八葉鏡の徒桜

エピソード2−5:Silent Remains

 

 供された茶器から、湯気と共に香ばしさが立ち上る。闇を煮詰めたようなその深い黒の飲み物へ小瓶を傾ければ、濃い牛乳の白と混じり合って柔らかな飴色への変化を見せていく。

 普段の着物姿のユキヒは、そのコーヒーを含み、口に広がる味わいに顔を綻ばせる。久しぶりに飲んだそれは、桜降る代でサリヤにご馳走になったものよりもこころなしか美味に感じられた。当のサリヤも同感のようで、ユキヒの正面で口の中で香りを膨らませるように堪能している。

 

 彼女たちが囲む円卓からは、丁寧に整えられた薔薇の庭園を見渡すことができる。穏やかな晴れの空の下、ゆっくりと流れる時間の中で茶会と洒落込むにはうってつけの場所だ。

 しかし、今この卓を囲む三人と三柱の目的は、何も取り留めのない話に興じることではない。

 

 

『それで、あれから随分とお忙しかったようですが』

 

 切り出したユキヒの視線の先には、このもてなしの主・アルトリッド。この庭を擁する大屋敷の主人であるにもかかわらず、間に座るシンラへ菓子を自ら取り分けているのは、給仕を含めて人払いをしたためだ。

 大寺院広場での事件から一週間。事後処理や取り戻した平穏の享受によって各々の時間を過ごしていたユキヒたちは、シンラの誘いによってここアルトリッド邸へと集っていた。今や時の人となったサリヤと、ジュリア並びに佐伯も同席している。

 

『そうでした。この薔薇園をご覧になりにいらしたわけではないと、早くも失念しておりました。おっしゃる通りあれから大忙しだったもので、ようやく一息つけたところなのですよ』

『ここでも、同じような話をしてもらうかもしれませんね。ごめんなさい』

『滅相もない! それがメガミ様のお望みとあらば』

 

 ちらり、とユキヒのみならず、今日も僧衣に身を包むシンラへも視線を向ける。

 そしてアルトリッドは、コーヒーをひと啜りしてから語り始める。

 

『まずヴィルドニール卿ですが、結果として多くの権力を失うこととなりました。何しろ、神々を利用しようとしたわけですからね。元々ヴェラシヤの頂点として恨みを買っていた身では、さもありなんと言ったところでしょう』

 

 肩を竦めて見せた彼は続けて、

 

『五大貴族が四大になる……とまでは流石にいかないものの、粛々と役目をこなすだけの日々がヴィルドニール家に課せられることは間違いありません。このところ我々貴族の間では、コールブロッサムをせびるのは程々にしておこう、という類の冗談が流行っている始末で』

『クラーヴォとしても流石に困るので、良識の範囲内で……』

 

 管理者たる同じヴェラシヤとして、おずおずと手を上げて留めるジュリアに小さな笑いが起きる。

 その中で問いを挟んだのは佐伯だ。

 

『では、もはやサリヤへの奸計を企てる余力もないと?』

『ご安心ください。やはり一番大きいのは、ソルアリア・ラーナークが神に連なる者を輩出したという独自の地位を確立したことです。ヴィルドニール家の大やけどによって、他家も当分深く干渉することはないでしょう』

『……それでも早速、立派な贈り物がいくつも届いてますけどね』

 

 呆れた様子のサリヤに、アルトリッドも乾いた笑いしか返せない。

 彼はさらに、

 

『テルメレオ猊下としても、盤石と思われていたヴィルドニール卿との繋がりがこうして切れたわけですから、しばらくおとなしくなさるでしょう。あの日は本当に、ファラ・ファルードが大きく動いた一日でした』

『…………』

『とはいえ、寺院派筆頭としての力は健在です。教えを通じた搦め手で来る可能性は否めませんが……』

 

 残ってしまった懸念に歯切れが悪くなる。

 けれど、隣のシンラはにこにこといつもの笑顔を絶やさないまま、彼の存念を払うように言葉を引き取る。

 

『まあまあ、ある意味では事態を収めるために協力していただいたのですから。それに、ユキヒの言葉を借りるのであれば、ひとつの縁が結ばれているわけですし』

 

 それが意味するところを悟り、ユキヒは苦笑した。

 

『私としては、今回みたいに事を荒立てるようなことは、そう何度もやりたくはないのだけど』

『ですが、その縁の果てに、こうしてしばし在留までしていただけるのでしょう? 感謝していますよ』

『まあ……サリヤたちが心配だもの』

 

 その困ったような微笑みは、仕方がない、とでも言うようだ。

 申し訳無さそうに、ジュリアもまたその厚意に感謝を告げる。

 

『本当に有り難い申し出で、大変助かります。すぐに戻るつもりだったのですが、こうなった以上はしばらく残らざるを得ませんので……。息子も置いてきていますし、季節が変わる頃までには済ませたいですね』

『大丈夫。お貴族様のことは分からないけれど、またヴィルドニールさんみたいな方が出てきても、私がみんなを必ず守るわ。だから安心して、ゆっくり後処理してもらっていいのよ』

 

 だって、とユキヒは小さく頬を膨らませた。

 

『結局、まだろくに観光できてないもの! お子さんには悪いけど、じっくり見て回る時間ができたと思えば幸運だわ』

『それが本音だったのね。その勢いだと、気づいたときには何年も住んでそうね』

 

 くすりと笑うサリヤにつられ、皆の頬が緩む。元々、手早く用事を済ませたサリヤたちにこの国を案内してもらう予定だったものの、何の因果か貴族の屋敷を行ったり来たりするくらいしかできていない。既にユキヒの頭の中は、再検討した観光地の候補でいっぱいだった。

 と、そこへシンラは、

 

『私は逆に、少しばかりこの地に留まり過ぎました』

 

 茶器に揺蕩う漆黒に目を落としつつ、己の進退について告げる。

 

『桜降る代から目を離して久しいですし、そろそろ戻らなければなりません。この一件によってこの国がどう変わるのか、直に見れないのが残念ですが』

『それにつきましては、この佐伯がご報告をお約束します。……その代わりと言うのは大変恐縮ですが、滞在が長引く点につきまして、銭金さんらによろしくお伝えいただければ有り難い限りです……! 不躾なお願いですが、何卒……!』

 

 実際に机に頭を擦り付ける勢いで懇願する佐伯の様子に、アルトリッドが驚きの表情を作った。ただ、佐伯の隣のジュリアはもう、またか、と呆れ顔である。

 

『構いませんよ。未来を担う期待の星のためでもありますから』

『あぁ、ありがとうございます! 土産として、報告書をご用意させていただきたいと存じます!』

 

 その平伏ぶりは、いっそこのまま文机の下へ駆け出して行きそうだ。隣からの釘を差すような視線に、佐伯が咳払い一つしてから、気を落ち着けるようにコーヒーを含んだ。

 この間にサリヤは、ちょうどよいと疑問を差し挟む。

 

『そういえば――ユキヒにはふんわりと教えてもらったけど――結局、どうしてシンラさんがあの場にいたのか、詳しいことは分からないままなんだけど。助かりはしたけど、そんな格好で出てきて正直驚いたわ』

『もう少し余裕があれば、事前に顔を合わせておきたかったのですが』

 

 そう言うシンラは、色とりどりの果物が散りばめられた焼き菓子を口にする。噛みしめるたびに違った味わいが広がるのか、口元を緩ませたり、目を丸くしたりと忙しい。

 説明を待つ皆の前でたっぷりと味わってから、シンラは解答を明かしていく。

 

『今回、この地を訪れたのはおよそふた月ほど前のことです。ご覧の通り、寺院派の方々と……こちらのアルトリッド卿とは以前からのお付き合いでして、色々とご協力いただいていたのです。少し、こちらでやりたいことがあったものですから』

『いつの間に……』

 

 同じような感想を抱くサリヤに対し、ユキヒは同情の苦笑を見せる。

 アルトリッドはそれに補足するように、

 

『シンラ様は流石神の座におわす方というべきか、その深い海のように底知れぬ知性には、ファラ・ファルードの厳格な知の柱たる我らラストラも感服するばかりでした。自伝を書かせるときには、この出会いは良きものであったと必ず記させることでしょう』

『私こそ、この国の在り方には多くのことを学ばされていますよ。秩序の輩たるラストラからは特に』

 

 互いに笑顔を向けて認め合ったシンラは、言葉を続ける。

 

『そのような中で飛び込んできたのが、コールブロッサムの急成長という事件でした。メガミとしても興味ある現象でしたし、この地の人々を少なからず動かすだろう……そう考え、成り行きを見守っていました』

『じゃあ、前からヴィルドニール卿と猊下の企みを……』

『いえいえ、仔細は直前まで耳に入ってきませんでした。ただ、皆さんのおかげもあって、結果としては想定より良い状況に着地することができましたね』

 

 にこにこと、張り付けたように変わらない笑みは真意を悟らせない。しかし、彼女が事前にどこまで知っていたのか、それをあえて問い直す者もまたいない。シンラが事態収束の一端を担ったことは間違いないと、この場の誰もが理解している。

 おそらくその疑念を分かっているであろうシンラは、頬に手を添えながらじっくりと目を閉じて甘味との対話に勤しんでいる。明らかに答える気のない彼女に、サリヤがそれ以上深く訊ねることはなかった。

 しかし一方で、はっとしたように声を上げるのはジュリアだ。

 

『そ、そうです! コールブロッサム!』

 

 それにアルトリッドは安心させるように答えるが、

 

『あれの権利については、こちらでもうまく――』

『いえ、そういうわけではなく……』

 

 否定を返したジュリアが顔を向ける先はシンラだ。

 ジュリアは己の中で咲いた確信を示すように、問いを作った。

 

『あの日から考えていましたが……急成長そのものには、シンラ様も関わっていない――そうですね?』

 

 ヴィルドニールたちによって理由付けに使われたサリヤが無関係となれば、コールブロッサムの成長の際にファラ・ファルードに居たメガミがもっともらしい要因となる。原因に心当たりがない以上、ユキヒであってもシンラの姿が脳裏を過ぎってしまうことは否定しきれなかった。

 あのパーティーの夜でも、シンラから成長の原因への言及はなかった。結論を急いでいたために深堀りこそしなかったが、もしも元凶がシンラ自身だとしたら自己完結にも程がある。

 

『…………』

 

 故に、ユキヒはシンラの肯定を黙して待つ。円卓の視線が一点に集められ、沈黙が間を形作る。

 それにシンラは、ふむ、と少し考えるように口元に手を寄せた。

 そして、

 

『はい。おっしゃる通り、私が為したことではありません』

 

 もたらされたのは是認だった。胸中、ユキヒはほっとする。

 シンラはさらに苦笑を浮かべてから、先を続けた。

 

『状況証拠からして、確かに俎上に載せられてもおかしくありませんが、そもそも私の権能ではあのようなことはできませんよ。ユキヒならご存知でしょう?』

『え? いや、まあ……そうよね』

『これが何者かの意思に基づく現象だとして、仮に実行可能な存在がいるとしたら――……いえ、それもありえませんね。いるのなら是非お会いしたいものです』

 

 こころなしか、焼き菓子を切り分けるシンラの手に力が籠もっているようだった。ユキヒはそれを当てつけとまでは思わなかったが、シンラならもしかしたら、と疑いの目を向けていたことは事実だったので、悪びれたように曖昧に笑いかけた。

 ただ、これによって明らかになったことも一つ。

 

『結局、どうしてあれが急に成長したのか、分からないということ?』

 

 全てを理解する者が誰もいない――サリヤの提示したそんな身も蓋もない帰結に、シンラは『そうですね』と頷くように視線を落とした。

 

『桜降る代において近年神座桜が活性化した、その影響の一端――それだけだと結論付けられれば簡単な話ではありますが……』

 

 その声色は、決して深刻さを滲ませたものではない。けれど、落着した舞台の上に居座った大きな謎に、彼女もまた歯がゆさを覚えていると告げるようだった。

 人も、メガミも、誰も仔細の分からない異邦の桜。

 無視するには大きなそのしこりに、今は皆、努めて不安を忘れることしかできない。

 

『はてさて、これは吉兆か。それとも……』

 

 シンラが切った言葉の先を、誰も継ぐことはなかった。

 

 

 

 

 ファラ・ファルードの港町、その郊外。

 今までは数あるうちの一箇所に過ぎなかった場所は、神の恩寵を授かりし輝きに満ちていた。

 その中心に聳えるは、この事態の元凶。さも当然というように黙して語らず、ただ花弁を散らすのみ。

 吹き抜ける風に訊ねられても、その異様の因果を答える口はない。

 しゃらら、と結晶の音だけが、異国の地に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さてさて、こうして異国の地――ファラ・ファルードを舞台としたひとつの騒動は、いくらかの謎と共に幕を下ろした。

 桜降る代においてはそうありえない闘争において、ユキヒの立ち振る舞いは見事というほかなかったね。無論、水を得た魚とすら言えるシンラは流石だ。

 そしてサリヤ。彼女もまた先送りにしてきた因縁にひとまずの決着をつけた。その「新たな力」も驚くべきものだったし、彼女のこれからも注目に値するね。この国と桜降る代の友好をカナヱとしても祝福したいと思うよ。

 残された謎や、この国のこれからにも関心は尽きないところだけれど、申し訳ないながらそうも言ってはいられない。カナヱたちもこの国を離れ、視点を我らが地へと戻そうじゃあないか。

 なぜなら、もう事は起こっているのだから。この世界を巡る騒乱は、このひとつだけじゃあなかった。

 次なる舞台は、ふたつの海。

 東の海へ向かう物語が幕を下ろしたなら、次に来たるのは――

 

 

 

 

 

 うねる波が船体を大きく揺らす。暗雲が立ち込め始めた空の下、凪を忘れたように風の強まる海を進むのは複数の船影。一様に帆を畳むそれらの上で、北風に逆らうように船員は櫂を回し続ける。漁師たちが歌うような船唄もなく、水面を叩く音、古めかしい船体が軋む音だけが海上に静かに響いていた。

 

 辺りの空には魚を付け狙う鳥すらもおらず、それは彼らの乗る船の異様さを忌避しているためかもしれなかった。船体には渦を巻いたような奇妙な文様が随所に描かれており、彼らにしか理解できない矜持で身を固めているようだ。

 

 そして、乗員たちの殺伐さは、決して漁に赴くようなものではなかった。彼らは皆、赤黒く、血で染め上げたような外套を身に纏っており、櫂を手にする今も隙なく陸地を見据えるその態度は、まさに戦場に向かう戦士のそれ。

 大いなる海は彼らを受け入れまいとしているのか、あるいはその不穏な意思にあてられたのか、朝の陽気とはうってかわって嵐の気配を湛えていた。慌てて港に戻りたくなるような、荒れた海の恐ろしさは次第に強まっていくが、船団は引き返す素振りすら見せない。

 

 先陣を切る船の上、その船首にて仁王立ちに構える男は、むしろ荒天を叩き伏せるかのような強靭な信念を滲ませている。

 そこへ、吹き荒れる海風が彼の外套をはためかせた。

 彼の首元で輝くのは、歪な紅色。血を凝縮したような色合いをした手のひら大の宝珠が、首飾りの先で不吉でありながらも魅入られてしまう煌めきを放っていた。

 

「…………」

 

 怯むことなく佇む彼の視線の遥か先に、首飾りとは対照的な淡い桜色が標となって輝いていた。

 

 大海原を、船が行く。

 胸には狂気と、確かな絶望を載せて。