桜降る代の神語り 再演

第3話:大家会合

 天音揺波あまねゆりなは、栄華というものをこの城に来て初めて真に実感した。

 どこまでも続く黒漆で磨かれた廊下、何に使われるかも分からないたくさんの部屋、数え切れないほどの使用人。迷子になってしまいそうな敷地のどこを切っても、規模の違いを思い知らされ、それでいて取って付けたような絢爛さはどこにもありはしない。

 最近は天音邸にも真新しい調度品が増えて、栄光の気配は確かに揺波たちの足元にも広がってはいた。だからこそ、真に天下に迫るこの巨大な潮流の気配との違いも理解できてしまったのである。

 

 地に足のつかない様子で、豪奢な城の中を揺波はぼんやりと歩く。

 それは決して本物との違いに打ちのめされたわけではなく、このひと月の間、胸につかえていた言葉のせいだった。

 

『幸せになっていいんだ』

 

 この景色が、その言葉の先にあることは嫌でも分かる。

 けれど、実感さえ、心に広がり続ける違和感を打ち消してはくれなかった。生まれたのは、父親の望みの近道であるという確信だけだった。

 茫洋さに耐えかねて、揺波の視線が一歩前を行く黒紋付姿の父・時忠ときただを追う。

 

「ふぅー……」

 

 緊張を吐き出す彼の横顔もまた、曖昧だった。

 もう見慣れた野望に執着する顔がありつつも、全てがうまくいくようになる前のような不機嫌さも僅かに眉に滲んでいる。しかし、緩んだ口元は間違いなく安堵しているときのもの。

 理解しきれない情感の混色は、この胸のつかえの答えにはなってくれない。

 だから、この大事な日になってもまだ、揺波は考え続けなければならなかった。

 

 大家会合当日、龍ノ宮城たつのみやじょう

 広大な荒野を持つ赤東の西端にある、龍ノ宮家の居城である。龍ノ宮一志たつのみやいっしは十年ほど前、不毛と呼ばれていた赤東の開拓に尽力し、鉱業の礎を築いたことで多数の支持を集めた。そんな支持者たちの熱い声と力によって築かれた城であり、赤東の新たな顔となっている。

 

 天音家へ龍ノ宮が来訪したあの後、揺波は父に提案を伝え、判断を仰いだ。数日の時を経て出された結論は、同盟の受諾。さらに丸二日かけて認められた返答の文は、天音家を大家として迎え、祝福の結末を運んでくれる――そういった手筈だった。

 しかし、時忠に十全なる納得はないのだと、揺波は感じ取っていた。こびりついた妄執は、憑き物のようだった。

 

 故に、彼の足取りに軽やかさはない。

 その背中に、がむしゃらに拡大を続けていたときほどの真っ直ぐさはなかった。

 

「よう、お二人さん」

 

 聞き覚えのある男の声がして、先導してくれていた女中が端に退いた。

 辻で揺波たちを待っていたのは、城主たる龍ノ宮一志。広く作られている城の中であっても、その巨体が現れた途端に随分と狭く見えてくる。

 時忠は一度口を結んでから、朗らかな笑みを浮かべ、龍ノ宮の前で腰を折った。

 

「先日は取り乱してしまい、大変失礼しました。天音家当主・天音時忠でございます。今回はお招きいただき、大変光栄に存じます」

「こちらこそ、手を取っていただいたことに改めて感謝させてください。この龍ノ宮一志、今日この良き日に天音家と並び立てることを嬉しく思います」

 

 黒紋付同士の畏まった挨拶が、なんだからしくない。

 揺波がそう思っていると、龍ノ宮はにかっと笑って、揺波の肩を力強く掴んで揺らした。

 

「そんで、ありがとな、次期当主殿!」

「は、はい?」

「その格好も似合ってるぜ。お前さんが長着を着込んでるところは中々想像できなかったからな」

 

 彼女は、しばらく前に誂えられた儀礼用の正装に袖を通していた。短い緋袴は動きやすいものの、決闘では長い袖を取り回すのに苦労した一品だ。野暮ったく感じてはいたが、父に与えられたそれについぞ異論を唱えることはなかった。

 打って変わって親しげな龍ノ宮の落差に、揺波はやや混乱していた。答えの出ない違和感に気を取られていたばかりというのもあるけれど、これが天音家との関係を示す見得であることに思い至らなかったためだった。

 

 しかし、されるがままの揺波を、時忠が睨んだ。

 

「こ、これ揺波、惚けるでない! 挨拶!」

「まあまあ、仕方ねえさ。実際は、年頃の子には退屈な場だもんな。当主の護衛も名ばかりだ」

 

 苦笑いする龍ノ宮に、様子を窺うように小さく会釈する。

 彼は、家の者を誰も連れていなかった。遠巻きに女中たちが頭を下げているだけだ。会合に参加する家は護衛役としてミコトの帯同を求められていたが、彼には当てはまらない。本人こそが大家同士の抑止力として提示されるべきミコトだからだろう。

 

 その最強の男が纏う羽織は、これから政という戦いに臨むための鎧のようだった。揺波にとって時忠は頭が良く、自分には分からない政治を上手くやっている存在だが、今日はそんな父と同じかそれ以上の人物が一同に介する日だ。

 強者揃いの戦場であっても、揺波の土俵ではない。

 時忠にも、ましてや龍ノ宮相手にかけるべき言葉はない。父から言い含められていたが、元より揺波は今日を通して口を噤んでいるつもりだった。

 が、ぼうっとしたままの揺波の頬が、龍ノ宮の逞しい指に弄ばれる。

 

「むにゅ」

「時忠殿の隣でにこにこしててくれりゃあいい。俺たちの仲を広める日なんだから、よっ」

 

 笑顔を作らせていた指を離し、龍ノ宮は歩き出した。時忠は信じられないものを見た顔を、必死に笑顔に戻しながら着いていく。

 龍ノ宮の大きな背中は、自らの存在を城内で喧伝するかのようだった。当主自らが案内する丁重さはあれど、それは必然、龍ノ宮家当主に率いられる天音家という構図となって、大きな意味を引き連れた歩みとなっていた。

 

 やがて、廊下の先から外の日差しが目を焼いた。

 揺波たちが訪れたのは、玉砂利の敷かれた広い中庭だ。四方を部屋で囲まれており、庭を挟んだ正面の一室が大広間となっている。

 時忠や龍ノ宮のような正装の者たちが既に方々で懇談に勤しんでおり、傍には爪や短刀、槌といった得物を携えたミコトがついている。これまでの城内の静けさが嘘のようで、各地より集った大家に属する人々の談笑が、時間を惜しむようにこの地を動かそうとしている。

 

 しかし彼らは皆、今日の主役が誰かを理解している。

 庭に沿うように大広間へ向かう揺波たち一同へ、衆目が集まる。

 

「おぉ、龍ノ宮殿だ」

「連れているのは、もしや天音か?」

「となると、あの娘が……」

 

 揺波たちの登場に、少しずつざわめきの矛先が揃っていく。慣れた様子で受け流す龍ノ宮の後ろで、時忠は張り付かせた笑みに冷や汗をだらだらと流し始めていた。

 仔細を待ちきれないといった雰囲気が広がっていく中、彼女たちの行く手の障子が厳かに開く。中から流麗な所作で現れた男を前に、龍ノ宮が歩みを止めた。

 

「おや、これはこれは。噂よりも随分と仲がいいじゃあないか」

 

 龍ノ宮とは対照的に、線の細い壮年の男だ。しかし、苦労を背負った枯木のような印象でありながら、その足運びは大風をもいなす静かな逞しさを感じさせる。それだけで、揺波の嗅覚がミコトである彼の実力を予感させた。

 扇子で口元を隠していても、彼の表情はいたずらめいて見える。

 

「私とも是非、もう少し遊んでもらえると嬉しいのだがね」

「あまりお出でにならないのは古鷹こだかさんのほうでしょうに……随分とご無沙汰なように思えます」

 

 古鷹と呼ばれた男と龍ノ宮は互い会釈。

 だが、古鷹は龍ノ宮に着いてきていた時忠には胡乱な目を向けた。ちらちらと堪えなく古鷹と龍ノ宮に視線を送っている彼を遮るように、勢いよく扇子を閉じる。

 

「それは失礼、二足の草鞋というのも大変でね。こんな機会でなければ外に友人もできん。どうもそれは、君の北からのご友人も同じようだが」

 

 水を向けられた時忠は、固い愛想笑いを浮かべた。

 それでも視線を送り続けてくる彼に、龍ノ宮は困ったような苦笑いと共に、

 

「こちら、古鷹家当主の古鷹京詞こだかきょうじ殿です。古鷹さん、以前お伝えさせてもらっていたかと思いますが、こちらは天音家当主・天音時忠殿です」

「ど、どうも、天音でございます……」

「お初にお目にかかります。いやはや、古鷹は物静かな者ばかりなもので、目鼻先で神妙にしていては窮屈だったでしょうに。しかしこうして望外にもお会いできたのだから、今回は天音殿の覇気を一匙でも持ち帰らなければ」

 

 時忠の慌てたお辞儀に対し、古鷹は美しい礼を見せる。

 さらに注目を集めるようなやり取りによって、立ち話のまま参加者にやんわりと囲まれた状態ができあがっていく。不思議とよく通る古鷹の声に引き寄せられていくようだ。

 興味を抑えきれなくなった観衆から、声が投げかけられる。

 

「そちらがあの無敗のミコトですかな? 信じられん若さだ」

「娘様なのでしょう? さぞ才気に溢れ、優秀な教育をなさったのでしょうなあ。おお、うちのミコトで勝てるかどうか」

 

 話題にされた揺波は、多少身構えたものの、動じることはなかった。戦い以外では物怖じしがちだった彼女も、こういった声はもう聞き慣れていた。

 予定通り、自分から何か答えることはない。

 ただ、素直な称賛とは雰囲気が違う。

 揺波には彼らの会話の機微は分からない。父親の戦いの場という認識が、天音家の肩を持つのが目の前の大男だけではないかと、辛うじて直感させている程度だ。

 

 仲良くするために努力しなければならない、と会合の参加を相談した際に、父親が苦々しく噛み砕いてくれた言葉が蘇る。

 皆で手を取り合うと言うからには、もっと歓迎されるものかと思っていた。

 その提案者である龍ノ宮は、大仰な手振りと共に告げた。

 

「天音さんは、古式ゆかしくも若々しい、そんな方々だということです。新しい風はいつだって必要だ。その風が、少しばかり強く吹いていたからって、しっかり根を張った皆さんは、どこ吹く風、といった様子だったのだと思っていますよ」

 

 彼の援護は、けれど少しばかりの苦笑で終わった。

 気まずい沈黙に、揺波も居住まいが悪くなる。これまでも決闘で負かした相手に恨みつらみを吐かれた経験はあったが、それよりももっとどうしようもないものに思えた。

 

 自分には理解しきれない空気に、揺波の混迷がますますかき乱されていく。

 そんな揺波の意識が、古鷹の後ろについた少女に吸い寄せられていったのは必然だった。

 冷たい色合いをした道着姿の、痩身の少女。

 袋を被せられているが、手にした長柄は薙刀で間違いない。

 

「ぁ……」

 

 行き当たった記憶に、微かな息が漏れる。

 名は確か、細音さいね

 同年代にして、盲目にもかかわらず秘策を使わされたやり手。だがその好印象以上に、激昂と共に叩きつけられた妙な問いが、揺波の記憶にその少女を刻んでいた。

 

 しかし、誰の耳にも届いていないであろう吐息の直後、細音の顔があからさまに顰められて、ふんという声が聞こえてきそうなくらいはっきりと顔を背けられた。

 ありありとした軽蔑の色に、揺波が目を丸くする。

 思わずきちんと声をかけようとしたが、その前に、圧のある老人の声が割って入った。

 

「枯れ木には、どうも厳しい向かい風のようだがな」

 

 杖をついた禿頭の男が、下駄で庭の砂利を鳴らす。古鷹が屹立する枯木なら、こちらは難解にうねった盆栽の如き老獪だ。

 老人がゆっくりと揺波たちへと歩み寄るのに合わせ、髪の長い青年が一人、並び立つ。為政者にしては若く、けれど纏う空気は自信に満ち溢れたそれ。両者共、手にミコトの証が輝くが、揺波は青年に古鷹以上の強さを感じ取っていた。

 

瑞泉海玄ずいせんかいげんだ。からっ風相手ならちゃんと名乗っておかんと、儂のような枯れ木など簡単に吹き飛ばされてしまうからな。で、こやつは息子の驟雨しゅうう

「父と違ってまだ根張りはいいほうだと自認しておりますので、色々手伝わせていただいております。どうぞ、お見知りおきを」

 

 紹介を受けて挨拶する驟雨。

 彼が声を発した瞬間、視界の端で細音が身震いしたのを揺波は見逃さなかった。薙刀を持つ手にも力が籠っているように見える。細音にも彼の強さが伝わったか、あるいは既知の間柄なのか、疑問に思うも訊ねられる雰囲気ではない。

 

 場の主導権を握った瑞泉家であったが、後は任せたとばかりに海玄は杖で息子の脚を小突く。

 時忠は、自分より若いとはいえ有力な家の次期当主を見下ろしていることに気づいて、慌てて庭に降りようとする。

 だが、驟雨はそれをやんわりと手で制した。

 

「私としても、天音さんとは仲良くしたいのです。きっとここにいる者で、そう思っていない方はいらっしゃらないでしょう。特に現状、北を統べる形となった天音さんは、二次的なものを除けば、我々と利益の奪い合いをしているわけではないのですから」

「そのような形に……なるのでしょうか」

「本家は幾分南側ですが、言うなれば大家会合初の北の大家――それが天音さんなのです。奪い合いどころか、これから多くの有益なお話ができるものだと考えています。今までは、北の地についてお話ししたくとも、善きお相手がそもそもいませんでしたから」

 

 すらすらと、淀みなく理屈を並べる。時忠の縮まりきっていた肝がほぐされていくかのように、表情が和らいでいく。

 

「ですが」

 

 続いた否定が、再び時忠を強張らせる。

 天音や龍ノ宮だけではなく、皆に説くように驟雨は告げた。

 

「父や、古鷹氏の懸念は誰も否定できるものではないでしょう。確かに事実として、天音さんは、攻めて、勝ち取った。そこに全体を想う論理はありません。龍ノ宮氏は古式ゆかしいとおっしゃりましたが、こうして手を取り合う我々に、そのような手段は似合いません。仲間として迎えるならば、同じ道理を奉ずるのが筋、というものではないでしょうか」

 

 そこで、と驟雨は龍ノ宮へと眼差しを向けた。

 

「この話は、龍ノ宮家と天音家が同盟を結ぶことに端を発するもの。ならば発起人である龍ノ宮氏が、天音家がこれから大家たる仲間であることを保証するべきであり、その保証において我々は天音家を快く歓迎すべきでしょう」

「……その『補償』ってのは?」

「旧来通りの手続きによって駆け上がってきた古強者なのですから、大家への旅程もまたそれによって終えるのが最も美しい……そうは思いませんか?」

 

 何を言っているんだろう、と揺波は思った。

 自分と家のことについて何か話されているとしか、彼女はもう理解できていなかった。次から次へと出てくる彼の言葉のそれぞれも呑み込みづらいのに、結局どういう話をしたいのかなんて、思いつくわけもなかった。

 

 それなのに、この男はさも理解できて当然といった口ぶり。

 大人たちは、これを理解できている。

 彼の意図もきっと分かるし、何を示そうとしているのかも分かっている。

 土俵が違うのだとごまかすにも限度があった。これを当たり前にしている大人たちが、揺波には名状しがたい物の怪のように思えていた。疑問と迷いに揺られる小舟の周りで、容赦なく不可解な流れを生み出され、揺波はなすがまま流れされることしかできなかった。

 

 だから、

 

「決闘か!」

 

 まるでそれは、真っ暗な海に天から垂らされた縄だった。

 唸り上げるように龍ノ宮が告げた答え。理解不能の潮流に弄ばれ、疑念の海に溺れようとしていた揺波の心は、あっという間にそれに縋り付いた。

 

 戦って、勝つ。

 これまで何度も繰り返してきたこと。そこに、分からないことなんてない。

 今まで呑み込めなかった会話を、全て頭の隅に押し込んだ。結論が決闘なのだとしたら、色んなことを考えて自分に決闘の場を用意してきてくれた父親の言っていることと、大して変わらないのだから。

 

 悪巧みに乗った子供のような龍ノ宮も、口を開きっぱなしにして頭を回している時忠も。

 あまりに遠くに聞こえる歓声の中、誰もが揺波を見ている。

 まだ理屈をこねている声がする気がしていても、耳に入ってこない。

 

「揺波……?」

 

 こわごわと名を呼ぶ父の声だけが、辛うじて耳に入る。

 けれど、揺波の口は勝手に動いていた。問われて返す言葉は、限られていた。

 彼女自身、聞こえないままに。

 

 

 

 

「我々に必要なのは、あくまで龍ノ宮氏の『保証』……お互い納得行く形であれば、いっそヲウカの御前である必要すらないかと」

 

 トントン拍子に決まっていく龍ノ宮対天音の流れを、氷雨細音ひさめさいねは黙して聞いていた。

 彼女の口元に、歪んだ笑みが浮かぶ。

 

 あの日からずっと、細音が北の地での桜花決闘を忘れたことはなかった。

 決闘代行を生業とする彼女にとって、儀礼や演舞ばかり依頼される昨今、久方ぶりの本格的な決闘には感謝さえしていた。敗北という結果も、奪われた桜や奉土にもさしたる未練はないし、後ろ盾である古鷹家への僅かばかりの申し訳なさがあるだけだ。

 

 胸の中で未だ燻り続ける憤り。

 その源泉たる少女と不意の再会を果たしても、護衛として控え続けられる程度にはかつての激情も落ち着いたが、熱が残っていなければそっぽを向いたりはしなかっただろう。

 最強の男と戦わされるとあって、熱量こそそのままだが、少し胸が軽くなった気がした。

 しかし、その正体と口元の笑みにようやく気づいて、細音は己を恥じた。

 

「っ……」

 

 細音には、この状況が愉快だったのだ。

 しかし、はしたないと反省する自分がいる一方で、その気持ちを否定はできなかった。湧き上がる愉悦に、唇が弧を描きすぎないように抑えるくらいが精々だった。周囲からの賛同の声色に似たようなものが混ざっていて、背中を押されたようでもあった。

 

 そんな心では、勝手に期待してしまう。

 天音揺波は、どんな声で答えるのだろうか。

 武に真摯ではなく、勝利が全てと宣う輩は、勝ち目のない戦いにどんな苦渋に満ちた声を上げてくれるのだろうか。

 

「揺波……?」

 

 気づけば、天音の当主が震える声で娘に縋り付いていた。

 聞き入る細音の耳には、息を呑む周りの人間の音すら邪魔だった。

 そして、待ち望んだ言葉が、場に響いた。

 

「やります!」

「……!」

 

 喜色の滲む、決闘の承諾。そこに、細音の待ち望んだ感情はなかった。

 落胆のあまり、薙刀を取り落としそうになった。胸が晴れるはずだったのに、期待を裏切られたせいで余計に重い雲となって立ち込めていく。

 

 周りの目をもはや気にせず、左手で顔を覆って息を吐いた。

 細音にはどんどんあの少女のことが分からなくなっていた。細音には、世を動かす重鎮に囲まれてああ嘯ける胆力はない。かといって、同盟を結ぶ以上、龍ノ宮の実力を揺波が知らないはずもない。もちろん、揺波が龍ノ宮より強いとも思えないし、それを悟れぬ者が己を打倒したともなれば腹が立つというもの。

 

 確かに、武に真摯でなくとも、天音揺波には才がある。

 ならば細音にはもう、天音揺波は俗な人間だと思うことしかできなかった。勝負の見えた茶番に喜ぶ理由なんて、その後の去就に目が眩んでいるからでしかないのだから。

 だとしたら、失望に底が抜けるだけだ。

 才を使い捨てようとしている者に、これ以上心を乱される謂れはなかった。

 

「っと、込み入った話になってしまいました。ぼちぼち、広間に腰を落ち着けるとします」

 

 龍ノ宮が手を鳴らすと、人々は三々五々散っていく。天音の処遇という最大の懸案事項に決着がつき、龍ノ宮との会談を求める者は後に続き、そうでない者同士で周辺の部屋へと向かっていく。

 誰かに話しかけられた古鷹を他所に、細音は広間へ向かう龍ノ宮たちを見送る。

 

 一行の最後尾で、とつとつと、上の空といった足音を刻む揺波。

 細音の口が、思わず開いていた。

 

「望んだ結末で良かったですね」

 

 細音はぞっとした。その声色は、自分で驚くほど嫌味に満ちていた。

 寒気の走った背筋を正しているうちに、揺波の足音は目の前で止まっていた。しかし、置いてけぼりにされた彼女は、何を言うでもなく、ただ細音のほうに顔を向けていることだけが分かった。

 

 また、だ。

 そうして彼女は、また不思議そうに首を傾げるのだ。

 かっとなって、湧き出てしまった嫌味をそのままにぶつけた。

 

「敗北によって得る栄華は嬉しいのかと訊いているのです」

「はいぼく……?」

「っ、あなた……」

 

 揺波には、全く響いている様子はなかった。

 その態度が、何か重大な思い違いをしていることに細音を思い至らせる。

 やがて一つの仮定に辿り着いたとき、細音は顔が粟立つようだった。

 

「まさか、龍ノ宮一志に勝つつもりだとでも?」

「はい」

 

 あまりに端的で、誤解の余地のない返事。

 他に気がかりなことがあって、労力を惜しんで対応しているかのような、削ぎ落とされた声色だった。

 声を荒げて反論しようとして、どうにか一度呑み込んで揺波に一歩近づいた。

 自分より背の小さな少女に言い聞かせるように、細音は努めて絞った声で言い募る。

 

「自分が何を言っているか分かっているのですか!? 南部の荒野をたった一人で平定した、あの最強の男が相手なのですよ? 奉納演舞ばかりの北とは訳が違います。それこそ、私相手に姑息な手段を使っているようでは話になりません!」

「…………」

「決闘が異論なく受け入れられたことの意味を少しは考えてください。誰もが龍ノ宮が勝つと確信しているからこそ、天音家のケジメとして成り立ったのです。この場の方々に決闘の見識がないとでも? 笑わせるなッ!」

 

 遠くで、古鷹が呼んでいる気がした。それでも止まらなかった。

 しかし、細音がどれだけ現実を以て打ち付けたところで、手応えはなかった。大樹を相手に打ち込んでいるときでさえ、ここまでの途方もなさを感じたことはなかった。

 

 やがて揺波は、行く手を塞ぐ形となっていた細音を避けて歩き出す。

 去り際に、揺波ははっきりと告げた。

 

「わたしは、勝つ」

 

 その声の力強さに圧倒され、細音は唖然として立ち尽くす。

 だからこそ、彼女には聞き取れなかった。

 揺波の声の、その儚さを。