八葉鏡の徒桜

エピローグ1−1:現在(前篇)

 

 里に誂えられた議場、その大広間。

 居並ぶ忍たちを前にして、彼女にあの日のような感慨が湧くことはなかった。部屋が嫌に広く感じられるほどに列席者が限られていたのもあるが、何よりも、ここには戦乱の熱に浮かされている者など一人もいやしなかった。

 

 あの動乱の渦中にいた千鳥やチカゲも。

 そして、その戦端を開いたオボロ自身も。

 少なくとも、復帰早々にこの場でひと悶着、といった最悪の事態にはならずに済みそうだと、彼女は内心胸を撫で下ろした。そうなったとしても半ば身から出た錆だろうが、本調子には程遠い状態で大立ち回りを演じるのは避けたいところだった。

 

「皆、久しいな。どの程度経った?」

「んー、だいたい四ヶ月ってところですかね。姉さんは先月には戻ってきてたんで、遅いなーって待ってたんですよ」

 

 率先して答えたのは千鳥だ。似合わない髭を弄びながら、過ぎ去った時間をもう片方の手でわざとらしく数えている。

それにオボロは、苦々しく肩を竦めてみせた。

 

「勘弁してくれ、あの滅灯毒をたっぷりと味わったのだ。ここまで早く戻ってこられたことを褒めてもらいたいくらいさ。クルルのやつがお主を――」

 

 千鳥の隣に座すチカゲを見ながら、

 

「恐れる気持ちが幾分か理解できた。拙者にそれを使うのは、今回限りにして欲しいものだ」

「ひひっ、それはオボロ様次第ですね」

「……拙者もまだまだ未熟だからな、肝に銘じておこう」

 

 

 メガミが本来自覚する必要のない死の恐怖は、顕現体を失い、しばらく思索に耽るくらいしかやることのなかったオボロにとって悩ましい隣人となってくれた。今なお理性をひっそりと蝕むこの毒のことを思えば、放埒の代償はそれなりに高くついたのかもしれなかった。

 ただ、焦点となっていたものがものなだけに、この程度の自省で済まされるのであれば安いものだろう。

 さて、一呼吸置いたオボロは話題を移ろわせる。

 

「反省するにも、結末がどうなったか知らねば片手落ちだ。拙者が不在の間、騒乱がどう帰着したのか聞くとしようか」

 

 そう切り出すオボロは、しかし半ば呆れたように、

 

「……まあ、拙者が無事ここにいるあたり、そう酷い事態にはならなかったようだが。そこのへらへらした馬鹿弟子が分かりやすくて助かるよ」

 

 茶飲み話でも聞いていそうな緩い気配を滲ませる彼は、オボロの企図を挫いたミコトとはとても同一人物とは思えない。あえてそういう態度でいるのかもしれないが、見事に師を裏切った忍と言ったところで誰も信じないだろう。

 裏切るに足る事情を抱えていたはずの千鳥は、オボロの指摘に何故か得意げだった。

 鬱陶しいくらいに。

 

「もっちろん、俺が東奔西走したおかげでぇ? 万事解決ぅ? って言いますかー。もちろんみんなの協力があってこそ、ではありますけどね? 佐伯の野郎の手まで借りたのは不本意でしたけど、いやー、あそこから全部うまくいってほんとよかったっすよー、ほんとほんと。こんなうまくいきすぎちゃっていいのかなー、って」

「…………」

 

 最後の辺りにどうしてか照れ混じりだったのは、決して自分の力に対する驕りではないだろう。もしかしたら、千鳥だけ何か別の熱に浮かされているからかもしれない。

 こういうときにいつも文句を飛ばしてくる上忍の藤峰は、顔を真っ赤にして拳を震わせていた。大方、千鳥の働きそのものは頭領の名に恥じない程度には素晴らしかったのだろう。

 しかし今日は、そんな彼になんの遠慮も持たない肉親が隣にいる。

 

「ぃだぁっ!? おい姉さん!」

「おまえが鼻の下を伸ばしているせいで、チカゲの拳がまた痛んでしまいました。どうしてくれるんですか?」

「理不尽!?」

 

 げんこつの落ちた頭を摩りながら、渋々といった様子で口を閉じる千鳥。

 彼らの普段と変わらない雰囲気は、互いの間に生まれた勝敗とオボロの反省で以て、決着が成されているのだと言外に告げているようだった。必要以上に引きずらないでいてくれるのは敗者にはありがたいことだけれど、それに甘えすぎるわけにもいかない。

 

 反省と後悔は別物だ。

 探究の輩として今を知り、間違いを正して次へと繋ぐ。より良い道を模索しないのは忌むべき行いである。必要であれば償いもするが、もちろんそれに囚われ過ぎて歩みを止めることこそ最も忌むべきではある。

 代わりに道を提示した者たちへの信頼が、本題に入るオボロの口を軽くする。

 

「まあ、そのあたりの話も含め、語らうべきことはいくらでもあるだろう。だが、まずは何より、徒寄花や徒神たちがどうなったのか……それを聞かせてもらうとしようか」

 

 あの混沌とした戦況の中で、この姉弟が守ったものを。

 未来へ繋いだ先にある、この明るい今を。

 

 

 

 

 

 銀世界を照らす遠慮がちな日差しは、寒々しい海風と山風の入り混じるこの御冬の里では、トコヨの身体を温める足しにもならなかった。これでも吹雪いていないから今日はマシだ、と先導する皆島というミコトは言っていた。

 この里の出であるサイネも、当然のように彼に同意したので、ぷるぷると震えるトコヨの味方は一人もいない。それでも彼女には、この氷の大地に赴かなければならない理由があった。

 

 里を望む崖へと案内されたトコヨたちは、岩に腰掛ける尋ね人の姿を認めて一息つく。

 来訪の気配に、声をかけるより前にコルヌが顔だけ振り返ってこちらを認めた。北限の守り人はトコヨたちの姿を見るや、その鉄面皮に僅かな安堵を滲ませる。

 トコヨたちがようやく取り戻した元の色彩が、堅物からそれを引き出したのだ。

 

「ご無沙汰しています、コルヌ様」

「うぅ……あんたいつもこんな吹きさらしのところにいるの? 里の中でいいじゃない……」

 

 

 丁寧に腰を折るサイネの隣で、トコヨは開口一番に文句を垂れる。

 コルヌはサイネとしっかり向き合うように身体ごと振り向き、礼を受け止めるように大仰に頷いてみせた。

 その傍ら、トコヨの文句をさらりと受け流す。

 

「自然の現出たる番人として、在るべき在り方を選んでいるだけのことよ」

「獣だって雨風をしのぐくらいするでしょうよ……」

「わざわざ寒い寒いと嘆きに来たわけではあるまい? ヤツハについて聞きに来た、という理解でよいのか?」

 

 迂遠なやり取りを好まないコルヌらしく、彼女の側から本題を切り出してきた。

 トコヨは小さく頷くと、

 

「そ、又聞きよりは当事者から聞いたほうが早いじゃない。ようやっと身体のごたごたが片付いたんだから」

「よかろう。まさにそれが、見届けた我の務めでもあろうからな」

 

 そう言うとコルヌは、里の北を眺め始めた。一見何もない場所だが、そこから真なる極寒の大地が続くのだとトコヨは知っていた。そして、その先の何処かに、徒寄花の根が顔を出したという件の洞窟があることも。

 コルヌは広げた五本の指をひらひらと振り、

 

「あのとき、北限を訪ねて来よったのは五柱のメガミであった。ヤツハにユリナ、ホノカ、ライラ……そして、異史より来たりしハガネ――終う確執の見届け手を交えてな。案内として我が加わり、総じて六柱の行軍と相成った」

「そう、向こうのハガネも……。それにしても、有事とは言えそんな大所帯、案内までして通すなんて珍しいわね」

「かかっ、既に挑戦は果たされているからな。それに、彼奴のあの瞳を見て受け入れぬなど有り得ぬよ」

 

 満足げなコルヌの態度に、サイネと共に微笑み返した。

 

「かの洞窟に至った我らは、桜に巣食っていた徒寄花との邂逅を果たした。そこでヤツハがかの異形の根に触れれば、青白い光が広がったではないか。まさにそれは扉であり、我々が神座桜を通じてメガミの代へ向かう際と違わず、ヤツハは徒寄花の中へと潜っていった。そして、我らもそれに続いていったのだ」

「え……」

 

 困惑の声を漏らしたのはサイネだった。

 コルヌはその驚きに応えるように、

 

「さほど不思議ではあるまいよ。メガミへと至るミコトとて、最初は異質を受け入れているようなものであろう? ましてやヤツハも神座桜に招かれたというのだ、逆を為せぬ道理はなかろう」

「いえ……私にもそういった『体験』があるので異論はないのですが、徒寄花にとっては敵を招く意味の重さがまるで違うのではないかと」

 

 今までの徒寄花は、周囲を強靭な敵軍に囲まれた城そのものであり、向こう側からの援軍に一縷の望みを託すという末期を迎えていた。使者の直訴を聞き入れるだけの余裕がある神座桜とは、状況の深刻さに雲泥の差がある。

 コルヌは少し考えるように天を仰いでから、素直な結論を告げる。

 

「ふむ。徒寄花の真意など分からぬが……既に屈服していたのだろうよ」

「そうかもね。だけど、それ以上に……」

 

 面に桜舞う扇が、トコヨの口元を隠す。

 トコヨはその先を言葉にすることはなかった。彼女もまた、理屈だけでは動かなかった者の一人だけれども、それをあえて口にするのは無粋というものだ。

 

 コルヌは真意を知ってか知らずか、どうだかな、と言わんばかりに肩を竦めてみせた。

 そして粛々と続きを物語る。

 

「かの世界は儚きほどにか細く、広漠たる桜の代を知る我らには狭苦しい場所であった。遠大に見える夜空も、そこに散る星の瞬きも、自身の大なるを盲信するための張りぼてにしか見えなかった。ヤツハの言う桜色の光に圧壊されるだけの、虚飾に覆われた世界だったよ」

「…………」

「その矮小な世界の中心に、巨大な鏡は安置されておった。絡みついた異形の蔦は、なるほど確かに縋り付いているようで、異邦の気配を感じさせる鏡面の輝きは、徒寄花に残された命の灯に思えてならなかった」

 

 それからコルヌが告げた顛末は、大騒動の終着点における出来事としては、形の上では実に呆気ないものだった。

 

 対話を求めたヤツハが、実際に口にしたのは「……ありがとうございます」という感謝の一言だけ。

 そうして鏡へと手を翳したヤツハが己の権能を引き出すと、鏡は光へと解け、徒寄花から預かるようにヤツハの中へと納まっていった。ライラあたりは抵抗に備えて警戒していたようだが、結局荒事には全くならなかったそうだ。

 

「それも、今のヤツハがあったからこそよな」

 

 結果として、鏡がもたらしていた向こう側との繋がりも解消された。

 以来、桜降る代北部で度々報告されていた怪物騒ぎもぱたりと途絶え、今のところ平穏は取り戻されている。

 しかしトコヨは、その平穏が長く続くものだと肌身で知っていた。

 

「何より、貴様らこそが最大の証に他ならぬな。その無事な姿が一番の土産だ。以て、ヤツハの使命は真に果たされたと言えよう」

「うん……あの子、よくやってくれたわ」

 

 まずはあの戦乱を切り抜けよう、とは言ったが、トコヨとしてもここまで早く自分の処遇に決着がつくとまでは思っていなかった。

 身を挺したトコヨたちに、ヤツハは相応以上に報いてくれた。

 ならば、

 

「受け入れられて欲しいですね」

「ええ」

 

 想いを零したサイネに、トコヨの返答は簡潔だった。

 ヤツハの願い。

 試練と向き合った彼女には、宿命を脱ぎ捨て、それを叶えるだけの権利があるだろう。

 いや、もしかしたら最初からその権利は持っていて、他人がそれを奪っていただけなのかもしれない。トコヨとて、初めはそちら側の考えを持っていたのだから。

 ただ、微笑みが困ったような苦笑いに変わるのを、コルヌは一笑に付した。

 

「かかっ! 何を心配することがある。我を交えた五柱ものメガミが、確と履行を見届けたのだぞ?」

 

 それにな、とコルヌが見下ろすのは白銀に染まった人里だ。ヤツハが望んだ、桜降る代の平凡な時間がそこには流れている。

桜と共にある人々の営み。

 メガミと共に歩む人々の息遣い。

 変わるのは、当たり前の日々を求めた少女だけではない。

 

「何より、彼奴が正しくメガミとして在ろうとしたからこそ、この地は……人々は、それに応えようとしておるのよ」

 

 

 

 

 

「西方ァッ! 石切村の藤五郎ッ! そして東方ァッ! 麦ケ浦の甚平ッ! 両者前へ!」

 

 宮司の威勢のいい声が、会場の歓声を貫いて響く。この一帯で催される決闘をしばしば取り仕切る彼は、ここ菰珠の出だけあって血気盛んだ。こういった興行向きの宮司は昔は珍しかったけれど、新たな桜花決闘の浸透に伴って数はじわじわと増えている。

 桜の下へ歩み寄っていくミコトたちの姿を見下ろしながら、ミズキは石造りの観客席を一人行く。桜花決闘の祭は常に人気を博しているが、彼女が人の世に戻ってくるまでの間に、よりいっそうの盛り上がりを迎えているようだった。

 

 ミズキに気づいた客のざわめきを他所に彼女が向かうのは、相対するミコト二人を正面から眺められる位置、その最前列に設けられた貴賓席だ。他の決闘場と比べて戦場との距離が近すぎるので、稀に来る流れ弾に対処できない者は立ち入れないという豪気な造りである。

 警備が自ずと道を開けてくれると、席には既に二つの人影があった。

 一つは、この熱気には鬱陶しいであろう宮司の正装に身を包んだ青雲。そして彼の向こうにもう一つ、屋台で売られていた骨付きの羊肉を齧っているライラの姿があった。

 

「実に盛況ですわね」

「これはどうも。復帰早々、お越しいただいて何よりです」

 

 青雲に彼の右隣を勧められたミズキは、少しだけ考える素振りを見せてから、座布団に腰を落ち着ける。

 

「……何か?」

「いえ。かつてを想起しただけですわ。貴方が表舞台に出てくるとなると、どうしてもきな臭さを感じてなりませんの」

「はは……ご勘弁願いたい」

「ふふっ、分かってますわよ」

 

 悪戯っぽく笑って、頭を押さえる彼が作り上げたというこの景色を眺める。

 かつては桜花決闘を嘲笑う側の存在だったこの男が、時を経て、これほど活気ある桜花決闘の祭を主催するまでとなった。

 夢破れ、途絶えた道に居座り続けたままでは決して為せぬこと。

 彼が今上った舞台は、我欲に満ちたものではないのだ。

 

「これは、貴方なりの新しい道であり――」

「ええ。彼女が選んだ道のために、私にできることをしているまでですよ」

 

 裏表のない清々しい答えに、ミズキは嬉しくなって優しく微笑んだ。

 それから決闘が賑やかに始まり、より高まる観客の興奮を肌身で浴びた。刀と鉄拳とが幾重にも打ち合う音は、それでもミコトたちの腕っぷしを示すかのように重厚に響いてくる。

 次に青雲が口を開いたのは、気迫と気迫のぶつかり合いのようなその決闘が決着した後のことだった。

 

「勝手に話を進めてしまったことはお詫びします。山城も菰珠も、ご意見は賜りたいと言っていましたが、何分ご様子が窺えなかったもので」

 

 扇子で熱気を払う彼の謝罪が、形だけのものであることをミズキは理解している。この祭のことを山城の官吏に聞かされたときも、同様の理由で頭を下げられた。

 彼女が青雲に返すのは、その官吏への答えと同じだ。

「構いませんの。今の時代の在り方は、今の大家を治める者たちが決めること。まさかこれが、私の意見程度で翻すような、おぼつかない舵取りの結果だとでも?」

「ははっ、まさか。今の稲鳴周辺は、動乱の影響ゆえに混沌としています。人々に安心と活力を与え、前に目を向けさせなければならない――そのための祭事だと、私たちは自覚しておりますとも」

 

 争いに巻き込まれた者たちが日常に戻るのは、そう簡単なことではない。日常までの道標を用意するのが、人の上に立つ者の義務だ。

 青雲の立場からしてやりづらいところもあっただろうが、鳴り止まないこの歓声が彼の苦労に対するねぎらいだった。

 ミズキが満足そうにしていると、青雲は思い出したように苦笑いしながら、

 

「それに、ライラ様にもご協力いただけており、ありがたい限りですよ」

 

 ぴくり、と。名を呼ばれたメガミの頭に生えた獣の耳が動いた。

 ミズキの来訪に気づいていないわけもないだろうに、ずっと試合に夢中なふりをしているのも限界だったのだろう。手元の羊肉はすっかり食べ尽くされて、先程から延々と骨を齧っているのが視界の端に映り続けていた。

 

 手にかけてしまったミズキに対し、気まずいのは分かる。

 口下手なものだから、いざ話すときのことを考えて緊張もしているだろう。

 だがそれも、ライラが優しいメガミで、ミズキを想ってくれているからこそだ。

 

「らい…………手伝った」

 

 目だけをこちらに向けて、ライラは言葉少なに応えた。己の使命に突き動かされ、心を軋ませていたあの日の彼女の姿はどこにもありはしない。

 ライラにしてもあまりに端的で、そこから話を広げるつもりもなさそうだ。振られた話の内容に、元々用意していた言葉がどれも見合わなかったのかもしれない。目を泳がせている彼女の様子に、ミズキはくすりと笑う。

 不器用にも想ってくれているのなら、それに応えなければ。

 

「そうでしたの。でしたら、近隣の祭事である以上、私としても関わらないわけには参りませんわね。是非協力させていただきますの」

 

 それから、腰掛けたまま少し身を乗り出して、ライラに微笑みかけた。

 自分たちも日常に帰ろう、と。

 

「そういうわけですから、ライラ。これからもどうぞよろしくお願い致しますの」

「……! う、うん!」

 

 

 そのぎこちなさがなくなるまで、少し時間がかかるかもしれない。いきなり全てを忘れて朗らかに語り合うのはなかなか難しい。

 それでも、信念が互いを傷つけあってなお、友情が途絶えることはなかった――今はそれを確認できただけで十分だった。

 

 一つ憂いもなくなり、ミズキは決闘を眺めながら山城周辺の今後を思案し始める。祭の開催地をここ菰珠にしたのは良い判断だ、と青雲の動きを改めて評価することになる。

 山城、稲鳴、菰珠と分けて考えた場合、不安定な民衆が最も多く生まれているのは、間違いなく菰珠なのだ。

 その理由を、ミズキは一番良く知っている。そして、今日のどこかで小さな対策を打つつもりでもいた。

 その機会は、頭上から降ってきた声によってもたらされた。

 

「あ、あのぉ……ミズキ様ー……」

「……?」

 

 青雲共々振り返ると、上階の客席から身を乗り出している少女が、畏れ多さと不安、それに少し気恥ずかしさを顔に浮かべていた。

 燃えるような夕焼け色の髪の彼女は、稲鳴の戦士の一人である遥原夕羅である。真新しい戦化粧で彩られているものだから、彼女も参戦しているのかもしれない。

 周囲の注目を集め始めているので手招きすると、態度とは裏腹に軽快な動きで貴賓席に飛び降りてきた。

 

 彼女の用件に思い至るのは容易い。

 自ら動かずとも、誰かに必ず問われるだろうという心構えはあった。その得物を象徴とする者の力を宿せずとも、多くのミコトがそれを携えている光景は、否が応でも目に入るというもの。本来それだけあった信仰は、有事には不安の種にもなってしまう。

 

「その……コダマ様がどうされているか、お聞きしたくて……」

 

 なんの力も秘められていない鉄拳を右手に嵌めた夕羅が、らしくもなくおずおずと切り出す。

 彼女の関心事は、何かしら大きな転換点を迎えたらしいのだと知っていたところで、当事者に訊ねなければ明らかにならない類のものだ。

 もちろん、ミズキはその答えを用意してこの場にいる。

 それを告げるのに、ためらいなどあるはずがなかった。

 

「心配なさらずとも大丈夫ですの。コダマの変容は落ち着き、安全になったと言ってよいでしょう」

「じゃあ……!」

「あとは、純粋に力が戻るのを待つだけ。ただ、それでも短く見積もって数年はかかる……早く真なるコダマの鉄拳を決闘で振るいたいでしょうに、申し訳ありませんの」

 

 個人的に繋がりを断たれる以外で、奉じるメガミの力を宿せなくなるというのはなかなかにあることではない。桜花決闘が文化として隆盛し続ける今、自らが信じた力を使えないというのはかなりの憂慮をもたらすだろうと、ミズキは考えていた。

 それに、当のコダマ自身もきっとうずうずしていることだろう。その調子で早く復帰してもらえると皆が幸せなのだけれども。

 形式的なものとはいえ、謝られた夕羅は慌てたように、

 

「そ、そそそんな、謝らないでください! ボクのほうこそ、結局ミズキ様に勧請に伺わなくて申し訳ないです……」

「……そういえば、今はどなたを? ライラだけというわけでは――」

 

 そこまで言いかけたところで、ミズキは続きを呑み込んだ。

 ふと目を落とした夕羅の左手から、思わず零れ落ちたかのように、星屑にも似た輝きが瞬いていた。それは、在りし日に夕羅がいくらかの敵意すら持って相対していたはずのものだ。

 何よりも雄弁なその光景に、笑顔が浮かんでくる。青雲もまた目を細め、彼女の掴んだ未来に微笑んでいた。

 

 ミズキの様子を始め不思議に思っていた夕羅も、答えを察されたと気づいたようで、手を背中に隠されてしまった。

 

「じ、自分の戦い方に合っただけですから! 次はこっちから挑戦するって決めてるんですから、相手の手の内を知るのも勝つのに必要ですし!」

「あら、殊勝な心がけですのね」

「絶対信じてないじゃないですか! ……まあ、意固地になってる暇は確かにないんですけど」

 

 恥ずかしがっていた夕羅の声の調子が、いきなり地に足を着けたように闘志に溢れるそれへと変わっていた。

 彼女の視線は、対岸の観客席へ。

 後列から冷たい目で決闘を観察しているその集団は、紛うことなき千洲波の民たちだった。嵐の海岸で対峙したあの大将格の男も健在である。特徴的な血のような色の外套を脱いでいたためになかなか気が付かなかった。

 

「こういうところに出てくる気質ではないと思っていましたが……」

「千洲波の民、根っこは戦士」

 

 意外さを口にしたミズキに、答えたのはライラだった。

 ただ、それだけで済むほど単純な立場でもないだろう、と青雲を見やると、それを待っていたかのように肩を竦めてみせた。

 

「思いの外、丸く収まりましてね。どうやらカムヰもまた眠り続けているようですし、彼らも旧い在り方から前に進む時期を迎えつつあるのかと」

「また暴れられるよりは、確かに良いですけれど……」

「まあ、結局この大会でも大暴れされているわけですが。主催としては、程よいところで自重してもらわないと困ってしまう。駆道氏など、目下二連覇中ですから」

 

 苦笑いする青雲。彼らの凶暴性を決闘の舞台に押し込んだのは上策ではあるが、稲鳴との確執が完全に消えるわけもなく、万事快調とまでは行かないようだ。

 

「祭を開くのも大変ですのね」

「好きでやっていることですから。それに、彼女たちの輝かしい献身と比べたら私など」

 

 謙遜をするな、と言うつもりにはなれなかった。

 遠くを見つめる青雲の視線の先にある背中は、桜降る代に生きる者誰にとっても身近であり、そして追うには遠い存在なのだから。

 

 ミズキもまた、その者の今を想う。

 時代の礎を築いた彼女が、今は何を見ているのだろうかと。