桜降る代の神語り 再演

第2話:落日と野望

どさり、と男が倒れた。

 辛うじて木刀を握りしめたまま、それでも半ば呆然とする。年季の入った道着が土に塗れ、頬には冷や汗が伝っていた。

 彼を見下ろす形になっているのは一人の童女だった。着せられたような真新しい道着で、お古の木刀を構える彼女は、起きた光景を前にしてぱちくりと目を瞬かせている。

 観衆の絶句が、どよめきに変わっていく。

 

「な、何が……」

「揺波お嬢様が、本当に……?」

 

 動揺の声が、童女の――幼き頃の揺波の視線を誘った。庭の揺波を縁側から見守る、三人の女中だった。その隣では、難しい顔の主人が目を見張っている。

 漂う空気を不思議がっている揺波を他所に、女中たちが事態を呑み込み始める。

 快哉が、徐々に花咲いた。

 

「き、今日が初めてだったんじゃないんですか!?」

「これが天賦の才……いや、それにしても……」

「ぽやぽやしてたあのお嬢様が……!」

 

 囃し立てる彼女たちの姿は、不思議と色褪せていた。見れば、仕立てはいいのにくたびれた主人の羽織も、かつての栄華が剥がれ落ちるがままになっている古びた屋敷も、そのどれもがかつてに色彩を置き忘れてきたかのようだった。

 興奮した女中の一人が、下駄をつっかけて揺波に駆け寄ってくる。

 屈んで揺波の小さな肩を掴んだ女中は、

 

「揺波様、本当に刀を握ったことはなかったのですか!?」

「……? うん」

「だ、だってこの方は、七陰流の師範様でいらっしゃるんですよ!? それをこんな、いきなりだなんて……!」

 

 どれだけ捲し立てようとも、揺波はきょとんとしたまま、己が成したことの意味を真には呑み込めないようだった。

 彼女に代わり、縁側にて男が一人呟く。

 

「この力が、天音にあれば」

 

 

 

 

 景色がぼんやりと移ろって、闇に呑まれた。

 仁王立ちする男に追い立てられるように、地中への階段を小さな揺波が降りていく。淡く輝く桜花結晶たちを手のひらに載せただけで、足元は判然としない。その幼さからすれば堂々としたもので、不安よりも困惑、そこに一欠片の好奇心を顔に覗かせている。

 

 やがて下りは終わり、洞窟が横に続いていく。彼女にとっては随分広い、手狭なその地下道を進んでいくと、ややあってから行き止まりに行き当たる。

 もう衝立としての役割もろくに果たせていない、ぼろぼろの障子戸。

 おっかなびっくり横にどけたその先では、一本の古びた刀が地面に突き立っているだけ。纏った紙垂を朽ちさせてなお凛とした佇まいで、数多の刃こぼれが誇らしげですらある。

 

 しかし、その刃が示す者の名は、多くの悲劇と忌避に彩られている。

 故にこそ忘れ去られた社で、揺波は、小首を傾げていた。

 

「……?」

 

 待ち受けていたものが思っていたものと違ったのか、その空間を一通り見聞した後、じっと立ってその刀を見つめる。

 それから彼女ははっとして、腰に差していた木刀を構えた。

 そして、どことも知れぬ洞窟の虚空に向けて、無邪気に問いかける。

 

「ここで、勝負するんですか?」

 

 やはりそこには、誰の姿もありはしない。

 けれど、虚空の先から、愉快そうに笑う女の声が聞こえた気がした。

 武神ザンカ、ここに罪業を雪ぐ――錆びた刀には銘に代わり、そう刻まれている。

 

 

 

 

 また、どさり、と男が倒れた。

 次なる景色の中、身の丈六尺を超えようかというその大男の手から、一抱えほどもある木槌が手を離れた。大地を鈍い音と共に叩き、背後で煌めく神座桜の花々が微かにざわめいた。その桜舞う光景もまた、色褪せていた。

 彼を見下ろすのは、一人の幼い少女。先程の光景から幾許か歳を重ねた揺波だった。

 

「おいおい、どうなってやがんだこいつは!」

「あの嬢ちゃんとんでもねえ!」

 

 全く期待していなかった裏返しか、限られた野次馬たちが目を丸くして声を上げた。

 遅れて、見届人が慌てて宣言する。

 

「し、勝者、天音揺波! 取り決めにあった神座桜一本の守護役を、天音揺波とする!」

 

 天音家の女中二人が喜びのあまりに抱き合った。

 そして、くたびれた羽織の男は、静かに高揚に満ちた笑みを浮かべていた。

 

 

 

 

 また、景色が移った。

 今度は、筋骨隆々とした女が倒れた。

 

 また、景色が移った。

 次は、痩せぎすで眼光の鋭い男が倒れた。

 

 また移り、誰かが倒れ、また移り、誰かが倒れ、移りゆく景色において変わらぬものがあったとすれば、桜の輝きと勝者だけだった。

 

 やがて、幾度目かも分からなくなった頃、辿り着いたのはある部屋の中だった。

 柱や梁が時間に蝕まれた、古ぼけた小広い広間。異様に真新しい畳がこの色褪せた景色の中でも嫌に眩しく、床の間に飾られた生け花も華やかで瑞々しい。巨大な一枚板の重厚な机が横たわっており、磨かれたその上には地図が広げられていた。

 

 座して地図と向き合うのは、一人の男。無数に書き込まれた印を信じられないといった面持ちで繰り返し数えながら、野望に滾り、その先を焦がれるかのような笑みがじわじわと浮かび上がっていく。

 彼の背にかかった羽織には皺一つなく、かつて縁側から鍛錬を眺めていたときのくたびれた羽織姿からは見違えるよう。頼りなく丸まっていた背中も、どこか伸びて見える。

 

「おお、揺波か」

 

 顔を上げた男は、背後から様子を窺っていた少女に隣を勧めた。この時の揺波は、もはや幼さが薄れ、未熟さを面影に残すばかりの顔立ちとなっていた。

 膝を折った揺波に、男は地図を示して言った。

 

「揺波、お前のおかげだ。見てみろ、印をつけた桜は全部うちのものだ! これなら、天音を凋落から救える。それどころか、大家に返り咲くことさえ夢じゃない!」

「まだ、いっぱいあるんですね」

 

 まだ印のついていない場所を指してぽつりと呟いた揺波に、男は大きく頷いた。

 男の手が、揺波の双肩を力強く掴んだ。

 

「そうだ、まだだ。だから揺波、お前は勝ち続けるんだ!」

「勝つ……」

「そのための手段も、鍛錬に必要なものも、全て用意してやるからな。だからお前は、ただ勝つんだ、いいな?」

 

 熱に満ちた声は、己の熱を少女に分け与えるかのよう。

 揺波はそれに、両の拳を握って応えた。

 

「はい、お父様!」

 

 少女の瞳に一切の曇りはない。

 色褪せた風景の中で、そこにだけは、ただ鮮やかな煌めきが張り付いている。

 

 

 

 

 また、景色が変わった。

 岩だらけの山中にひっそりと咲く神座桜の前で、揺波は再び刀を振るっていた。

 対峙するは一人の巨漢。翻弄されて足を鈍らせ、揺波の姿を見失っているようだ。

 

 今が好機と、揺波は飛び出た岩を蹴った。

 飛び上がって、巨漢の脳天めがけて刀を振り下ろし――

 

 

 

 

「うんにゃ……ちゅきかげ、おとしぃ……。……ぅ?」

 

 乱れた襦袢、吹き飛んだ掛け布団。

 寝床の上の揺波が面妖な姿勢で振り下ろした手刀は、転がった枕を叩いていた。寝ぼけ眼を何度も擦って、ようやくそれが巨漢の頭でないことを理解してから、眩しそうに顔を上げた。

 

 遠慮なく障子が開け放たれ、部屋は既にまんべんなく太陽に照らされていた。

 陽は、もうじき南天に昇ろうとしている。

 

 

 

 

 真新しい屏風が、手前に積み上がった書状の山に埋もれている。

 天音屋敷の広間は、揺波が夢で見たあのときからまた物が増えていた。大机に広げられた地図も少し日焼けが進んでいて、入った筆の数は随分と増えている。北部の一角を塗り潰した薄墨に至っては、未だ乾いてすらいなかった。

 

「ううむ……しかし次はどう動くべきか」

 

 腕組みし、唸る彼は天音家当主・天音時忠あまねときただ。揺波の実父である。

 目元に疲れを滲ませている彼ではあったが、ぎらつくその眼差しは熱に浮かされているようであり、行き場の定まらない熱意が彼に筆を弄ばせていた。

 

 悩める彼の視線は、地図の三点を何度も行き来している。

 北から南に向けて、水かきの張った手を広げて突き出したような形のこの大地において、天音家のある岩切地方は中心地の北隣に位置する。その岩切から東回りで北上するように勢力を伸ばした今、南へ版図を拡大するためには大きな決断を余儀なくされていた。

 

「西は……やはり古鷹こだか家か。深い歴史に裏打ちされた体制は盤石、忍の里やかのトコヨとの縁は到底無視できん。未だミコトの層は厚いと聞くが、揺波が劣るとも……いや、そもそもに、古豪に桜花決闘を仕掛ける流れをどう作るというんだ……!」

 

 皺の刻まれた額を指先で叩くが、沿岸沿い一帯を取りまとめる西の雄に対し、そう簡単に作戦が出てくるはずもない。

 今度は岩切から視線をそのまま南下させ、湾を抱く地に眉をひそめた。

 

「くぅ……たとえ咲ヶ原を強引に取り込んだところで、その先で待つのが瑞泉ずいせん家というのは苦しすぎる。策略に長けた政上手相手に遠征を繰り返すなんて、何を仕掛けられるか分かったものじゃあないぞ……!」

 

 しかし、苦虫を噛み潰したように残りの経路に目を移す。聖域を擁する中心地・咲ヶ原を東に迂回して南進するには、大きすぎる壁が大地の南東一帯に横たわっていた。

 

「駄目だ駄目だ、東回りはどう考えても最悪だ! あぁ、我らより先に天下に手を伸ばす龍ノ宮たつのみやめ! 揺波が成長著しいと言っても、最強のミコトと名高いあの龍ノ宮一志たつのみやいっしだぞ!? 相手させるにはまだ早すぎる!」

 

 髪を掻きむしり、筆を持ったままなものだから墨汁が頭に垂れるが、歯ぎしりする時忠はそれに気づいてもいない。

 膨れ上がった政務から目を背ける時間のはずだったが、揺波が戦果を持ち帰るたびに迫ってくるこの現実を前にしては、苦悩が積み重なるばかり。しかし、嬉しそうに忙殺される日々の中でも、この時の時忠が最も活き活きとしていると言っても過言ではなかった。

 

 神座桜の守護役、並びに奉土と呼ぶ一帯の土地の管理権。時忠は日に日に増えていくそれを次の賭け金とし、より多くの、あるいは重要な奉土を巡る決闘を取り付け続けていた。

 それは彼が揺波の実力を客観視できていた一方で、凋落していた天音を十分に警戒できた者が少なかったからこそ、可能だったことだ。

 だが、そんな不意打ちじみたがむしゃらな作戦は、いつまでも続けてはいられない。

 

「ど、どこなら切り崩せる……? 揺波を勝たせる策に注力するべきか……?」

 

 時折震える声は、恐れを孕んでいた。

 勢いで進み続けるには、残った勢力は強かで、失敗したときの代償が重すぎる。これからはたった一度躓いただけで全てを失いかねないのだから。

 それでもなお、止まるという選択肢は上がらなかった。彼の卑屈な野心を満足させるには、まだまだ足りなかったのだ。

 

 こうして日課のように、ああでもないこうでもないと時忠が頭を悩ませていたときだ。

 出ない結論に一度筆を置いた瞬間、

 

「たあぁァァァーーーーーのもおぉォォォォォォォォォぉぉッッ!」

「……!?」

 

 山をも揺るがすような大声に、彼は小さな肝を潰した。

 頭の中を占めたのは、敵襲の二文字。

 転がるように部屋の隅に逃げてから、忘れていた呼吸を取り戻し、叫ぶ。

 

「あ、ぁあななな、なんだぁ!? 何事だ!」

 

 ややあってから、開いた襖から女中が顔を出した。彼女は長いこと仕えている古株のためか、むしろ時忠より肝が据わっているようで、落ち着いたものだった。

 

「旦那様、お客様がお見えです」

「だっ、誰だ! 今日は誰も来る予定はないぞ!」

「龍ノ宮家当主、龍ノ宮一志様です」

「は――」

 

 口をぱくつかせ、結局、出てきたのは単なる音だった。

 

「はあああああああああああ!?」

 

 今まで彼の頭の中を巡っていたいくつもの策謀が、木っ端微塵に消し飛んだ。

 愚かなことに、彼は天音から攻めることだけを意識するあまり、攻められることなど露ほども考えていなかった。あるいは、考えるだけ無駄だと思っていたのかもしれない。

 特に、今告げられた名の男に対しては。

 

 事実をうまく消化できずに呆ける時忠を放置して、女中は勝手に当人を連れてきた。客間でないことなどお構いなしである。

 

「よう、当代の天音殿、で合ってるな? 突然押しかけてきて悪かった」

 

 廊下から顔を覗かせるその大男は、七尺もかくやと言わんばかりの巨漢であった。裸体のあちらこちらをサラシで覆い、その上から猟師が身につけているような革の上着を羽織っている。豪快さを絵に描いたような男という印象を受けるが、決して粗野ではない。不揃いな無精髭が、細かいことに頓着しない心根を表しているようだ。

 

 龍ノ宮一志。

 桜花決闘によって一代でのし上がった、最強の男。

 その一方で、情に厚く、民の信頼を集める為政者であり、今最も覇権に近い存在。

 

 時忠は、資料でだけ見たことのあるその顔が本人のものであることを認め、とうとう開いた口が塞がらなくなってしまった。

 新興勢力にとっては、目をつけられたらまずいなんて言葉では済まない相手。

 そんな災厄が、突然やってきた。

 

「あ、あ、な、なん……」

「おまえさんちのミコトはどこだ? 揺波と言ったか。会って話がしたい。――ああ、女中さんや。ちょっとミコトの所まで案内してもらえるか?」

「え、ちょ……」

「というわけで、しばらく邪魔をするぞ」

 

 有無を言わさず、龍ノ宮はそのまま女中を捕まえて行ってしまった。

 部屋には、真っ白になった時忠の抜け殻だけが残されている。

 

 

 

 

 慌てて見てくれを整えられた揺波は、急な来訪を律儀に詫びた男をひと目見て、張り詰めさせていた神経をより一層尖らせた。

 

「改めて、俺は赤東や赤南の一帯を仕切らせてもらってる、龍ノ宮一志ってもんだ。色々尾ひれをつけて呼ばれちゃいるが、楽にしてくれると助かる」

 

 楽に、を強調しながら、にやりと揺波に口元だけ笑いかける。

 こぢんまりとした客間は、先にどかりと座って待っていた龍ノ宮の存在感によって窮屈に感じられた。障子が開け放たれていて庭を見通せる状態にはなっていたが、その開放感が却って室内の密度を思わせてならない。

 

 その男から、揺波は目を離さなかった。

 研ぎ澄まされた眼差しは、ただ値踏みと呼ぶことも憚られるような純粋さで、彼を隈無く観察する。自然体でこそあったが、それは決闘の宣誓をしているときのような、如何にして勝つか、その一点によって磨かれた瞳だった。

 

「はじめまして、天音揺波です」

 

 彼の対面に座した揺波は、淡々と名乗ってから、こう付け加えた。

 

「宮司さんは後から来るんですか?」

「は? 宮司……? あぁ、そういう……くく、はーっはっはっは!」

 

 揺波の問いの意味を理解して、屋敷に響き渡るような大声で笑い飛ばす龍ノ宮。戦いの時に向けて心を凝縮させていた揺波は、思わずぽかんと間の抜けた顔を晒すことになった。

 ひとしきり笑った龍ノ宮は、前のめりな揺波の眼差しを打ち払うように手を振った。

 

「違う違う、今日は決闘しに来たわけじゃねえ。むしろその逆だ」

 

 そこで彼は、一度落ち着けるように茶を啜った。

 それから、疑問で頭がいっぱいの揺波に向けて、理由を告げた。

 

「龍ノ宮は、天音と同盟を組む意思がある。つまり、もう戦わなくてもいいんだ」

「え……?」

 

 今度こそ、揺波は固まった。

 これまでも、彼女のなりを見て戦いをやめるように言ってきた相手はいた。それは心配であり、嘲笑であり、盤外戦術であり、全ての結果が彼らを等しく黙らせた。

 けれど、目の前の男の眼差しには、彼らと違って心に潜ませた刃が見当たらない。よりにもよってこの男に、だ。その言葉は元より、目を疑う揺波を見守る彼の瞳一つとっても、理解の外だった。

 

 矛先を失いそうになっている戦意が、わなわなと手に虚空を掻きむしらせる。

 呑み込むのをじっと待ってくれている龍ノ宮に、揺波は思わず咀嚼しきれていない胸中を零した。

 

「えっと……すぐに龍ノ宮さんとは戦わない、って意味ですか?」

「戦わないさ。これから、ずっとな」

「えっ……えっ! で、でも、それに……」

 

 重ねて否定され、彼女の言葉はまともな形にならなかった。これまでの揺波の生き方は、そしてそれを望んだ父は、どう答えればいいか教えてくれはしなかった。

 

「そ、それじゃあ、龍ノ宮さんも困るんじゃ……」

「はーっ……少し難しい話をするぞ。まだちゃんとは分からなくてもいいから聞いてくれ」

 

 ガシガシと、ばつが悪そうに頭を掻く。このときばかりは、熊のように大きな龍ノ宮も、少し小さく見えた気がした。

 いくらか居住まいを正した揺波へ、龍ノ宮は言葉を選びながら言った。

 

「いいか? おまえさんたち天音は、北に向けて奉土を広げていったわけだが、その結果、ここ岩切よりも北はほぼ天音が制覇した。単純な奉土の広さで言やぁ、もう上から数えたほうが早い。そんなんで、俺らを始めとした大家は、いよいよ無視できなくなってきたわけだ」

「…………」

「別に、奉土拡大を悪いことだとは言わねえ。俺も一代で荒野を切り拓いた身だ、再興にかける想いもちったぁ分かる。だけどよ、何もこの大地全部を一家で背負う必要なんてねえんだ」

 

 だから潰しに来たのだと、揺波は警戒していたのに。

 続く言葉は、どうしようもなく優しいものだった。

 

「皆で手を取り合って、平和な世の中を一緒に歩んでいく。誰か一人に任せるんじゃなくて、手分けして桜とこの大地を守っていく。そうすることもできるんじゃねえかって、ちょうど大家の連中と話し合ってたところなんだよ。もちろん、決闘は抜きでな」

「決闘、抜きで……?」

「あぁ、耳の痛え話だが、強さだけで物事を決めるのはもうやめだ。大家の一員として天音は返り咲き、俺らと一緒にこの地を動かしていく。親父さんもきっと満足してくれるだろう」

 

 龍ノ宮は大きく息を継いでから、力強い笑みと共に告げた。

 

「つまるところ、揺波、お前が戦う必要はもうなくなる。幸せになっていいんだ」

 

 そして彼は一息ついて、ぬるくなった茶をちびちびと口に運んだ。湯呑を長々と離さない彼の姿を見てようやく、揺波は言葉の続きがないことを悟ったようだった。

 最強の男自ら、戦いを手放そうとしている。

 共に覇を唱えようという誘いですらない。

 

「幸せ……?」

 

 呆然と呟く。

 龍ノ宮の顔や手の結晶、果ては畳にじっと目を落としても、愕然とする自分を氷解させることは叶わない。小さく口の中で反芻しても、自分の言葉にはなってくれなかった。

 龍ノ宮は困ったように頬を掻くと、

 

「ひと月したら、大家の連中が顔を突き合わせる大家会合がある。それにお前も参加してもらいたい。返事はそれまでに考えておいてくれ」

「わたしが、ですか……?」

「あぁ、天音のミコトはお前だろう? もちろん、天音家として来てもらうわけだから、親父さんも一緒で構わない。後で相談してみてくれ」

 

 揺波は、自分が生返事をした自覚すらなかった。呑み下せない言葉に気もそぞろで、これまで人に任せていた類のことを頼まれていそうだと認識するのが精一杯だった。

 龍ノ宮はそんな揺波を慮ってか、本当の返事を黙って待ってくれていた。けれど揺波は、質問の一つもできずに、いつの間にか気まずい静けさに支配されていた。

 じりじりと傾いていく陽に、客間の陰が次第に濃さを帯びていく。

 

「……ま、時間はまだあるさ。ゆっくり考えてくれや」

 

 湯呑を呷った龍ノ宮が、膝を立てる。

 だが、彼が立ち上がろうとしたところで、どこか遠くから男の悲鳴のような音が響いてきた。揺波はまだ思考の霧の中で気づかなかったが、龍ノ宮は聞き耳を立てた後、頭の後ろをボリボリと掻いて再び腰を落ち着けた。

 

 ややもすると、どたどたとした足音が庭から近づいてきて、一人の女が顔を出した。

 その途端、揺波はぞっとしたように目を剥いた。

 

「おー、いたいた。そいつが噂の揺波か?」

 

 龍ノ宮ほどではないにしろ、揺波より二回り以上背の高い女だ。

 彼と同じく、胸にサラシを巻いただけの上半身に、炎を思わせる意匠の外套を引っ掛けるようにして羽織っている。腰巻も股が見えそうなほど短い一方、脛を隠すほどに長い革の靴が勇ましい。

 そして何よりも象徴的なのは、魔物か何かを象った冠を被ったその頭からは、比喩ではなく炎がなびく紅蓮の髪が伸びていることだった。

 

「どうしたヒミカ。別に今日は決闘しに来たわけじゃないんだが」

「知ってるけど、一志が気になるミコトって言うから、アタシも気になって」

 

 縁側に膝立ちで身を乗り出す彼女は、人間ではない。

 炎と感情を象徴するメガミ・ヒミカ。

 メガミは本来、神座桜の中にあるとされるメガミの世界におわすとされるが、人間と同じような肉体を用意し、顕現体として人の世で活動する者もいる。ヒミカは特にその代表的なメガミの一柱であると、揺波は座学を思い出していた。

 

 彼女の荒ぶる炎は多くのミコトが決闘で用いてきたとされるが、現代においては銃と呼ばれる飛び道具を己を象徴する武器としており、揺波が警戒する相手の一つだった。

 しかし、そんな形だけの知識がどうでもよくなるほど、目の前の存在は圧倒的だった。これまでの懊悩が尾を引いていることもあるが、龍ノ宮のように分かりやすい肉体があるわけでも、武器も今は見当たらないのに、勝ちを見出そうとする頭すらろくに働かない。

 

 ただただ存在からして、強い――そんな存在を前に、揺波は息を呑む。

 ヒミカはそんな揺波を品定めするように、

 

「ふぅん……へぇ……こいつが」

「あの……」

 

 たじろぐ揺波。

 顕現している、それも自分が宿していないメガミと出会うことは実に稀だ。さしもの揺波であっても緊張を禁じ得ないが、名指しでじっくり観察されるともなれば、どうしても困惑が勝ってしまう。

 やがて満足したのか、ヒミカは腕を組んでうんうんと頷いた。

 

「ふーん、なるほどなー。一志の言う事も分かるぜ。ちょっとおっかない気がするのはあれかな、相棒のせいかな……」

「えっと……?」

「中々面白そうなヤツではある。だが! このままじゃあ、アタシ好みじゃないなぁ」

 

 大仰に肩を竦めて残念そうにされたところで、置いてけぼりの揺波は適当に相槌を打つことしかできない。

 それからヒミカは、一度龍ノ宮を見て、おどおどしている揺波をもう一度見て、得意げに鼻を鳴らした。

 

「今まで通りやっちまえば早いのに。どうせ、結果は決まってんだからさ」

「おいヒミカ、勘弁してくれ! 大事な話をしたばかりなんだから」

 

 苦言を呈する龍ノ宮。

 ヒミカは口笛で誤魔化そうとしていたが、あ、と思いついたように悪戯めいた顔になった。

 

「そんな大事な話を、皆に黙ってしに来てるのはどこの誰だろうなー。アタシ、城から出るときに行き先教えちゃったんだよなー」

「なっ、おま……」

「いいのかー? もうそろそろ、小うるさい連中が早馬で着く頃だぞー?」

「馬鹿野郎! あいつらに独断専行がバレたら何刻説教されるか分かったもんじゃねえ、さっさとずらかるぞ!」

 

 慌てて腰を上げる男には、最強の字はまるで似合わなかった。そこにはただ、人々の上に立ち、気苦労が絶えないであろう男の姿だけがあった。揺波が最初に感じていた『強さ』は、もうどこかに紛れてしまっていた。

 彼は廊下に駆け込む寸前で、流れに取り残されている揺波を振り返った。

 

「じゃあな、天音揺波。後で親書を送るが、さっき言ったことはちゃんと親父さんに伝えておいてくれ。龍ノ宮は、天音と共に歩めることを願っている」

 

 返事も待たぬまま、地面をひっくり返すような足音を残して消えていく。

 その後ろ姿をヒミカは縁側から指差して笑っていたが、

 

「ははははっ! はは、は……」

 

 笑い声が途切れた先で、微かに冷めた彼女の眼差しが虚空を捉えていた。

 それも一瞬のことで、髪の炎をなびかせながら、ただ「じゃあな」とだけ言い置いてヒミカも去っていった。少しして再び彼女の笑い声が聞こえてきたが、それも遠ざかり、やがて天音家は普段の静けさを取り戻した。

 

 客間には、座したままの揺波一人。

 嵐のような来訪が幕を閉じ、痛いほどの静寂がやってくる。

 その静寂に、揺波の混迷が染み出した。

 

「これで、終わり? 終わっちゃったら……?」

 

 硬い手のひらを漫然と擦り、時折目を泳がせる。

 疑問は、まめのようにそのうち潰れてくれるとは限らない。

 自分の知らない世界のことであれば――そして、自分のことであれば、なおさらに。

 

「でも、お父様は、まだ……」

 

 零した声がまた一つ、鈍い響きを立てて消えていった。