八葉鏡の徒桜

プロローグ-4:ささいないつもの談話

 

 暁星塾。それは、桜降る代の到来に合わせるようにして姿を現した、賢人へ至る階段である。

 有力な家々に知恵を貸す賢人集団・碩星楼から派生した学習機関であり、上は高級文官に必要な政治学や弁論術から、下は庶民に向けた算術や字の書き取りに至るまで、幅広く知識を学ぶことができる。桜降る代における頭脳の教えを直に受けられるということもあって、各地方から門を叩きに来る者が絶えることはない。一部では、分校をお膝元に誘致せんとする駆け引きが大家間であるとかないとか。

 ただ、そんな噂が立つのも無理からぬ話で、暁星塾で得られる叡智は何も人間の賢人からのものだけではない。むしろ、主宰にして学習要項を取りまとめている張本人であるメガミ・シンラこそが本命なのである。

 

「ほんと、いちいち面倒くさいわね」

「一応、決まりですので」

 

 

 そんな彼女を訪ねに、トコヨの姿は古鷹の都にある暁星塾一号館にあった。もはや顔見知りとなった講師に連れられる先は、一般の生徒が立ち入れない碩星楼の分室である。その一角にシンラの部屋は設けられていた。

 案内役の彼の苦笑に、トコヨは小さく頬を膨らませる。表に出てくるようになろうが、シンラの秘密主義は大して変わりない。古鷹天詞の教師を受け持ってもらっていた関係で、この二十年ほどは前より顔を合わせているにもかかわらず、である。

 

「シンラ様、トコヨ様がお見えです」

 

 どうぞ、と中から返ってきた許しを受けて木戸が引かれる。案内役は軽く礼をした格好のまま脇で控えており、これ以上ついてくることはなかった。

 板間の室内は昼下がりの暖かい自然光で満たされているが、風の流れは感じられない。贅沢にも各所にあしらわれた開閉式の硝子窓は、今は総じて閉め切られているようだ。入口側の壁面に据えられた大きな書棚には、冊子のみならず陶器や扇といった工芸品もまた飾られている。その中には、明らかに古鷹とは色の違う品々も交ざっている。

 

 奥の十畳ほどには、豪奢な織物が敷かれていたり、脚の長い机や椅子が置かれていたりと、この地とは別の空気が漂っている。けれど、たびたび訪れているだけあって、トコヨにとってはそれでもいまさら感想を抱くものではなかった。

 しかし、部屋の主の姿を見た彼女に、思わず笑いがこみ上げる。

 

「えー、なにその格好。あんたが語り手以外で舞台に上がるのは無茶があると思うけど」

 

 

 

 

 

 豊かな金の髪をたくわえたシンラの装いは、普段の野暮ったくなるような単衣の重ね着ではなかった。淡い紫地に金の縁取りをしたそれは、頭からすっぽりと筒のように布を被ったようなものであり、まるで垂れ幕を羽織っているかのようだ。

 そしてその頭の頂には、前後を山のように尖らせた帽子。金の糸で施された刺繍は星を中心とした文様を象っており、全体的に学問の師範というには些か華美な装飾であった。

 机に置かれた分厚く装丁のしっかりとした本を指で撫でるシンラへ、

 

「あ、ひょっとして年末のお祭りの続き? 今度はどんな贈り物くれるのかしら」

「その話は忘れなさい」

 

 それに、とシンラは続けて、

 

「これはあの小娘の作ったものではありません。あんな余興の類と一緒にされるなんて、海の彼方から嘆きの声が聞こえてくるようです」

「あぁ、そゆことね」

 

 とてとてと歩み寄ったトコヨは、確かに異邦の調度類とのほうがいくらか調和していそうなシンラの装いを、摘んで広げてみたりとやや淡白な好奇心で調べて回る。

 

「そういえばあんた、行ったって言ってたっけね。思い出してきたわ、久々に随分と長い留守だったもんだから、天詞が助言もらえなくて胃を痛めてたのよ」

「私にそれを言われましても……トコヨがついていたでしょうに」

「しばらく代理やってたけど、結局政なんてさーっぱり。ま、一人でなんとかするいい機会だったんじゃない?」

 

 で、と逸れかけた話題を、椅子に腰掛けたトコヨは自ら戻す。

 

「その妙ちくりんな衣装は、その海の向こうからの貰い物?」

「ええ、前回行った折にいただいたものです。しばらく仕舞っていたものですから、虫にやられていたりしたら合わせる顔がありませんし、今のうちに出しておこうかと」

「今のうち……って、なに、もしかしてそれ着てまた行くの?」

 

 シンラはその問いに微笑みを浮かべながら、羽織りを両手で摘んでひらりひらり、と誇示するかのように軽く揺らしてみせる。

 

「次で三度目です。イコウを示すには良い手段でしょう?」

「……そうね。いいイショウなんじゃない?」

 

 感心を示しながらも、肩をすくめるトコヨ。その視線は、表地の藤のように淡い色合いと、裏地の柘榴のようなそれの対比をあからさまに追っていた。

 ただ、含みを残したトコヨの態度にも、シンラがそれ以上言葉を重ねることはなかった。問われたことに十分答えたのだと言わんばかりに、ゆったりとトコヨの正面に座ってみせる。

 そして、壁を設けるようにトコヨへ水を向けてきた。

 

「それで? 今日は何故こちらへ?」

 

 顔をしかめたトコヨはそれに、

 

「なによ。語らいに来ちゃ駄目だっての?」

「語らうにしては随分と刺々しいですね。気に食わないことがあると顔に出ていますよ」

「トコヨちゃんは正直者で通ってますからねっ!」

「ふふ、化生や道化の役さえ豊かに表現する演者としてのあなたと、どうしてこうも変わるのでしょう」

 

 少々ずるい物言いに咄嗟に反論が思いつかなかった。足を支えに両手で頬杖をつき、にこにこと態度を変えないシンラに恨めしさ半分の視線を送る。

 それからトコヨは一つ、大きく溜息をつくと、本題を口にした。

 

「ま、ほんとに大したことじゃないのよ。言葉にし辛いんだけど、座員に妙なやつがいるの」

「妙……?」

 

 半ばオウム返しのように訊ねるシンラに、トコヨは話を続ける。

 

「力の使い方が妙なのよ。工夫して腕を上げたならいいんだけど、そういうのとも違うのよね。ささやかな差だけど、舞台の上だったからどうにも頭に残ってるの。で、気晴らしついでにあんたのところでも似たようなことがないか、訊きに来たってわけ」

「雲を掴むような話ではありますが……」

 

 指を頬に当て、僅かに考える所作をとっていたシンラだが、結果はすぐに出たようだった。

 

「少なくとも、私は認識していませんねえ。そういった報告も上がってきていません」

「そう……」

「まあ、気にしておきましょう。しばしこの地から離れる身ではありますが」

「それもそうね……」

 

 空振りに終わったものの、トコヨはさして残念がる素振りを見せなかった。それは確証のない問いに明白な答えが返ってくることを予期していたからであったが、その中には、これが杞憂であるに越したことはないという、安堵にも似た感情も微かに含まれていた。

 よし、と腿を叩き、トコヨは立ち上がる。

 

「何も起きてないならいいの。変なこと訊いたわね、邪魔したわ」

 

 そのまま去ろうとした彼女だったが、「まあまあ」と宥めるシンラに引き止められる。

 同じく立ち上がった彼女はそのまま書棚に向かいながら、

 

「最近、面白い書を仕入れまして」

「…………」

「これなど、海の向こうの紀行文ですよ。交流が活発になったのもそうですが、サリヤの協力もあって翻訳が進んだ成果が、こうして近年如実に現れて喜ばしい限りです。……あっ、これは確か、あちらの特権階級における恋模様を描いたお話だったような」

 

 書を掲げたシンラから、一段と深めた笑みを向けられる。有無を言わさなくするというよりも、前言撤回するお膳立てを整えてあげた、トコヨを知悉した誘いだった。

 それを跳ね除けるまでは機嫌を損ねていないこともまた、見通されている。

 

「しょうがないわねえ……ほら、貸してご覧なさいよ」

 

 表面上は嫌そうでも、再び腰を落ち着けたトコヨは決して満更でもないといった様子。なんだかんだと、好みを理解し合える同士、それもメガミ同士ともなれば限られる。単に好物を目の前に吊り下げられただけではなく、語らえる相手はやはり代えがたいのである。

 ただ、異なる装いはちょっとばかり落ち着かない――座り直したシンラから漂ってくる妙な神々しさに違和感を覚えながら、トコヨは差し出された草紙を愛おしい手つきでめくった。

 

 

 

 

 帰りましたか。あなたもお疲れ様。あなたは碩星楼の一員でしたね? もしそうでしたら、続けて聞いておきなさい。

 

 

 

 トコヨとは、しばしばこういった語らいに興じます。本校が古鷹の地にできてからはより機会が増えましたね。互いに一筋縄ではいかぬ語り相手であり、なかなかに心地よいもの。故に談話の動機など、どうでもよいのです。

 此度の動機もつまらないことのようですが、絵にかいたような不機嫌に偽りはないようですね。全貌は判然としませんが、頭に残すくらいはしておくべきかもしれません。

 しかし悲しいかなこの身はひとつ。あなたにもご覧いただいた通り、私はしばしこの地を離れます。私たちは長く静かな戦いの最中。そのために私は一足先に、次の次の舞台へと渡ります。

 ゆえにこの話は、あなたが覚えておきなさい。戻るまでの間、こちらはあなたたちに任せましたよ。

 

 さあ、知性ある者たちよ。

 共に我らがイコウを示すとしましょう。