「はぁー……」
まだ熱を帯びた吐息が、ヤツハの口から漏れていく。縁側から外に投げ出した素足は、見てくれの悪い靴脱ぎ石にその火照りを鎮められて久しいけれど、彼女の心に焼べられた熱は未だ冷めることはなかった。
感嘆の溜息ももう数え切れず、過ぎた時間に囚われているよう。半ば上の空のままの彼女の視界には、低くなってきた陽を浴びる神座桜の姿があった。
「とてつもない強さでしたね……私が至らないところもありましたけど、じゃあどうすればよかったのかとなると、何度考えても全然思いつきません……」
そうして何度も至った結論を、改めて声に出した。隣では、夕餉用に笊いっぱいの芋を剥いていたハツミが、手元に視線を落としたまま同情するように微笑んでいた。

突然彼女に申し入れられた決闘は、前の一戦で上がった息が整い次第早々に行われ、そして相手がろくに息を荒らげぬうちに終幕を迎えた。
先日まで青雲に翻弄されていた通り、ヤツハが持つ桜花決闘の経験値はたかが知れている。権能の希少性も、うまく活用できなければ何度も刃を交えた相手には無為となる。ただ逆に、夕羅に勝利したときのように、その特異性故に強い相手でも最初のうちは不意を突くことだってできる。
だが、肉厚の刀を振るい、桜下を駆けた彼女は違った。
一度喰らいついたら離さない攻めも、本命の一撃へ常に余裕を持って対応する守りも、こちらの焦りを看破するように的確に打ち込まれる大技も……その動きの全てが、あらゆる不意を想定するという矛盾を叶えるように、一切の淀みなく成されていたのである。
間違いなく、夕羅よりも青雲よりも強い。ヤツハに分かったのは、そんな冗談じみた敗北を味わうといっそ感動するという不思議な情動だった。戦術面はさておき、力の使い方は最近でも特に上出来だったのが、その清々しさの一因かもしれない。
そして、もう一つ、決闘を通じて理解したことがある。
「ユリナさん……メガミ、だったんですね」
「流石に分かりますか」
ええ、と相槌を打つヤツハ。半ば確信していたことではあったが、自らの感覚を認められてほっとする。
彼女が相対した力とは、夕羅のようでも青雲のようでもなく、まるでその胸の内から滔々と湧き出ているようであった。メガミに力を向けられるのは北の果て以来これで二度目だが、決闘という枠組みの中であっても、その威圧感に終始気圧されていたことは否めない。
「ユリナは武神と呼ばれているメガミの一人です。ただそれ以上に、現代の桜花決闘の顔役として名前が広まっているメガミでもあります」
ちら、とヤツハの顔色を横目に窺ったハツミが、結局自己紹介もろくにしなかったユリナの代わりに素性を告げる。
「顔役……?」
「一昔前まで、決闘の文化って下火になっていたんですよ。それを盛り上げて、今の形に持っていった立役者がユリナです。今の決闘の宣誓もユリナたちが考えたものですし、ある意味では新しい桜花決闘の創始者と言っても過言じゃないかもしれませんね」
「そ、そんなすごい方だったんですね……」
そう聞くと、いまさらながら尻込みしてしまう。たとえばハツミなら海の民に、クルルなら技師たちに影響を及ぼしているが、桜花決闘の担い手だというユリナはつまりこの地に浸透した文化を介して、ほぼ全ての人々に関わっていることになる。あまりの規模に考えも追いつかない。
「元々人間なんですが、そのときからの決闘馬鹿が高じて、決闘を運営する今の立場に収まってるわけです」
「え……ミズキさんと一緒で、メガミ成りされたんですか?」
「ですです。当時から百戦無敗なんて渾名されるほど、腕の立つミコトだったみたいです。その頃に起きた大騒動が、メガミ成りのきっかけにはなったんですが……まだ子供だったのに、生死をかけて敵に立ち向かった動機は『桜花決闘を守るため』ですからね。ユリナ以上に桜花決闘のことを考えてる人はいないでしょう」
「…………」
苦笑いしながら、ハツミは淡々と包丁を動かす。芋が煮崩れないよう面取りまでしているが、丁寧に過ぎているように見えるのは気のせいではないと、視線を部屋の中へ――正確には、壁のその奥へと向けた。
話題に上っているメガミは、まだそこにいるはずだった。我々だけで話がしたいと、青雲からしばらく席を外すように頼まれていたヤツハたちに、その様子は窺い知れない。
ただ、ヤツハは今のハツミの言葉に、少しどきりとしていた。
声は聞こえなくとも、何も告げられていなくとも、自分という素性の知れない存在が俎上に載せられている可能性は大いにある。その理由が明確に与えられたような気がして、冷めやらぬ決闘の興奮の陰から不安が這い出てきたようだった。
守る者には、敵が存在する。
脳裏に過ぎったのは、苛烈に吹雪く銀世界だ。
「あー……確かに、ヤツハのこと警戒してたんだと思いますよ」
顔を戻せば、ハツミがばつが悪そうにヤツハのことを見ていた。コルヌのことにまで至ったかはともかく、反応の鈍かったヤツハが考えてしまったことに気づいたようだった。
でも、とハツミはすぐさま続けた。
「決闘の様子だとか、顔色を見ていた感じ、ヤツハのことは分かってくれたと思います。拳で語り合ってた、なんて言うと暑苦しいですけど」
「はあ……」
冗談めかして補足されたが、ヤツハの憂いがまるごと払拭されることはなかった。
それでも、手元に目線を戻したハツミは至って軽い調子だった。杞憂だと笑い飛ばすほどではないけれど、その胸にはきちんと安心を抱いているようである。
「大丈夫ですよ。青雲さんも、うまく説明してくれてるでしょうし」
「そう、ですね」
静かに諭されたヤツハは、冷え始めてきた脚を下穿きに通していく。目的や結果がどうであれ、ユリナとの決闘で得たこの熱は、逃げていくのが惜しいと思うくらいには偽りではないはずだった。
それから、どちらが何を言うでもなく、社務所の縁側には穏やかな時間が過ぎていった。しょりしょりと芋を剥くこそばゆい音が、神座桜につけた計測装置の小さな唸り声と共に耳をくすぐっていた。途中、痒みに辟易したらしいハツミが、自前で水を出してぬめりと格闘していた。
太陽は着実に西に向かっており、もうしばらくもすれば空に茜色が滲む頃合いだった。日中に決闘をした日は、だいたいこのあたりから風呂の支度を始めるのが習慣になっている。元々あった青雲作の鉄砲風呂はクルルに改造されてしまい、湯屋もかくやという立派な釜が据えられて久しい。
お湯の張り替えが必要かどうか思い出しつつ、ヤツハは薪の用意をしようと靴に足を差し入れた。
と、そのときだった。
「ぬわんですかさっきの決闘はぁ!?」
「……!?」
突然、壁を叩いたような衝突音と共に、ヤツハたちめがけて家の中から大声が轟いた。手元が狂ったのか、隣のハツミが押し殺した悲鳴を上げていた。こんな騒ぎをもたらす存在は限られている。
案の定、振り向いたヤツハが捉えたのは、勢い余って部屋の入り口の柱に激突していたクルルの姿であった。彼女は頬に痕を残しながら、縁側で身を縮めていたヤツハに向かってずんずんと歩み寄ってくる。
興奮しているクルルは滑るように腰を落とすと、ヤツハの肩を後ろから揺さぶってまくしたてる。
「さいっこうの解析結果が出てるじゃあありませんか! りあるで見落とすとはくるるん一生の不覚……くるるんはあのくっきり遷移が見たかったんですよ! 何がありました? 怪物さんと仲良しになりましたかぁ!?」
「えっと、ユリナさんという、メガミの方と、決闘しただけで――」
されるがままにヤツハは答えるも、クルルは特に興味を惹かれなかったようで、
「度重なる実験でやつはんの制御はすむーじーになってきましたけど、今のはぱーふぇくつでしたよぉ! 正確なでーたこそがかけがえなきふらぐめん……みすてりぃを切り拓くのですぅ!」
そこから導かれるものがなんなのか、クルルの手をやんわりと止めてから、ヤツハは目で問いかけた。
クルルは、にっこりと口元だけ笑わせながら、こう告げる。
「ついに、仮説が立証できたかもしれません!」
言っていることは簡単なのに、言葉を噛み砕くのにヤツハは幾許か時間を要した。
ここに来た目的が、果たされようとしている。
求めた真実に、指先で触れようとしている。
今日の決闘がきっかけになるなんて予想だにしていなかったせいで、実感が遅れてじわじわと湧き上がってくる。その気持ちが本物かどうか誰かに確かめて欲しくて、ハツミと顔を見合わせた。彼女もまた、徐々に顔が緩み始めていた。
堰を切って溢れ出した感情は歓喜だった。
二柱に、笑顔が咲く。
「やった! やったじゃないですか、ヤツハ!」
「はいっ! 本当に、結果が出てよかったです! 突然でびっくりしちゃいました」
「あはは。ヒヤッとする来客が、まさか成果に繋がるなんて思っても見ませんでしたね! あとでお礼言っといてもいいかもしれません」
「はい……お世話になった方がまた増えちゃいましたね」
芋を放り出したハツミと手を合わせ、喜びを分かち合う。劇的な終わりではなかっただけに想いが爆発することはなかったけれど、長かった道のりを振り返ってしまうくらいには達成感が生まれ始めていた。
そして、一番長く、その道行きに付き合ってくれた者への感謝も。
「くるるんさん、本当にありがとうございます! 着いてからずっと実験で、とっても大変でしたよね……」
「わっはっは、未知への探究のためならこの程度、よゆーもよゆーなのですよ。むしろ、被験者に協力してもらえるとこーんなに楽ちんなのかって、くるるん感動してるくらいです」
「私からもお願いしたことですから、当然です……!」
互いのため。その繋がりが変わることはなく、当初の望みを叶えようとしている。
しかし、ヤツハの目には、興奮するクルルが何かに意識を囚われているように見えていた。彼女が満足する結果を得てもさらに考えに没頭してしまうことはよくあることだが、それにしても思考に意識が向きすぎているような気がしていたのだった。
小さな違和感で片付けようと思えばできてしまう、その程度の感覚。
ただ、それを支持するような提案が、クルルからもたらされる。
「念の為、もっかい見直しますが、この後……陽が落ちないうちに、最終確認のための実験をお願いしたいのです。決闘じゃないので、せーうん居なくてもだいじょぶです」
「……? はい、分かりました」
クルルは返事も待たず、軽快な足取りで廊下へと消えていった。どう見てもその様子はご機嫌そのもので、懸念の入る余地などないように思える。
気の所為かと一度横に置いたヤツハは、『最終』という響きに心の準備を始めた。
そして世界が夕日に焼かれた頃、三柱のメガミは神座桜の下に介していた。根元では依然として計測装置が稼働する、もう随分見慣れた小さな桜である。
ヤツハはクルルが装置の再確認を終えるのを、手持ち無沙汰に待っていた。すぐ終わると言われていたが、どうにも普段とは違って慎重なようで、時間をかけている。最後の実験になるのならそれも仕方ない、と今まで世話になった桜を漫然と眺める。
そうしていると、がらり、と社務所の戸が開く音がした。
表に姿を現したのは、やや気疲れした家主の姿であった。
「あっ、青雲さん。ユリナさんは……?」
「君たちが騒いでいた少し後に帰ったよ。あれも忙しいからな」
互いの袂に手を差し入れた彼は、ヤツハの顔色に一抹の不安が射したのを見て取ったか、努めて軽い声色で会談の結果を述べる。
「事情は一通り説明させてもらった。ユリナの存念は理解できるが、こちらとしても痛くもない腹をこれ以上探られても困るからな。最終的に、後ろ暗い企みはないと納得してもらえたよ。どうも別件で頭を痛めていたらしい」
「なら……」
「ああ、実験も止めるつもりはないとのことだ。全く、よかったよ。ここでクルルとユリナの戦いでも始まってみろ、神社が吹き飛びかねん」
空笑いする青雲が傍まで来たところで、作業を終えたらしいクルルが立ち上がった。
彼女は意外そうな表情を浮かべて、
「およー、ゆりなん来てたんですかぁ。うつろんと話し損ねちゃいました……」
「一緒に駆け回っているそうだから、落ち着いた頃に会いに行ってやるといい」
少し残念そうにしていたクルルは、それに何を言うでもなく、口をすぼめたままだった。
それから青雲は、ここに来た本題を告げた。
「さて……飯の相談をしようと思っていたのに、これは何事かな? これからまた決闘、というわけではなさそうだが」
それは暗に、昼にあれだけやったのに、と抗弁しているようでもあった。悪意が込められているわけではなく、青雲もミコトとしてはほとんど隠居状態の身であり、ヤツハが腕を上げていくにつれてその疲労も無視できないものとなっていた。
そういえば、と終わりを目前とした興奮で風呂の用意も忘れていたことを思い出し、ヤツハは少々恐縮しながらも経緯を述べる。
「昼間のユリナさんとの決闘から、くるるんさんが決定的な何かを見出したみたいで……今から、それを確かめるための実験をしようとしていたんです」
「これで結論が出るわけですから、晩御飯はそれからでも遅くないでしょう?」
悪戯っぽく笑いかけたハツミ。
それに青雲が示したのは、とても素直な喜びであった。
「おぉ、ついにか! それは素晴らしい……私も是非見届けさせてもらおう」
クルルを宿しているだけあって、根源にはそんな好奇心があるからこそ、青雲はここまで協力してくれたのかもしれない。時折夜中にクルルの議論の相手を楽しそうにしていたことを、ヤツハは知っている。
「それで、実験とは?」
「ああ、そうでした。くるるんさん? 私は何をすれば……」
問われてヤツハは、肝心の内容をまだ聞いていないことに気がついた。
名を呼ばれたクルルが、一通り工具をしまってからヤツハに向き直る。
束の間の静寂に、緊張で手汗が滲む。
そして、クルルに似合わぬ静けさで、淡々と最後の実験内容を告げた。
「これからやつはんには、神座桜の中に、入ってもらいます」
「え……それって――」
「はい。今まで避けてた、くるるんたちの世界に向かうこと――それが、最後の実験なのです」
北から南まで歩き旅になった、その理由。
時間をかけてでも、ヤツハの状態を保全したいというクルルの願いが最初だった。もちろん、旅の終着点であるこの瑞泉でも、引き続き禁じられていた。
それを今、彼女自ら破ると言ったことの意味の重さを、ヤツハは実感する。
探究者の中にある確信は、本物なのだろう、と。
「今までは、何が起こるか分からなかったのと、ありのままのやつはんを調べたかったのでやめてもらってましたが、仮説を実証する最後のひと押しにこれ以上の実験はありません。今こそ、やるべきなのです」
「…………」
はい、とすぐに言えなかった。無論拒絶する気はなかったけれど、意図的に遠ざけていた未知の場所へいきなり踏み出すには、勇気が足りていなかった。
思わずハツミを見れば、微笑んで頷いてくれた。そのまま桜へと近寄っていく彼女の背中をどうにか追うことができた。来たばかりのときと比べると随分と固くなった地面を、一歩一歩噛み締めていく。
目覚めから積み重ねてきた全ては、むしろここを越えた先のためにある。
この地のメガミとして在るために。
ならば当然、足踏みなどしていられなかった。自分の背中を押してくれた人たちに報いるような、そんなメガミであるための一歩を、躊躇なんてしていられなかった。
「ヤツハ、見ていてください」
そう言うとハツミは、ゆっくりと右手を神座桜の幹へと伸ばした。
すると、指先が樹に触れるか否かという瞬間、指を迎え入れるかのように樹皮の一部が桜色の光を発した。
「……!」
「ゆっくりやるとこんな感じです。言葉にするのなら、そうですねえ……桜に顕現体を還すような感覚、とか。あとは、自分をあるべき場所に戻すだとか……うーん、ごめんなさい。当たり前すぎてちょっと伝えにくくて」
ハツミは抽象的な助言をしながら、手首の先まで桜の中に出したり入れたりしていた。見る角度を変えても、幹の中に入っているであろう手がどうなっているかは、光に呑まれて見えないままだ。
やがてハツミが完全に手を引き抜くと、神座桜は元の渋い樹皮を晒すのみとなる。彼女は調子を確かめるように手を動かしながら、ヤツハを前へと促した。
「やって、みますね」
宣言したのは自分なのに、息を呑む。
そして恐る恐る手を伸ばし、自分の感覚の引き出しを片っ端から開けていく。一番近しいのは権能を収める瞬間だろうか、とあたりをつけて、ハツミの言葉から連想される感覚を指先に作り出していく。

だが、こつり、と爪が硬いものに触れた感触は、再現の難しさを物語っていた。桜に受け入れてもらえるような感触は当然なく、あれでもないこれでもない、と探り、手指に宿った力を霧散させるように想像もした。
けれどヤツハの努力は早々実らず、権能の行使と同じく練習が必要なのかと己の不甲斐なさに恥じ入り始める。
「あの、すみません……うまくできないみたいで」
もう少し追加で手がかりが欲しい。そう、再び助けを求めるようにハツミに視線を向けた。
しかし、
「ハツミ、さん……?」
その呼びかけに、答えはない。
何故なら彼女の顔には、ありありと動揺が浮かんでいた。
目の前で起きたことが、信じられないとでも言うように。
胸が、大きく高鳴る。
「あの――」
「こ、こんなこと……ありえるんですか……?」
ハツミが問うた先は、ヤツハの向こう側だった。
ただ、その問いだけでもう、結果が出てしまったのだと分かってしまった。
だからハツミのさらなる問いかけは、実験がもう終わったのだと明らかにするものでしかなかった。
「ねえ、クルル! 桜がどうして、こんなにも応えないんですか!? いくらやり方分かんないって言ったって、おかしいじゃないですか!」
その歪さすら、ヤツハには分かっていなかった。
分かっていないことが、そもそも答えだった。
ありえないことを成してしまった果てに生まれるのは、一つの結論。
「そですね。ここまでくっきりとは驚きですが、こんなのくるるんも見たことありません。実験は……成功ですぅ」
「じゃあ……」
自分を置いて話が進む中、ヤツハには俯くことしかできない。
言葉の一つ一つが、ヤツハの中に積み上げてきた常識を削り取る。
ずっと歩いてきた想いが、その土台から揺らされている。
空っぽだった自分に詰め込んだ何もかもを、この一瞬の間に自分自身で裏切ってしまったよう。
ああ――、とそこでヤツハは得心した。
実験は確かに、『成功』したのだ。
クルルは単に、『仮説を実証できる』としか言っていなかった。
その仮説を詳らかに教えてもらったことは、ない。
「やつはんは、メガミではありません」
仮説だったものが、クルルの口から告げられた。
重苦しい沈黙に、身動きが取れなくなるかのようだった。驚愕の気配が静寂の中で幾重にもこだまして、頭を揺らしてくる。
思えば確かに、誰もそれを保証してくれてはいなかった。
みんなに助けられながら歩んできた道程が、ふっ、と消える感覚。足は地面についているのに、心だけが延々と底の見えない闇の中に落ちていく。すぐ傍にクルルたちがいるのに、地平を挟んでいるかと思うほどに遠く感じられてしまっていた。
そんな永遠に続くような孤独な無音が、ヤツハを苛み続ける。
それを破ったのは、見守っていた青雲であった。
「メガミではない。ならば彼女は何者だ?」
それはここにいる皆の胸中を代弁していた。
もちろんそれに、ヤツハが答えられるわけもない。コルヌに誰何されたときからずっと抱いてきた前提を、まさに今崩されたばかりなのだから。
心の衝撃に倒れないよう、桜へついていた手をそっと戻す。胸元でその手を抱いた様子を、ハツミが心配そうな表情で見つめていた。
「まだ……分かりません」
場に答えたのはクルルだ。結果に納得しているが、理由を理解できていない困惑が声色に滲み出ていた。
そのまま彼女は、論理の筋道を整理するように続けた。
「これまでずっと、やつはんが権能を引き出す流れを、神渉装置を通じて見てきました。その積み重ねから、くるるんは『やつはんがメガミではない』と疑い始めてたわけですが……」
「…………」
「やつはんの流れは、ミコトがメガミを宿すのでも、メガミが力を使うでもない、未知のぱたーんを描いてたのです。くるるんはここから、権能の源がメガミとは違うという仮説を立てました」
それを受けて、青雲が訝しるように訊ねる。
「信じられん……あの超常の力が、メガミの力とは異なると?」
「そう結論付けざるを得ませんねえ」
さらに、とクルルは、
「今の実験からも、やつはんが神座桜と結びついてないことは明らかです。そこに流れがあるからこそ、くるるんたちは流れに乗るのですぅ。流れがないのなら、無反応なのはとーぜんですぅ」
「…………」
「ゆえに、やつはんはメガミではない……というわけなのでした」
ちらりと横目で見やれば、ふー、とわざとらしく額を拭う彼女は、いつもの何を考えているのか分からない表情を浮かべていた。
「何かの、間違いじゃ……」
「ヤツハ」
震える抗弁を、ハツミが止めた。
首を横に振った彼女は、小さく呟くように補足した。
「あたしたちは必ず神座桜と結びついています。メガミとして生まれた者も、人間だった者も。だからあたしたちは、メガミなんです」
「っ……」
反論は、出てこなかった。自分がその根本原理を覆す存在だなんて、主張できるわけがなかった。
突きつけられた現実は変わらない。クルルにとってしてみれば、ヤツハの正体を探る一環にしか過ぎないのだろう。お互い、メガミであることの証明を目指したことは一切ない。単に、思い込みと刷り込みによって、現実との落差が生まれてしまっただけなのだ。
「…………」
また、じりじりとした沈黙が場を満たす。
誰も彼もが何かを言いたくて、言葉が見つからない、そんな気まずい空気が、いよいよ藍色に染まり始めていた空の下にわだかまっていた。
と、次に声を上げたのはハツミだった。
「あっ」
何か大切なことを思い出したような彼女は、生まれた疑問をとつとつと口に出していく。
「じゃあ、ヤツハには何で権能があるんですか……?」
「……!」
直接訊ねられたわけではなかったけれど、ヤツハの背筋を寒気がなぞっていった。
無から何かがぽんと生まれるわけはない。人間に親がいて、メガミに桜があるように、誰も必ず源泉を有しており、ヤツハもまた例外ではないはずだ。そしてそれこそが、ハツミの疑問に答える上での最大の手がかりとなるに違いなかった。
己の源泉はどこか。答えられないからこそ調べてもらっていたが、未知の何かが想像もできないようなおぞましい何かである可能性が脳裏を過ぎってしまい、転げ落ちる思考を無理やり元に戻すためにも、ヤツハは必死に考えた。
彼女が持っているのは、旅を始めてからの記憶だけ。頑張れば余すことなく思い出せてしまうほどの少ない来歴を、逆に辿っていく。
探究の終着点になるはずだった、瑞泉。
創造と温泉の熱量に心奪われた、煙家。
桜花決闘の初陣を勝利で飾った、山城。
数え切れない品々に目を回した、鞍橋。
培われてきた伝統が胸に沁みた、古鷹。
人間とメガミの在り方に触れた、芦原。
逃げるようにして後にした、御冬の里。
そして――
「ぁ……!」
ヤツハの脳裏に、忘れようにも忘れられない光景が蘇る。
この旅と探究が始まるよりさらに前。
記憶を失った彼女の原点。持ちうる限りの最古の記憶。
北の果ての銀世界にある洞窟で、ヤツハは目を覚ました。
吹雪も届かない、不自然に切り取られた空間。不思議な淡い光を放つ、透き通った小石のようなもの。年月の重みによって石のようになった、樹のような肌をした何か。
そして、そこにあって明らかに普通ではなかったアレ。
樹肌を伝っていたアレがなんなのか、彼女は未だ、説明できない。
「何かくるるーんしましたかっ!?」
「あっ、いえ……その……」
クルルの催促によって、ヤツハに視線が集まる。
恐る恐る、行き当たった根源のことを告げた。
「私が目を覚ました北限の洞窟に、変な蔦があったのを思い出して……。蔦って言っても、古そうな樹に絡みついてたからそう思っただけで、鮮やかな薄い石を貼り合わせて細く伸ばしたような、そんな妙なものが――」
「……それですぅーっ!」
「……!?」
耳をつんざくようなクルルの大声が、ヤツハの声をかき消した。神社を囲む森から鳥が泡を食ったように飛び立っていく。
驚きのあまりに胸の奥が激しく暴れているヤツハは、いきなり叫びだしたクルルを前に唖然とするしかない。突飛な言動にはもう慣れていたが、その認識を改めるくらい、出会ってから最も強烈な一撃だった。
そうして気持ちを宥めるヤツハの肩を、猛然と駆け寄ってきたクルルががっしりと掴む。
きらきらと輝かせた瞳まで、あのときと全く一緒だった。
「くるるんせんすが、見逃すべからずと告げていますぅ! くるるんもそんな代物を見た覚えはありません。未知のものならば、同じく未知のやつはんと関係がないとは言い切れないですぅ!」
「で、でも……」
反論は、続かなかった。否、続けられなかった。
もはやクルルは、謎の手がかりを得た高揚のあまり、既に北限行きは決定していると言わんばかりだった。その眩しすぎるほどの真っ直ぐさこそが、ヤツハをここまで連れてきた原動力の一つである。
肩に置かれたクルルの手からは、今もそれが温もりとなって感じられる。
しかしそれでも、今はどこかその温もりに虚しさを感じていた。
罅割れた自分を力強く握られ、崩れてしまいそう。
自身がメガミでないという事実を自分はどう受け止めているのか、それすらも判然とせず、心は闇の中に浮いたままだった。
「待て、クルル。性急すぎるぞ」
一点に定まらない視界の中で、青雲がクルルの左腕を掴んでいた。無理にヤツハから引き剥がすことまではしなかったが、あからさまに頬を膨らませたクルルに対して引き下がる様子はない。じろり、とあまり笑っていないクルルの目が彼に向けられる。
青雲はその視線に応えることなく、ヤツハへと焦点を合わせた。
「無理はしないほうがいい。君には、知ろうとしないという選択肢があることを忘れるな」
諭す言葉には、少々力が籠もっていた。強引にでも空虚な闇の中からヤツハを引き上げようとしているようだった。
ただ、芳しくないと見て取ったのか、彼はさらに続けて、
「君には、メガミとして在り続ける道が依然存在している。実際にメガミであるか否かにかかわらず、だ」
「…………」
「理由は定かでなくとも、君には権能があり、それを宿すミコトも確認されている。ならば君は、この人の世においては、メガミとして在っても差し支えはないはずだ。違うか?」
少なくとも今までは、誰も疑わなかったその証拠がある。何も言わなければ、人々はこの先も疑いを抱くことはないだろう。ここまでずっと、自分の在り様を胸に抱いてきたヤツハのように。
確かに、理屈はあった。何よりそれを口にした青雲は、人とメガミの最たる営みである桜花決闘を一番近い場所で見守る宮司である。
ヤツハも、揺らぐ思考の中で、心に入った罅を埋めてくれるその理屈を受け止めていた。
だから、青雲の問いに、こう答える。
「――……い、です」
俯いたまま、とつとつと。
満足に声にならなかった答えをもう一度、青雲を仰ぎ見る。
「違わないんです……! でも、私、なんでっ……!」
頬を伝って流れた涙が、地面を叩く。
ぎゅっと袖ごと握りしめた手が、小さく震える。
泣き声に込められていた感情を解き放ってしまわないよう、唇を引き結ぶ。けれど、かえってそれが、うまく言葉にできない反駁の意思をありありと示してならなかった。
取り乱すというほどではないにせよ、ヤツハが見せる感情の発露としてはとみに大きいものだった。青雲もどう言っていいか分からなくなったようで、クルルからも手を離している。
そこへ、ヤツハの左のこぶしを優しく手で包んだのは、ハツミだった。
「ねえ、ヤツハ……ゆっくり考えませんか? 急いで結論を出してもいいことないですよ」
「…………」
「色々気持ちの整理をしてから、ね? この中で一番びっくりしてるのはあなたなんですから、どうするか考えるのは落ち着いてからにしましょうよ。――クルルもですよ!」
えー、と不満を漏らすクルルに、ハツミはきつめの視線を送った。クルルは渋々といった様子で、ヤツハへと伸ばしていた手をだらんと落として引っ込めようとする。
けれど、クルルのその左手が、宙で止まった。
人差し指の先っぽだけを辛うじて掴んでいる、震える細い手。
「およ?」
「……ヤツハ?」
皆の疑念の中、やんわりとハツミの手を解いたヤツハは涙を拭う。
俯いたままでいながらも、彼女の瞳は、何かに焦点を合わせようとしているようだった。
「いいえ……」
その前置きが、これから告げようとしている言葉を喉へと押し出す。
迷いの中、ヤツハの表情に宿ったのは一筋の意思。
それを皆に示すよう、顔を上げて、彼女は言った。
「私、行きます……あの蔦を、調べに行きます……!」
「……!」
……もちろんこれは、ヤツハに結論をもたらすであろう選択だ。
メガミであることを否定された今、彼女の正体を予測できる者すら誰もいない。
迷いと苦労の果てに待っているのが、手放しに喜べる真実ではない可能性も覚悟しなければならない。果たして今のヤツハに、全てを受け入れるだけの覚悟が本当にあるかは怪しいだろう。
「ヤツハ、無理は――」
「ハツミさんや青雲さんの気持ちは……分かります。とても嬉しいです……。だけど、それでも……」
その先は、続かなかった。否、続けなかった。
皆に見せた顔を、伏せてしまわないように堪えている。ハツミの言う通り、無理をしているのかもしれない。
それでもヤツハが顔を上げ続けるのは、自分は前を向こうとしているのだと訴えるため。
そうすべき理屈も分からず、感情すらも言葉にできないのなら、ただそうするための意思を示すことだけが、今の彼女をたどたどしくも語る術となる。
それはある意味、言葉での反論を許さないずるさがあったかもしれない。
あるいはそれは、自分を顧みないわがままに聞こえたかもしれない。
ただ、ハツミはこれに口の中で何を言うべきか選んだ果てに、結局困ったように溜息をつくだけに留めた。その眼差しにはまだ心配が宿っていたけれど、ヤツハと目を合わせた後に、小さくはにかんだ。
「……分かった」
次いで、青雲も少しだけ遠くを見つめながら呟いた。
間を置かず、彼はヤツハへ言葉を贈る。
「もし仮に取り返しがつかなくなったとしても、その先の未来は自分で決められる。これだけは……、覚えておいて欲しい」
こくり、と小さく頷くヤツハ。
ここまでは、クルルが頑張ってくれた。ならば次は、自分の番。
たった一つに限られた手がかりを、自ら吹雪の向こうに見出すのだ。
恐れはある。なのに自信はない。強がりきれるかどうかすらも分からない。
それでも彼女の意思は、正体の知れぬ身であり続ける恐怖より、真実を知った痛みを受け入れることを選んだ。
注目を集めたまま、彼女は噛みしめるように宣言する。
「戻りましょう。北の、果てへ」
こうして三柱の旅が――彼女の帰り道が、始まる。