桜降る代の神語り 再演

第4話:野心の終わり、戦いのはじまり

夜の静けさとは違う、早朝のそれ。まだ陽も満足に顔を出し切っていない時間帯の城内は無音に近い。

 目覚めた小鳥が戯れる囀り。

 遠くの炊事場から漏れる働き者たちの声。

 桜の花弁が擦れ合う音色。

 そして、二組の足音。

 

 戦意を研ぎ澄ませる揺波を、龍ノ宮が先導する。二人の姿は、敷地内にある神座桜へと向かう途上にあった。

 それが意味するところは一つ、すなわち桜花決闘。

 だが、戦いの直前にあって、揺波は珍しく困惑を滲ませていた。

 

「……誰も来ていないみたいですが」

「ああ」

「いいんですか?」

「構わんさ。こいつは、ケジメの問題だ」

 

 答えた龍ノ宮の大きな背中を、揺波はじっと見つめる。

 昨日は決闘の実施が決まっただけで、日取りは未定のはずだった。それでも縋り付くように龍ノ宮戦の検討に没頭していた彼女は、上の空で会合での役目を終え、いつの間にか寝入っていたと思えば、次に目にしたのは薄明に浮かぶ龍ノ宮本人の顔だった。

 

 開口一番に「決闘するぞ」と言われれば、流石の揺波と言えど目が覚める。

 けれど、連れ出されたのは揺波一人だけ。大いびきを立てる時忠ときただに、龍ノ宮は時間を惜しむかのように声をかけなかった。

 

 何かおかしい。

 それは、先走っているかのように大事を迎えようとしていることか。

 それとも、この静寂の中で決着を済ませようとしていることか。

 このままついて行ってしまえば、取り返しのつかないことが起きてしまいそうな感覚が、訳もなく揺波の歩みを鈍らせる。

 

 どしり、と彼の足取りはそれ以上に重い。

 飄々とした態度も、不器用に優しげな態度も、嘘のように潜めている。

 決闘に臨む者の空気と言われれば頷くしかない。

 だが、戦いを前に気負うのは、本来ならば自分の立場ではないだろうか。

 

「ヒミカがいねえのだけは残念だが……とっととおっ始めようぜ、揺波」

 

 桜色に煌めく大樹の下、ようやくまともに顔を見せた龍ノ宮は、不敵に笑っていた。

 揺波は、存念を捨てるしかなかった。昨日の承諾からずっと頭の中に流れ続けている幾重もの仮想戦を戦術へと束ね、宿した一つの力と共に古びた愛刀に込めて抜き払う。

 

 対し、決闘の間合いの向こうで、龍ノ宮が宿すは二柱の力。

 炎のメガミ・ヒミカ、そして大地のメガミ・ハガネ。

 桜の輝きが彼の手元に寄り集まり、握られたのは二丁の銃だ。長銃・バーニングマッチロックと短銃・緋々六連ひひろくれん――ヒミカの象徴武器にして、熟達によってミコトが借り受けることの叶う顕現武器である。

 

 相対の時点で見える、練度の差。しかしここに驕りはなく、ここに臆病さはない。

 両者の宣言により、天音揺波あまねゆりなと龍ノ宮一志たつのみやいっしの桜花決闘は幕を開ける。

 唾を飲む音すらしない、とても静かな幕開けだった。

 

 

 

 

 

 銃声、銃声、そして銃声。

 

「くっ……」

 

 銃口を見てなんとか身体を射線上からずらそうとするも、龍ノ宮の的確な狙いがそれを許さない。纏っていた結晶が、盾としての役割を果たして散っていく。

 早朝の静寂を破り、次々と打ち出される炎弾。近接戦しか手札にない揺波は、この弾幕を乗り越えて懐に入らなければ彼女の戦いが始まらない。しかし、必要経費と分かっていてなお、早々に守りが削られていく様は堪えるものがある。

 

 速度を。もっと、身体を前に。

 相手の喉元まで。

 

「ふ、ッ……!」

 

 脇腹への被弾でのけぞりかけた身体を、歯を食いしばって前へ。動きを読まれないよう揺らぎを作り、巧みな体捌きでもって龍ノ宮の裏をかいていく。

 初志を貫徹する意思が、僅かな躊躇も寄せ付けない。

 ありもしない対応手に思考を揺さぶられることなく、狂気的なまでに距離を詰めていく。

 

「おっほ」

 

 龍ノ宮から笑いが溢れる。

 彼とて素直に相手の間合いに入られる男ではなかった。足運びだけでは距離を維持できないと悟ってか、牽制の一発を放つと共に、膝に力を溜めた。

 直後、彼の足元が爆ぜる。

 

「……!」

 

 小さな爆発の推進力を借り、その巨体が後方へ大きく飛び退く。それと同時、益々燃え盛る炎弾が放たれる。

 だが、揺波がそれに意表を突かれることはなかった。

 むしろ、彼女は加速している。後退と共に放たれた一発に怯えることなく、それを避けきれずに桜が散っても、なお前へ。

 

 間合いで優位を取っている相手が何か仕掛けるとしたら、連撃か、優勢の維持のため。

 当然、まともに銃を扱える使い手とすら戦ったことのない揺波は、龍ノ宮のこの技を知る由もない。だが、彼女にとって大事なのは、予測できていた間合いを離す手段を使われたことであって、その内容も、果てはそれに伴う攻撃も、捨て置けるものだった。

 

 起きる結果が予測できているならば、驚いて足を止める必要はない。

 そして、徐々に間合いが詰まってからようやくその手札を切ったということは、そう連続して使えるものではないということ。

 相手は、最強であって無敵ではないのだから。

 

「逃がしません!」

 

 限界まで身を低く、爆発で立ち上った煙を散らして肉薄する。

 一発。左肩を穿ち、結晶を奪った銃声は、もう目の前だった。

 

「いやァァッ!」

 

 飛び込んだ先に、全体重を乗せた袈裟斬りを放つ。確信を持ったその一撃は、金属音に弾かれる。

 視線を上げれば、獰猛に口端を吊り上げた龍ノ宮の顔。

 ギリギリと、二丁の銃が刃を受け止めている。

 

 瞬きの合間にすら満たない僅かな視線の交錯が、接近戦の開始を告げる。

 揺波の決闘が、ようやく始まりを迎えた。

 

 

 

 

 飛び道具は、近接武器以上に間合いが重要な武器である。例えば至近距離で弓を使うことは可能だが、引き絞った弦や矢を押さえられては意味がない。狙いをつける以前に、攻撃を放つための手続きそのものができなくなってしまう。

 銃はその手続きを最小にできる優れた武器だが、『狙いをつけて』『引き金を引く』という手順が必要なことには変わりない。

 

 最悪突けばよい刀との違いを、揺波はそこに見出していた。

 ならばこそ、今度は揺波が間合いを維持する番だ。

 

「やッ! た……ぁぁッ!」

 

 手を休めることなく、ぐいぐい押し込むように刃を叩きつける。無理に手傷を負わせるよりも、積極的に鍔迫り合いも受け入れるような立ち回りだ。

 再び刀を受け止めた龍ノ宮は、横に受け流して揺波の体勢を崩さんとする。そこへすれ違いざまに短銃が狙いを定めるが、瞬時に力を抜いていた揺波の手元は、既に短銃を払うべく斬り上げられている。

 

 パン! と乾いた音がするより早く、断ち切られた手首から桜飛沫が舞う。

 炎弾は軌道を上へ逸らされ、身をかがめた揺波の髪を焼くだけに終わった。さらに返す刀で体当たりするかのように揺波が刃を押し付け、再度鍔迫り合いとなる。

 

 ここに至るまでに彼女が払った犠牲は多大であり、二度目は許されない。

 絶対に逃さないという執念が、噛みつくような肉薄を揺波に強いる。

 

「はっ、ははッ!」

 

 必死とも取れる揺波に対し、龍ノ宮はさも愉快そうに笑う。決して嘲笑などではない、高揚する戦いの中で自然と零れだすような歓喜。まるで彼はこのひとときを全身で味わっているかのようだ。

 それを余裕と受け取るほどの余力も、揺波にはない。

 ただ戦局へ目を向け続ける彼女に、龍ノ宮が変化をもたらした。

 

「ほらよっ」

「は――」

 

 二丁の銃が、揺波に向かって放り投げられた。投げつけられたというより、投げて渡されたというべき穏やかさだった。

 流石に思考に亀裂の入った揺波の前で、銃が桜の輝きにほどけて消えていく。

 次の瞬間、彼女は突き飛ばされていた。

 

「ぅ……!?」

 

 龍ノ宮に打撃されたわけではない。見えない何かに押し出されたかのよう。

 凝縮された刹那の中、ゆっくりと離れていく間合いの向こうで、龍ノ宮の左手にはいつの間にか緑青色の籠手がはめられており、右手に集まる光はやがて得物となって握られる。

 

 頭が一抱えほどもある、巨大な鉄槌。

 打面の反対に鐘が取り付けられた、大地の逞しさを示すかのような顕現武器。

 ハガネを宿す者が用いる大槌の究極――大破鐘だいはがね、龍ノ宮が扱うもう一つの得物だ。

 揺波にとって、龍ノ宮が武器と戦術を切り替えてくることは予測の範疇だった。銃撃によってまず削り、無理をしたところで避けきれない重い一撃を叩き込む。武器をここまで柔軟に持ち替える技には驚かされたが、彼にとっての最適解だという確信は持っていた。

 

 だが、何百と繰り返した検討でも、応手の結論は出せていない。

 やや離されてしまったこの間合いから、詰め直すべきか、離れるべきか――刹那の躊躇は、達人にとってはあまりにも長い一瞬だった。

 

 龍ノ宮が、鉄槌を真横に振り回しながら後退していく。

 鉄槌が、徐々に大きくなっていく。

 

「……!」

 

 回転する龍ノ宮を軸にして、遠心力が吹き込まれているかのよう。

 それはすぐに、揺波の身の丈を超えた。

 龍ノ宮を超えた。

 巨塊が風を裂き、頬を激しく叩く。

 破壊が、目の前に顕現している。

 

 座学で得た知識や事前の想定では得られない生の感触が、揺波に恐れを抱かせる。

 一手間違えれば、叩き潰されて決着となるだろう。結晶の護りや共に戦ってきた刀があまりに頼りなく思えても、この鉄槌の一撃に対処しなければ、先はない。

 確実な答えは彼女の中にない。だが、それでも掴み取らねばならない。

 できなければ……負ける。

 

 父のため、家のため、勝ち続けてきた自分が負ける。

 誰も見ていなくとも、何も背負っていなくとも、勝つ以外の選択肢のない揺波が、負けてしまう。

 たとえ最強が相手だとしても、それだけはあり得なかった。

 あり得てはならなかったのだ。

 

「……っ!」

 

 一歩。踏み込む足は、負けてしまう自分を乗り越えるための一歩でもあった。

 振り回される暴力に対し、怖気づくことなく前へ。

 壁の如き圧が立ちはだかろうとも、揺波には関係なかった。

 何があっても、どうにかして刃を届かせなければならないのだから。

 

「来いよッ!」

 

 龍ノ宮の挑発に、揺波は無言で鉄槌の暴風圏内へ。

 避けるか、受け止めるか。事前に前者へ見出していた微かな希望は、既に打ち砕かれている。後者も、相応の業物――顕現武器がこの手にあればと幾度も考えたが、無敗を誇った彼女さえ会得は間に合わなかった。

 

 けれど、と揺波は己の両の手に極限まで意識を集中させる。

 武器の顕現には、メガミの力を形に落とし込む技能が求められる。その身に宿した力と共に力そのものたる武器を振るうことで、相手にとっていっそうの脅威となる。

 だが、重要なのはメガミの力を振るうということ。

 顕現武器に固執する必要は、ない。

 

「はあぁぁぁぁぁぁぁ……」

 

 今や全身に行き渡らせていた力すら、手に集中させる。今なお注がれている力も、まるで堤を決した水のように、体外に出ていくことをひたすら想像する。

 揺波には、確実な正解はなかった。けれど、結実する前の可能性はあった。

 有効ではない、現実的ではない――浮かべた可能性を却下し続けた結果、ぽつんと残ったそれ。揺波は、ともすれば斬り捨ててしまっていたかもしれない可能性に、一歩を踏み出した意思を滔々と吹き込んでいた。

 

 そこで、ふと。

 揺波は、意思に触れた。

 

『そうだ……息巻け、我が力を以て』

 

 それは、どこか懐かしさすら感じる女の声となって染み入ってくる。

 己の一歩を肯定してくれる感覚に、幼き日の邂逅が脳裏をよぎる。

 自分に微笑みかけたあの武神に是とされるのなら、この選択は間違っていないのだろう。

 確信が、湧き上がった。

 

『吹き荒らせ――』

(そう――)

(『嵐の如く!』)

 

 ならば後は、実らせるだけ。

 更なる一歩を踏み出したミコトは、その可能性を、成就させる!

 

「――ぁぁぁぁあああっ!!」

「うおっ!?」

 

 轟、と。

 力の奔流が場を駆けた。揺波の袖が暴れ、土煙が押し流される。決闘を見守る桜の花弁が、一斉に鳴いた。

 指向性の欠片もない力の発露は、技と呼べるかも怪しい、がむしゃらなもの。

 だが、生み出された局所的な嵐は、目の前の龍ノ宮の巨体を直撃し、彼の体勢を僅かにでも崩したのだった。

 

 暴力的だった鉄槌が、軸たる龍ノ宮に影響されて乱れを生じる。

 回転を止めるほどではないにせよ、溜め込んだ力は逆に龍ノ宮の手の中で暴れ、打点を合わせることすら困難だろう。それでも最強の男は、突っ込んでくる揺波に無理にでも押し当てようと、強引に軌道を戻していた。

 

 集めていた結晶を重ね、左腕に纏う盾とする。

 そして、

 

「……ッッ!!」

 

 ゴォン、と打撃を知らせる金属音と鐘の音。

 結晶が犠牲となってくれたにもかかわらず、左腕から伝わった衝撃が全身を撹拌した。たたらを踏みかけたところで歯を食いしばり、右脚のバネに溜め込んだ衝撃を無駄にはしなかった。

 これが最後の好機だと分かっているからこそ、全てを振り切って反撃に打って出なければならない。もはや揺波は本能に突き動かされていた。

 

 溜めた力を解放して一歩。

 踏み込めばそこに龍ノ宮がいる。

 

「――ッくぁぁぁぁッ!!!」

 

 向かって左の懐に入り込み、斬りかかる。

 しかし、ろくに整っていない体勢では、遮二無二斬りつけるのが精一杯だった。確かにその切っ先は龍ノ宮の腕を裂いていったが、二歩目を刻む足が重い。数多のミコトを打倒した苛烈な連撃は、ここにはない。

 この体たらくでは、龍ノ宮の余力を削り切るなど夢のまた夢。

 善戦にまでは持ち込めても、無慈悲な反撃が揺波の勝利を押し潰すだろう。

 

 だが、それでも踏み込まねば、可能性すら失われる。ならば迷う理由はなかった。

 絶対に勝つという執念が、次の太刀を揺波に放たせる。その眼光は、この窮地においてか細い勝利への道筋を決して見逃さんと、龍ノ宮の一挙一動に注がれていた。

 しかし、揺波が目にしたのは、防御でも、反撃に出る姿でもない。

 その顔に、果てしない違和感が襲う。

 

「……!?」

 

 彼は、微かに脱力していた。

 決闘の相手が見せるはずのない表情が、そこにあった。

 鉄槌の反動のせいか。一撃目で腕がしびれた? 彼はまだ身代わりの結晶を残しているはず。手から鉄槌が離れかけている。肉弾戦、否、退避でもない。後の先にしては構えがない。銃の気配もない。

 

 一瞬のうちに巡る思考。刹那の交錯において、完全な答えに辿り着く猶予などない。

 しかし、戦いの論理よりも先に、揺波の嗅覚が違和感の本質をありありと嗅ぎ取っていた。

 勝機。

 どこから来たかも分からぬ勝機。これまでのように自ら探り出し、はっきりと掴み取ったものではない、あまりにも奇怪で不気味な勝機が転がっている。龍ノ宮の考えは分からずとも、これこそが揺波にとってのこの状況の本質だった。

 

 罠を疑う。だが本能はこの男には不要なものだと否定する。

 ならば、これは……異常か。

 理性が、この振り上げた刀を止めろと警告している。己の刃を自ら逸らせと訴えている。

 今ならまだ、無理矢理倒れ込めば、やれないこともない。

 しかし。

 けれど――

 

「……おおォォォッ!」

 

 ……天音揺波という少女は、自分を取り囲んでいた流れを、大きな世界の原則をまだ受け入れられなかった。

 決闘し、勝利することが幸せの道だと信じたかった。

 

 だから、彼女は手を止めなかった。

 今ならば、最強の名を冠した不条理を打ち破れる。

 龍ノ宮たちの掲げた何かを、己の意思で否定できる。

 再び力を込めて、揺波は刃を目一杯に振り抜いた。

 

 龍ノ宮の逞しい首に、刃がめり込む。

 そして瞬く間に通過し、断ち切った。

 盛大な桜飛沫が舞う――そのはずだった。

 

「え……?」

 

 揺波の手に纏わりつく、生々しい感触。

 雨に濡れた藁束を斬ったときに似ていて、ついぞ味わったことのない、味わうはずのない手応え。

 それから、一抱えもあるモノが地面に落ち、どさり、と人間大のモノが倒れ伏した音がした。

 

 残身のまま、揺波は初めて動きを止めた。

 意思と共に振り抜いたのは間違いない。だが、この結末は予想していなかった。

 

「なん、で……」

 

 目の前に、頭と胴が分かれた龍ノ宮が横たわっている。

 誰がどう見ても、死んでいた。

 誰がどう見ても、刀で首を斬られ、死んでいた。

 

「まだ、龍ノ宮さんの結晶は、あった、はず……」

 

 それに応えられる人物は、もういない。

 何か異常があったとはいえ、桜花決闘の中で勝機を選び取っただけだと思っていた。揺波も、龍ノ宮だって、護りの猶予を誤認するような素人ではない。決闘に際し与えられる結晶以外にも、余裕はあるはずなのに。

 

 でも、だけど、と脳内で滑稽な堂々巡りを繰り返す揺波を嘲笑うように、目の前の現実は血の海に侵されていく。

 呆然としたまま、ようやく拾い上げた可能性の一端に縋り付き、彼の様子を顧みる。

 だが、

 

「ひっ……!」

 

 その瞬間、彼女は全てを忘れた。

 殺気。

 自分は今死んだ――そう錯覚するほどに濃密な殺気に、背後から襲われていた。

 

 心が一瞬、恐怖に圧縮されて小指の先ほどになってしまったかのよう。もしかしたら既に一度死に、あまりの恐ろしさに蘇ってしまったのかもしれない。悍ましいほどの恐怖が、幼い少女を支離滅裂な思考で支配する。

 足が竦む。けれどそれ以上に、揺波は殺気の根源へ振り向かずにはいられなかった。

 

「………ぁ」

 

 メガミ・ヒミカ。

 その殺気は、辛うじて人の形をしていた。

 

 

 

 

 じり、じり、と十間あまりの距離すら無視して、熱気が肌を焦がす。

 目の前の人間をどうしてやるべきか、頭上で燃え盛る炎は雄弁だった。あまりにも激しく蠢くものだから、ヒミカの目元は揺波からよく見えていない。けれど、その眼差しを直視する勇気は、揺波にはなかった。

 

 超常の存在であるところの彼女に、殺意を抱かれているという事実。

 その意味するところは、死。

 勝とうなどという考えすら浮かばない、絶対的な力の顕現。それを前に揺波は、ただただ人生で初めての本物の死の恐怖に怯えるしかなかった。

 

 龍ノ宮の――ヒミカのミコトの亡骸の傍で。

 血に塗れた、刀を手に。

 

「ぁ……ちが……」

「なにが?」

 

 噛み潰すような声色に、一歩後ずさる。靴が、血溜まりを踏み荒らした。

 言葉を間違えてはいけない。そう思っても、揺波の震える口は、勝手に安っぽい否定へ寄りすがっていた。

 

「わたしじゃ、な――」

「オマエじゃなかったら誰なんだあぁぁァァァァァァァァァァァァァァッ!!」

 

 轟炎が、天を照らした。

 ヒミカの全身から溢れ出した猛火が、揺波の視界を埋め尽くす。膨張した空気が揺波を突き飛ばし、抵抗する気力もなく尻餅をついた。

 広大な庭を満たしていく炎は、緋色から橙へ、そして眩い黄色がちらりと舌を出す。

 やがて、塵すら遺すまいという殺気の塊は、一段と強く、白に輝いた。

 

「ひぁ……」

 

 一瞬炙っただけで、人間を容易く焼滅させるであろう暴力的な熱量。

 如何に桜の傍であったとて、ミコトですら耐え切ることはできまい。どれほどの結晶を費やせば生き残れるというのだろうか。

 怒り狂うヒミカは、もはや白炎に映るただの影となっていた。うねる炎が彼女の影絵を歪ませ、それは周囲全てを焼き尽くす怪物の如く、揺波の目に映っていた。

 

 この怒りに焼かれ、自分は死ぬ。揺波の恐怖は、もはや未来を確信していた。

 分かりきっている死を前にすれば、目をつぶってしまっても、それ以上恐怖が増すことはなかった。どうしてこんなことになったのか、その疑問を呆然と繰り返していれば、なおよかった。

 

「ぉおまえがあああああああぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 絶叫と共に、熱波が迫った。

 あれほど勝敗にこだわっていたのが馬鹿らしくなる。

 天音揺波の生は、ここで燃え尽きるのだから――

 

 だが、

 

「天音ッ!」

 

 少女の声と共に、揺波の全身を熱が覆い尽くす。

 確かにそれは熱い。飛び上がるほど熱いが、耐えられぬほどではない。へたり込んで死を待っていた彼女に打ち付けられたそれは、ふつふつと煮えたぎった釜の湯から立ち上る蒸気のようでしかなく、実際、霧雨に遭ったように濡れていた。

 

 恐る恐る、目を開ける。

 濃密な蒸気に包まれた視界の中に、揺波は予想だにしない少女の背中を見て、ついに自分が狂ったのかと勘ぐった。

 けれど、ずかずかと顰め面で駆け寄ってくるのは、間違いなく彼女だった。

 

「さ、細音、さん……?」

「何をしているのですか、逃げますよッ!」

 

 氷雨細音ひさめさいねが、乱雑に揺波の腕を掴んで立たせてくる。

 見れば、灼熱から揺波のいる一帯を守るように、巨大な氷壁が現れていた。高温の奔流を身を挺して受け止め、揺波たちを避けるように余波が左右と上に逸れている。代わりに生み出された膨大な蒸気は、ヒミカを炎とは違う白の向こうに覆い隠していた。

 引っ張られるまま、感情のついてこない揺波はぼうっとした様子で訊ねた。

 

「なんで、細音さんが……?」

「っ……! 話は後! 死ぬなんて許しませんから!」

 

 歯噛みした細音が、揺波の腕を掴む手に力を込めた。その振りほどきたくなるほどの痛みが、恐怖で真っ白になっていた揺波の頭に却って生々しい生の実感を与えた。

 細音の固い手から伝わる震えは、決して力んでいるせいだけではないだろう。極度の疲労が滲んだ横顔は、後悔しているようにだって見える。それでも、揺波を引き連れて白霧を駆け出す足取りに、迷いはなかった。

 

 だからなのか、揺波はその導きに従った。

 一瞬だけ、斃れた龍ノ宮を見て、もう振り返らなかった。

 

「くそ、卑怯だぞッ! どこだああああぁぁぁぁぁぁっ! 逃げるなああああああッ!!」

 

 さらに激昂するヒミカの怒声に、二人は決して応じない。お互い言葉はなく、足音も最小限。怒りが火に薪を焚べ、蒸気が益々濃くなっても、目に頼らない細音の利となるばかりだった。

 悲痛な叫びを頼りにして、ひたすらに遠ざかる。

 純粋な炎による熱とは別の灼熱地獄の中、二人の少女はただただ怒りの中心から逃げるようにして走り続けた。

 

「あああああっ、あっ、あああああああッ! くそぁああああああああッ!!」

 

 轟と天を突き燃え上がる炎と、耳にこびりつくような悲哀。

 矛先を失った弔意の発露は、相手を求め続けた。

 

 

 

 

 人々の悲鳴、怒号。

 また一つ、梁が崩れ、瓦が雪崩落ちる。盛大に広がりゆく炎を前に、小さな桶の水程度では抗えない。そうしてまた、一角が焼け落ちていく。

 

 龍ノ宮城は、燃えていた。

 朝焼けに染まる大地に灯った、大きな篝火だった。敷地の全てが炎に呑まれるには足りないが、本丸にはとうに火が回っており、倒壊も時間の問題。天下を取らんとしていたこの時代の覇者が堕ち、時代が変わるのだと世に知らしめるには十分過ぎる篝火だった。

 

 何より、覇者その人、龍ノ宮一志はもういない。

 祭り上げる神輿もろとも、消し炭となったのだから。

 

「くく……」

 

 その光景を眼下に、男がほくそ笑む。城に近い山の木々に紛れ、火の粉の届かぬこの場所は、一つの終焉を見送る特等席だった。

 彼の隣で溜息をつく老人が、顔も見ずに言った。

 

「驟雨、これがお前の結論か」

「よもやこの絶景を前に、良心が痛むなどとは仰いますまい?」

「ふん、浮かれおって。痛むのは足腰だけで十分だ」

「これで我が覇道を歩めるのですから当然です。彼らの大好きな桜花決闘を贈った甲斐があったというもの」

「勝手にやるのは構わんが、儂にだけは迷惑かけてくれるなよ」

 

 その小言に、男の――瑞泉驟雨ずいせんしゅううの笑みが深まった。

 そして、これが至上の成功だと寿ぐように、両手を広げ、朗々と告げた。

 

「ご心配なく。迷惑な連中は、あの炎にくべられていますから」

 

 しかし、煌々と燃える焔の影で、二人の少女が身を隠したことに、彼はまだ気づいていなかった。