が、目の前で左右に伸びている。
ユリナは、突如として生まれた崖にあまり動揺はしていなかった。元よりハガネの権能は知っているし、過去にはその助けを借りて山を崩したことさえある。
戦場を冷静に分析し直すユリナが捉えているのは、崖を越えてヤツハと合流するのが不可能という事実だけ。たとえ空を飛べようとも、撃ち落とされてしまえば闇の中へ真っ逆さま。その状態で埋められてしまえば即座に戦線離脱となるだろう。
「サイネさん」
「えぇ」
返事を聞くより前に、ユリナは崖の左手側に沿うようにして走り出していた。
脅威は何も、カムヰやレンリの正面にだけあるわけではない。戦場を改変したハガネは元より、ウツロ脱落の起点となったメグミの存在は看過できない。
幸いなのは、依然として様子のおかしいメグミは、どうやら力をまだ制御しきれていないらしいことだった。強力な風の刃を放ってからというもの、ハガネのより後方で、反動に喘ぐように唐竿にしがみついて蹲っている。
戦略的に頭を抑えておくべきこの二柱を相手とするために、崖を左側から回り込むようにしてユリナとサイネは進む。本調子にならないうちにメグミまで無力化できれば上々という見込みが、ユリナの足を速めさせる。
無論、相手とて進攻を座して見守っているわけではない。
行く手を遮るのはハガネ。それも、姉妹のような二柱。
ユリナが睨むのは、先程ユリナが対峙していた創られた鎚のメガミだ。後方へ誘引されていなかったことへの小さな無念はあるものの、昔日のハガネを思わせるこの相手の癖は既に見抜いている。
だが、先制すべき相手を吟味する余裕は与えられなかった。
ハガネたちにはやはり、自ら接敵する理由はないのだから。
「来るなッ!」
「……!」
ハガネの手が、再び大地を穿つ。聞いたばかりの轟音が、ユリナの足元で鳴り響く。
彼我を分かつ深淵。底の見えぬ大地の牢獄。
虚空に放り出されたユリナには、ヤツハを助けた怪物の腕なんて持ち得ない。手を限界まで伸ばしたところで、刀の刃先は崖にまで届くはずもない。
しかし、転落しそうになったユリナは、それでも宙で強靭な一歩を踏んだ。
「天音っ!」
視界の端、足元に映るのは水晶の輝き。
確信と信頼が、ユリナが宿していた勢いを衝音晶に全て預けた。透き通った氷の色をした大きな水晶は、与えられた衝撃をユリナに押し返し、宙に浮きながらも武神の震脚に辛うじて耐えきった。
矢のように鋭い跳躍の末、ユリナはサイネと共に対岸の土を踏みしめる。
「く……」
ハガネたちとの間合いは、ユリナが慣れ親しんだものとほぼ等しい。切り結ぶには遠くに過ぎ、いつまでも悠長に大技を構えるには近すぎる、そんな桜花決闘の間合い。メガミ同士の戦いにおいては、いつ何が起きてもおかしくない距離。
大地を沈めるほどのメガミの力は強大に過ぎて、ここまで至れば却って繊細な制御が要求される。味方の存在が、理不尽で大規模な猛威の発露を良しとしない。
二対二。
向き合ったメガミたちが、それぞれ得物を構え直す。
ユリナは、先制を甘んじて受けてしまった微かな油断を拭い去る。向こう側のハガネの決意が如何ほどものかは、直に聞いていたはずなのに。
それを超える願いを、ユリナは支えると誓ったのだ。
「お相手します」
敵を眼前に据え、武神二柱の集中力が磨き上げられていく。
想いの宿った斬華一閃の刀身に、大地のメガミが映し出された。
