八葉鏡の徒桜

プロローグ-6:そして彼女の旅が始まる

 

 肌をくすぐる隙間風は冷たい。けれどそれは北限の肉を裂くような厳しい冷気とは程遠く、彼の地に留まっていた者からすれば穏やかですらある。ましてや、番人の冷厳たる怒りをその身に受けた後ともなれば極楽にも等しい。

 

「うむんむー……むーん……」

 

 木箱で作った即席の寝台に寝かされているヤツハは、すぐ脇から聞こえてくる唸り声に眉尻を下げた。

 謎の力の発現により、辛くもコルヌから逃れられたヤツハとクルル。追い立てられるように北限を後にした彼女たちの姿は今、少し南下した北青地方の山間にある、打ち捨てられた山小屋にあった。

 

 横になったヤツハの身体のあちらこちらには、奇妙な絡繰が取り付けられていた。力を引き出したあのおかしな籠手を始め、頭には木の帽子を被せられ、露わになった腹部では小箱が淡い緑色の光を放っている。

 それら絡繰に設えられた歯車の律動は、革紐を通して寝台の傍に据えられた一抱えほどもある別の機器に伝わっている。かしゃり、かしゃりとヤツハから得た情報を吐き出すように音をたてて動いているのだが、彼女にはそれが具体的に何を示しているのかさっぱりだった。

 

「あの……どうでしょうか」

「うはぁー、駄目ですぅ……」

 

 何度目かも覚えていないその問いに、機器と向き合っていたクルルは背を床に投げ出した。

 製作者であるクルルは、始めのうちは爛々と目を輝かせて観察を行っていた。しかし、それもだんだんと雲行きが怪しくなり、手を変え品を変え試してみたところで改善はされず、頭を抱えるようになって今に至る。

 

「やっぱり、分からない、んでしょうか……?」

 

 被験者として試行錯誤の過程を知っているヤツハにしてみれば、抱いていた希望がすり減るのも無理はない。思わず口に出していた疑問に、にじみ出た落胆の色が乗る。

 ただ、クルルはそれにはっきりと否定を返した。

 

「そじゃないですぅ。手応えはあれど、かっちり掴むにはどーにも設備が足りないのですぅ……」

「この、神渉装置……でしたっけ? 力を引き出したこれでも駄目なんですか?」

「足りないですねぇ。その神渉装置はもとの仕組みをちっさく再現しただけなので、雑に力を引っ張り出すのが関の山ですぅ。計測には不十分ですし、やつはんの権能だと下手に引っ張り出すと制御できませんからねぇ……」

 

 力なく説明するクルル。ヤツハが思い出すのは、あの恐ろしい星空の怪物が暴れまわる姿であった。

 

「時間をかけてえっちらおっちら組み上げれば完全な神渉装置は作れますけど、そこまでするとどーしても目立っちゃっうんですよねぇ。くるるんが大仕事をすると、なんでかみんな止めにくるんですよぉ。それこそ今だと、絶対こるぬんは北限から邪魔しに来ますぅ」

 

 軋む床に背を預けたまま腕を組んで唸るクルルを横目に、多少慣れた手つきでヤツハは自ら計器を外していく。

 身体を起こしたヤツハの口から溢れるのは謝罪だ。

 

「ごめんなさい……その、私のせいで」

「いえいえん。悪いのは他のみんなですから、どうぞお気になさらず。真理の探究のためだっていうのに、どーしてみんなくるるんの邪魔しようとするんですかねえ、ぷんぷん!」

 

 そのわざとらしい憤りにも、どこか覇気が欠けていた。クルルの意欲が衰えていないことに安堵こそすれ、壁にあたったやるせなさは如何ともし難い。

 

「なら、どうすれば……」

 

 困窮が、装置も静まる小屋の中にいやに響いた。

 ヤツハには今、その身を供することしかできない。

 自分のことだというのに、行き詰まったところで何もできない己の無力感に苛まれる。せめて思考を止めないことを義務として課していたが、そうしたところで考えるための土台すらあやふやなヤツハに明瞭な答えが出せるはずもなかった。

 

「その設備というのは、どこかにないんですか……? ここで作るのが駄目なら、と思って」

「ぬーん……といいましても、そんな大掛かりなものは――ん? んん? んー……」

 

 ふと、引っかかりを覚えたのか、表情を無にして思考の海に潜っていくクルル。目を開けたまま寝ているような姿にヤツハは気味の悪さを覚えるが、この協力者が妙な思索に入り込む光景は短い間ながら何度か見てきたものだ。

 そして、肝をつぶすような彼女の意識の帰還も。

 

「くるるーん☆ ひらめきましたぁ!」

「……!」

 

 絡繰のような不気味な動きでいきなり上体を起こしたクルルに、びくりとヤツハが肩を震わせる。この唐突さに彼女が慣れることはなかった。

 クルルはそんな動揺など一切気にかけることなく、口端を吊り上げた笑みをヤツハに向けて答えを作る。

 

「ないすあいであですぅ、やつはん!」

「は、はぁ」

「完全態じゃあなくても別にいいんですよ、神渉装置! あのときのぱーつならまだまだ使えるじゃあないですか。残ってるはずですぅ、南の果て――瑞泉に!」

 

 どうしてこんな単純なことに気づかなかったのかといった様子で、御しきれないもどかしさが虚空を握って揺さぶる手に現れる。

それは、ヤツハの調査を始めたばかりの、期待に溢れたクルルの姿と同じだった。

 たった一つの可能性を得ただけでこうも胸を膨らませられる。その真っ直ぐさに見出した希望が、ヤツハを小さく微笑ませた。

 

「よかった……果て、というと、ここからは距離があるんですか?」

「むむーん、そうなんですよねぇ。それが厄介なんですよねぇ」

 

 今度は腕を組んで悩む様子を見せるも、その口ぶりは予め答えは出ているような、ある意味それも真っ直ぐな悩みだった。

 

「確かにここからだと遠いので、あっちを経由したほうがちょろっと楽できるんですけど、今やつはんには桜に帰って欲しくないと言いますかー」

「桜に帰る、というと、くるるんさんが前に言っていた、メガミの住んでる世界という場所にですか?」

「ですねぇ。桜を伝っての移動ですから、とーぜんそっちに行かないといけないんですよぅ。ただ、やつはんは謎が謎を呼ぶ存在ですからー? 眠っていたのかも、生まれたばかりなのかも分からない状態なんで、できればありのままのやつはんで居てほしいんですねぇ。楽するためにあっち行って、何かあったら本末転倒ですぅ」

 

 だから、と胸元で手を手を合わせながら、悪戯めいた表情を浮かべた。

 

「めんどーですが、歩きの旅になっちゃいますけど、そゆことで!」

 

 もはや確認ですらなく、一方的に事実を告げるようですらあって、クルルのあまりの自分勝手さにヤツハは思わず苦笑いする。

 けれど、ヤツハがそこで後悔を覚えることは決してない。

 いわばそれは、掴んだ手が間違っていなかったことの証左なのだから。

 

「いいと思います、歩いて旅をするの」

「おぉ……」

「私、自分のことも知らなければ、ここのことも何も知らない……だから、この地のこと、ちゃんと知りたいんです。旅の終わりには自分のことも知れるわけですから、ぴったりなんじゃないでしょうか」

 

 快く同行する意を、ヤツハは朗らかに示した。

 ただ、その中で一つだけ抱えた根拠なき想いまでは、クルルに告げることはなかった。メガミについていくらか教えられ、己もまたメガミだと言われているというのに、どうしてかメガミの世界に行くことは何かが違うのだと、不思議と直感していたのである。

 けれど、その不確かな違和感を訴える必要は、今はもうない。

 綻んだクルルの顔に未来への道が見えたような気がして、ヤツハもまた、小さく笑った。

 

「やつはんは分かってますぅ……! 理解ある協力者もまた、得難きとれじゃー……!」

 

 そう言ってクルルは勢いよく立ち上がると、

 

「それならそれなら、くるるんがこの桜降る代をご案内しましょう! そですねぇー、瑞泉まで行くなら、あそことー、あそことー、ああ行ってー――あっ……むふふっ、アレはかかせませんなぁ」

「あ、アレ……?」

「おったのしみにぃ! そうと決まればれっつらごーですぅ!」

「あっ、えっ、もう行くんですか!?」

 

 疑問に答えることなく、ぐいぐい背中を押してくるクルルに負けて立ち上がったヤツハは、それから歩き出すクルルに手を掴まれ引っ張られていく。ついさっきまでずっと面突き合わせてきた機器のことも忘れてしまったように、外へ向かう足取りは軽やかにして力強い。

 その強引さにはやはり苦笑してしまうけれど、縺れそうになりながら合わせていったヤツハの歩みは、自然と自らクルルの後を追うようになる。

 

 見えてきた希望が、この地への興味が、微かに心を躍らせる。

 何も分からないという不安に満たされていたヤツハは今、たとえ手を引かれながらであっても、はっきりと前を向いていた。

 

「片付け、しなくてよかったんですか?」

「振り返らないこともまた大切なのです。ささ、行きますよぅ!」

 

 

 勢いよく開け放たれた戸。降り注ぐ昼下がりの陽光に手を翳しながら、期待でもって開かれた代をヤツハは見渡す。

 雄大に広がる森林、それを越えた正面には果てまで続く大海原。鈍色の空に覆われた北の大地を右手に見れば、目指す南にはこの地に生きる人々の営みの形が小さく窺える。そして、その彼らを見守る大小様々な神座桜が、まるで道標となるようにこの日差しの中でも燦然と桜色に輝いていた。

 

 この眺めの中にある多くのものを、ヤツハはまだ知らない。けれど、これから知ることはできる。その意志が、彼女の中にある。

己が何者であるか、求める想いも。

 ……しかしその想いが、手を伸ばした先で待ち受ける真実も、その果てに巻き起こる騒乱も、受け止められるだけのものなのかどうか、今の彼女には知る術はない。

 

 希望を胸に、二柱は寂れた山小屋を後にする。

 新たな旅が、ここに始まりを迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『八葉鏡の徒桜』三盟一八年、弥生から皐月にかけて

作:五十嵐月夜 原案:BakaFire 挿絵:TOKIAME