私はそれまで、ふわふわとただたゆたっていた。
まるで長い夢を見ていたように。
視界なく、
感覚なく、
意識すらなく。
いつからそこにいたのかも、わからなかった。
彼女が目覚めて最初に感じたこと、それは『身体が動かない』という困惑だった。
緩く膝を抱くように丸まって横になっている彼女の身体は、この場の寒さから少しでも身を守ろうとしているようである。感覚が鈍るほどに冷え切ったためだろうか、瞼さえ動かし方を忘れたかのようになかなか上がってくれなかった。
ゆっくり、ゆっくり、節々が凍りついた手先にも力を込めつつ、閉ざされていた視界が徐々に開けていく。
「ん……」
眩さは、そこにはなかった。ただ、落ちてくる暗闇を辛うじて下から支えるように、目鼻の先に落ちている透き通った小石のようなものが、不思議な淡い光を放っていた。目を動かせば、似たようなものが点在しているようだった。
光の在り処を追っていくうち、彼女は自身が今、地面に寝転んでいることを理解した。目にした床の質感は明らかに石である。しかし一方でその地面は荒れた肌を晒しているわけではなく、凹凸に身体が痛むことがない程度に、手間ひまかけて削ったように平らであった。動くようになってきた手で触れれば、温度のない感触が返ってきた。
けれど彼女は、ここが一様な石床ではないこともまた、彷徨わせた視線の先に見出していた。
頭の上のほうの床から、樹のような肌をした何かがこんもりと隆起している。少しだけ硬質的で、年月の重みによって表面が石になってしまったかのようだった。だが問題は、それに蔦のように絡みついているもののほうだった。
「…………」
ソレまで手を伸ばそうとして、彼女は思いとどまった。触れて大丈夫だと思う自分がいる中で、常識からずれてしまったようなソレの見た目に躊躇した。
ソレは樹肌状の何かと同じように硬質的だったが、比べ物にならないほどにその見た目は植物から程遠い。まるで鉱物の薄い板を一枚一枚張り合わせて作られたようで、自然の産物と認識するのを拒絶してしまいたくなる。それだけならまだしも、その結晶質の蔦の色合いは、赤から緑、青や黄と、あらゆる色を混ぜ込んだとてもこの世のものとは思えない模様で、神秘さを越えて奇妙に映る輝きを放っている。
そこでようやく、彼女は強張った上体を起こした。振り返れば、樹肌の何かと奇妙な蔦が、地中から自分の頭に向けて手を伸ばしていたようだった。
見回せば、仄かな光と奇妙な蔦、そして自分以外には何もない空間だった。おぼろげに見える壁もまた、床と同じように不自然なまでに整っており、三方を囲っている。正面、残りの一面には闇がわだかまっており、オォ、とその先で風が強く鳴いていた。
ぺたりと座り込んだ格好となった彼女から、長い髪がはらはらと流れ落ちていく。暗い夜空の底に沈んだような、紫を深く煮詰めた色合いの髪の先端は、結った際から影に溶けていくように僅かに透き通っていた。
肩の出たその装いは決してこの場の寒さに応じたものではなく、袴も相応の丈はあるもののざっくりと空いた横合いから滑り込む冷気が、肌着の上から脚を撫でる。装束の縁取りには直線的で歪な文様があしらわれていたが、それの意味するところは彼女には分からなかった。

「え、っと……」
疑問に次ぐ疑問が、目覚めたばかりの彼女の脳裏を駆け巡る。
そして思考の坩堝を彷徨い、最も根源的な疑問へと辿り着く。
私は誰なのか。
自問自答を試みれば、これまで数多の疑問に答えられなかったのが嘘だったかのように、その答えだけは驚くほど簡単に得られた。
ヤツハ。
その名は、彼女の知識の中に至極鮮明に刻まれていた。それを噛みしめるように、そして己を抱きしめるように彼女は手を握り、胸へとあてた。
私は、ヤツハ。
名はあまりにも自然に、意識から喉元へと滑り降り、彼女の腑に落ちる。
……だが、そこまでだった。
唯一確からしい己の名だけが、暗闇の中でぽつんと浮かんでいるようだった。
そう……ヤツハには今、名前以外に己というものがなかったのである。
自分は一体何者なのか。
何故ここで目覚めたのか。
洞窟の最奥にいるということは推測できても、ここに至るまでの経緯が出てこない。切り取られたような空間は明らかに自然のものではないし、結晶質の蔦がなおさら普通ではないことを示している。なのに、自分がそんな特異な環境の中心に置かれていることに対して一切の説明ができない。
じわじわと、何が分からないのか分かるたびに不安が湧いてくる。まなじりを下げながら、何度も確かめるように洞窟を見渡しても、状況を紐解く糸口は見つからない。
大抵の者であればここで不安に呑まれてしまってもおかしくはない。けれど、ヤツハは考え続けることで冷静さを保っていた。誰かに縋るような表情とは裏腹に、自分にできることはやっておく、という芯が一本、きちんと通っている。
ただ、自分の中が空っぽである以上、どれだけ観察を重ねても分からないものは分からないままであった。寒い場所にある、深い洞窟の奥、などという毒にも薬にもならない推測しか生まれない。仕方のないことだったし、重要な何かを突然思い出す、などと都合のいいことが起きる気すら微塵もしていなかった。
「どうしよう……」
不思議な蔦に目を落としながら、手のひらの上で光る小石を弄ぶ。
行き止まりのここで過ごしていても状況は変わらない。ここに居続けて大丈夫なのかも判断がつかない。そもそも自分が何をもって大丈夫と言えるのかすら分かっていない。とはいえ、変な胸騒ぎがするといった無意識の警鐘が鳴らされているということもなく、別段焦りが生じていなかったのは幸いだったと言える。
考えるためにも、材料が足りない。手がかりはもうここにはない。あるいは他に自分と同じ境遇の者がいれば会いたかったが、動かない限り望むべくもない。
ならば、とヤツハが意識するのは、背にした空間の出口だった。風の鳴くその先に待つ外に行けば、少なくともここがどこなのかが分かるはずだった。外の景色も知らないものなのだとしたらお手上げなのだけれど。
結論は、固まりつつあった。指針が、彼女の不安を期待に載せ替えていく。
けれど、
「……!」
カツ、と。
静寂の中でいやに大きく響く音が、その背後から生じた。ヤツハの中で揺蕩っていた不安が、咄嗟に彼女を振り向かせる。
澱んだ闇を背に、立っていたのは女だった。
「ほう……?」
余裕を感じさせるよう、薄く笑みを浮かべるその女。腕を組み、ヤツハのことをあからさまに値踏みするような視線を隠そうともしない。その印象は決して、靴底から生えた大きな刃も相まって、座り込んだヤツハを見下ろす構図になっているせいではなかった。
女の名すら、ヤツハには分からない。けれど、決して友好的ではないことだけはすぐに理解できた。
その瞳は、ひどく冷たかった。
冷酷と判じることまでは憚られ、次に浮かんだのは冷徹という言葉だった。惑うヤツハをじっくりと見定める女からは、同情や憐憫などという生易しい温度は感じられない。それどころか、つららのように鋭い眼光は敵視とすら呼べるものであった。
他者の存在に見出していた希望は、瞬く間に潰えていた。この場に広がっていく厳然たる警戒心と冷厳な空気に曝され、縋る相手を得られなかった心がどんどん澱んでいく。
ただ、ヤツハにとっては見た目も雰囲気も、己の感覚を信じるための支えでしかなかった。
やはりそれを、彼女は明確に説明することができない。しかしその女――コルヌからは、ある種の恐ろしさを肌で感じていたのである。
「…………」
じり、と心ばかりに後退る。彼女にとっての目覚めと遭遇は、こうして始まった。
私はこのとき、不思議と直感していました。
目の前のこのヒトとは、手を取り合えないのではないか。
そんな寒気を感じるような、気持ちの悪い感覚を。