抜け出す前とはほとんど変わらないはずの綺羅びやかな大広間も、陰謀の巨石が投じられた地と思えばどこか空々しい。星々が瞬く闇夜の降りた庭からではなおのこと異界めいていて、涼みに出てきていた参加者たちが逃げ出してきたようにも見えてくる。
(さて……ひとまず戻ってきたのはいいんだけど)
着崩れしたドレスを直しながら、ユキヒが暗がりから顔を出す。念のために大回りをしてパーティー会場に戻ってきた形だが、倒れた騎士たちはまだ発見されていないのか、特に騒ぎになっているということもない。
しかし、何食わぬ顔で客に紛れ込むつもりではあった彼女の一歩は、どこか鈍い。
(助けるにしても、これからどうしたものかしらね)
(そうねぇ……)
胸中、ユキヒに内在するたおやかな意識もまた、明確な答えをすぐには返せない。
ヴィルドニールの傀儡にされたサリヤたちを救う――そんな友への尽力を誓ったユキヒであったが、すぐさま行動に移そうにも思わず手が止まってしまう感覚に苛まれていた。会場に戻ってきたのも、ひとえに行動の指針を立てられる場所を求めていたからだ。
(いっそ、あの鷲鼻を殺してしまえばいいんじゃなぁい?)
短絡的で刺激的な提案に対し、否定は即座にやってくる。
(やめておいたほうがいいわ)
(どうして?)
(ヴィルドニールさんが悪いのは分かってる。でも、彼の命で幕を引かなきゃいけないほど、非道なことをしてるとまでは言い切れないわ。それに……殺してそれで終わりなのかどうかも分からないわけだし)
むしろ、と警句は続く。それは、絡まった糸を解すために、眉間に皺を寄せながらも一度手の力を抜くような、避けるべき破綻を見据えたものだ。
(状況が悪い方向に転がっていく可能性のほうが高いんじゃないかしら。彼がいなくなったところで、サリヤに纏わりついていた縁が軽やかに解けていくなんてこともないだろうし……そもそも今だって、守衛さん刺しちゃったせいで結構危ないんだから)
(あれくらいだったらまだ白を切れるから大丈夫よ。でもまあ、当主が殺されたともなれば、余所者について調べるくらいはするでしょうし、アタシたちの仕業ってところまで辿り着いたとしても不思議じゃあないわね)
どれだけ正体を隠して事に及んだとしても、その肩書までは消せない。暗殺を象徴していながら、故に最も名と姿を知られてしまっている暗殺者という不利を背負う彼女は、救いのためだからこそ異国の地で切っ先を突き立てることはできない。
メガミ自らが問題解決に乗り出すと、多くのことはその御名と強大な力によってあっという間に収められていく。天災のようなメガミの怒りを買ってまで歯向かう者は極々少数派だからだ。今までの例外はといえば、その問題自体がメガミ同士の対立に発展する場合であった。
そして今、人の世の煩雑さを前に、快刀乱麻を断つ手を失っている。
だが、それを断ち切るのではなく、解きほぐすための力もまた、ここにある。
(ここは私に任せて)
胸中から持ちかけられた誘いに、溜息をつくユキヒ。
提案を受け入れるように手早く髪をまとめ、簪を後ろへと回す。
(ま、待って! ちゃんと血を落としてよ!)
(……仕方ないわね)
懐から取り出した濃紅のハンケチーフに、先程襲った騎士たちの血が拭い取られていく。それから改めて髪を結ったユキヒが簪を挿せば、まるで蓋をしたかのように、刺々しく妖艶な雰囲気が失われていく。いそいそとまだ着崩れしていたドレスを直す姿は、貴族たちと会話の花を咲かせていた奥ゆかしげな女のそれだ。
(お相手は、貴族っていうこの国の仕組みの上で戦ってる。それは多分、私たちの地よりよっぽど複雑なんだわ)
でも、とユキヒは代わった意思へと語りかける。
(だからこそ、ヴィルドニールさんもまた、全部を掌握するなんてできっこないはずよ)
(…………)
(そして……私の力なら、この戦場の全てを見通せる!)
暗殺者としてではなく、縁を見通す者として、彼女はその権能を呼び起こした。
パーティー会場に満たされているのは、数多の糸玉をぶちまけたような十人十色の縁の糸。視界に映るそれは、人から人へ、時には庭に出ていた者へ、さらにはこの国の何処かへすら伸びている。
多彩な色に、太いものから細いもの、質感の違いまで、数多の糸によって編み上げられた絵図は、人々の意図に満ちた貴族たちの闘争を描いている。
桜降る代では目にすることはない、あまりに濃密な縁の束。ユキヒ自身に伸びている糸もまた、多種多様にしてどこか穏やかではない作意を感じさせるものだ。
それを前にして彼女は、くすり、と笑った。
(思った以上にこの戦い……私と相性がいいみたい)
つー、とその指先が一本の糸をなぞっていく。ひときわしなやかで強く、それでいて誘うようなもの。
さらにはその糸に寄り添うように、どこか不思議な、より大きな気配も感じられる。
頼る者を囚われた彼女に、頼るべき者を指し示すかのような、そんな一本だ。
(さあ、辿りましょう。きっとこれが、一番の近道だから)
その杜若色の絹糸に引っ張られるように、ユキヒは再び貴族たちの戦場へと踏み込んでいった。
どうも耳に寂しいと思えば、パーティーを音で彩っていた音楽隊が撤退していたようだった。庭園に出ていった者を考えても、こころなしか参加者の数が減っているようにも思え、中盤をとうに過ぎた頃合いの雰囲気も漂い始めている。
そんな中、ユキヒが見定めた糸の先にいた人物は、変わらぬ調子で酒器を揺らしながら歓談に勤しんでいた。
『アルトリッドさん』
『おや……』
この会場でユキヒが最初に相手として選んだ男へ、会話に割り込む申し訳無さを滲ませながら声をかける。覚えが確かであれば、彼の話し相手はユキヒとの会話中に彼の背後に控えていた者たちのはずだった。
アルトリッドは会話相手に制止の手を掲げてから、
『どうされましたか? 会話に飽いて、ついにはわたくしめの法律トークをご所望するに至ったのですかな?』
飄々と問う彼は、しかしその目までは笑わせていない。態度の裏に隠した瞳の鋭い輝きは、どんなにおどけたようでも戦場にて刃を下ろさない戦士のものに違いなかった。
ユキヒは彼の冗談に小さく笑ってから、
『観る場所がなくなったら、そのときにお願いしますね。お話したいのは、さっきの発表のことについてです』
『ああ、ヴィルドニール卿の』
『そうです。驚くような発表だったので、あなたがどう思われているのか、知りたいです』
十全に含意を示せるほど言語に堪能ではないが、彼女はアルトリッドが縁の戦場の強者であると信じ、好奇心の笑顔を張り付けながら問いを紡ぐ。
果たして彼は、時間にして二秒、ユキヒの瞳を見つめた。
そして、
『なるほど、彼の地のお方を驚かせたのなら、確かに大のつく発表ではありましたな』
『ええ、驚きました。サリヤも水臭いです。さっき初めて知らされました』
『ははっ、ご友人へのサプライズといったところなのでしょう』
そこで両者の間に、再び一瞬の沈黙が降りる。肯定の裏に差し込まれた否定を、互いが互いに認識し合う。ユキヒとて自分の選択に自信がなかったわけではないが、いきなり力を込めて縁の糸を手繰るわけにもいかなかった。縮れたり切れたりしたら元も子もない。
ただ、この短いやりとりで懸念を共有した二人は、会場の中心に背を向けるようにさりげなく姿勢を変え、僅かながらに距離を詰めた。
作り笑顔のままに交わされるのは、酒器で口元を隠しての密談だ。
『異常成長は騎士サリヤのおかげではないと?』
『その例を知りません。昼間に、原因は分からないと言われました』
『騎士サリヤから?』
『いいえ、ヴェラシヤから』
ほう、と遠くを見ながら、アルトリッドは酒精で舌を湿らせた。
ユキヒはそこへ、
『他に、この国出身のメガミ、なんていませんよね?』
『メガミ、というか神というか……直にお話できる存在が以前からいらっしゃったら、法の大部分が変わっているでしょうな』
『これからは?』
『寺院派の妨害を考えると――』
ふと、言葉を切ったアルトリッド。不思議に思い彼を見やると、持っていた酒器を机に置いて、手を胸の前へ、恭しく頭を下げた。
そのまま彼は提言する。
『失礼、ここでは些か人の目が多いようです。どうでしょう、我々のサロンへお越しいただいては』
『サロン?』
『各界の著名人の集いと思っていただければ。既に別室で有意義な議論をしていることでしょう』
どんなに気をつけていようとも、戦場の中心では何に見舞われるか分からない。ましてやアルトリッドもまた注目されるべき存在だ、直接的な動きでないにしろ、悟られてしまえば以降動きづらくなることは明白だった。
ユキヒに反対する理由はなく、こくり、と頷いた。
『では、参りましょう』
邸内の方向へ歩き出したアルトリッドに、ユキヒもまた倣っていく。
縁は一人と一人の間だけで完結するものではない。その真理を示すかのように、待ち受けている著名人たちとやらとの縁が彼と結ばれているのが見て取れる。枝分かれしたであろう何本かが、出会いに先んじてユキヒ自身へと伸ばされていった。
ただユキヒは、向かう先に存在している気配の大きさに、この導きが正しいものであるという確信を得ていた。それは、アルトリッドとの縁を結んだユキヒ自身に対し、さらに誘いかけるようなあの不思議な気配に相違なかった。
いくらばかりか邸内を進んでいくうち、扉越しに漏れ聞こえていたパーティーの喧騒も聞こえなくなっていく。アルトリッドはその間、サロンが元は神学サロンであったこと、参加者の一人であるヴィルドニール卿の三女が別室の応接間を用意したことを語った。
『えっ……それだと、ヴィルドニール卿に漏れ伝わりませんか?』
心配を告げるユキヒだが、アルトリッドは苦笑いして肩をすくめた。
『フェラムに嫁いだ敬虔な信徒でもありますが、ご心配には及びません。今の彼女がご執心なのは、八ツ空の神々でもご実家のことでもありませんから』
『……?』
『着きましたよ』
説明を打ち切った彼の示す先に、騎士が一人、護っている部屋があった。一瞬ユキヒは身構えてしまうが、騎士はアルトリッドの顔を見るやいなや、礼の後にその戸を開いてユキヒ共々招き入れた。
室内は豪奢な長椅子を何台か並べられた、パーティー会場と比べると仄暗い密室だった。壁際には同様に調度品が並べられているが、その一角では酒の入った綺羅びやかな瓶が棚に所狭しと収まっており、数本分の余白が点在していた。
ここには優雅な音楽もなければ、異国の神に面会を求める者もいない。片手で数えられるくらいの人間が集まった、パーティーとは質の異なった社交場であった。
しかしユキヒは、その落ち着いた静けさの一端の意味を悟って、小さな溜息と共に苦笑を漏らした。
「海の向こうに行ったとは聞いてたけど……」
思わず、使い慣れた言葉が零れるユキヒ。
彼女の視線は、奥まった位置に据えられた長椅子に、ゆったりと腰掛ける一人――否、一柱に向けられていた。
「まさかこんなところにいるなんてね。それになに、その格好は」
淡い紫地に金の縁取りをした布地をすっぽりと被ったような装いの女――シンラの普段とはかけ離れた風体に、口元を手で抑えた。
アルトリッドはシンラの存在に一切驚くでもなく、彼女の対面の長椅子をユキヒに示した。彼女は勧められるがままに腰を落ち着ければ、シンラの不敵な笑みが正面に浮かんでいた。
「私は安心しましたね。サリヤと共にもう一柱来たと聞いていましたが、貴女でよかった。これがヒミカあたりだったら、致命的な事態も有り得ましたからね。まあ、未だ屋敷が消し炭になっていないところを見るに、それはないだろうと推測していましたが」
「やらないとも言い切れないのが困りものだわ」
強硬手段に訴えようとしたもう一人の自分どころではない。親愛なる火の象徴は当分この国に来させるべきではないと胸に留めながら、声に出して笑う。
感じていた不思議な気配の正体は、今ユキヒが立ち向かわんとしているような政の世界において輝く存在である。辿った縁が強力な一手をもたらしてくれたことに感謝する一方、その輝きの強さに自分たちが陰へと追いやられてしまわないよう、背中を無条件に預けるべきではない。シンラとはそういったメガミだ。
「まあいいわ。それより、私にはやりたいことがあるの」
「どうやらそのようで」
ちら、とシンラは、一つ離れた島に座ったアルトリッドを見る。給仕から受け取った酒器を会釈と共に掲げる彼の態度は、役目を終えた者が静観に務めるそれだ。
ユキヒは、縁の戦場における猛将へ、にっこりと微笑んだ。
「色々とお話しましょう。あなたの目的も含めて、ね」

静けさの中に、感嘆の吐息が薄く響く。
「はぁ……そういうことね」
相好を崩さないまま語ったシンラに、ユキヒは驚きを得た心根を隠すことなく態度に現した。長椅子のふかふかとした背もたれに身を任せ、天を仰ぎ見る。
彼女たちの会話は依然として桜降る代の言葉によって行われているためか、聞き耳を立ててはいるらしいサロンの参加者たちに同様の驚嘆は見られない。ただ、言っていることを理解できても実感を伴って噛み砕ける者は限られるだろう、とユキヒは明かされた目的に素直に感心していた。
「いつも、本当によくやるわねえ。あなたが直に出向くなんて何事かと思っていたけれど」
「私だって動くときは動きますよ。必要であれば」
「……まあ、悪い話じゃないし、それも少しは理解できるわ。私だって、その未来は素敵なものだと思えるもの」
告げられた展望に、けれどやんわりと賛同を示すのみだ。ユキヒはそれ以上深く言及するつもりはないと示すように、供されていた琥珀色の液体をしずしずと口に運んだ。
シンラの目的は、あくまで副題に過ぎない。
「大体のことは分かったわ。相変わらず長大で、私には考えもつかなかった話ね」
でも、と酒器を机に置いたユキヒは続ける。
「私がここでしたいことは、もっと短絡的で、ささやかなことなの。あなたなら分かるでしょう?」
その結果の先で、決してささやかではない変化が起きたとしても、ユキヒは構わないだろう。彼女が見据えているものは、友とその家族だけという実にささやかなものであり、困った彼らを救うというささやかな行いの途上にいるのだから。
それにシンラは、困ったように苦笑いした。
「もちろん。……ですが、そのように卑下するべきではありませんよ」
「……?」
「適材適所という言葉の通り、今の私は貴女『たち』を必要としているのですから」
強調された語に、ユキヒの眉が僅かに動く。
それに構うことなく、シンラは外した帽子を手慰みのように弄りながら、
「私たちにできることはあります。その上で、貴女たちのご意見を伺いたいものですね」
願うならば、相応しくあれよ、と。
シンラの言葉は、そんな要求を暗に示していた。それは、彼女の口先一つで事態が最上の解決を迎えることが難しいという告白でもあるが、それが真か訊ねるつもりはユキヒにはなかった。本当に都合が悪いことがあるなら、はぐらかされると分かっていたからだ。
小さく背中を丸め、零した溜息は諦めの色。
最後の確認をするように静かに瞳を開けば、それは数多の縁を映した不思議な輝きで満たされる。
「…………」
そしてユキヒは、僅かな逡巡の後、再び口を開いた。
「多分、代わったほうがいいかしらね。あなたたちの考えも、きちんと聞かないとだけど」
「もちろんお伝えしますよ。共に頑張ろうではありませんか」
「……私も頑張るわ。荒立てるのは好きじゃあないんだけど」
ユキヒの手が、髪を留めていた簪へと伸びる。するり、と抜き払われたことによって、夜がそのまま降り注いだかのように流れ落ちるその黒髪に、サロンの参加者たちが息を零す。
しかしそれも束の間、長髪の陰に隠れていた表情が顕になるに連れ、今の今まで優雅にも見える対話を続けていた女が、まるで墓守のように不吉な気配を漂わせていることに気づき始める。瞳を澱ませ、口端を歪めるその様相は、社交場にはあまりに似つかわしくない。
籠もった熱に堪えられないというようにユキヒは胸元を緩め、長椅子の背もたれへとしなだれかかるように半身を預けた。刺せば肉を食い破る簪の先を摘んで弄び、シンラへ先を促すその姿勢は艶美にして尊大。その不気味なまでの変貌に、貴族たちが一様に息を呑む。
求められたシンラは、それにいっそうの笑みを深めながら切り出した。
「では、お話しするとしましょう。貴女たちが、何をすべきなのかを」

硝子に封じ込められた火が、部屋を心もとなく照らす。天井に据えられた豪奢な燭台も今は沈黙を保っており、冷えた暖炉の傍に並べられた小さな机と椅子が、小さな光の中で曖昧に浮かび上がっていた。
『これでようやく、といったところですね』
椅子に腰掛けるのは二人の男。手にした硝子の盃には僅かに酒が残るばかりで、小皿に開けられた木の実の最後の一粒が、寂しそうに転がっていた。
『あのコールブロッサム一本でどれほどの富が生まれるのか……ヴィルドニール卿は今頃、描ききれない未来図を前にさぞ苦慮しておられることでしょうな。……いや、早くも明日を運命の日と定めるような方です、あるいは先の先まで見通しているのかもしれません』
『卿の迅速な動きには感服するばかりですね。日が昇ればもう、全てがヴェラシヤに集まるのですから。きっと我々のように、抑えきれない興奮を酒精に溶かしておられるに違いない』
『何を言いますか。私はきちんと、サリヤ嬢をどう扱うか、ずっと考えていますよ』
それは失礼しました、とやや若い男が笑って謝罪する。
『神々の末席に加えると強弁することは簡単でしょう。ですが、民に受け入れられない神は神足りえません』
『ラーナークより上位の貴族連中、ですね』
『はい。そこで、必然的にコールブロッサムと強く結びつくわけですから、実利と絡めた出自を設けるべきです。信仰は枷の形をしている……その枷が、今まで由来も分からずに使っていたコールブロッサムに繋がれたとき、人々は豊かな暮らしを神・サリヤに感謝するでしょう』
その声色は慈悲深く、説話を語って聞かせるようなもの。
しかし彼の好々爺然とした柔和な笑みの裏には、信仰に濾し取られてしまう欲望が濃く渦巻いているよう。
『我々の神々と同一視をしてしまう、などという言説もありましたが、同様の事例が起きた場合のことを考えると、位階を定めて列席するのがやはりよさそうです』
『彼の地の神々をあまり持ち上げても、交流が密になった際面倒ですからね。より人々に身近で、選ばれし者に権利を貸し与える存在……そのくらいが適当でしょう。明朝の式典での宣言もこの案で用意しています。教典の改定には、少なくない話し合いの場が必要でしょうが』
『しかし、それも時間の問題でしょう? 我々こそが代行者と、刻まれる日も近い』
一瞬の間。そして二人はにやりと口端を歪め、『ほっほっほ』と禿頭の男が笑う。
しかし、そこへ――
『あら、随分楽しそうねえ』
『……!?』
男二人だけの空間に、艷のある女の声が響く。出処を掴みかねるその声に身を震わせる男たちは、思わずこの部屋の入り口へ――いつの間にか半開きになっている戸へと振り向いた。
ぬるり、と蠢く影は、その視線をかいくぐるようにして、彼らへの至近を為す。
『アタシも混ぜていただけないかしら』
『が――!』
がたん、と。
それは若いほうの男が、力を失ったその頭を机の上の小皿に打ち付けた音だった。手にしていた酒器は零れ落ち、毛深い絨毯に飲み込まれて鈍い悲鳴を上げる。
禿頭の男は椅子に座ったまま器用に後退るが、彼の視界には未だ倒れた晩酌相手しか映っていない。切っ先の閃きは薄闇の中に呑まれ、仄かな灯りの中でゆらゆらと動く影だけが、何者かに襲われているという事実を彼にもたらしていた。
『だ、誰だ……! 表の騎士たちはどうした……!?』
狼狽も露わに、腰を浮かせる。
丸腰の彼は一気に湧き上がってくる恐怖に耐えかねたのか、大声を出そうと大きく息を吸い込んだ。
けれど、助けを求める声が響くことはない。
『つれないわねえ、やっと二人っきりになれたのに』
『ひ……!』
ちくりと首筋に突き立てられた痛みが、叫びを飲み込ませた。彼の認識の外側から影を渡るようにして背後まで滑り込んできた存在は、蔦のように腕を絡みつかせ、その吐息が耳元にかかるまで顔を寄せている。
少しでも振り返ろうとすれば、切っ先が老いた肌に食い込んでいく。背中に押し付けられた柔らかいものも相まって、下手人は明らかに女であるにもかかわらず、彼は身じろぎ一つままならない。
ただ、恐怖の中で彼はうっすらと思い出していた。
女の姿をしているだけで、神と呼ばれる存在がこの地に訪れていたことを。
顔を見せない襲撃者は、愛を囁くように逢瀬の目的を告げた。
『それより、アタシたちも話し合いましょう? とっても大事な、これからについて』

正直なところ、助かったというのが本音ですね。あの老獪の水面下での静けさ、いざ動き出した折の機敏さ。手口の陰湿な巧妙さといい、正しく蜘蛛のごとき強者と呼べるでしょう。私がこのような場で後れを取るとは。世界の広さを学ばせて頂きましたよ。
しかしこの戦場に彼女がいるならば、この程度の不利は容易に覆ります。
常に正しい者を選び、特筆すべき社交性で縁を紡ぎ、迅速に必要な力を結びつける表の顔。
誰にも気づかれずに陰に潜み、死という恫喝にて最後の一押しを成し遂げる裏の顔。
これが一柱に同居しているのですから。いやはや、この戦場における彼女の一騎当千たるや。自覚こそあるようですが、それですら過小評価もいいところです。この舞台に彼女が招かれる。言葉を借りるようですが、縁の導きはこれだから面白い。
気軽に聞いているようですが、他人ごとではありませんよ。私たち知恵者は森羅万象より学び続けてこそ知恵者です。
縁の戦場における真なる猛者。
あなたにとっても学ぶところがあるのでは?
