神座桜縁起 後日譚

第4話:三盟24年、北限、あるいは彼方にて(前篇)

 

 北限、それは過酷の代名詞だった。

 極寒は人を寄せ付けぬ峻烈にして、それを体現するが如き白銀が視界を満たす。白亜の山々に寒風は吹き荒び、地は冱つるばかり。己の所在こそ曖昧となり、息つく間もなく道を見失う試練の地――

 そのはずだった。

 

 

 雪白に塗りつぶされた景色の中に、ほのかな光が一つ。

 誘われるように眺めると、また一つ。

 大地の果てに似合わぬそれは、紛れもなく街頭だった。横殴りの吹雪にガタガタと震えながら、埋もれてしまわないように背伸びする灯りが、人を導くように立ち並んでいる。桜に色づいた光の連なりは、ここだけ彼方の枝の街の一角を持ってきたように思わせる。

 

 その道を進んだ先で、山裾にぽっかりと洞窟が口を開けていた。

 その中にもまた、坑道のように点々と灯りが続いており、しばらく行ったところの左手に壁を掘り進めて綺麗にくり抜かれた小部屋が見える。半分は積み重なった木箱で埋まっていて、もう半分の毛布敷きの床の片隅に、熊の毛皮が丁寧に折りたたまれて重なっていた。

 そこを横切る頃には極寒の気配は薄れ、奥から漂う空気は微かに温かさすら感じられる。

 

「戻りました!」

「おぉ、おつかれですです!」

 

 か細くなった雪の嘶きをかき消すように、黄色い声が響いてくる。

 やがて辿り着いた最奥は、まるで絡繰の湧き出る鉱脈だった。

 

 不自然なほどに平らな床や壁に囲まれた空間には本来、神座桜の枯れた根と、それに寄り添う七色をした徒寄花の結晶の蔦があるはずだった。しかし、どこがどう繋がっているのかも分からない絡繰の群れに覆われ、今やその片鱗すら拝めない異様な姿となっていた。

 それらから伸びる無数の蛇のような紐や管は、所狭しと置かれた機器に繋がっていて、時折変調を伝えるように硝子板に小さな光が踊っている。

 

 三年半ほど前、桜降る代を破滅より救う戦いの折、ここは彼方の枝との協力体制を確かなものにする重要拠点となった。六英雄の奮戦の中で通信が確立され、大戦後も整備と増設を繰り返された結果、今に至る。

 もはや足の踏み場もないこの施設で、手を取り合うのはヤツハとクルルだ。

 顔を上気させたヤツハは、

 

「ごめんなさい、見ててもらって!」

「いえいえん。やつはんたちが何か月も頑張ってたしゅーたいせーってやつですからね、ちぇっく・あんど・ちぇっくもとーぜんですぅ。くるるんだって、びっぐぷろじぇくと達成間近は流石に何度も見直しちゃいますからね、分かりますよぉ」

「くるるんさんでもそうなら、お休みなんてしてられ――あぁ、むしろ見直すのはこっちのほうだったかもしれません。来週までにある程度お片付けしておかないと……」

 

 資材や工具が散在している様を改めて眺めて、ヤツハが苦笑いする。

 それから、煤けて割れた歯車を拾い上げて、胸に抱いた。

 

「そっか……もう来週なんですね。この数日慌ただしくて、日にちの感覚が……」

「中だと景色も変わりませんからなあ。やつはんもきーぱーそんなんですから、ばっちしなすてーたすにしておかないと。ほい、どーぞ」

 

 クルルから受け取った飴色のコーヒーを一口啜って、ほっと吐いた息が北限にしては遠慮がちに白くなる。

 ヤツハはその白の行方を追うようにぼんやりと見上げて、

 

「いざ迫って来ると、実感ってあまり湧かないものなんですね」

「ほむ?」

「もちろん、できそうというのは頭では分かってるんです。六英雄の皆さんが教えてくれた摂理、私の権能、これまでやってきたこと……材料は揃っていて、組み上がってもいるのに、いつまでも荒唐無稽な気がしちゃって」

 

 すると、クルルは腕を組み、じっくりと目を閉じて深く頷いてみせた。

 

「閃きとはそーゆーものなのです。それを信じてこそ、です」

「おぉ……流石です」

 

 数々の偉業を成してきた発明家からの含蓄ある言葉に、ヤツハは小さく拍手を送る。

 しかし、その当の発明のメガミの傍らの計器の上には、手のひらに乗る程度の絡繰仕掛けの牛車のようなものが置いてあった。手慰みなのか考えをまとめているのか、最近似たようなものを弄っていたクルルではあるが、この洞窟の装置とは無縁の代物だ。

 

「そういえば、見守るだけで良かったんですか?」

 

 ヤツハが訊ねると、クルルはにっこりと満面の笑みを浮かべた。

 

「くるくるしたのはくるるんじゃないですからね。ぶらんにゅーくるるんは、他人のくるくるを邪魔したりしないのです」

「それじゃあ、絶対成功させないとですね。彼方の皆さんとも頑張ります!」

 

 そう言ってヤツハは、通信機へと目を向けた。

 その上に置かれているのは、小さな額に入った少し不鮮明な白黒の寫眞。大勢の人間が写っている最前列には、恰幅の良い青年と白衣の女性、それと転んだまま慌ててこちらを向いている奇抜な髪の少女が並んでいた。

 

 

 

 叩きつける吹雪が、鋼鉄を打ち鳴らす。銀世界に築かれた大建築は、切り拓かれた山々の中に巍然として鎮座していた。

 屋根の上から煌々と周囲を照らすほどにその人工物の姿形は明らかとなり、その光源の強さもまちまちだ。眩い箇所は外周部に多く、壁の色合いが地層のように異なっている。増改築が繰り返され、古さと新しさが織り交ぜられた、さながら砦の如き威容である。

 

「おぉ、生き返るねえ」

 

 鶯の色紋付を纏った一人の男が、そのふくよかな腹に似合わぬ早足で中を行く。慌ただしいものの焦燥はなく、これが平時だと言わんばかりだ。

 天井に等間隔に取り付けられた硝子管が、白桜色の光で彼の忙しなさを照らし出す。窓の向こうの作業場では桜色をした金属の筒に人が大きな装置で何かを詰めていて、男に気づいた作業員が会釈して、男も小さく手を挙げて返す。

 

 彼が通り過ぎた壁の案内図に大きく印字された名は『サイハテ』。

 ここは彼方の枝、桜花炉が一つ。

 人々の暮らしを支える櫻力を生み出す、最北の精製所である。

 

 廊下の先の鉄扉の前には、すらりとした白衣の女が、こちらも同様に白衣を纏った四人ほどを従えて出迎えていた。皆、この桜花炉を開発運用する櫻力公社の忍たちである。

 そして、公社の特別技術顧問たる男―― 銭金弊爾 ぜにかねへいじ は、先程と同じ調子で手を挙げた。

 

「おぅ、おつかれさん。お前らも悪いな、あんなのに振り回されて。出ずっぱりだろ」

「そちらも休暇のところお呼び立てしてしまって恐縮です」

 

 労う女―― 闇昏千冬 やみくらちふゆ は、桜花炉総監督という立場を感じさせない物腰で小さく頭を下げる。

 

「来週になれば、また暫く慌ただしいでしょうに」

「いやなに、休暇っつっても実際は軍部の接待みたいなもんだ、むしろ切り上げる口実ができて助かったくらいさ。それに、忙しいのはお互い様だろうよ。どうだ、例のは順調か?」

 

 訊ねた銭金に、千冬は小脇に挟んでいた紙束から数枚、彼に手渡した。

 

「理論も実験も、今のところ問題は見つかっていません。しかし、当然かもしれませんが、あちらの背景への懸念は残ります」

「向こうのファラ・ファルードか。さもありなん、ってとこだな。こっちの歴史を鑑みると、むしろ穏当なくらいだ。これ以上ない橋渡し役が居るのは羨ましいこった」

「責任を……感じないと言えば、嘘になりますね」

 

 視線を落とす千冬。

 しかし、報告書を斜め読みする銭金は、ちらりとだけ彼女の様子を見て、鼻を鳴らした。

 

「だが、こうして縁ができたからには、いずれ誰かがやることだ。知らんところでやられるくらいなら、俺たちがやったほうがいい」

「ふふっ、若の私情もおありでしょうに」

 

 苦笑を返された銭金は、あっという間に読み終わった報告書を突き返して、

 

「俺は、あくまで営利第一。俺以上に私情があるのはあいつだよ。ま、その辺の話はまた来週にしとこうや」

 

 銭金の眼差しは、鉄扉へと、その向こうへと注がれる。

 肩を竦めた千冬は、一息入れてから彼の視線の先を追った。

 

「お聞きになったと思いますが、山淵南部で特務忍隊が捕縛、こちらまで支障なく護送を完了しています」

「休みは潰れたが、時機は悪かねえな。さーて、何年も逃げ回ったツケ、今日こそ払ってもらおうじゃねえか」

 

 こめかみを痙攣させながら獰猛に笑う銭金の前で、忍たちが重い扉を開け放つ。

 目の前の現れたのは、扉が地面に擦る音が薄く響くほどの広大な空間。四方に建材が積み重ねられており、布を覆い被せられているのは大型の機器だろうか。空気を温めきれておらず、外から染み込んできた冷気が廊下に流れ込む。

 

 一見して倉庫のように見えるその部屋だが、中央に安置された造物が異彩を放っている。

 全長で八尺を超えようかという、巨大な鋼鉄の鳥籠。

 門状の支柱にぶら下がる球状の籠は、骨組みの間で淡く光る膜によって内外が隔てられていて、帽子を被るように据えられた絡繰が時折桜色の輝きを零している。支柱の台座には車輪が取り付けられているが、今はしっかりと車止めを噛まされていた。

 

 銭金たちが立ち入った途端、ガンッ、と鳥籠が鳴った。

 囚われの鳥が、叫ぶ。

 

「来たな、卑劣な輩め!」

 

 

 ビシッと指さすその人の形は、メガミ・ミソラだ。

 自由の象徴であり、何物にも縛られないはずの彼女は今、小さな世界の中から騒ぎ立てることしか許されていなかった。

 

「一体誰だい、こんな不遜にも程がある絡繰を作ったのは! 君か? それとも君か!? こんな翼をもぐような真似をして、空の下を歩けなくなっても知らないぞ! 凄まじい向かい風が君たちの全てを吹き飛ばしてしまうだろうさ!」

「おぉー」

「今すぐ出してくれるなら、愚かにもこの僕を捕らえたこと、不問にしてあげてもいい。これでも僕は寛容のメガミという二つ名を持っているからね。だけど、狼藉を続けた先に待つのは破滅だ! 権能を封じたつもりになってるだろうけど、きっと後悔することになる!」

 

 膝立ちのまま息荒く戒めを叩いたところで、誰も小揺るぎもしない。

 むしろ、ますます堂々と歩み寄る銭金は、お構いなしに感心している。

 

「桜降る代の絡繰も大したもんだな」

「ええ、絡繰使いのメガミとの通信は、技師たちの良い刺激にもなっています。おかげで技術開発室からの費用稟議が増えて困っているのですよ」

「まあ、考えておく」

 

 流れで差し込まれた千冬からのお願いを、おどけた顔で受け流す。

 もちろん、そんな様子で糾弾を真に受けているはずもなく、聞き流されたと見たミソラは、窮屈そうに立ち上がって彼らを見下ろした。

 

「さあ人間よ、悔い改めるがいい!」

 

 その目元から上が、絡繰の一部で隠れてしまっているけれど。

 籠の前で立ち止まった銭金はそれも鼻息一つで一蹴し、付き人の忍から一本の小さな巻物を受け取る。ミソラにも読める向きでするりと広げ、咳払いを挟んで内容を語る。

 

「ミソラ殿。てめえには、櫻力精製炉損壊行為の損害賠償を申し立てる。『サイハテ』の修繕費用及び稼働停止百七十三日分の補償、『ミツルギ』の修繕及び廃炉費用の一部……きっちり耳揃えて払ってもらおう」

 

 書き連ねられているのは、それこそ当の銭金の資産ですら到底届かない金額。末尾には公社の裁可印が押されているのは当然として、ご丁寧なことに奉行所や軍、所轄大家の署名までもが勢揃いしている。

 ミソラは当てつけのように鼻で笑い返し、思い切り手を広げて失望を顕にしようとしたが、籠の壁に指をぶつけて悲鳴を飲み込んだ。

 彼女は顰め面をぶら下げながら、

 

「ふ、ふん、そうやって人間の留まらぬ物欲を、メガミにさえ向けるんだね。そもそも人間の枠組みに、自然の権化とも言える僕たちを収めようというのが不遜甚だしい。君は嵐に向かって、作物をダメにした弁償を求めるのかい? それは自然への敬意が足りないと――」

「うるせェ! 御託並べやがって……メガミだろうがなんだろうが関係ねえだろ、ケジメつけさせるにはよォ! 商人舐めんなよ!」

「あぁ……かつての馴れ馴れしい自称メガミもそうだったけど、そういう人種なのかな、商人というのは。全く困るな、人の世に生きてなどいない僕に、俗物的な対価を求められても」

 

 怒りを吐き出す銭金に対し、ミソラは飄々と受け流す。

 銭金は深い深いため息をついて、賠償の書状を巻き直す。怒りで血管が浮かんだままではあったものの、かつてユリナたちメガミと手を組む際にも触れた話だけあって、金銭は最初から期待していなかったのだろう。

 

 だが、金というものはケジメのための手段の一つでしかない。

 巻物を手のひらに叩きつけながら、銭金は詰問する。

 

「ならせめて、なんであんなことをしでかしてくれたのか説明しろ! 嵐だって雲がなきゃ起きねえだろうがよ」

 

 その問いに、ミソラは呆れ顔だ。

 

「何度も言ってると思うんだけどねえ、人間の過ちを正すた――」

「違う! 桜花炉ができてから何十年と経ってるんだ。その間何もしてこなかったくせに、どうして一大事が起きるあの時分にやろうと思ったんだ、っつー話だ!」

「んん……?」

 

 ミソラは一瞬、きょとんとした。

 それからすぐににんまりとして、腕を組んで鼻も高々に答えを告げる。

 

「なに、簡単な話さ。僕の自由なる本質は、物事の流れの澱みを認識できる。ある日、桜花炉に巣食うモノが人の営みの澱みの根源であると見抜き、先んじて手を打ったのさ。邪魔されてさえいなければ、化物の出現も止められただろうに、嘆かわしい」

「ほう、徒神になった炉心を壊して回ってたって?」

「うん? そうだね、アダガミの魔の手から君たちを救っていたんだ、感謝したまえよ」

 

 銭金は、返事を聞くなりすたすたと前に出て、鳥籠の前で屈んだ。

 そして、台座に据え付けられていた蓋を外し、現れた小さな取っ手を下ろす。

 竜巻柄の赤い光が取っ手の奥に輝いた直後、重々しい駆動音と共に鳥籠を支える支柱が回転を始め、ミソラごと鳥籠をあらゆる方向にぐるんぐるんと回し始めた。

 それはもう、目で追えないほどの速さで。

 

「ああああああああああああああっ!?」

「『ミツルギ』のシスイは無事だったじゃねえか、適当抜かすな!」

「しら、知らな――ぁ痛っ! や、やめるんだ――っうぅ!? ひた! ひたかんだ! れっはいゆるはないほ!」

 

 高速回転しながら喚き散らすミソラの姿に、清々した顔の者こそおれど、拷問を止める者はいなかった。当然だ、この場に居る全員が、桜花炉襲撃によって要らぬ仕事を増やされた身なのだから。

 そうやって話したくなる気分になるのを皆が待っていると、鳥籠の中から何かが障壁を抜けて床に転がり落ちた。

 

 それは、奇妙な形をした氷の結晶だった。

 透き通った氷が、船底に溜まって澱んだ水のように濁った色合いをしていて、歪に曲がりくねった形はつららでも氷筍でもない、何かの意思すら感じさせる造形だ。

 

「おや?」

 

 暴れる鳥籠の中、回転に身を委ねたミソラが、ぱちくりと瞬く。

 自らの懐からまろび出たその氷晶が、目まぐるしく変わる視界で鈍く輝いている。

 

 

 

 

「君らしくもない。試練の与え手には相応しくないと思うけれどね?」

 

 雪風吹き付ける山嶺。ミソラが見下ろす大雪原では、大勢の人間たちが大量の荷と共に行軍しており、かつての北限であれば果てへの挑戦を踏みにじる行為だと謗られたはずだ。あまつさえ、これから巨大な建造物を打ち立てようというのだから、なおさらに。

 だが、彼女の向かいには、その挑まれる者たるコルヌがいた。

 酷寒の体現者であるコルヌは、彼らの道行をただ見守るだけだった。

 

「我は、己が役目を既に理解しておる」

「へえ……君ともあろうメガミに、そうまで言わせるんだ。やっぱり、理解に苦しむね」

 

 ミソラが大仰に肩を竦めていると、コルヌは人間たちを意識から外し、今度ははっきりとミソラと目を合わせた。

 ミソラが目を丸くしていると、

 

「ならばこそ、貴様に一つ頼みがある」

 

 そう言って投げて寄越した物が、ミソラの手中に収まる。

 凍てつく寒さの中でなおミソラの手を冷やすのは、向こう側が透けて見えそうなほど純粋な氷の塊だ。コルヌの力がありありと込められたそれは、尋常なことでは溶けないだろう。

 首を傾げるミソラに、コルヌは口端だけ笑わせた。

 

「貴様はどうせ、炉に身を捧げたりなどせんだろうし、心変わりもするまい。もしその欠片に異変があったのならば、それは人の過ち……あるいは、然るべき試練の幕開けに相違ない。我は人の試練そのものなのだからな」

 

 故に、とコルヌは続けた。

 鋭い眼差しで、その試練を睨みつけるように。

 

「その時には炉を砕き、我を解き放て」

「…………」

 

 唐突な話に、思わずミソラは沈黙した。しかし口で答えるよりも先に、彼女の手は氷晶を自然と懐にしまっていた。

 その瞳は何物にも縛られぬはずなのに、その時だけは、命運の色を受け入れていた。

 

 

 

 

 落とした氷晶が蘇らせた記憶を、ミソラは高速回転しながら反芻する。

 当然のように、いざ変容したそれをふと見るまで、彼女は綺麗さっぱり約束を忘れ去っていた。しかし、それでも誓いを違えることはなく、コルヌ解放に飛び立ったのだった。

 

 そのことすらまた忘れていたわけだが、導かれるようなあの感覚はありありと思い出せた。

 常にそれに引っ張り回されるのは御免ではあったが、色々と事が終わったらしいということは、身体が動くままに従ってよかったのだろう。

 おかげで同胞のためにもう一度何かしてやれた――そう思えば、なんだかこみ上げてくるものがあった。

 

 けれど、一緒にこみ上げてきたものが口から溢れそうになって、思わず手で押さえた。

 青ざめた顔色までは、誰も見てくれなかった。

 

「こいつ、黙秘のつもりか!? もっと回転数上げろ!」

 

 

 

 

 ヤツハが新しいコーヒーを淹れていると、通路のほうから、カツカツ、と甲高い足音が聞こえてきた。

 クルルと揃って入口を見ると、やがてコルヌが顔を出した。

 

「お久しぶりです、コルヌさん!」

「かかっ、しばらく見ぬうちにまた散らかしおって。昨今の北限の騒がしさたるや、まさに隔世の感よな」

「ご、ごめんなさい……」

 

 縮こまるヤツハに、コルヌは手土産とばかりに、縄で吊るした小ぶりな肉の束を掲げた。兎肉だろうか。

 

「構わん。それそのものは、もはや必定故にな」

「ありがとうございます。それで、何かご用でしょうか?」

 

 受け取ったヤツハは、不思議そうに訊ねる。これまでも幾度か差し入れをしてもらったことはあるが、ついでに単なる世間話だけを持ちかけるようなメガミではない。

 やや気構えてしまったのを見て取られたか、コルヌはふっと笑って、

 

「なに、彼方と対話する絡繰を借りたいと思ってな」

「おやおや? こるぬんはてっきりそーゆーのにはきょーみないと思ってましたが、時代も変われば氷頭も変わるもんですなあ」

「くかか、無知に甘んじるわけにもいくまいて」

 

 コルヌの答えは、都合よく訊ねられたのをいいことにはぐらかしたようでいて、器用な足取りで飄々と入ってくる様子は、深く追求するつもりにもなれない気まぐれさを感じさせる。

 しかし、興が乗ったクルルに使い方を教えられている間、コルヌの眼差しは通信装置ではないどこかに真っ直ぐと向けられているよう。

 

 やがて、耳当てを模した装置の受信機を被ったコルヌは、頭の中に流れ込んでくる微かな雑音のような思念に意識を傾けた。

 探るように聞き入った後に、桜の花弁をあしらった発信端末を口元に近づけた。

 そして、呟くように告げる。

 

 

「異史の我よ」

 

 それからまた、じっくりと目を閉じ、しばし感じ入っていたときだった。

 ぱきり、と。

 コルヌの象徴武器である靴橇の氷刃から、音がした。

 

 冷気が寄り集まり、鋭利な薄氷が小さく蠢く。

 その胎動に気づいた者は、コルヌ自身を除いて誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 破滅が退けられ

 我が宿命を終えてなお

 いや、だからこそ――か

 

 人の世は、進みゆく

 そうして人はまた、試練と相対す

 それが幾年先か、定かならずとも

 

 されば、嗚呼、異史の我よ

 

 

 

 

 

 

 

 その力を、授けたまえよ

 また、然るべく在るために